前回は、私自身が日本に住んでいる間に全く日本人としての誇りを感じていなかったことを書いた。どうやら若い時代に受けた自虐史観に問題があったらしい。
私たち人間は、生まれた家や家族に対して自然な愛を持つように、生まれた国家や国民に対しても自然な愛を持つと思う。それが自然な情・心である。ところがどこかでその自然な情が屈折してしまったらしい。
第二次世界大戦終戦から78年の月日が流れ、戦争を知る世代が消え、新しい世代となった。この新しい世代の人々が、世界中から日本にやってきて日本の良さを褒めたたえる。日本人の親切さ、街並みや道の清潔さ、交通機関などの便利さ、新旧の統合と調和、自然の美しさ、そして食べ物の美味しさ、等々聞いていると嬉しくなる。新しい世代には戦争時の偏見が全くない。
とは言え、どこにも完全な国も国民も存在しない。私が愛と愛着を持っているその母国日本にも、嫌いだな~と思う点がある。それは、良かれと思っての親切の押し売りとお節介である。その他にも、詰め込み教育制度のいびつさも受け入れ難いものがある。オッと、まだあった。日本の師弟制度、これも苦手だ。酷い目に遭ってきた。心に傷が付くもいいところだ。
文化や国民性の違いについては書き挙げていたらきりがない。どちらが良いも悪いもない。どちらが好きか嫌いか、または、自分に合っているかいないかの話である。
私たちの究極の母国は天である。私たちは神から発して神の下に帰っていく。神が存在する国は完全な国である。なにもかもが完全・パーフェクトだ。この世に生きている間はあーだこーだ、どちらの国が好きだ嫌いだとか言っているが、それも束の間のことであると思う昨今である。
「私たちの国籍は天に在ります。」ピリピ人への手紙3:20
*「国籍」のギリシャ語原意=community, citizenship