特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

さらば

2025-01-17 05:28:22 | その他
つい先日、特掃用に履いていた靴を捨てた。
9月10日のブログに登場させたアノ靴だ。
なかなか捨てることができなかった靴を、やっと捨てたわけだ。
ブログに登場させたアノ時点でも既に末期状態だったんだけど、あれから二ヶ月余も健闘してくれた・・・て言うか、強引に履き続けた。


思えば、約半年の付き合いだった。
「半年」と言っても、夏場の半年と冬場の半年では、その中身は全然違う。
夏場の半年は、ハンパな汚れ方では済まない。


この半年の間、この靴は何十人もの人間の腐敗液と、何百(千?万?)匹ものウジを踏んできた。
汚れは靴底には限らない。
上にも側にも、何十人もの腐敗液がタップリ浸み込んでいる。
そんなことを考えると、「我ながら、よくもまぁ・・・」という気分になって苦笑した。


靴に情みたいなものが芽生えてきて、何となく神妙な気持ちになった私は、ある考えが浮かんだ。
「随分と世話になったから、最後はきれいに洗ってやろうかな」


私は、ちょっと善人になったような気分に満足しながら、靴を手に取った。
そして、臭いを確認するために鼻を近づけた。


「グハッ!くせーっ!」
ノーガードの私に、生々しい刺激臭が直撃してきた。
直近の特掃業務から放っておいたせいで、靴に腐敗粘土・腐敗液が着いたままになっていたのだ。


「チッ!しくじった!」
靴に対しての情は、腐敗汚物の力で一気に吹き飛ばされた。
洗ってやるどころが、私はそそくさと靴をゴミ袋に投げ込んだ。
そして、袋の口をきつく縛った。


それにしても、腐乱現場で嗅ぐ腐敗臭と別の場所で嗅ぐ腐敗臭は、似て非なるもの。
腐敗臭は、シャバで嗅いじゃイカンね。


余談だが・・・
せっかくなんで(?)、管理人にも靴の臭いを嗅がせてやろうかと思ったら、「いい!いい!いい!」と速攻で断られた。
当然か・・・。


新しい靴はいつまで履くことになるだろうか。
今は晩秋、これからの時季は特掃の閉閑期になるので、寿命は長めになるだろう。
多分、来年の初夏ぐらいまでは付き合えるのではないかと思う。


自分の回りを見渡せば、私が生きている世界は物が豊富だ。
日本は物質的には満たされている。
特掃現場からでる廃棄物のほとんどは、まだ使えそうな物ばかり。
(ま、物理的には使えても、精神的には使えない物ばかりだけどね。)
そんな物をどんどん処分してしまうのは、だいぶ抵抗がある。
やはり物は大切にした方がいいと思う。


でも、今回別れた特掃靴はちゃんと役割を果たしてくれた。
充分に使いきった。
「さらば、特掃靴」


「さらば」と言えば・・・
10月13日の掲載で、本ブログを終了することを示唆したが、ちょっと考え直した。
書き込み・コメントに影響を受けたせいもあるが、更新頻度を落としながらも、今しばらく続行していこうと思う。


私は、モノ凄く狭い世界で生きているので、色んな人の価値観や考えに触れることができる書き込み・コメントには格別の新鮮さを覚えている。
人間(自分)を作るうえでの材料になっているような気もする。


狭い世界でしか動いていないと、自然と、都合の悪いことは他(人)のせいにして独善的になってしまいやすい。
書き込み・コメントによって、それを修正できるような気もする。


と言うわけで、本ブログの方は今しばらく続けていこうと思うので、これからもヨロシク。



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2006-11-19 09:04:07
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愛の痕

2025-01-15 05:57:54 | 特殊清掃
時々、思うことがある。
生きていることの不思議さ。
生きていることの意味。
自分とは何か。


私が、「生は夢幻」「人生は夢幻の想い出」だと捉らえていることは、たまにブログでも取り上げている。
ただ、私の中でもこれは一側面でしかない。
あくまで私の中だけの話だが、矛盾しないかたちで違う捕らえ方もしている。
モヤモヤして収拾がつかない話になりそうなので、今回は取り上げない。


人間(死体)は、放っておくと腐り溶けていくことは過去ブログの通り。
自然現象とは言え、そのグロテスクさは凄まじい。


私は、そのイメージだけで「溶ける」と表記しているが、正しくは「解ける」か?、はたまた「熔ける」か?・・・流行りの平仮名表記で「とける」がマッチするのか、ちょっと迷うところだ。
でも、間違っても「とろける」って書かないように気をつけなきゃね。


現場はマンションの一室。
故人は若い男性、依頼者は故人の父親だった。


私は、部屋を見分しているうちに自殺を疑い始めた。
その理由は三つ。
故人の年齢が若いこと。
消費者金融の請求書がたくさんあったこと。
部屋にはやたらとゴミが多くて、ちらかっていたこと。
私の経験に限っては、このパターンの自殺率は高い。


遺族や故人を気の毒に思う気持ちがない訳ではないが、私は、基本的に他人の死は悲しくない。
冷たいようだが、事実だから仕方がない。
したがって、現場では辛気臭い演技もほとんどせず、思いついたことは率直に口にだしてしまう。


「自殺ですか?」
「一応、自然死ということになってますが、どうも薬を飲んだみたいで・・・」
父親もハッキリした事実を掴めていないらしく、言葉を濁すしかないようだった。


「余計なことを尋いてスイマセン」
「いえいえ、そちらの仕事にも影響することでしょうから」
寛容な、理解のある依頼者だった。


決して広くない部屋なのに、家財道具・生活用品・ゴミは大量だった。
汚染箇所を先に処理することはできず、まずは部屋を空にすることを先行させた。
この現場に限ったことではないが、悪臭とホコリ、そして汚物にまみれながらの作業は、なかなか楽じゃない。


荷物を搬出し終えると、部屋には、床に広がる腐敗液とウジだけが残った。
そして、その様を父親が見に来た。


「これは?」
「人体が腐敗した痕です」
「えっ!?」
「人体は腐敗するとこうなるんです」


父親は驚いたようだった。
「人は腐ると溶ける」と説明した方が分かりやすかったのだろうが、ずうずうしい私でもさすがにそのセリフは吐けなかった。


「と言うことは、息子の一部ということか・・・」
そう言って、父親は急に泣き始めた。
私と接するときは、ずっと冷静な姿勢を保っていた父親が急に泣き出したので、私はちょっと驚いてしまった。
しかし、その心情を察すると、余りあるものがあった。


気の利いた言葉を思いつかなかった私は、黙って床の掃除を始めた。
私にとっては、腐敗液の拭き取りはお手のもの。
みるみるうちにきれいになった。


空になった部屋、きれいになった床を見渡しながら父親は感慨深そうに言った。
「こうして見ると、息子がこの世に存在して生きていたということが、まるで夢の中の出来事のようですよ」
「・・・残った臭いが夢の痕ですかね」
「夢のあとか・・・そうですねぇ・・・」
「多少の後先があるだけで、我々の人生だってそのうち終わるわけですから、とにかく元気だして下さいね」
「ありがとうごさいます」
「こちらこそ」


私の人生は、どんな夢のあとを残すのだろうか。
大きな不安と小さな期待の中、現場をあとにした。



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2006-11-17 10:01:58より

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故郷

2025-01-11 06:15:52 | 特殊清掃
「故郷」は、人によって違う。
物理的に異なるのは当然として、その定義(概念)も違うのではないだろうか。


生まれた所、育った所、長く暮らした所etc。
場所に限らず、人や想い出が故郷になるこもあるだろう。


特掃の依頼が入った。
故人は老人(男性)、依頼者はその姉。
現場は老朽一戸建。
平屋・狭小、プレハブ造りの粗末な家だった。


腐乱場所はその台所、板の間。
古びた室内は、かなり汚れてホコリっぽかった。その中央に腐敗痕が残っていた。
死後、かなりの時間が経っているらしく、腐敗粘土は乾き気味だった。


依頼者の話によると、現場の周辺は故人・依頼者達にとって故郷らしかった。
幼少期を家族で楽しく過ごした場所。
戦火が激しくなった頃、田舎に疎開し、終戦を迎えて戻って来たら一面が焼野原になっていた。
それで、一家は仕方なく外の地に移り住んだとのこと。


故人は、若い頃から故郷に家を持つことを目標にしていた。
そして、故郷で人生を終えることも生前から望んでいたらしい。
それを聞いて、自殺を疑った私だったが、どうも自然死のようだった。


故人は企業人としての現役を引退した後、かねてからの希望を叶えて故郷に家を構えた。
小さくて質素な家でも、愛着のある故郷で暮らすことができて、故人は幸せだっただろうと思った。
それから幾年が過ぎ、亡くなったのである。


台所に広がる汚物には嫌悪しながらも、生前の故人には親しみに似た感情が湧いてきた。


腐敗液は、台所の床にとっくに浸透していた。
表面を掃除したところで、汚染の根本が片付く訳ではない。
表面の腐敗粘土を掃除するより台所の床板を剥がして撤去する方が得策だと考えた私は、依頼者にそれを提案した。
誰も住む人はいないし、取り壊すしかない家なので、依頼者は私の提案を快諾。


私は、愛用の大工道具を使って、床板を少しずつ剥がしていった。
薄暗い床下を見て、「!?」。


床下の土には、妙に脚がたくさんある二種類の虫が這い回り、黒くボソボソとした盛り上がりができていたのだ。
床板を透り抜けた腐敗液が、床下の土に滴った結果であることはすぐに分かった。
髪・骨・歯は残っただろうけど、故人は故郷の土に還っていった訳だ。


「故郷の土に還ることも、生前の故人が望んでいたことではないだろうか」と、勝手に想像して微笑んだ私。


「土に還る」という言葉があるが、「土に帰る」じゃないところに、何とも言えない深い意味を感じる。
その意味が何であるか具体的には説明できないけど、本能的に重く感じるものがある。


以前も書いたが、私は自分の屍を火葬(焼却)して欲しくないと考えている。
故郷でなくても、どの地でもいいから、土に還りたいと思う。
しかし、今の法律や葬送習慣じゃ、無理だろうなぁ。


そうは言っても、今回の故人みたいなイレギュラーなケースは遠慮したいものだ。
仮にそうなったとしたら、後世にも特掃隊長が現れて、片付けてくれるかな?




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2006-11-13 21:31:50
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ありがとう

2025-01-07 11:10:17 | その他
別れの言葉、故人(遺体)に声をかける遺族は多い。
それぞれの人がそれぞれの気持ちで言葉を発する。


生前は照れ臭くて言えなかった言葉もあるだろう。
嘘に対する真実の告白もあるだろう。
それがどんな言葉でも、最期の場面においてはその真実性・純粋性が澄んでいると感じる。


経験上の独断だが、遺族が遺体に掛ける言葉で多いと思われるものを挙げてみる。


「お疲れ様」
「ごめんね」
「さようなら」
「天国に行ってね」
「ありがとう」etc


先に死んでいった人への想いは、これらの言葉に凝縮されているものと思う。
そして、これらの言葉の中でも、「ありがとう」が断トツで多いように思う。


「ありがとう」
人によって、この言葉が意味するところに若干の温度差があるかもしれないが、とりあえずは感謝の気持ちがベースのはず。
故人に対しては最終的には感謝の気持ちが残ることが多いのだろう。


では、この世に生きているうちはどうだろう。
我が身を振り返ってみると、人に対して感謝の気持ちを携えて生活しているとは言い難い。
それどころか、不平・不満・不安ばかり。


不平・不満・不安は人に対してだけでは収まらない。
生活・境遇・過去・未来etc、自分を取り巻くほとんどのことに入り込んでいる。
だから、普段の生活において、口から出るのは感謝の言葉より不平・不満・不安の言葉の方が多い。


仮に、一日のうちで自分が発した言葉を数えてみるといいかもしれない。
上記したような言葉と愚痴・悪口、どっちが多いだろうか。


私の場合は、欲望ばかりが自分を支配して、感謝の気持ちはほとんど持てないでいる。
特に、金銭欲と名誉欲が旺盛だ。
いつも「金が欲しい」「人からよく見られたい」と思っている。
「金があったら、やりたいことができる」「欲しいものが買える」
「人から評価されたら、どんなに気分がいいだろう」「上を向いて生きていける」


そして、その全く逆である現実が、感謝の気持ちを打ち砕くのだ。


では、私の人生は感謝に値しないことばかりなのだろうか。
イヤ、そんなことはない。決してない。
苦しいことも、悲しいことも、辛いこともたくさんあったけど、感謝(すべき)に値することの方が圧倒的に多かった。
多分、未来もそうだろう。


私には、元気に動かせる身体がある。
雨風がしのげる家もある。
毎日の食事もある。
こんな仕事でも、生きる糧として与えられている。


身近なところから一つ一つ思い返してみると、感謝の対象は際限なくある。
贅沢・華美な暮らしではないけど、感謝すべきことはたくさんある。


最期に言いたくなる言葉(ありがとう)が予め分かっているのなら、時間がある今のうちからどんどん使った方がいいね。
これからの人生に、「ありがとう」を連発する生き方を期待したい。


どんな人生だって、過ぎてみれは夢幻の想い出。
最期は感謝。


今日もこのブログを読んでくれている戦友に「ありがとう」。
そして、今日も生かされていることに「ありがとう」。




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2006-11-11 09:25:22
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ヅラ?ツラい!

2025-01-05 08:35:18 | 特殊清掃
特掃現場では、死体の頭髪が残っていることはザラにある。
と言うより、大量の毛髪が残っている現場の方が、そうでない現場より多いと思う。


骨や歯は警察がきれいに回収していくが、毛髪にまではいちいち手が回らないのだろう。
腐敗液の中にポツンと残された毛髪には、不気味なものを感じる。


首吊自殺によくある、座位のまま腐乱していったケースでは、頭皮・毛髪が床ではなく壁にくっついていることも珍しくない。
腐敗液が乾いていく段階で、接着剤みたいに作用するのだ。
なかなか想像し難いかもしれないが、この光景はかなり不気味。
想像しやすいように、具体的に説明すると、壁にベッタリと部分カツラがくっついているようなもの。
そして、当然のごとくその下は凄惨な状態。
赤茶黒の腐敗液・腐敗脂・腐敗粘土が広がっている。


ある現場。
故人は和室、畳の上で腐乱していた。
驚いたのは、その頭髪。
頭の形状が極めてリアルなかたちで残っていたのだ。


死後、かなりの時間が経過していたらしく、白髪混じりの頭髪は、本物のカツラのごとく頭の形をとどめてシッカリと残っていた。
気持ち悪かったのか面倒臭かったのか、警察は頭蓋骨だけを拾って帰ったのだろう。


「ついでにコレ(頭髪)も持ってってくれればよかったのに・・・」
私はボヤいた。
そして、躊躇した。
「コレ、どうしようかなぁ・・・」


考えたところで、やるべきことは決まっている。
とりあえず、畳から拾う(剥がす)ことにして、片手で掴んで引いてみた。
重い抵抗を感じた。


「ちゃんと掴まないと、中途半端なところでちぎれてしまう」
そう判断した私は、両手を使い、髪の間で深く指を入れた。
その感覚は、自分の身体から手(腕)だけが分離されているような変なものだった。
防衛本能か?私は、自然と自分の手からを視線を外して、それを慎重に引っ張った。
精神的にも物理的にも、重い重い抵抗を感じた。


ベリベリ・バリバリと頭髪は畳から離れていった。
ところが、あともう少しで持ち上がりそうなところで、私のカラータイマーが点滅。
同時に、私の全身にモノ凄い悪寒が走った。


「イカンッ!緊急避難!」
私は、作業を中断して外に駆け出た。
そして、マスクを外して深呼吸。
心臓がバクバクしていた。
「恐えぇ・・・」
ボヤきながら、気持ちを整えた。


心のカラータイマーが点滅をやめて元に戻るまで、しばらくの時間を要した。
私は、晴天の空を見上げた。
「俺の人生、こんなんでいいのか・・・」
「今は、これをやれっつーことか・・・」
特掃には関係ないことを考えて、気を紛らわした。


しばらくの後、意を決して再突入。
余計なものを見ないように、余計なことを考えないように、毛髪を引っ張った。


メリ!メリメリメリーッ!
「お゛あ゛ーっ!」
私は、持ち上げた自分の手を見て、再び全身に悪寒が走った。
中身(頭・顔)がないのに、まるで生首を持ち上げたような錯覚に襲われたのだ。


さて、畳から外したのはいいけど、後始末には困る。
私は、どうしても持って帰る気になれなかったので、遺族に返すことにした。


もともと、でてきた貴重品は遺族に渡すことになっていたので、この「ヅラ風自毛」も貴重品の一つに混ぜておいた。


中を開けてビックリしたかな?


なにはともあれ、このヅラはツラいよ!



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2006-11-15 13:29:14
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カレーライス

2025-01-04 06:36:01 | 特殊清掃
私は、オニギリをよく食べる。
「好物」と言う訳ではないのだが、その手軽さや携行の利便性から重宝している。


緊急性を要さない特掃のときは、一日の作業開始時刻は10:00~11:00頃。
身体には汚れや悪臭が着くので、昼食休憩をとらないで作業を進めることが多い。
だから、昼食が夕方近くになることも日常茶飯事。


そんな時にオニギリはいい。
作業前の腹ごしらえに、作業途中のおやつ代わりに、作業後の食事に、車の中でいつでも食べられる。


カレーライスは、幼少の頃からの好物。
「大好物」と言うほどではないのだか、たまに食べる。
カレーって、いくら安物でもどこで食べても、それなりに美味しい。
まずいカレーって、当たったことがない(ふざけ半分の激辛カレーは例外)。
いい食べ物だ。


食べ物を表題にするときは、ロクな話じゃなくて恐縮だ。
・・・と思いながらも書く。


ある風呂場での話。
ちなみに、これは「不慮の事故」が起きた現場とは違う、ずっと以前の話。


ボロボロの老朽団地の一室、故人は風呂場で腐っていた。
私は、浴室全体をゆっくりと眺めた後、恐々と浴槽を覗き込んだ。
幸い、汚水は抜けていた。
が!、浴槽の底には腐敗粘土がたんまりと溜まっていた。
そして、その中にはおびただしい数のウジが。


「うぁちゃー!」
毎度、ワンパターンの反応をする私。


一口に「腐敗粘土」と言っても、その色は黄色っぽいものから焦茶色っぽいものまである。
また、粘度も高いものから低いものまである。
(以前の記事で説明したっけ?)


この現場の腐敗粘度は黄色っぽくてドロドロしたものだった。
それはまるで、程よく煮込んだ・・・
ここまで書いたら何が言いたいのか分かると思うので、以下省略。


では次の具材を探そう。
老朽団地の風呂は、かなりの旧式。
追焚ができないタイプで、浴槽は浴室に置いてあるだけのものだった。
浴槽の汚物を片付けてから、その浴槽を動かしてみた。


すると、浴槽の陰、浴室の隅に大量のウジが固まっていた。
大量のウジが平面的に広がっているのは珍しくない。
しかし、折り重なって立体的に群生しているのは珍しい。
それはまるで、オニギ・・・
ここまで書いたら何が言いたいのか分かると思うので、以下省略。

汚物容器の中。
白いウジと黄色い腐敗粘度。
それはまるで、カ・・・
ここまで書いたら何が言いたいのか分かると思うので、以下省略。

やはり、カレーライスは大衆食。
心に響く(のしかかる)その深いテイストは、ビーフシチューに敵わない?

どちらにしろ、カレーもビーフシチューも人間が作るものの方がいい。
人間で作られるものよりね。



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2006-11-09 08:28:20
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ドボン!

2024-12-30 06:06:36 | 浴室腐乱
20代前半の頃、私が精神科に通っていたことは以前にも書いた。
そして、死体業を始めて間もなく、通院をやめたことも。


もともとの私は、神経質なマイナス思考者。
不安神経症的な性格でもある。


ある局面において、人は二つのタイプに分かれるらしい。
何かの障害に遭遇したとき、「克服できない理由ばかりを並べ立てる人」と「克服できる術だけを考える人」に。


後者のタイプに憧れ続けているけど、私は明らかに前者のタイプ。


強い自分に、ポジティブな自分になりたいのに、現実にはいつまでも弱い自分がいて、自分で自分が嫌になることも多い。


正直言うと、今でも生きることが虚しくなったり、疲れることがある。
何もかもがやたらと虚しく思えたり、生きることは疲れることばかりのように思えたりすることがあるのだ。
夜の就寝中、「このまま朝が来なきゃいいのに・・・」と思うこともある。


分かりやすく言うと、私は今でも極度の落ち込み(鬱)状態に陥ることがあるのだ。
「鬱 」と言うと誤解を招きやすいので、「心の闇」とでもしとこうか。
その心の闇は、圧倒的なパワーで、時々、私を支配する。
そして、その闇を払拭するには、それなりの時間とかなりのエネルギーを要するのだ。


弱音を吐くのはこれくらいにして、「不慮の事故」について触れておこう。


心の闇に支配されて元気のない私は、ある特掃に出向いた。
現場は風呂場。
浴槽には、コーヒー色の謎の液体が溜まっていた。
表面には黄色い脂の玉が浮き、クラゲでもいるかのように皮が漂っていた。
汚水は濁り、浴槽の底は見通せなかった。
もちろん、モノ凄い悪臭。


「はぁ~っ・・・」
思わず、深い溜め息がでた。
「これを掃除しろってか・・・」
床や浴槽の縁も、腐敗液・腐敗脂でベタベタで、ヌルヌルととても滑りやすかった・・・。


まずは、網で固形物を掬い取った。
特掃における浴槽からは、どの家でもだいたい似たようなモノがでてくる。
故人に失礼を承知で、あえて言わせてもらおう。でてくるモノは、総じてドロドロして臭く、ロクな物じゃない。


次にやらなくてはならなかったことは、浴槽に溜まった汚水を抜くこと。
誰がやったのか知らないが、既に栓は抜かれていた。
栓が抜けているのに、汚水が溜まったまま。
と言うことは、排水口か排水管が何かで詰まっていると言うこと。
謎の風呂では、何が詰まっているのか簡単に想像できる。
そう、元人間が詰まっているのだ。


「後先も考えずに栓を抜くとは・・・まったく、余計なことをしてくれたもんだなぁ」
私は、嘆いた。
「さてさて、これからどうしようかなぁ」
私は、悩んだ。
「手を入れてみるしかないか・・・」
私は、覚悟を決めた。


片腕に長い手袋を装着した私は、謎の風呂に恐る恐る腕を差し込んだ。
水圧と水温が、私の腕にリアルに伝わってきた。
上腕まで汚水に浸けると、濁った汚水に阻まれて自分の手先が見えなくなった。
そして、水面は私の顔の至近距離に迫ってきた。


「クァ~ッ!ヤッベー!」
その状況に我慢できなくなった私は、一旦腕を引き上げることにした。
姿勢を変えようとした途端、踏ん張っていた足が滑り、私の身体は前のめりに崩れたのであった・・・。


「不慮の事故」→「風呂場で起こったショッキングな出来事」→「ドボン!」
その後のことは想像に任せる。


続きを書けるくらいに、早く元気になりたいもんだ。




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2006-11-07 08:58:06
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お風呂の特殊清掃については
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愚か者

2024-12-24 12:21:52 | その他
そもそもこのブログは、管理人に促されて書き始めたものであり、自発的に始めたものではなかった。
そして、もともとインターネット関係のことはかなり疎い私なので、書き始める前は「ブログって何?」って言うレベルで、興味もなかった。
そのレベルは、今でもほとんど変わりない。


したがって、私はインターネットを直接的に利用することもほとんどない。
たまに開くのも、余程の調べ物がある時くらいだ。
そんな私は、当然、ネットサーフィンなんてやったこともないし、その面白さも知らない。
インターネットって、使いこなすと便利で面白いものなのだろうが、一度ハマってしまうとそれに費やす時間の収拾がつかなそうだ。
だから、私は深入りしないでいる。


ちなみに、私はテレビもほとんど見ない。
だから、流行りのテレビ番組やCM、売れてるタレントもほとんど知らない。
だから、飲み会などでの世間話についていけないこともある。
つい先日も、某有名タレントを知らなくて驚かれた(呆れられた)ことがある。
時代に取り残されている感も否めないが、そんな生活でも特段の支障がある訳ではないので、自分では「よし」としている。


このブログも読んでくれる人が増えて、一時期は「人気ブログ」と称されたこともあったらしい。
それはそれで、単純に嬉しかったのだが、問題もあった。


「人気ブログ?=俺は人気者?=影響力がある?=力がある?=俺は強い?=俺は偉い(立派)?=俺は人格者?」


無意識のうちに、こんな勘違いをしているような気がしないでもなかった。
だから、自分の無力さを痛感したときに落ち込むのだ。
普段から謙虚な姿勢でいれば、自分の無能さや無力さを自然に受け入れることができているはずなのに、ちょっと読者が増えただけで「人格者気取り」で傲慢になっていた(かもしれない)自分がいる。


「自分には力がある」
こんな勘違いをするような愚か者にはなりたくないと思いながら、シッカリと愚か者になっている私である。


書き込み・コメントは「感謝」の一言に尽きるm(__)m←(初めての絵文字!画期的?)
懸案の「死にたい」コメントをもらうことだって、私の理解を超越したところに、何らかの意義があるのかもしれないし。


承知の通り、書き込みは非公開にしているが、私にとっては、その一つ一つが貴重な糧だ。
年齢・性別・仕事・環境etcは全然違うけど、みんなが「戦う男達」「戦う女達」だね。
勝手に、「戦友」だと思わせてもらおう。


書き込まれる内容は、管理人と二人だけで読むのはもったいないくらい。
でも、公開したらまた荒れそうだし、非公開だから書き込んでくれる人もいそうなので、このままのスタンスを維持するつもり。
一部のコメントを選別して公開するのも、不公平と言うか男らしくないような気がするしね。


悲観的な言い方かもしれないけど、所詮、私は死体屋だ。
良くも悪くも、それ以上でもそれ以下でもない(具体的に、それ以下を思いつかない・・・死体屋以下ってある?)。


クヨクヨしたって仕方がない。
自分の器をわきまえて、できるだけ楽にやっていこうと思う。



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2006-11-05 09:12:28
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深刻な深呼吸

2024-12-23 05:27:15 | 特殊清掃
季節は初冬、現場は老朽一戸建。
閑静な住宅街に、その家だけが異様な雰囲気を醸し出してした。
「近所付き合いなし!」
「発見が遅れてもやむなし!」
と、家が語っていた。


腐乱場所は奥の洋間。
死亡推定日が間違いじゃないかと思うくらいに酷い状況だった。
「真夏ならいざ知らず、この季節でこの汚染とは・・・」


私は、ガッカリしながら作業手順を頭の中で組み立てた。
本来なら、汚染部を先に片付けたいところだったが、家財(ゴミ)が多すぎてそれができなかった。


猛烈な悪臭に閉口しながら、まずは家財を梱包して搬出。


私がいつも使っているマスクは、安物の簡易マスク。
防臭より防塵優先。
悪臭は、余裕でマスクを通り抜け、鼻から肺に入ってくる。


ん!?ちょっと待てよ。
これを書いていて気付いたが、ひょっとすると、大量の腐敗臭を吸ってきている私の肺は、腐敗臭にバッチリ冒されているかも?
だとすると、私の吐く息は腐乱死体の臭いがするのかな?
調度、タバコと同じような原理で・・・。
ウェ~ッ!
そう考えると、自分で自分が気持ち悪い!


話を戻す。
腐乱現場では、本能的に浅い息で通す。
とても、深い息ができる所ではないから。
ま、それが適度な酸欠状態をつくりだして、脳的にも作業をしやすくしてくれているのかもしれない。


家財の梱包・搬出を終え、やっと汚染箇所に着手。
汚腐団をたたみ、汚妖服を拾った。


汚妖服に言及するのは初めてかと思うが、早い話が「故人の着衣」。
警察が遺体を片付ける際に脱げてしまうのだろう(あえて脱がせているとは思えない)、汚妖服が現場に落ちていることは多い。
腐乱死体が着ていたものだから、普通じゃない。
タップリの腐敗液を吸っているのが常。
現場によっては、ベトベトの腐敗粘土にまみれているモノもある。
また、故人が脱いだ汚妖服は、その後はウジが着ていることが多い。


次は、床に敷いてあるカーペットに手をつけた。
どうも、二枚重で敷いてあるらしく、まずは上のものを剥がした。
ネチョネチョと捲くれ上がるカーペットの間にも、腐敗液が浸透して粘土状態になっていた。
「ミルクレープみたいだな」


二枚目のカーペットを見て驚いた。
「ん!あったかい?」
「これ、ホットカーペットじゃん!」
「しかも、スイッチONのままじゃねぇかよ!」
「誰かスイッチ切っとけよーっ!」


こんな状況じゃ、遺体の分解もはかどるし、ウジだってスクスクと育つに決まっていた。


「あ゛、い゛、う゛、え゛、お゛ーっ!」
と、くだらない悲鳴を上げながら、ホットカーペットをコンパクトに丸めた。
「ウジロール完成!」


そんなこんなで、その現場を終えた(楽しそうに書いていても、実際は全然楽しくない)。
現場を離れても、腐乱臭が鼻に着いているのは毎度のこと。
それは仕方がないものと諦めている。
風呂に入れば、だいたい落ちるんで。


しっかし、肺にまで腐乱臭が付着していないことを祈るばかりだ。


身の回り、見渡す世の中は空気が汚れている。
たまには、きれいな所に行って、のんびり深呼吸したいもんだな。



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2006-10-24 17:21:40
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感情の味

2024-12-20 05:01:30 | 腐乱死体 ごみ屋敷
腐乱死体現場には色々な生き物がいる。
ウジ・ハエはもちろん、ゴキブリ・蚊・ダニ・謎の虫、そして私。
この括り方でいうと、「俺って一体・・・」と思ってしまう。


ここで取り上げるのはネズミ。
特掃に入る家には、たくさんのネズミがいることも珍しくない。
押入の衣類等を片付けていると、その中からポトポトと子ネズミが落ちてくることがある。
ネズミ達の安住地をいきなり奪うのは申し訳ないような気もするが、こっちも仕事なんで仕方がない。
行き場を失った子ネズミは、とりあえず物陰に隠れようとする。


子ネズミって、丸くて小さくて可愛いいもんだ。
そんなのが、小刻みに震えたりなんかしていると、不憫に思えて大きな同情心がでてくる。
仕事を忘れて、代わりの住家を造ってやりたくなる。


捕まえて始末することは容易なこと。
しかし、そうしようと思ったことはない。


片やウジ。
汚腐団など、ウジの安住地を奪うことには何の抵抗もない(別の抵抗はあるけど)。
更には、抹殺することにさえ抵抗感はない。
ウジは天敵、宿敵。
殺すのに抵抗感がないどころが、妙は使命感・責任感みたいな・・・闘争心?がでてきて、ウジの始末には燃えてしまう。


ウジだって丸くて小さな生き物。
しかし、そんなのが途方に暮れて震えていても、とても「可愛い」なんて感情は湧いてきそうにない。


ウジは殺せてもネズミは殺せない。
そう考えると、ウジも可哀相なヤツかもしれない。


一見は可愛いネズミでも、デカいヤツになってくると話が変わってくる。


ある現場。
ゴミ屋敷に近いボロボロの老朽家屋。


古ぼけた和室の一部が腐乱死体によって汚染されていた。
汚染度は、特記するほどでもない並レベル。


ただ、その家には、やたらとたくさんのネズミがいた。
どうも、故人の生前からそうだったらしく、あちこちに毒餌とネズミ捕りが仕掛けてあった。


いくつかのネズミ捕りにはネズミがかかり、こっちも腐乱していた。
私は、視線を逸らしながらそれらを片付けた。


その中の一つがやたらと重い。
中がどうなっているのか、だいたい想像できたのだが、バカな好奇心から中を開けてみてしまった。
すると、やたらとデカいネズミがかかっていた。
しかも、まだ生きていてキーキー鳴いていた。


私は驚きと同時に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。
気持ち悪くて持っていたネズミ捕りを床に放り投げた。
それから、しばらくは寒気が引かなかった。


「イヤなものを発見しちゃったなぁ・・・どうしよう」
放心状態の中、私は余計なことを考えてしまった。
「このネズミは親ネズミだろうか・・・」
「親ネズミだとすると、家族(子)がいるはすだな」
「故人が仕掛けたネズミ捕りと俺の特掃作業が、ネズミ一家の幸せをブチ壊したのか・・・」
「この悲惨な親ネズミの姿を、可愛い子ネズミはどこからか見ているだろうか・・・」
「この親ネズミも、苦しみながらも、子供達のことを心配してるんじゃないだろうか」
そんな妄想をしたら、ネズミが物凄く可哀相に思えてきた。


でも、親ネズミは虫の息。
粘着シートにからまって、とても助けられる(助かりそうな)状態ではなかった。


親ネズミの始末をどうするか、私は悩んだ。
選択肢は限られているので、悩みようもなかったのだが。


余計な想像をしてしまった私だったが、結局、親ネズミを始末するしかなかった。
自業自得、ブルーな気持ちで親ネズミandネズミ捕りをゴミ袋に入れた。


私は、汚物の中を這い回るウジを見て思った。
「こいつらにも家族はいるんだろうか・・・」
「仮に、いたとしたら大家族だな」


幸いなことに、ウジってやつは感情移入を拒んでくれる生き物だ。
ウジに感情移入してたら、とても特掃なんてやってられないから。


感情ってものがコントロールできたら、どんなに楽だろうと思う。
でも、コントロールできたらできたで味気ないかもね。


喜怒哀楽・七転八倒・七転八起・迂余曲折・試行錯誤・春夏秋冬・焼肉定食・・・生きているから味わえるもの。
生きるってそういうこと。


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2006-10-23 16:55:24
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ビッグウェーブ

2024-12-18 05:52:44 | 特殊清掃
人間であるかぎり、気分・感情に波があるのは自然なことだろう、
ただ、私においては、その波の高低差が激しいのが難点。
特に、30歳を過ぎてからは、全体的に低い位置で上下している。
歳のせいかメンタルな問題か分からないが、若い頃に比べて、気分がスカーッと晴れることが少ない。


そうは言いながらも、特掃業務においては、年々パワーが上がっている。
特掃業務に対しては、体力は落ちても、精神力は上がっているのだ。
単に、経験を重ねている がゆえの「慣れ」かもしれないけど、我ながら、「たくましくなったなぁ」と思うことが増えてきた。
そんな今では、どんな現場でも臆することなくズカズカと入り込む。
そして、「こりゃヒドイ!」等と、時には無神経な言葉を吐いてしまう。


そんな私でも、特掃を始めた頃はいつもビビりながら現場に入っていたものだ。
あまりの凄惨さに、目を閉じたこともある。
あまりの悪臭に、一分と部屋に留まれなかったこともある。


そんな初々しかった頃の話。
とある1Rマンションの一室。
腐乱現場はトイレだった。
依頼者はマンションのオーナー。


玄関を開けた途端に強烈な腐敗臭とハエが襲ってきた。
それだけで、逃げたい気分。
内心ではかなりビビっていたのだが、そんな心情を依頼者に悟られてはマズイので、精一杯気丈に振る舞った。


玄関を突破し、問題のトイレの前へ。
悪臭が外にもれないように、玄関ドアは閉められてしまった。
もちろん、依頼者は外。
薄暗くて臭い室内には私一人きり。
その時点で、既に半泣き状態。


しばらく悶々とした後、勇気を振り絞ってトイレのドアを開けてみた。
すると、衝撃の光景が目に飛び込んできた。
液化汚物になった元人間が床一面に溜まっていたのだ。
ユニットトイレの床は、液体を浸透させないから、腐敗液はドア下面までなみなみと溜まっていた。


気持ち悪さを通り越した嫌悪感で、私の脳と心は、「イヤ!嫌!イヤ!無理!ムリ!無理!」と、完全な拒絶反応を示した。
まるで、脳ミソと心臓が、プルプルと横振れするかのように。


「これをきれいに掃除するのが俺の仕事(責任)か?」
そう考えると物凄い重圧がのしかかってきた。
更に、何とも言えない惨めで悲しい気分に襲われた。


「何で俺がこんなことしなきゃならないんだ?」
「生きていくためか?」
「食っていくためか?」
「俺は、こんなことをしなきゃ生きていけない人間なのか?」
その葛藤の中で、私は深く落ち込んだ。
「最低だ・・・最悪だ・・・」
私の心は完全に泣いていた。


あれから、私も歳を重ねた。
葛藤と戦いの日々に変わりはないが、私は強くもなり弱くもなった。
頑張れるときもあれば、頑張れないときもある。
晴れの日もあれば、雨の日もある。


日々の気分にも波はあるし、人生にも波がある。


私には、凪の道ではなく波浪の道が定められているのだろうか(それとも水中?)。


今でもアップアップ状態なのだが、どうせならビッグウェーブを待ちたい(望みたい)。
波にのまれるのもよし、乗れれば尚よし。
それが私の人生。
でも、希望の浮袋を持っていれば、とりあえず溺れることはなさそうだ。


私のアップアップ人生は、まだしばらく続きそうだ。


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2006-10-22 13:06:53より

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野次馬

2024-12-16 05:52:27 | その他
人は誰しも好奇心を持っていると思う。
特に理由もないのに「知りたい」と思う気持ちだ。
それは、有意義に働くこともあれば無意味な行動をとらせることもある。


その両者は五分五分ではない。
自分の経験で言うと、残念ながらそのほとんどは無意味な方に働いている。
自分にとって関わりのない知識や、自分に影響を及ぼさない(自分が影響を及ぼせない)情報を得るために、いかに多くの時間を費やし、多くの手間をかけているか。


好奇心を持ち見識を広げることは大事だが、無闇やたらの好奇心や度を越した好奇心は、時間(人生)を無駄にするだけではないかと、自分の中で危機感を持っている。


有名人のゴシップを笑うヒマがあったら、自分を省みた方がいい。
大企業の株価を気にするヒマがあったら、秋刀魚の値段でも観察した方がいい。
政府の政策を憂うくらいなら、自分ができることを考えた方がいい。
流行に追われるくらいなら、流行から外れた方がいい。


自分が知っていても知らなくても現実に影響しないことは世の中にたくさんある。
なのに、そんな情報・知識を得るために膨大な時間・労力を費やしている。
持っている知識・情報の量で人間の能力(価値)を計るような風潮がある。


自分が本当に知っておかなければならないこと、真に覚えておかなければならないことが蔑ろにされているような気がする。


自分にとって大事(本当に必要)な知識・情報が何であるかを整理するだけで、随分と時間(人生)の無駄が省けるのではないだろうか。
得ようとする知識・情報の優先順位を考えながら、それらを選別していきたいものだ。


車で道路を走っていると、「事故渋滞」に遭遇することがある。
走行車線が規制されたりすれば渋滞が発生するのは当然。
しかし、走行車線が規制されない反対車線まで渋滞することがある。
いわゆる「見物渋滞」だ。


みんな、それなりに急いでいるはずなのに事故現場にさしかかると見物のために徐行する。
そんな渋滞にハマるとイライラしてくる。
「野次馬根性だしてないで、さっさと行けよ!」
かく言う私が事故現場にさしかかると、ブレーキを踏みながら、
「どれどれ、事故の具合いはどんなかな?」
と、しっかり野次馬の一員になっている始末。
大きな事故だと、
「こりゃ、人が死んだな」
と、軽く(冷たく)走り去る。


遺体がらみの現場には、野次馬が集まりやすい。
もちろん、黒山のハエ・・・もとい、黒山の人だかりができる程ではないものの、チラホラと人が寄ってくる。


私の作業を、ただただ遠目に眺めているだけの人もいれば、話し掛けてくる人もいる。
また、話し掛けてくる人の中には、事情を知らずに尋ねてくる人と事情を知っているのにそれ以上のことを聞き出そうとしてカマをかけてくる人がいる。


関係者以外の人に対しては、「故人や遺族のプライバシーも守られるべき」と考えるが私は、「詳しいことは知らない」ととぼけるのが常。
ただ、腐乱臭がプンプンする特掃現場で、
「ここで人が死んだんですか?」
と尋ねられて
「詳しいことは知りません」
と応えると
「こいつ、アホか?」
みたいな顔をされる。


関係者のフリをして近づいてくる筋金入りの野次馬もいる。
例えば、遺族・不動産会社・大家の関係者を自称したりして。
そんな人は、「死体」とか「腐乱現場」に対する好奇心が抑えきれないのだろう。
または、噂話や陰口が大好きな地域の「情報通」か(こんな人はどこの地域にいるんだよね)。


そんな人は直感的に「怪しい」と感じる。
こんなケースでは、野次馬に悪意すら感じることが多いので、私は無視することにしている。


そんな猥雑な日々の中、昨夜、今秋初めて焼イモ屋の車を見かけた。
なんだか、ホッとするような幸せを感じた。


芋は、馬も好きだしね。



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2006-10-21 12:54:21
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男心と秋の空

2024-12-14 05:06:05 | その他
11月に入り、随分と秋も深まってきた。
春夏秋冬、それぞれの季節にそれぞれの趣があって楽しいものだ。
秋は、食欲の秋・行楽の秋・芸術の秋、そして感傷の秋でもある。


私にとっては疲れがドッときている秋だ。
疲れの原因は色々あるが、歳のせいでもあり、ブログを書いているせいでもある。


猛烈に戦った熱い夏が終わり、心身ともに一段落がついた。
例年は、多少の感傷に苦悶しつつも、疲れた身体と心を休ませながら落ち着きを取り戻す時季なのだが、今年の秋は違う。


多くの「死ぬのはやめた」コメントの陰に隠れるように、相変わらず「死にたい」コメントが少なからず入ってくる。
そんなコメントに私の気持ちがつまづくようになってきたのである。


「俺は人の生死を軽々しく扱い過ぎ?」
「自殺願望者を放っておくことは、人殺し・殺人と大差ない?」
こんなことを考え始め、先の見えない螺旋階段をグルグルと下っていった私。
同時に、気分も落ちていった。


もちろん、この類の問題(葛藤)は今に始まったことではない。
ブログを始めて間もない頃から抱えていた。
しかし、今までは何とかそれらと折り合いをつけながらやることができていた(いいのか悪いのか分からないけど)。


そして、この秋は、そんな私に追い討ちをかけるようなことが続いたのだ。
10月の後半、舞い込む仕事が、ことごとく自殺現場だったのである。
しかも、その故人は私と同年代の男性ばかり。
これにはまいった!
リアルタイム過ぎるので、一つ一つの現場の詳細を記すのは控えるが、それはまるで、目に見えない強大なものが自分を標的にしているような錯覚に囚われるくらいだった。


感傷(苦悶)の秋に多くの自殺願望者、そして同世代の自殺が連発・・・気分が落ちるのもやむを得ないか。


とりあえずは、ブログも再開することにした。
ただ、しばらくの間は、自己中心的なネタやネガティブな話が続く可能性が大きい。
愚痴っぽいことを吐露することも少なくないはず。


それらは、自己憐憫・自己弁護・自己顕示に読めるかもしれないし、読んでいても、面白くも何ともないだろう。


しかし、そんな中に私(特掃隊長)の弱さや愚かさを見つけだし、「孤独なのは自分だけじゃない」ことに気づいて少しでも気持ちが楽になる人がいれば幸いである。


ちなみに、管理人の連絡にある「不慮の事故」というのは、風呂場で起こったショッキングな出来事なのだが、それはまた後日記すことにする。


私の中の秋の空は、毎日模様を変えている。
雨や曇の日が多いけど、たまには晴天の日もある。


たまたま快晴が続いているからといって奢り高ぶることなく、たまたま雨が続いているからといって卑屈になることもなく、いつも一定の謙遜さを覚えた人間としてやっていきたいと思う秋である。



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2006-11-03 15:27:03
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リアル

2024-12-13 04:49:59 | 特殊清掃
現場に行ってから、「こんなのありかよぉ」と思うことは多い。
床を埋め尽くすウジの集団、壁を黒く染めるハエの大群、飛び散る血、正体不明の肉塊etc。

私が現場に到着するのは、腐乱死体の本体は警察が回収した遺体の後。
死体本体が残っていることは稀である。

まぁ、「死体本体」と言っても、その溶け具合いによって、指すモノが変わってくるのだが。
溶けた人間が相手じゃ、何が「死体本体」なのか不明確だ。
とりあえずは、骨は本体にあたる。
では、「死体本体」に含まれないものは?
お馴染みの、腐敗液・腐敗粘土・毛髪などの小物(?)がそう。

現場によっては、残された汚物から遺体があった状況がリアルに想像できるところがある。
手足や頭があった位置がハッキリ分かると、結構不気味なものである。
人間の痕を残す汚物が、私の想像力をバーチャルな世界に引き込むのだ。

そんな時は、いつもの手段で脳の思考を停止させるしかない。
防衛策はそれしかない。
ある腐乱現場。
汚染場所は洗面所だった。
洗面台の前に膝まづくような格好で汚染が広がっていた。
その汚染から、シンクに両腕と頭を突っ込み、膝立ち状態だったことがうかがえた。
シンクの内側には無数の頭髪がつき、腐敗液・腐敗脂が溜まっていた。

死後日数がそんなに経っていなかったのだろう、腐敗液はみずみずしい(変な表現?)ままで、腐敗粘土にまではなっていなかった。

大量の髪が小さな排水口に詰まっているらしく、先に腐敗液を除去するしかなかった。
吸水・吸油用のパックを使って吸い取りながら、髪の毛も拭き取った。

排水口が浅いところで詰まっていたのは不幸中の幸いだった。
深いところまで汚染されていると、水回りの管を通じて風呂・トイレ・キッチンにまで悪臭がまわる可能性があるからだ。

アパートやマンション等の集合住宅の場合、その臭いは他住居にまでまわることもある。
「家の水回りから変な臭いがしてくると思ったら、他世帯の腐乱死体臭だった」なんてことも有り得るわけ。
こうなると、部屋の消臭だけではどうすることもできない。
ま、ここではそこまでのことにはなっていなかったので、よかった。

シンクの脇には腕の痕、ワインレッドの液体が伸びていた。
腐敗液の態様からは、警察が遺体を回収した様もうかがえる。
それもひたすら拭き取るしかなかった。
床の汚染も同様。

特掃作業が終わってから、依頼者が現場確認にきた。

「遺体はどんな格好で死んでたんでしょうね?」
そう尋ねられた私は、洗面台の前に膝まづきポーズをとって言った。
「ちょうど、こんな感じだったと思います」

何も考えずに安易な行動をとってしまった私。
とっさに、特掃前の光景が頭を過ぎった。
頭の中で、自分と腐乱死体が重なってしまい、思わず「ウワッ!」と叫んで飛び退いた。

こともあろうに、実際の現場で腐乱死体を代演する自分にこう思った。
「いい度胸をしてるのか、バカなのか・・・」

汚物が人間的だと精神的にキツい!
人間が汚物的だと、これまたキツそうだけど。


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2006-10-20 16:05:29
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人間の価値

2024-12-12 06:04:51 | 遺体処置
故人は老いた男性。
遺族とは遺体処置の業務で、一時間余り時間を共にした。


私が尋ねた訳でもないのに、遺族は息つく間もなく私に話し掛けてきた。
話の中身は故人の自慢話。
どうも、故人はそれなりの社会的地位だったらしい。
それが遺族にとっては自慢に思えて仕方がないようだった。


家柄・学歴から始まり、勤めていた企業、そこでの肩書、やってきた仕事などを誇らしげに喋っていた。
まるで、「故人は、この社会になくてはならない価値ある人」と言わんばかりの勢いだった。


ただ、私には、生前の故人を偲び、讃えて(労って)いるようには聞こえず、ただ優越感を楽しんでいるようにしか思えなかった。
だから、私には耳触りのいい話ではなかった。


私は、特に反応することもなく黙って聞き流していた。
しかし、遺族はそんな冷淡な態度に不満を覚えたのか、どんどんと自慢話をエスカレートさせてきた。


「何か反応しとかないと、この話は終わらなそうだな」
そう思った私は、態度を逆に変えることにした。
しらじらしいくらいに驚き、感心してみせたのだ。
更には、自分を低くして故人の生前とその家族(遺族)を讃えた。


すると、遺族はそれに満足したらしく話のトーンを落としていった。


私は腹の中で思った。
「生きているうちがどんなに偉かろうが、俺には関係ない」
「冷たくなってしまえば、偉人も凡人もだたの死体だ」
「人間の価値って、そういうことじゃないだろ?」
「じゃ、どういうことだ?・・・」


「人の命は地球より重い」
「人の命の価値に差はない」
子供の頃、道徳・倫理の授業などを通じて、教師からこんなことを教わったことがある。
漠然・抽象的な価値観だ。


いい歳の大人になった今、それを考えてみると、今までそれを体感・実感したことがないことに気づく。


「人の命より地球の方が重い」
「人の命の価値には個人差がある」
身の回りの現実を見渡せば、そんなことばかりだ。
大袈裟ではなく、人間一人一人が値札をつけられているように思えるくらいだ。


そんな世の中では、社会的地位と命の価値が比例してはいないだろうか。
・・・している。
内閣総理大臣と特掃隊長の命の価値は同じだろうか。
・・・とても、同じだとは思えない。
だったら、何故、何人の命も平等の価値だと言えるのだろうか。


私が経験してきた学校では、「命の価値は万民平等」と教えながらも、答案の正解は「命の価値には個人差がある」だった。
この現実をどう解釈していいのか分からず、教師に尋ねると、「へ理屈をこねるな!」と一蹴されるか、「ひねくれ者」とされて敬遠されるだけだったように思い出す。


一つの解釈方法として、命を、人間と魂(霊)に分けて考えたらどうか。
魂(霊)の価値は同じであっても、人間の価値は違うと考えればいいのかもしれない。
そう考えれば、なんとなく頭の中が整う。
ごまかしかな?


こんな私でも、自分を価値ある人間に見せたくて、格好をつけたり見栄を張ったりすることが多い。
社会の底辺を自認している私でさえ、「他人からよく見られたい」と言う気持ちが強いのだ。
残念ながら、材料不足(マイナス材料が多過ぎ)で自己満足にもならないことが多いけど。


そもそも、命の価値が分かっていない者(私)に、価値を上げる力・手段を持っているはずがない。
人間の価値を上げようとする悪あがきが、逆に人間の価値を下げているような気もする。


それでも、もがきあがく毎日から少しの光が見えてきた。
死体業15年目、30代後半になってやっとである。

「人間の価値は人が決められるものではない、人が決めてはいけない」


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2006-10-17 17:00:54
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