タクシーに座って移動しながらウトウトしていると、チーンという音とともに、腕に巻いたApple Watchの液晶画面をまるで誰かがコツッと爪で叩いたような優しく心地よい振動。ふっと腕を上げると、消えていた画面にふわっと友人からのメッセージが表示され、腕を下ろす動作にあわせてフェードアウトしていく。
確認してまたしばらくすると、今度はキーンという音とともに腕を捕まれるような感触。腕を上げると、今度は10分後に始まる次の予定が表示される。
Apple Watchは、聴覚と触覚で語りかけてくる。
この製品は、まだ誕生したばかりなのに、成熟した使い心地と繊細な気遣いを備えている。
1週間ほどApple Watchを試用する間に、私がウェアラブルコンピュータというものに対して抱いていたイメージは完全に変わってしまった。
これまでのイメージというのは、世間でよく言われる「メーカーが、スマートフォンの売れ行きが鈍化したから作り出した新しい電子ガジェット」というもの。すでに情報過多な今日の生活に加わる「さらに情報を増やす窓」と言い換えてもいいかもしれない。単にスマートフォンを小さくして腕に貼り付けただけのガサツな製品というイメージもある。
Apple Watchは、そうしたイメージとはまるで異なる“ウェアラブルのあるべき姿”を見事に提示してくれた。
Apple Watchの印象は、いわゆるデジタル系のウェアラブル機器よりも、身につけることが心地よいから身につける、たまにチラっと見て喜びに浸れる質のいい腕時計の印象に近い。
アップルは同製品のホームページで「腕時計を再び創造する」と書いているが、実際にアップルが狙ったのはまさにそれだ。携帯電話の普及によって機能としては不要になりつつある腕時計を、21世紀の環境とテクノロジーに合わせて進化させたものだと捉えたほうが正確かもしれない。
Apple Watchを本当に使いたいと感じさせる心地よさの要因は、どれそれの機能、どれそれの技術といった1つや2つの特徴ではない。Apple Watchを使い続けて見えてくる世界観に破綻(はたん)がないこと、抜け目のないことから伝わってくるものだ。
それでもあえて「これはすごいな」と感心した例をいくつか紹介しよう。
例えば、iPhoneで静かに電子書籍を読んでいるときに、誰かからメッセージが届いたとしよう。この場合、ユーザーはiPhoneの画面に一瞬表示されている通知で、すでにメッセージの到着に気付いているはずなので、Apple Watchはおとなしく黙っている。すでにユーザーがiPhoneで見ているはずの同じ通知を手元でも繰り返すような無粋なことはしない。
ところが、iPhoneが机に置きっぱなし(画面が消えている)の状態でメッセージが届くと、チーンという澄んだ鐘の音と手首への振動でそれを知らせてくれる。新製品に何をやらせるべきかを考えるのは普通だが、「何をやらせないべきか」をしっかり考え、実践できるメーカーは少ないと思う(そして、これは情報過多の今日、非常に重要な考えだ)。
別の例を挙げよう。
隣の部屋でiPhoneを充電中に電話がかかってきた。これまでなら慌てて隣の部屋まで走って行くところだが、Apple Watchがあれば、1〜2回目の呼び出しの後、手元でも電話が鳴り始める。そのまま腕をあげ「応答」ボタンを押すと、Apple Watchのマイクとスピーカーを使ったスピーカーフォン状態で電話に応えることができる。話が長くなりそうなら、ゆっくりと隣の部屋に歩いて行き、iPhoneを手に取ってそのまま通話の続きをすればいい。Handsoffと呼ばれる機能によって、デバイス間のシームレスな連携が自然に実現されている。
もし大切な人と大切な話をしている最中に電話がかかってきたら、さっと空いている方の手でApple Watchを覆う。するとApple Watchだけでなく、iPhoneの呼び出し音も瞬時に止まってスマートに着信拒否ができる。
Apple Watchには「そうか、スマートウォッチというのは、本当にスマートなライフスタイルを送るためのデバイスだったのか」と気付かされる工夫があふれている。
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