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カトリック情報 Catholics in Japan
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2016/07/09

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  • 柱の行者聖シメオン St. Simeon Stylites

    柱の行者聖シメオンSt.SimeonStylites記念日1月5日聖会の初代には厳しい苦行に従う山修士や修道者が沢山あった。それは自分の罪を償う為である場合も勿論あったが、大抵は若い時から正しい生活を送り、さほどの罪もない人々であったから、天主への聖愛より罪人や異教人を改心させる為の方が多かったのである。柱の行者聖シメオンもやはりそういう一人であった。この聖人は西暦390年頃シリアのシサンという所に生まれた。両親は農を業としていたので、シメオンも年少の頃はその手助けをしていたが、ある日父母と教会に行き、そこで「幸いなるかな泣く人、彼等は慰められるべければなり」及び「幸いなるかな心の清き人、彼等は神を見奉るべければなり」という聖福音の聖言を聞いて感動し、傍らなる一老人に「そういう幸福はどうしたら得られましょ...柱の行者聖シメオンSt.SimeonStylites

  • 聖エリザベス・アン・シートン

    聖エリザベス・アン・シートン記念日1月4日アメリカ人として最初に列聖されたエリザベス・アン・シートンは。1774年8月28日に生まれた。義兄はバルティモアの大司教になったが、彼女の家族はほとんどプロテスタントであった。エリザベスは20歳で結婚し、活動的な慈善家となり、1797年には幼児を抱えた貧しい未亡人たちを助ける会の創立者の一人となった。1803年に彼女の夫は5人の子供を残して亡くなった。2年後、エリザベスがカトリックになった時、バルティモアの聖マリア神学院の院長が、学校を始めるように依頼した。これがアメリカにおける小教区学校のカトリック組織の始まりとなった。1809年にエリザベスは聖ヨセフ会という新しい修道会を創立するために4人の友人を集めた。その後メリーランド州エミツバーグの近くに貧しい子供達のた...聖エリザベス・アン・シートン

  • イエズスの御名

    イエズスの御名記念日1月3日イエズスの御名は天父御自身天使の口を経て御母聖マリアに示し給うたもので、いかにも主に相応しいと言わねばならぬ。聖会はイエズスの御名の記念を本日3日に行う。即ちイエズスという御名は「救いなる天主」または「援助なる天主」という字義で、救い主を意味するのである。なんと聖い御名ではないか。故に聖ベルナルドや聖カピストラノはイエズスの御名の崇敬を盛んにすることに非常な熱意を以て尽くされた。なおこれは御名の直接の字義ではないが、広い意味に解すればイエズスとは又「聖寵」「教え」「主の愛」などとも訳される。されば聖パウロは「イエズスの御名に対しては、天上のもの、地上のもの、地獄のもの悉く膝を屈むべし」と申され、イエズス御自身も「誠に真に汝等に告ぐ、汝等もし我が名によりて父に求むる所あらば、父は...イエズスの御名

  • 聖バジリオとナジアンズの聖グレゴリオ司教教会博士

    聖バジリオとナジアンズの聖グレゴリオ司教教会博士記念日1月2日バジリオとグレゴリオは2人とも、カイザリア市で生まれたが、彼等が出会って親しい友となったのは、アテネ大学の学生時代であった。バジリオは頭が良く大学教授になったが、まもなく倦きて修道者になり、ポントスのイリス河の岸でひとりで隠修士の生活を5年間試みた。しかし多くの人々が教えを求めて来たので、彼等の為に修道院を創立した。修道士として共同生活を望んだ人々の為に彼が書いた規則は今でも東方教会の修道生活の基本となっている。バジリオのすばらしい説教は、多くの未信者を改宗させることができるだろうとグレゴリオは考えて、バジリオに勧めて修道院を去らせた。370年、バジリオはカイザリアの大司教に選ばれた。彼は自分の財産を投げ出して貧しい人々のために病院を建てたが、...聖バジリオとナジアンズの聖グレゴリオ司教教会博士

  • 神のおん母聖マリア

    神のおん母聖マリア大祝日1月1日聖母マリアを「神の母」という称号の許に敬い、その保護を祈り求める習慣は非常に古くからあり、エフェソ公会議(413年)でマリアを「神の母」として宣言して以来、マリアに対する崇敬はいっそう広まった。聖母マリアを神のおん母として祝う祝日は、ローマ教会では7世紀ころに典礼暦に取り入れられた。その後、何回かの名称の変更を経て、1969年の典礼暦の改訂によって初期の伝統に戻り、1月1日に現在の名称で祝われるようになった。主の降誕8日目にあたる典礼を通して、キリスト誕生の秘儀においてマリアが果たした役割を思い起こす日となっている。また今日1月1日は、教皇パウロ6世が1968年の新年に、全世界で平和の為に祈ることを呼びかけたことに始まる「世界平和の日」でもある。この日、全世界のカトリック教...神のおん母聖マリア

  • 聖シルベストロ1世教皇証聖者 St.Silvester P. P.

    聖シルベストロ1世教皇証聖者St.SilvesterP.P.記念日12月31日ローマのコンスタンチノ大帝がマクセンシオと戦った時のことである、敵方は味方よりも遙かに優勢であったが、大帝は突然空に光り輝く十字架が現れ、その上に「この印に依りて勝利を得べし」と記されてあるのを見、試みに十字架を描いた軍旗を作って陣頭に押し立てた所、果たしてローマ門外の戦いに大勝利を得、天下を掌握することが出来た。それは紀元312年10月28日のことであったが、彼はここに於いてキリスト教こそ真の宗教であると悟り、之をローマ帝国の国教と定めるに至った。かくてそれまで300年の長きにわたり行われた同国のキリスト教迫害も、全くそのあとを断つようになったから、時の教皇メルキアデスを始め、全聖会の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。やがてメ...聖シルベストロ1世教皇証聖者St.SilvesterP.P.

  • 聖アニシアおとめ殉教者

    聖アニシアおとめ殉教者記念日12月30日テサロニケで4世紀の初めに生まれたアニシアは、両親の残した財産を貧しい人々のために使いながら、祈りの生活をしていた。ある日信者達の集まりに出かける途中一人の軍人が話しかけてきた。彼はアニシアが信者だということを見抜いて、彼女を強引に異教の神殿へ連れて行き、供え物をさせようとした。しかしアニシアがかぶっていたヴェールをはぎ取ろうとしたが、彼女はそれも拒んだ。彼は非常に怒り、剣を抜いてアニシアをその場で殺してしまった。聖アニシアおとめ殉教者

  • 聖トマス・ベケット大司教殉教者 St. Thomas Becket Archiep. Mart.

    聖トマス・ベケット大司教殉教者St.ThomasBecketArchiep.Mart.記念日12月29日主が嘗て御弟子達に向かい「わが為に汝等、官吏帝王の前に引かれて、彼等及び異邦人に証となることあるべし」と仰せられた御預言は見事適中し、爾来今日に至るまでの数え切れぬ迫害に、官吏帝王の前に引き出され、堂々信仰を宣言して殉教致命した信者の数多あることは、既に読者のよくご存じの通りであるが、ここに語る聖トマス・ベケットも英国の出した最も著名な殉教者の一人に外ならない。彼の父はギルベルト・ベケットと言い、熱心なカトリック信者であったが、若い時聖地パレスチナへ巡礼しての戻りに、サラセン人の首領の奴隷にされ、その間にその娘マチルヂスに聖教を伝えたのが縁で、自由の身となってから彼女を妻に貰い受け、ロンドンへ帰って一子...聖トマス・ベケット大司教殉教者St.ThomasBecketArchiep.Mart.

  • 聖なるおさな子たち殉教者 Sts. Innocentes Mart.

    聖なるおさな子たち殉教者Sts.InnocentesMart.祝日12月28日救世主の御降誕を不思議な星の出現によって知った東の国の三人の博士たちは、その星に導かれるままにエルサレムまで来、ユダヤ国王ヘロデに謁し、「お生まれになったユダヤの王はどこに居られますか」と尋ねた。ヘロデはこの言葉を聞いて大いに驚いたが、早速国中の学者を召し、いにしえの預言によれば、救い主はどこに生まれることになっているかと訊くと、彼等が答えて言うには「ベトレヘムに」との事であったので、ヘロデはその旨を三人の博士に告げ、「もし救い主となる嬰児が発見されたら私にも知らせてほしい、私も拝みに行くから」と言った。しかしこれは本心から出た言葉ではなく、救い主が将来自分の王位を奪いはせぬかという心配から、その所在が知れたらこれを殺して禍を未...聖なるおさな子たち殉教者Sts.InnocentesMart.

  • 使徒聖ヨハネ福音史家 St. Joannes Ap. Evangelista

    使徒聖ヨハネ福音史家St.JoannesAp.Evangelista祝日12月27日第四の聖福音を著した使徒聖ヨハネは、鷲をその象徴とされている。これは何故かというと他の三福音史家マタイ、マルコ及びルカ等は、いずれも主イエズス・キリストの救世の御事業に就き記しただけなのに、独りヨハネは救い主の神性を示すという更に高い目的を以て筆を執った。それがあらゆる鳥よりも高く飛翔する鷲を忍ばせるからである。なお使徒聖ヨハネはその人格に於いても他の使徒達に卓越して特別主の御寵愛を蒙っていたことは、その聖書中に「イエズスの愛し給える一人の弟子(ヨハネを示す)御懐あたりに寄りかかりいたり」とあるによっても想像できよう。このヨハネは以前洗礼者ヨハネの熱心な弟子で、他のユダヤ人と同様預言された救世主の来たり給う日を、千秋の思い...使徒聖ヨハネ福音史家St.JoannesAp.Evangelista

  • 聖ステファノ助祭殉教者 St. Stephanus Diaconus Protomartyr.

    聖ステファノ助祭殉教者St.StephanusDiaconusProtomartyr.祝日12月26日「誠に実に汝等に告ぐ、麦の粒地に落ちて、もし死ざれば唯一つにして止まるも、もし死すれば多くの実を結ぶ」主のこの聖言は誰よりもまず主御自身に適合する。何となれば、主が十字架上で聖血を流し世の罪を贖い給うたればこそその御功徳を蒙って救霊の恵みに浴洗ものと、聖霊降臨の日に受洗した3000人を始め、その後も続々聖教に帰依する者が出たからである。そしてこれら教会初代の信者達は互いに口で兄弟姉妹と呼び合うばかりでなく、実際同心一致、各自自発的に財産を教会に寄付して共同生活を営み、食糧などは必要に応じて使徒達から配給を受け、何物をも共有として信仰に精励した。されば世人は彼等の友愛の麗しさに感じ入り、自分もその仲間入りが...聖ステファノ助祭殉教者St.StephanusDiaconusProtomartyr.

  • いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和

    「恐れることはない。全ての人々の為に大きな喜びの知らせを告げる。今日、ダビドの町で、あなた達の為に救い主が生まれ給うた、すなわち主キリストである。あなた達は、布に包まれてまぐさおけに寝ているみどり児を見るだろう。それがしるしである。」すると、たちまち天の軍勢の大群が天使に加わり、「いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和」と神を賛美した。ルカによる福音書2章10-14節いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和

  • 主のご降誕 聖ボナヴェントゥラ 『生命の木』

    ローマ皇帝アウグストゥスの治下、世界的平和のしずかな休息が、それまで混乱していた時代を晴れやかにしたとき、そしてまた、この君主が全世界の人口調査を命じたとき、神の摂理の配慮によって、「処女」の夫ヨセフは、やがて母になろうとしていた王族出の若い妻を、ベトレヘムの町に案内した。すると、受胎後九か月のとき、「平和の王」が生まれた。かれは、快楽とはなんのかかわりもなく宿されたのであったが、その母にはなんの変化も与えないで、「浄配が婚姻の室から出る」ように、処女の胎外に進み出たのであった。かれは、強く富んでいたにもかかわらず、愛によって、小さく貧しくなって、わたしたちのもとに来ること、自分の家にではなくはたご屋で生まれること、みすぼらしいむつきに包まれること、処女の乳でやしなわれること、牡牛とろばのあいだで、まぐさ...主のご降誕聖ボナヴェントゥラ『生命の木』

  • キリスト御降誕の大祝日 Festum Nativitatis D. N. Jesus Christi

    キリスト御降誕の大祝日FestumNativitatisD.N.JesusChristi大祝日12月25日聖会には大祝祭も数多あるが、クリスマスに増して喜ばしい日は又とあるまい。天使方でさえ羊飼い達に「懼れるには及ばぬ。私は人民一般に及ぶべき大いなる喜びの福音をその方達に告げるのである」と言った。それではその喜びはどういう所にあるのであろうか。世の救い主が生まれ給うた所にある。そしてこの救世主の御降誕は、その時代の人々ばかりでなく、善意を有する全世界万国万代の人々の為であった。その救い主により天国の扉は彼等に開かれ、最大の幸福を蒙ることが出来るのであるから、また救世主イエズスを知る人々にとっては毎年その御降誕記念は如何なる時代に於いても等しく大いなる歓喜たるを失わない。しかもそれは大人の歓喜であるばかりで...キリスト御降誕の大祝日FestumNativitatisD.N.JesusChristi

  • 聖アナスタシア殉教者 St. Anastasia Vid. M.

    聖アナスタシア殉教者St.AnastasiaVid.M.記念日12月24日聖女アナスタシアは初代キリスト教会に於いて最も有名な殉教者の一人である。それは彼女の名がミサ典文中に記された少数の聖人方の中に加えられ、また緒聖人の連祷中に出てくる事によっても知れよう。アナスタシアは3世紀の中頃ローマに於いて貴族の家に生まれた。父プレテクスタトは熱心な偶像教信者であったが、母フラヴィアは窃かにキリスト教を奉じ、娘にも之を教え育てた。その中母が死ぬと、やはり後に殉教した聖司祭クリソゴノが代わって彼女の教育に当たった。アナスタシアが年頃になると、父はプブリオという富豪の一青年に娶せた。ところがこの若い夫は奢侈贅沢や放蕩を好み、妻に一方ならぬ心配をかけた。それでもアナスタシアは出来るだけ柔和親切に夫に仕え、その気に入るよ...聖アナスタシア殉教者St.AnastasiaVid.M.

  • カンティの聖ヨハネ司祭

    カンティの聖ヨハネ司祭記念日12月23日ヨハネは1390年6月23日、ポーランドのクラクフ付近のカンティに生まれ、1413年クラクフ大学に入学した。卒業後、同大学で聖書の講義を担当したが、彼の成功を妬む人々がいて、彼をオルクス村の主任司祭に追いやってしまった。そこで8年間働いてから再びクラクフ大学に呼び戻されたが、その時、教会の信者たちは涙を流して別れを惜しんだ。大学では哲学と神学の有名な教授となり、彼の死後、高い学位を取りたいと望んだ学生たちは、ヨハネの残した古いガウンを着て成功を祈ったと伝えられている。ヨハネは高度の学問的知識のほかに、信心深さ、清貧の精神、貧しい人に対する愛と償いの精神によって多くの人々に大きな影響を及ぼした。ローマへ4度歩いて巡礼し、一度はエルサレムへ巡礼した。カンティのヨハネは1...カンティの聖ヨハネ司祭

  • ディセンベルクの聖ユッタ修道女

    ディセンベルクの聖ユッタ修道女記念日12月22日11世紀の終わり頃、ディセンブルクのユッタは、スパンハイム候メギナルドの妹としてドイツで生まれた。彼女は神に一生涯身を献げた信者の女性たちを集めて小さな修道院を作り、その院長となって22年過ごした。その間にドイツにおける最も偉大な神秘化のビンゲンのヒルデガルドの世話をして、ラテン語や聖書の読み方などを教えた。1136年にユッタが亡くなった時、ヒルデガルドが代わりに院長となった。彼女はユッタについて次のように書き残している。「ユッタは、神の恵みで満ちあふれているたくさんの支流を持った川のような人でした。喜ばしい死によって解放される最後の日までユッタは苦行を続け、絶え間なく神に祈っていました」彼女の死後たくさんの人々が遺徳をしたって、墓に詣でた。ディセンベルクの聖ユッタ修道女

  • シロスの聖ドミニコ

    シロスの聖ドミニコ記念日12月20日11世紀の初め頃ドミニコはスペインのナバラの農夫の家に生まれ、その時代の最も有名な修道者の一人となった。彼は希望がかなってサン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入り、その学徳をみとめられて修道院長となった。その頃ナバラのガルシア3世王が、修道院が所有しているある土地は王家のものだと主張しはじめた。しかしドミニコは非常に強く修道院の権利を防御したために、彼と2人の修道士は追放されて、カスティールのフェルディナンド1世王の許に身を寄せた。この王はブルゴス教区内のシロスのサン・セバスチャン修道院にドミニコと2人の仲間を招き、ドミニコに院長になるように頼んだ。その修道院は長い間に霊的に活気を失っていた上に、経済的にも、全く衰えた状態であったが、ドミニコにより徐々に改善さ...シロスの聖ドミニコ

  • 聖アンドレア・ボボラ殉教者 St. Andreas Bobola M.

    聖アンドレア・ボボラ殉教者St.AndreasBobolaM.記念日12月19日典礼聖省曰く「殉教の調査も数多したが、その、残虐さにおいてアンドレア・ボボラのそれに優るものは未だ嘗て聞いたことがない」と。それにも拘わらず彼の聖人に挙げられるのは比較的遅く、ようやく殉教致命後300年を経て、1938年4月17日、キリスト復活祭の佳辰を卜しピオ11世教皇最後の列聖式にその栄誉を授けられたのであった。アンドレア・ボボラは1591年ポーランド国サンドミール州に産声をあげた。両親は貴族で、父祖伝来の熱心なカトリック信者、伯父も聖教の為には随分尽くし、アンドレアが少年の頃入学したイエズス会の学校も主にその寄付で建てられたものであった。さればそういう一家に人となったアンドレアが幼少より敬神の念厚く、21歳にしてイエズス...聖アンドレア・ボボラ殉教者St.AndreasBobolaM.

  • 聖ワインバルド修道院長

    聖ワインバルド修道院長記念日12月18日8世紀のイギリスで重要な地主であったサクソンのリチャードは、ウィリバルドとワインバルドという2人の息子を連れてローマへ巡礼に行った。ウィリバルドはローマから聖地に行き、歴史上イギリス人として最初に聖地を訪ねた人となった。しかしワインバルドは兄のような体力がなく、ローマへ着く頃は病気になったので、ローマに7年間、学生として留まった。やがて彼は修道士となってイギリスへ帰ったが、友人を連れて再びローマに帰った時、739年にボニファチオに出会った。ボニファチオの最大の関心はドイツに福音をもたらすことであった。彼はワインバルドがまだ病気ではあったが、彼に勧めていっしょにドイツへ宣教に出かけた。彼はチューリンゲンに到着後、司祭となり、7つの教会を司牧した。人々の妨害にも負けずに...聖ワインバルド修道院長

  • 聖ラザロ司教 St. Lazarus E.

    聖ラザロ司教St.LazarusE.記念日12月17日ラザロという名はルカ聖福音書とヨハネ聖福音書とに記しているが、これは同名異人であって同一人ではない。即ち前者は主の無慈悲な富豪のたとえ話中に出てくる乞食で、実際の人物か否か不明であり、後者はエルサレムに近いベタニア村に住み、二人の妹マルタ、マリアと独身生活を送っていた人である。本日聖会の記念する聖ラザロ司教とはこのベタニアのラザロに他ならない。彼はイエズス御自ら親友と呼び給うたほど主と親密な関係にあり、主がエルサレムへ往復の御途すがらなどしばしばその御訪問をかたじけのうした。そして常にその御傍離れず仕える御弟子にこそならなかったが、その御教えの熱心な信者であったのである。主が御受難の暫く前、ユダヤ国の東部にあるペレア方面で布教しておられた時のことである...聖ラザロ司教St.LazarusE.

  • 聖アデライデ皇后 St. Adelaide

    聖アデライデ皇后St.Adelaide記念日12月16日10世紀のはじめに、フランスのブルゴーニュの王女であったアデライデは、一生涯種々の苦しみを忍んだが、常に神に対する深い信頼と人に対する深い信頼と人に対する慈愛を保ち続けた。最初に結婚した夫は毒殺され、その上毒殺者の息子と結婚を強いられて、それを拒絶した時、彼女は城の中に閉じ込められた。しかし、後にドイツのオットー大帝が彼女を解放して自分の王妃とした。大帝の死後、長子が後を継いでオットー2世となったが、その妻がアデライデを追放した。しばらくして王はアデライデに詫びて再び連れ戻したが、彼の死後、彼女は再び追い出され、年をとってから帰ることを許された。999年12月16日、彼女は自分が創立したアルサスの修道院で神の許に召された。聖アデライデ皇后St.Adelaide

  • 聖マリア・ディ・ローザ修道女

    聖マリア・ディ・ローザ修道女記念日12月15日マリア・ディ・ローザは自分の故郷北イタリアのブレシアで、17歳の時から貧しい人々の為に奉仕し始め、わずか42歳で亡くなった時には弱い体を全く使い果たしていた。貧しい人、困っている人の為にすることは、みなイエズス自身の為にすることであるという主の言葉を文字通りに取りたいと熱望して、ブレシアの工場で虐げられながら働く工員達、特に女工達を助けた。また毎日病院を訪ねて、耳や口の不自由な人々の世話を手がけた。1849年、27歳の時に愛徳の侍女会を創立して、組織的に慈善事業をすることになった。1849年のオーストリアとの戦争の時、そして1852年のコレラ蔓延の時には特にこの会は大きな貢献をしたのであった。聖マリア・ディ・ローザ修道女

  • 十字架の聖ヨハネ司祭教会博士 St. Joannes de Cruce C., D. E.

    十字架の聖ヨハネ司祭教会博士St.JoannesdeCruceC.,D.E.記念日12月14日16世紀は読者も知る通り、いわゆる宗教改革者達が種々の異端説を唱道して人心を惑わし、為に信仰の堅からぬ者が数多真の聖教を捨て去った悲しむべき時代であったが、その一方に喜ぶべきは、やがて真の改革者なる聖人方が多数輩出し、聖会内部の刷新に着手すると共に、熱心に布教して一時衰えた教勢をたちまち快復した事であった。本日記念する十字架の聖ヨハネの如き、中でも偉大な聖人であり神秘家である。彼は1542年6月24日スペインのカスチリア州のフォンチベロスという町に呱々の声を挙げた。祖先は名門の貴族であったが、零落して彼の生まれた頃は家も甚だ貧しかった。その受洗の折りヨハネと名付けられたのは、誕生日があたかも洗礼者聖ヨハネの祝日に...十字架の聖ヨハネ司祭教会博士St.JoannesdeCruceC.,D.E.

  • 人を躓かせる者への報い 聖書

    人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。マタイによる福音書18章7節人を躓かせる者への報い聖書

  • 聖ルチアおとめ殉教者 St. Lucia V. M.

    聖ルチアおとめ殉教者St.LuciaV.M.記念日12月13日聖ルチアは初代キリスト教会の偉大な殉教童貞であって、聖アガタ、聖アグネス、聖セシリアなどと共にミサ典文にも諸聖人の連祷にもその名を記されている。ルチアとは「光明」という意味であるから、実際聖会の光となった彼女に、最も相応しい名前ということが出来よう。彼女は前後300年間の長きに亘ったローマ帝国のキリスト教迫害末期シシリー島のシラクサで生まれ、ディオゥレチアノ皇帝の御代壮烈な死を遂げた。両親はいずれもカトリック信者で、彼女を手中の珠といつくしみ育てたが、父は早く世を去ったので、母オイチキアは娘の身を堅めようと、折柄申し込みのあった某貴族の縁談を承諾した。然るにルチアは既に天主に身を献げ、終生童貞を守る誓願を立てていたから、これを聞いて大いに当惑し...聖ルチアおとめ殉教者St.LuciaV.M.

  • イスラエルのシリア侵攻

    前回の記事の追記部分にも簡単に書きましたが、本当にひどいですね。イスラエルがシリアの重要施設300箇所以上を空爆したばかりか、ゴラン高原を越えて、シリア領奥深くに侵攻しているようです。緩衝地帯を多めに設定したいのだろうという推測もあれば、どさくさに紛れた領土欲だろうという見解もあり、シリアを国境沿いに縦断し、レバノンとシリアの関係を絶ちたいのだと解説する方(青山教授)もいます。いずれにせよ、無法が過ぎます。まるで、150年前の行動様式です。というよりも、これから、世界はそういう時代に逆戻りしていくのでしょうか。ベルサイユ条約以後に提唱され、二次大戦後にほぼ確立された「領土不可侵の原則」は、遠からぬ将来、忘れ去られ、世界は過去の元来た時代に戻っていくのかもしれませんね。イスラエルのシリア猛攻撃「最悪の事態」...イスラエルのシリア侵攻

  • 聖書は愛 聖ヒエロニムス

    聖書の知識をあなたの愛としなさい。聖書と共に生き、聖書を黙想し、聖書をあなたの知識と探求の唯一の対象としなさい。聖ヒエロニムス聖書は愛聖ヒエロニムス

  • シャンタルの聖フランシスカ修道女

    シャンタルの聖フランシスカ修道女記念日12月12日フランシスカは1572年、フランスのディジョン市の貴族の家に生まれ、1592年熱心なカトリック信者シャンタル男爵と結婚して6人の子供の母となり、幸福な家庭を営んでいた。しかし29歳の時、最愛の夫に先立たれ、その後はもっぱら祈りと遺児の教育と慈善とに献身した。彼女がフランシスコ・サレジオに出逢ったのは1604年で、その時から霊的指導を願い出て、自分はカルメル会に入りたいと打ち明けた。フランシスコは、かねてから若い女性や未亡人が容易に入会できるような、戒律の厳しくない修道会を創立したいと望んでいたので、彼女に勧めて、3人の友達とともに修道生活を始めさせ、聖母訪問修女会を創立することになった。総長としての彼女は、サレジオのフランシスコが目ざした信心生活の理想のよ...シャンタルの聖フランシスカ修道女

  • 天国には欲しいものは何でもある 浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

    (4)-天国には欲しいと思うものは何でもあるー目はその見事な景色、そこに住んでいられる天使、聖人聖母マリア、神の御子、至聖三位の美しい立派な御姿に見入り、耳は絶えず天使や聖人などの曲(ふし)面白く天主を讃美するその楽しい歌にうっとりと我を忘れて聴きとれるのであります。殊に聖人などが何よりも嬉しく覚えられるのは、善の善なる天主を面(まのあた)りに仰ぎ見て楽しむことであります。天主を仰ぎ見ると共に、その底知れぬ深い深い愛を悟るのであります。自分のために人となり、厩に生まれ、十字架上に死し、聖体の中に食物となって、自分を養い下さったその感ずべき愛を悟って、何んなに吃驚するでしょうか。自分を改心せしめるために浴びせ給うた聖寵、自分を勧め戒めて下さった数限りなき御恵みを一々数え上げては、どんなに仰天するでしょうか。...天国には欲しいものは何でもある浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

  • 人を改心させる方法 聖トマス・アクィナス

    誰かを改心させるためには、その人の手を取って導くことだ。聖トマス・アクィナス人を改心させる方法聖トマス・アクィナス

  • 聖ダマソ1世教皇 St. Damasus P.

    聖ダマソ1世教皇St.DamasusP.記念日12月11日聖ダマソは西暦305年呱々の声を挙げた。その頃ローマ帝国はディオクレアノ皇帝の治世で、古今未曾有の酷烈なキリスト教迫害が行われていた。しかし幸いに同信徒である彼の両親には官憲の魔手も及ばなかった。ダマソは父母のこまやかな愛を育まれてすくすくと生い立った。そして8歳を迎えたとき。天下を掌握したコンスタンチノ大帝から聖教信奉の自由を差し許す旨の布告が下り、聖会の上には一陽来復の春が訪れたのである。彼の一家はことごとく篤信敬虔な人達ばかりであった。父は後に聖職に就き、母は修道誓願を立て、妹イレーネは終生童貞を守った。さればその間に伍してダマソが父と同じく聖職者として世に立ちたいと志すに至ったのも、別に不思議ではなかったのである。かくて彼は355年教皇リベ...聖ダマソ1世教皇St.DamasusP.

  • シリア・アサド政権の崩壊

    アサド政権の崩壊は、シリアの為に幸いなことだと思います。私は最近はイスラエルに批判的な記事を載せることがありますが、だからと言って、イスラム教を支持するものでも、バース党を支持するものでもありません。特にシリアのそれとは別問題です。例えば、反米でも、北朝鮮は支持できないという人はそれなりに多いと思います。似たようなところが、シリアのアサド政権にはありました。アサド政権では、刑務所事情と恐怖政治がひどく、2016年頃から、その凄惨な記事を沢山、読んでいました。シリアの刑務所はこの世の地獄であり、ある者は、収監されるとペニスを縛られ、2リットルの水を飲まされて、性器が壊れ、性的不具になり、常に小便等を尻から漏らすオムツ生活になったとか・・・刑務所は収監者ですし詰めで、疥癬など、あらゆる皮膚病が蔓延し、壁まで死...シリア・アサド政権の崩壊

  • 全てにみことばがある 聖アタナシウス『受肉について』

    実に、あらゆるものが驚異的であり、人はどこに視線を向けても、みことばの神性を見、畏敬の念に打たれるのである。聖アタナシウス『受肉について』全てにみことばがある聖アタナシウス『受肉について』

  • 聖エウラリアおとめ殉教者 St. Eulalia V. M.

    聖エウラリアおとめ殉教者St.EulaliaV.M.記念日12月10日304年に殉教したエウラリアがスペインで最も有名な殉教者の一人になった理由は、いたいけな子供ながら、神に対する信仰を棄てるよりは死を選ぶ方が真のキリスト信者であることを知っていたからである。エウラリアはダシアヌスという裁判官に会って、彼が信者達に信仰を棄てるように脅かしたり、賄賂を取っていることを責めるつもりであった。彼女は12歳であったが、裁判官が何をしようと恐れなかった。死刑執行人たちが来て、金属のフックでエウラリアの若い体を引き裂き始めた。次ぎに、たいまつに火をつけて彼女を焼こうとしたが、髪の毛に火が移ったため、彼女は焼死せずに、煙にまかれて窒息死したのであった。聖エウラリアおとめ殉教者St.EulaliaV.M.

  • 聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者 St. Petrus Fourrier C.

    聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者St.PetrusFourrierC.記念日12月9日フランスの聖人の中、華々しい活動を以て特に聞こえているのはペトロ・フーリエである。彼は1565年、まだ独立国であったロレーヌ州に生まれた。父は商人であったが、彼がまだ幼い頃から宗教を好み、祈祷に耽るのを見て、ポンタ、ムッソンへ遊学させた所、ペトロの学業、並びに信心完徳に於ける進歩は著しいものがあった。彼は別して天主の聖母を尊敬し、その御加護によりさまざまの霊魂の危険を免れることが出来た。彼の先生方はいずれもイエズス会の司祭たちであった。それで彼も暫くは同会に入ろうと思っていたが、後アウグスチノ会の修士となる決心をした。時に彼は20歳であった。フーリエは翌年誓願を立て、その4年後の1589年めでたく司祭に叙階されたが、その初ミ...聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者St.PetrusFourrierC.

  • 無原罪の御宿りのおとめ聖マリア Festum Immaculatae Conceptionis B. Mariae V.

    無原罪の御宿りのおとめ聖マリアFestumImmaculataeConceptionisB.MariaeV.大祝日12月8日楽園にいた最初の人間は、成聖の聖寵に包まれていた。しかし遺憾なことには不従順から一つの罪を犯し、自分及びすべての子孫が蒙る筈の聖寵をことごとく失ってしまった。従ってそれからというもの生まれ落ちる子供の霊魂は皆、罪を犯す前のアダムやエヴァが持っていたような聖寵は具えていない。この聖寵の欠乏状態、これを称して原罪というのである。それで原罪はある人が犯した殺人もしくは盗みの罪というように、その人一人が罰せられてお仕舞いになる個人的罪ではなく、親から子、子から孫へと行く末長く受け伝えて行く悲しむべき病気のようなものである。それはあたかも遊蕩に身を持ち崩し、恐るべき病毒に感染した親が、それを子...無原罪の御宿りのおとめ聖マリアFestumImmaculataeConceptionisB.MariaeV.

  • 有機ELのディスプレイを購入!

    有機ELのパソコンモニターを購入しました。驚くほど綺麗ですね。Amazonのブラックフライデーセールで半値ほどで買いました。前のパソコンモニターは、中古で買ったHP製の液晶のものを6年も使っていました。今や、おそらく製造年から12年くらいは経っているのではないでしょうか。さすがに劣化もあり、画面を換える必要は感じていたのですが。有機ELの鮮やかさはスマートフォンで体感していたつもりですが、大画面にしてみると、また圧巻ですね。欠点もあり、寿命が短いことです。サムスンのGalaxyS10を5年ほど使いましたが、既に画面が相当に暗くなっています。2年ほど前に新機種を買っており、最近、メインで使うようになったのですが、比較しても一目瞭然です。極端に高いのに、寿命が液晶の半分なのは残念ではありますが、人によっては一...有機ELのディスプレイを購入!

  • 地獄の火は現世の苦しみのすべてに勝る 聖アウグスティヌス

    その火(地獄の火)は、人が現世で受けるどんな苦しみよりも致命的である。聖アウグスティヌス地獄の火は現世の苦しみのすべてに勝る聖アウグスティヌス

  • 聖アンブロジオ司教教会博士 St. Ambrosius E., D. E.

    聖アンブロジオ司教教会博士St.AmbrosiusE.,D.E.記念日12月7日聖会初代の偉大な教父達の中で、一際頭角を抜きん出ている聖アンブロジオは、340年ドイツのトリールに生まれた。父はその地の総督を務めていたが、まだ彼の少年時代にこの世を去ったので、母は三人の遺児を連れてローマに上り、細心の注意を以て彼等を教育した。中二人は男の子で長ずるや亡き父の如く官途に就いたが、アンブロジオは熱心なカトリック信者のプロブスという裁判所長の部下となった。かくて372年、32歳の時彼がリグリア及びエミリア両州の総督を任命されてその首都ミラノに赴くに当たり、上司にして且つ善き友であったプロブスに別れを告げた所、プロブスは「貴方はこれから法官よりも寧ろ司教のような心持ちで政治を執らねばならぬ」と教え諭したという。アン...聖アンブロジオ司教教会博士St.AmbrosiusE.,D.E.

  • 聖ニコラオ司教 St. Nicolaus E.

    聖ニコラオ司教St.NicolausE.記念日12月6日キリスト教国の子供達に最も人気の或る聖人といえば、誰しも気がつく通り聖ニコラオ司教であろう。世に言うサンタ・クロースのお爺さんが即ちそれで、日本やプロテスタントの国などではクリスマスに子供達へいろいろの贈り物を持って来てくれると言われているが、ドイツその他のカトリック国では、その祝日の12月6日に、親親戚などが聖ニコラオに扮して良い子には褒美を与え悪い子には訓戒を与える習慣がある。しかし実際は聖ニコラオはただ子供達の保護者であるばかりでなく、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保護の聖人として知られ。信仰を擁護した有名な司教である。この聖人は270年小アジアのパターレに或る富豪の子と生まれた。そして身分相応に学問はもちろんのこと宗教方面に於いても立...聖ニコラオ司教St.NicolausE.

  • 聖サバス大修道院長 St. Sabas

    聖サバス大修道院長St.Sabas記念日12月5日6世紀頃、多くの修道士は完全な隠遁生活をしていた。サバスは、エウティミオという有名な聖人がエリコとエルサレムの間の荒野の洞穴に住んでいることを聞いて、18歳の時彼の所へ行って、弟子達の仲間に入れてくれるように頼んだ。その時、エウティミオは、彼に向かって30歳になったら来るようにと言って、彼を聖テオクティストの修道院へ送った。そこで、サバスは修練を積み、30歳になった時、エウティミオに許されて、1週間のうちの5日間は洞穴に住み、週末には修道院へ帰ることになった。しかし、エウティミオは、サバスが祈りだけに耽ることを許さず、毎日、小枝でバスケットを10個作るように命じて、毎土曜日に50個のバスケットを修道院へ持ち帰らせた。エウティミオが亡くなった時、サバスは4年...聖サバス大修道院長St.Sabas

  • ダマスコの聖ヨハネ証聖者 St. Joannes Damascenus

    ダマスコの聖ヨハネ証聖者St.JoannesDamascenus記念日12月4日シリアの都市ダマスコは、先に大使徒聖パウロが主イエズスの御出現を蒙り、奇跡的に改心した所として有名であるが8世紀に至り又偉大なる教父の聖ヨハネが出て、更にその名を高らしめた。この聖人が如何に博学高徳で、一世に重きを成していたかは、歴史家達が彼を呼ぶに、ダマスコ市を巡り流れるクリソロアス(黄金の河)の名称を以てし、十分の尊敬を示している所からも察せられるのである。聖ヨハネは7世紀の末ダマスコ府の総督にして熱心な公教信者なる人の子と生まれた。彼とその弟との教育に当たったのは、かつてサラセン人等に捕虜として引かれ、後釈放されたコスマスというイタリア人の一修士であったが、二少年の無垢の心に一般の学問は勿論、神学の知識も深く深く刻みつけ...ダマスコの聖ヨハネ証聖者St.JoannesDamascenus

  • 聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者 St. Franciscus Xaverius C.

    聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者St.FranciscusXaveriusC.記念日12月3日東洋に福音を宣べ伝えた宣教師の中で誰が最も名高いかと言えば、それは聖フランシスコ・ザビエルであろう。彼は1506年4月7日スペインはナヴァラの貴族の子として生まれた。不幸間もなく戦乱その他の災禍が相次ぎ、家は次第に微祿するに至ったが、それでも両親は子供達の教育に意を注ぎ、殊にフランシスコはパリの大学におくって高等の学問を修めさせた。で、彼は貧しい生活の中にも将来の立身出世を夢みつつ孜々として勉学に専念していたのである。所がその頃やはり同じ大学にいたのがロヨラの聖イグナチオであった。彼はフランシスコやファーベルという学生などと同じ屋根の下に起居していたが、その時分から既に一修道会を起こす決心を有し、敬虔にして有為...聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者St.FranciscusXaveriusC.

  • 聖ヴィヴィアナおとめ殉教者 St. Bibiana V. M.

    聖ヴィヴィアナおとめ殉教者St.BibianaV.M.記念日12月2日聖女ヴィヴィアナはローマ名門の令嬢で、両親も共に高徳の人々であった。ユリアノ皇帝のキリスト教迫害が始まるや、高官の父はそれに反対した為皇帝の逆鱗に触れ、流罪に行われそのまま配所で不帰の客となり、母ダフローザもやがて捕らえられて自宅に監禁の憂き目を見、更に食物を与えられず、餓死は殆ど時日の問題であったが、始末を急ぐ役人に首を刎ねられて殉教の花と散った。そしてその財産は悉く皇帝に没収されたから、憐れや後に遺されたヴィヴィアナ及びその姉妹は、たちまち赤貧のどん底に叩き込まれたが、ユリアノはそれでもなお足れりとせず、彼等に棄教させようとあらん限りの迫害を加え、やはり之を捕縛して数日間食物を与えなかった。それから二人は法官の前に引き出されたが、不...聖ヴィヴィアナおとめ殉教者St.BibianaV.M.

  • 聖エリジオ司教 St. Eligius E.

    聖エリジオ司教St.EligiusE.記念日12月1日聖エリジオはフランス王朝に仕えた聖人が少なくない中でも、一際すぐれた人物である。彼は590年に生まれた。父母は共に信心深く、わが子を宗教の旨に従って教え育てたから、彼もすこぶる敬虔に生い立ち、幼少より既に祈祷を好む事が甚だしかった。しかしその最も優れた才能を示したのは美術の方面であったので、両親は彼に金銀細工を習わせたのに、彼はその技に大いに上達し、その道の大家となったが、それと共に彼は徳を磨く事にも心を傾け、一切の人に親切で、わけても貧者に慈悲深かった。そして熱心に聖書を研究し、その説明を聞くことを一方ならず好んだ。彼の芸術家としての名声が天下に轟き渡るや、フランス王国クロタールはその時まだ30歳の彼を宮中に招かれ、宝石貴金属を以て美麗な玉座を造るよ...聖エリジオ司教St.EligiusE.

  • 使徒聖アンドレア St. Andreas Ap.

    使徒聖アンドレアSt.AndreasAp.祝日11月30日洗者聖ヨハネが悔悛を説き勧める熱烈火の如き弁舌もさることながら、彼の峻厳極まる贖罪苦行の生活は、それにも増して世の人々を驚倒させずにはいなかった。アンドレアもその禁欲克己に感嘆のあまり、ゼベデオの子ヨハネ共々彼の許に弟子入りしたのであった。するとある日のことである。師のヨハネがそのあたりを通りかかった一人の神々しい方を指さしつつ彼等を顧みて「見よ天主の子羊を!世の罪を除き給う御者を!」と言った。それはナザレトのイエズスであった。洗者ヨハネは世人のある者に約束された救世主と思われていたが、かようにしてイエズスこそその方である事を弟子達に教えたのである。翌日アンドレアとゼベデオの子ヨハネは、また通りすがりのイエズスをお見かけした。師から彼に対する注意を...使徒聖アンドレアSt.AndreasAp.

  • トゥールーズの聖セルニン司教殉教者

    トゥールーズの聖セルニン司教殉教者記念日11月29日セルニンはローマで生まれ、245年頃教皇ファビアノによりスペインのパンプローナに福音宣教に派遣されたが、彼はそこからさらに、フランスのアルスに行って、トロフィモ司教の下で宣教した。その後彼はトゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人をキリスト信者にした。しかしトゥールーズの異教の神殿の祭司たちは彼に反感を持つようになった。セルニンは異教の神々に対する侮りを示すために神殿の片側に自分の家を作り、他の側に小さな教会を建てた。これによって祭司たちの主な収入の源であった神託を告げることを完全に沈黙させてしまったと言われた。祭司たちは神々を怒らせたと思われるセルニンを神殿に引きずり込んで、生け贄にしようとしていた雄牛に彼の足を縛り付けて、神殿の外に出し、丘...トゥールーズの聖セルニン司教殉教者

  • 聖カタリナ・ラブレ修道女 St. Catherine Laboure

    聖カタリナ・ラブレ修道女St.CatherineLaboure記念日11月28日不思議のメダイの聖母がお現れになったカタリナ・ラブレはフランスのブルゴンヌの小村で1806年に生まれた。9歳の時母に死に別れてから、もっぱら家事に専念したが、1830年7月18日愛徳姉妹会に入ってパリの修道院に送られた。ある晩カタリナに聖母マリアが現れて、パリの大司教が残酷に殺されるであろうと彼女に告げられた。(この事件は実際1871年に起こった)。その後カタリナが見たまぼろしの一つは、聖母が地球の上に立ち、その手から光がさして地球を祝福される姿であった。その御姿のまわりには「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え」と記してあった。次ぎにその絵の裏が現れた。そこには十字架を上につけたMの字があり、...聖カタリナ・ラブレ修道女St.CatherineLaboure

  • Amazonでブラックフライデーセール

    Amazonでブラックフライデーのセールをしています。今日から明日までは前夜祭、29日からは本格的なセールが始まります。Amazon随一の大型セールです。昨今のインフレ、円安、世界中の不安定な情勢を考えると、必要なものは今のうちに買っておいたほうがいいでしょう。来年、同じような機会が巡ってくるかはわかりません。今後数年、自分や家族に何が必要かを慎重に考え、要りそうなものはこの機会に買うようにしましょう。Amazonブラックフライデー2024 さぁ、ビッグセールで最高のご褒美を11月29日(金)0:00から12月6日(金)23:59まで、今年がんばったあなたへ、ブラックフライデー、今年最後のお得をAmazonビッグセールでAmazonでブラックフライデーセール

  • 救われる人は少ないのか 聖書

    ある人が「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねたので、イエズスは人々に答えられた、「狭い門から入るよう努力せよ。私は言う。入ろうと努めても入れない人が多い。ルカによる福音書13章23-24節救われる人は少ないのか聖書

  • 聖フランシスコ・アントニオ・ファザニ司祭

    聖フランシスコ・アントニオ・ファザニ司祭記念日11月27日1681年南部イタリアのルーチェラ市の貧しい家族に生まれたこの聖人は、若いときにコンベンツァル・フランシスコ会に入会し、そのすぐれた生活のために「よみがえった聖フランシスコ」と呼ばれるようになった。1705年司祭に叙階され、当分の間神学院で教えて、そののち、特に庶民の司牧にあたり、貧しい人、苦しむ人に対して、つきることのない愛を示した。クリスマスに際して、プレゼントを集め、貧しい人に与えるよい習慣を始めたのは、この聖人である。無原罪のおんやどりの聖母に対する信心を人々に教え、今でもルチェラ市に歌われる美しい讃美歌を作曲した。よく説教していた彼のねらいは、一般の庶民にもわかりやすく話し、神とそのおきてに対する愛を人の心に教えこむことにあった。1742...聖フランシスコ・アントニオ・ファザニ司祭

  • ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者 St. Leonardus a Portu Mauritio C.

    ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者St.LeonardusaPortuMauritioC.記念日11月26日ポルト・マウリシオはイタリアのジェノヴァ地方の海に臨んだ一小都市に過ぎないが、大聖レオナルドを出したことによってその名を全世界に知られている。この聖人は1676年同市に産声を挙げた。両親は共に善良な人々であったが、わけても船長の父親は信心深く、その界隈の模範人物と仰がれていた。レオナルドも祈祷や善徳を愛する心を、この父から受け伝えた。一二、三歳になると彼はローマに遊学したが、師友は彼を目にするに第二のアロイジオを以てしたという。彼はその頃から既に、余暇を利して大人子供の誰彼に教会に参詣して天主の御言葉を聴聞するよう奨めなどしたのである。彼はそれから医学研究の目的で大学へ入った。けれども間もな...ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者St.LeonardusaPortuMauritioC.

  • 浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

    十一月一日(二)諸聖人の祝日(1)-聖会は毎日毎日聖人などを尊敬していながら、特に諸聖人の祝日なるものを定めたのは何のためでしょうか、それは総ての聖人を一つに集めてこれを尊敬するためであると共に、また我々の聖人などに対する尊敬が常に不足勝であるから、それを補わせるためでもあります。しかれば皆さん、今日は特に熱心をあらはして、この祝日を守り、一年中、聖人などに対して礼を欠き、十分の尊敬を尽さなかったところを償うように心掛けようではありませんか。しかし聖会の志はただこればかりに止りません。その重なる目的は聖人などの楽しんでいられるその大いなる天国の福楽を我々の目の前にくりひろげて、我々の眠りを醒まし、自分も是非あの天国に辿り着かねばならぬという心を起さしめるにあるのであります。で今日は天国の福楽について篤と考...浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

  • 沈黙の価値 聖イザーク・ジョーグ

    心の中で、世界が死に至るまで沈黙を愛そう。そして、この思いの中で、心の中で神に近づこう。そうすれば、この世の快楽は、私たちにとって軽蔑の対象となるだろう。聖イザーク・ジョーグ沈黙の価値聖イザーク・ジョーグ

  • アレクサンドリアの聖カタリナおとめ殉教者 St. Catharina de Alexandria V. M.

    アレクサンドリアの聖カタリナおとめ殉教者St.CatharinadeAlexandriaV.M.記念日11月25日シナイ山は天主がモーセに現れ十戒を授け給うた場所として知られているが、8世紀に至りそこに至りそこに或る聖女の墓が発見されるに及んで更に有名となった。その聖女とは誰であろう、本日記念されるアレクサンドリアのカタリナに外ならない。彼女の一生を語るに当たり、遺憾に堪えぬのは、歴史的記録の憑るべきものが堪えてない事である。しかし6世紀の始めシナイ山の麓にユスチアノ皇帝が建立した聖カタリナ修道院の童貞達は、聖女に就いて数々の麗しい話を伝えている。それに由ればカタリナはエジプトの都会アレクサンドリアの裕福なローマ人の娘と生まれ、立派な教育を受け、さまざまの哲学をも修めたが、ある時母と共に一人の隠修士からカ...アレクサンドリアの聖カタリナおとめ殉教者St.CatharinadeAlexandriaV.M.

  • 聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同志殉教者

    聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同志殉教者記念日11月24日ベトナムにおけるキリスト教の迫害は、17世紀初めから19世紀末にかけて行われた。1988年に列聖された117人の殉教者の一人であるアンデレ・ジュン・ラクは、1823年に司祭に叙階され、国内各地で牧者として働いたが、1839年に斬首刑に処せられて殉教した。117人には、8人の司教、50人の司祭、59人の信徒が含まれている。聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同志殉教者

  • 聖クレメンス1世教皇殉教者 St. Clemens Papa M.

    聖クレメンス1世教皇殉教者St.ClemensPapaM.記念日11月23日聖主イエズス・キリストは御昇天前聖ペトロを聖会の長と定め給うた時「誠にまことに汝に告ぐ、汝若かりし時自ら帯して好む所を歩み居たりしが、老いたらん後は手を伸べん。しかして他の者汝に帯して、その好まざる所に導かん」と仰せられた。これは読者も知る如く、ペトロの殉教を預言されたのであるが、果たして彼は後年ローマに於いてその恵みを蒙った。そればかりでなく、彼の後継者なる代々の教皇も始めの30人ほどは、やはり聖教の為わが生命を献げたのであった。その中殊に名高い人は、4代目の教皇聖クレメンス1世であろう。彼は聖ペトロから直接司教に叙階されたというが、それは兎に角、ペトロ、パウロ両大使徒と時代を同じうして生まれた彼が、彼等から聖教を伝えられると共...聖クレメンス1世教皇殉教者St.ClemensPapaM.

  • 聖セシリアおとめ殉教者 St. Caecilia V. M.

    聖セシリアおとめ殉教者St.CaeciliaV.M.記念日11月22日一人の美しい聖女が天上の歓喜に面を輝かせつつ恍惚とオルガンを奏している周囲に、天使が立ってその楽の音に合わせながら主の讃美歌を歌っている。読者はかつてそういう聖絵を御覧になった事はないであろうか。もしありとすればそれこそは本日の女主人公聖セシリアを描いたものに他ならない。彼女は世に「音楽の保護者」と仰がれているが、右の聖絵をものにした画家はそれだけを現そうとしたのではあるまい。寧ろ彼女のすぐれた超自然的愛を称える事を主眼としたのであろうと思われる。それはさておき聖セシリアは、古い伝説によればローマの由緒ある名門貴族の令嬢と生まれ、幸福な家庭生活を捨て人情の絆を断ち切って天主に身を献げ、信仰と童貞とを守り通す為に一命を抛った人である。彼女...聖セシリアおとめ殉教者St.CaeciliaV.M.

  • 与えることを教え、その代価は計算してはいけません 聖イグナチオ・ロヨラ

    与えることを教え、その代価は計算してはいけません。聖イグナチオ・ロヨラ与えることを教え、その代価は計算してはいけません聖イグナチオ・ロヨラ

  • トランプの当選後、ビットコイン価格が急騰(CNN 他)

    トランプの当選を受けて、ビットコイン価格は1500万円を超えてしまいました。トランプがビットコインに肯定的で、外貨準備としてアメリカ政府として所持するとまで声明しているためです。ビットコイン、初の8万ドル超え暗号資産推進派のトランプ氏再選受け仮想通貨(暗号資産)のビットコインは10日、初めて8万ドル(約1220万円)を上回った。時価総額が世界最大の暗号資産であるビットコインは、5日の米大統領投開票日...CNN.co.jpカトリックにおいても、インフレや経済の混乱に備えて早くから資産防衛を始めていた層と、無対策であった層との間で、QOLその他に差が出始めているように感じます。ただ漫然と預金をしていた層から、資産運用をしている層に、資産の移動が起きているという評価もあります。1000万円あっても、今は数年前...トランプの当選後、ビットコイン価格が急騰(CNN他)

  • 聖母マリアの奉献 Praesentatio B. Mariae Virg.

    聖母マリアの奉献PraesentatioB.MariaeVirg.記念日11月21日天主がモーセをして定めしめ給うた律法によれば、イスラエルの両親は子供が生まれると、男児なら40日、女児なら80日目に聖殿へ連れ行き之を主に献げねばならなかった。この行事を子供の側からは奉献と呼び、母の側からは潔めと言ったものである。聖マリアもユダヤ人である以上この例に漏れず、御父ヨアキム、御母アンナにより奉献の式を受け給うた。しかし本日記念する彼女の奉献は、それを指すのではない。というのは、奉献にもう一つ別種の意味があるからである。それはユダヤ教徒間に行われた習慣で、男子でも女子でも、或いは全生涯に亘り、、或いは暫くの間、聖殿内に起居し、各自の能力に応じて種々の務めを為し、天主に奉仕する事で、勿論男女は全く同居同席を許され...聖母マリアの奉献PraesentatioB.MariaeVirg.

  • ヴァロアの聖フェリクス証聖者 St. Felix de Valois

    ヴァロアの聖フェリクス証聖者St.FelixdeValois記念日11月20日教会のすすめる肉身上慈善事業の7つある中に、捕虜囚人を救い助ける事が数えられているが、これは罪なくして捕らわれの身となっている人を救うは勿論、罪を犯した罰としてその不自由を忍んでいる者を慰める事も及ぶ限りするがよいというのである。その意を体し中世紀に、罪なき身を哀れ回教徒の海賊に拉致され、アフリカへ奴隷に売り飛ばされたキリスト教徒を救い出す修道会が設けられた。この会は賠償金を集めそれにより贖うか、或いは会員自ら身代わりとなるかして奴隷達を自由の身とする事を目的とし、聖ヨハネ・デ・マタ、並びに本日記念される聖フェリクスの協力創立にかかり、「三位一体会」と称するものである。右のフェリクスが何故ヴァロアの聖者と呼ばれるかは明らかでない...ヴァロアの聖フェリクス証聖者St.FelixdeValois

  • アンチオキアの聖バルラーム殉教者

    アンチオキアの聖バルラーム殉教者記念日11月19日バルラームは4世紀にアンチオキアで働いていた無学の労働者であった。当時はまだキリスト信者が迫害されていた時代で、バルラームも裁判官の前に引き出されて、教えを棄てるように責められた。初めに残酷にむち打たれたので、骨が外れてしまった。しかし、彼はなお信仰をかたく守ったので、裁判官は他の方法を考えた。役人に命じて異教の神々のための祭壇を作らせ、その上に火をともらせた。そしてバルラームを連れてきて、手に香の粉を持たせて、祭壇の上の火の中に入れさせようとした。裁判官の考えでは、バルラームが苦しみに耐えかねて手を引っ込めて香を祭壇の上に落とせば、彼は異教の神々に供え物をしたことになるということだった。バルラームは、すべてを察して、自分の手がすっかり焼けてしまうまで忍耐...アンチオキアの聖バルラーム殉教者

  • パソコンを購入

    やっとパソコンを購入し、今日届きました。大変に重く、一人では運びきれない重さです。性能は、以下の通りです。CPU:XeonE5V428コア56スレッド(corei910000代を遥かにしのぎます)GPUGTX108040GB?メモリ64(DDR)+256(OPTANE)+64(NVMeCashe)=384GB詳細:(1)64GB→DDRメモリ量(システム→詳細覧にて表示されるもの)(2)256GB→OPTANEメモリ量(ディスクの管理→にて表示されるもの)(3)64GB→Casheメモリ量(タスクマネージャーにて確認できるもの)SSD2TBHDD2TBこれだけ性能があれば、あと10年くらいは使えるんじゃないでしょうか。壊れさえしなければ、ですが。以前のメインPCのあった位置、リビングの真ん中に据えました。...パソコンを購入

  • 聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂

    聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂記念日11月18日使徒聖ペトロと聖パウロに対する尊敬から、たえずその墓も信者の尊崇を集めてきた。このそれぞれの墓の上に立つ大聖堂は、特に信仰の聖地ともいうべき所である。この両大聖堂は、ふたりの使徒が使徒達のなかに占めていた度に比例しているのである。ヴァティカンの丘の聖ペトロ大聖堂と、門外の聖パウロ大聖堂とは、ともに4世紀に建てられた。献堂式の日は異なっているが、教皇ピオ9世の規定によって、本日いっしょにする。聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂

  • ハンガリーの聖エリザベト王妃

    ハンガリーの聖エリザベト王妃記念日11月17日エリザベトは1207年にハンガリーの王女として生まれ、4歳の時、ドイツのチューリンゲンの領主ヘルマンの子息で当時11歳のルードヴィッヒと婚約させられた。そして領主の希望により、将来領主の后として必要な教養を与えるためにチューリンゲンのワルトブルク城に迎えられた。エリザベトを愛していたルードヴィッヒと結婚したのは1221年で、1男3女の母となった。彼女は家庭においては常に良い妻であり、賢明な母であったが、城外に住む多くの貧しい人々と病人、特に癩病者を場内に連れて来て、自ら洗い清め、自分のベットに寝かせたと伝えられている。エリザベトの幸福な結婚生活は6年しか続かなかった。1227年彼女の夫はフリードリッヒ2世に従って第5十字軍に参加する決心をして、聖地に向かったが...ハンガリーの聖エリザベト王妃

  • スコットランドの聖マルガリタ皇后

    スコットランドの聖マルガリタ皇后記念日11月16日1057年プリンス・エドワード(イギリスのエドモンド王の島流しになった王子)の娘マルガリタは12歳の時、イギリス王エドワード王の宮廷に連れて来られた。しかし10年後、フランスのノルマンディー公ウイリアムが大軍を率いてイギリスへのへースティングに上陸して、アングロサクソン王国を打倒して自ら王位についた時、母と共にスコットランドへ逃げた。そして1070年、彼女は母の望みに従って国王マルコム3世と結婚して王子6人、王女2人の母となった。彼女の影響で国王は信心深いキリスト信者となり、慈善事業や病院の設立などに多大の援助を与えた。マルガリタは英国人の修道士をスコットランドへ連れて来てベネディクト会修道院を創立させ、1072年、美しい教会が建てられた。慈悲深い「国の母...スコットランドの聖マルガリタ皇后

  • 浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

    (7)-終まで続いて望まねばならぬー二三日の間、三四年の間、善を行っても、天国には昇れない、死ぬまでも続いて行わなければならぬ。「終りまで堪え忍ぶ人は救われるべし」(マティオ十ノ二二)と御主はいいました。ユダの如きも、始は善良な弟子でした、しかし終りまで続かなかったから滅んだのであります。「手を犂に着けて尚、後ろを顧みる人は神の国に適せざる者なり」(ルカ九ノ六二)とありましょう。実に今日は立派な決心をして天主に堅く堅く約束しているが、明日はもう何もかも忘れたかの如く、元の罪に逆戻りをするようでは到底天国に入るに適しないものであります。聖人などは皆終まで続いて行った方々である。今日は熱心にミサを拝聴する、明日はすっかり止めてしまう。今日は告白もし、聖体も拝領すべしと決心しているが、明日になると、その心は更に...浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

  • 救われた人とそうでない人 聖アウグスティヌス

    二人の罪人がキリストと一緒に十字架にかけられた。一人は救われた。絶望してはいけない。一人は救われなかった。邪推してはいけない。聖アウグスティヌス救われた人とそうでない人聖アウグスティヌス

  • 聖大アルベルト司教教会博士 St. Albertus Magnus Ep. D. E.

    聖大アルベルト司教教会博士St.AlbertusMagnusEp.D.E.記念日11月15日聖トマス・アクイナスや聖ボナヴェントゥーラと共に中世紀神学界一方の権威であり、スコラ哲学の先駆者であった聖大アルベルトは1193年南ドイツ、ラウィンゲンのボルスタット家に呱々の声を挙げた。幼い時から敬虔に生い立ち、青年時代にはイタリアに留学してパドヴァの大学で文学や自然科学を修めた。彼は学業の成績があまり思わしい方ではなかったから、かねがね自分が深く信心していた聖母マリアに祈願をこめた所、聖母がお現れになって「いかにもそなたの望み通り、天主から優れた智慧を求めてつかわそう。しかし死ぬ前には再びそれが取り上げられて、元と同様になることを承知するがよい。」と仰せられたと伝えられている。1216年、アルベルトがパドヴァに...聖大アルベルト司教教会博士St.AlbertusMagnusEp.D.E.

  • 聖ヨゼフ・ピニャテリ

    聖ヨゼフ・ピニャテリ記念日11月14日1737年スペインのサラゴサ市に貴族の親から生まれたヨゼフは、1753年イエズス会に入会し、1762年司祭に叙階された。学校で教えるかたわら、貧しい人に喜んで教理を教え、病人を見舞い投獄された人々を訪れて慰めたりした。健康がすぐれていないのに、いつも神に信頼し、愛徳に満ちて非常に謙遜で、皆の模範となっていた。間もなくイエズス会に対する迫害の嵐が吹き始め、次第に激しさを増した。ついにイエズス会は、ポルトガル、フランス、そしてスペインから追放された。教皇でさえブルボン王朝の圧迫に負けて離教を命じる小勅書を発布したが、プロシアとロシアでは公布されなかったので、そこでイエズス会は存続した。教皇ピオ11世は、1933年の列福式のときに語った、「ヨゼフ・ピニャテリはいかなる反対や...聖ヨゼフ・ピニャテリ

  • 聖スタニスラオ・コストカ

    聖スタニスラオ・コストカ記念日11月13日1550年、ポーランドの上流階級の家に生まれたスタニスラオは14歳の時兄と一緒にオーストリアのウイーンに留学するようになった。そこで彼は反対したが兄はプロテスタントの家に下宿するようになった。15歳のとき重病にかかり、悪魔は猛犬の姿で攻めてきた。彼は御聖体拝領をしようと望んでいたが、兄も下宿の主人もこの家に御聖体の運ばれることを拒否した。聖バルナバに祈ると、御聖体を持ったふたりの天使を伴った聖人が現れ、さらにその翌日、み腕に微笑む幼いイエズスを抱いた聖母マリアが出現し、イエズス会に入会するように言われた。入会許可が親から得られないので、1567年8月10日ひそかに逃げた。一ヶ月くらいドイツに残ってからローマへと旅立ち、ずっと徒歩でアルプス山脈を越えて、10月25日...聖スタニスラオ・コストカ

  • 聖ヨサファト司教殉教者 St. Josaphat E. M.

    聖ヨサファト司教殉教者St.JosaphatE.M.記念日11月12日コンスタンチノープル総主教区に属するキリスト教会は不幸にも10世紀の頃ローマ教会を離れたので、爾来教皇庁は常にその帰正に努めてきたが、、その運動は16世紀南東ロシアやポーランドに於いて盛んであって、1594年離教側のキエフ大司教を始め7司教がブシエシチに会議を開き、その司教区に於ける公教会との一致を宣言した。それで多くのカトリック司祭、わけてもバジリオ修道会の司祭たちはその帰正運動に携わったが、聖ヨサファトはその先駆者というべき人である。ヨサファトは1580年ヴォチミエシュ市でルテノの貴族ロザ家に生まれ、カトリックの教育を受けた。まだ幼い時信心深い母から主キリストの御受難の話を聞き、涙を流して感動し、早くも主を熱愛する心を起こしたという...聖ヨサファト司教殉教者St.JosaphatE.M.

  • ツールの聖マルチノ司教 St. Martinus de Tours E.

    ツールの聖マルチノ司教St.MartinusdeToursE.記念日11月11日ハンガリーの首都ブダペストの付近聖マルチノ山に立つ修道院は、同国カトリック教の中心ともいうべく、既に創立以来千年の歳月を閲した由緒ある名刹であるが、同国の名は317年その麓なるサバリア市に生まれた聖人にちなんだものに外ならない。聖マルチノの父はローマ軍隊の大佐で、北イタリアのパヴィアからハンガリーに転任して、サバリアに勤務する事となったから、息子をローマに出して勉強させた。マルチノはその時始めて教会を訪れ、聖教を知り、大いに感心して早速受洗志願者となったのみならず、エジプトの隠遁者達に憧れて修道生活を望む念が甚だ強かった。しかしまだ洗礼を受けぬ中に父の意志により僅か15歳で軍隊に入り今のフランス地方に駐屯せねばならなくなったの...ツールの聖マルチノ司教St.MartinusdeToursE.

  • 聖レオ1世教皇教会博士

    聖レオ1世教皇教会博士記念日11月10日レオ教皇はシクスト3世教皇のあとを継いで、440年教皇位についた。その在位中に教会の内外に種々の災難が起きたが、その1つはエウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウスの邪説を熱心に排斥するあまり、キリストの「単性論」という正反対の極端の説をとなえ始めたことであった。すなわちキリストの人間性も神性の中に溶け込んでしまったという説である。レオ1世はコンスタンチノープルの司教フラヴィアノあての教書で、キリストの性格の中に人性と神性とが結合していることを主張した。451年、カルケドンに公会議が開かれると、レオ教皇は使節を送って司会させた。議場で教皇の信仰宣言書が読まれた時、司教達は感動して「これこそ教父達の信仰、これこそ使徒達の信仰である。ペトロがレオ教...聖レオ1世教皇教会博士

  • ラテラン教会の献堂記念日

    ラテラン教会の献堂記念日祝日11月9日本日は、ローマのラテラン大聖堂(バジリカ)の献堂記念日である。全世界にこの記念日を祝うのは、ローマ司教であり、全世界の司教である教皇座大聖堂だからである。もとローマ皇室の宮殿だったが、コンスタンチノ皇帝のキリスト教回心の後、帝はこれを教皇の私邸として寄進し、ラテラン大聖堂を建てた。324年、教皇シルベストロ1世が献堂式、即ち聖別式を行った。この大聖堂と隣接の宮殿で宗教会議の開かれること25回以上、そのうち5回は公会議であった。本日の祝日は、主の祝日とみなされる、したがって主日に当たるときも、この祝日の御ミサを献げ、福音前の朗読は2つにするが、主日に当たらないときは、福音前の朗読は1つだけを選び、栄光の賛歌をとなえるが、信仰宣言はとなえない。ラテラン教会の献堂記念日

  • キリストの体 聖ヨハネ・クルゾストモ

    キリストが「これは私の体である」と言われたのだから、誰がそれを疑うことができようか。聖ヨハネ・クルゾストモキリストの体聖ヨハネ・クルゾストモ

  • 聖ゴデフリド司教 St. Godefridus E.

    聖ゴデフリド司教St.GodefridusE.記念日11月8日洗礼者聖ヨハネ誕生の次第はルカ聖福音書に詳かであるから、ここに贅するまでもないが、、聖ゴデフリドも同様に、長い間子なきを憂えた両親が、涙の中に熱烈な願掛けをしてようように恵まれた天主の申し子であった。その上聖寵に充ち満ちた点でも頗る洗者聖ヨハネに似通い、天主が特別に彼を寵愛加護し給う徴は既に幼少の頃から認められたという。それはさておき彼は1070年フランスのソアソンに生まれ、学齢に達するやベネディクト会の有名なサン・カンタン修道院に預けられて教育を受ける事となったが、一度主と共に在る平安と幸福とを味わったゴデフリドは、いつまでも之を失いたくないものと思い、父母の同意を得て修道者となり、全く我が身を天主に献げた。25歳を迎えるや、学徳共に秀でた彼...聖ゴデフリド司教St.GodefridusE.

  • 聖エンゲルベルト司教

    聖エンゲルベルト司教記念日11月7日エンゲルベルトは1187年ドイツのベルグの貴族の家に生まれ、若い時、オットー4世皇帝に武器をもって反抗したという理由で破門されたが、その後アルビ派の異端に反対する運動に参加して、その罪を赦された。30歳の時ケルンの大司教に任命されて、司祭と修道者達に厳しい生活をさせたが、彼らは常に大司教の保護に信頼を置いていた。ところが彼の従弟のイセンベルグのフレデリク侯爵がエッセン市の女子修道院の土地と財産を奪ったので、エンゲルベルト大司教は強硬に彼を責めた。そのためフレデリクは、50人の従者を引き連れて大司教を待ち伏せ、彼を殺害した。その死体には47の傷があったと言われている。聖エンゲルベルト司教

  • トランプ大統領の勝利、おめでとうございます!

    徹夜でずっと見ていました。あるSNSで米大統領選挙のコミュニティに入って、みんなで話しながら、情報を交換しながら、開票結果をずっと見ていました。もちろん、他の仕事をしながらですが。CNNのライブ報道をつけっぱなしにしながらです。道徳的には善い結果だと思います。トランプは中絶の解禁に反対していますし、カマラ・ハリスが公約した中絶の自由化は挫折しましたし、その他、LGBT問題など現代の道徳上の多くの問題に対して保守的です。カトリックの教えでは、信者は善い候補を望み、投票しなければいけません。もし善い候補がいない場合には、よりマシな候補に投票しなければいけません。少なくとも、カマラ・ハリスと比べて道徳面でトランプがましな思想を持っていたことは、言うまでもありません。その意味で好感を持てますし、祝いたいと思います...トランプ大統領の勝利、おめでとうございます!

  • イエズス様が人に生まれた理由 聖アタナシウス

    彼(イエズス様)は、私たちを彼のような存在にするために、私たちのような存在になったのです。聖アタナシウスイエズス様が人に生まれた理由聖アタナシウス

  • 聖レオナルド司祭 St. Leonardus Erem.

    聖レオナルド司祭St.LeonardusErem.記念日11月6日フランク国王クロヴィスが天主の御助けにより、見事アレマン民族を撃破して大勝利を得、カトリックに改宗された時、共に信仰に入った将軍の中に、名をレオナルドと呼ぶ人がいた。この人は名門の生まれで、その武勇勝れ、しかも気品高い人柄は宮廷に於いても人々の尊敬の的であった。彼は王を始め他の貴族たちと同時に洗礼を受けたのであるが、真にキリストを理解し体得している点では、その仲間の何人も彼に及ばなかったのである。今まで国王の武将として忠義を尽くして来たレオナルドは、やがて心機一転全く天主の兵士となり、唯主にのみ仕えようとの決心を抱くに至り、世間を捨てて聖司教レミジオの許を訪ね、その指導を受けて一心に学を修め徳を積んだ。それでレミジオも殊の外喜び、彼を司祭に...聖レオナルド司祭St.LeonardusErem.

  • 聖ザカリアと聖エリザベト

    聖ザカリアと聖エリザベト記念日11月5日ルカ福音書は、エリザベトとザカリアは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守った」と書いている。彼らの一つの悲しみはエリザベトが不妊の女で子供が無く、二人ともすでに年をとっていたことであった。ザカリアが祭司の務めをしていたとき、大天使ガブリエルが現れて、エリザベトが子供を産むことと、その子をヨハネと名付けるべきことを告げた。ザカリアは大天使の言葉を容易に信じられなかったので、預言が成就されるまで口が利けなくなった。ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が誕生してから8日目に、近所の人々や親類は幼子に割礼を施しに来て、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。しかし、エリザベトが反対し、ザカリアも板の上に「ヨハネ」と書いて皆に見せた。すると、ザカリアの口が開け、ものが言え...聖ザカリアと聖エリザベト

  • 聖カロロ・ボロメオ司教 St. Carolus Borromaeus E.

    聖カロロ・ボロメオ司教St.CarolusBorromaeusE.記念日11月4日聖会に内憂(異端の跳梁の如き)もしくは外患(迫害の如き)ある場合には、天主の思し召しにより必ず誰か偉大な人物が現れて、再び聖会を隆盛に導くのが従来の例であるが、ミラノの大司教、枢機卿聖カロロ・ボロメオもかかる選ばれた者の一人であった。彼は1538年、イタリアのミラノ市に生まれた。両親は共に名門の貴族であった。カロロは幼少の頃から祈祷を好み殊に聖会の典礼に異常な興味を感じていた。それで神学研究を思い立ち、始めはミラノ、後にはパヴィアで勉強した。彼は頭のよい方ではあったが、決して抜群とまでは行かなかった。しかし極めて真面目な勤勉かで、又すぐれた決断力を有していた。彼はその頃芸術や運動に熱中し、自分でもヴァイオリンを弾いたり、鞠遊...聖カロロ・ボロメオ司教St.CarolusBorromaeusE.

  • 天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う

    (5)-心から望まなければならぬー「人の世にあるは戦いに在るが如し」(ヨブ七ノ一)とヨブはいい、御主も「我地に平和を持ち来たれりと思うこと勿れ、我が持ち来たれるは平和に非ずして刃なり」(マテオ十ノ三十四)だの、「天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う」(マテオ十一ノ十二)だの、「人もし我後につきて来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従うべし」(マテオ十六ノ二十四)だのと教え給うた。して聖人などは皆その教に従い、絶えず悪戦苦闘を続けて、天国に昇られたのであります。しかるにこれを見ると、天国の福楽をかち得るためには、随分と辛い目を見、苦しい戦いを経なければならぬ。やれ朝夕の祈りだ、やれ日曜日のミサだ、やれ公教要理だ、説教だ・・・祝日が来た、告白をして下さい、聖体を拝領しなさい、伝道に手伝って下さい...天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う

  • 蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者 聖書

    蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者は欠乏にあえぐことになる。箴言22章16節蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者聖書

  • 聖フーベルト司教 St. Hubertus E.

    聖フーベルト司教St.HubertusE.記念日11月3日中世紀の多数の聖人たちは狩猟を楽しんだが、聖フーベルトもその一人であった。ある日、彼がアルデンヌの森の中を歩いていた時、一頭の鹿が目の前に現れたので、すぐに殺そうとした瞬間、鹿の角の間に十字架が見えてきた。その日は聖金曜日であった。フーベルトがその場で跪くと「もし、キリストに信頼して生活しなければ、地獄に落ちるであろう」という声が聞こえた。この瞬間に彼にとって新しい生活、より偉大な価値ある人生のスタートになった。これはアルデンヌの森での出来事であった。フーベルトはペピン公爵に仕えていたが、彼の妻は685年に息子を生んでまもなく死去した。その時から彼は今までの職務から退いて、メストリヒトのランベルト司教の許に行って指導を受け、森林の中で隠修士として数...聖フーベルト司教St.HubertusE.

  • 聖人はどのようにして天国に昇られたか

    十一月二日(4)-聖人などはどのようにして天国に昇られたかー一口に聖人と申しましても、天主から特別の聖寵をかたじけなうし、人目を驚かすようなことをして、高い高い徳域に進まれた御方もあれば、普通の途を踏み、普通の徳をただ普通ならぬ心掛けで以って実行し、それによって聖人となり、天国へ昇られた御方もございます。人目を驚かすような徳を行って聖人となることは、誰にでもできる話ではありませんが、しかし普通の徳を普通ならぬ心掛けで以って実行し、天に昇ることならば、できない人はないはずである。すなわちこの祝日のついでに、誰しも、どうしたら天国に昇れるかということを篤く考えて見る必要があろうかと存じます。聖トマス博士の妹が、ある日兄博士に向かい「聖人となるにはどうしたらよいのですか」と問いました。すると聖人はたった一口、「...聖人はどのようにして天国に昇られたか

  • 聖書を知らないことは、キリストを知らないこと 聖ヒエロニムス

    聖書を知らないことは、キリストを知らないことです。聖ヒエロニムス聖書を知らないことは、キリストを知らないこと聖ヒエロニムス

  • 死者の日 Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum

    死者の日CommemoratioOmniumFideliumDefunctorum記念日11月2日煉獄の霊魂の記念が11月2日に行われるのは、それが前日の諸聖人の祝日の補足ともいうべきものであるからである。この両日には「我は諸聖人の通功を信ず」という使徒信経の言葉を思い出さずにはいられない。広い意味で聖人と言えば、天国の霊魂は勿論のこと、煉獄の霊魂も、又成聖の聖寵を有するすべての人々をも含む。これらは皆天主の愛子であって、従ってまた相互に兄弟姉妹である。ただその異なる所は名々の状態で、天国に在る者は永福を楽しみ、この世に在る者は誘惑と闘い、主の聖寵を保ち、功徳を積もうと努め、煉獄に在る者は、やがて天国に入れられる日を待ち侘びつつ。己を清める為暫く精錬の苦痛を嘗めているのである。煉獄の霊魂達も成聖の聖寵を有...死者の日CommemoratioOmniumFideliumDefunctorum

  • 諸聖人の大祝日 Festum Omnium Sanctorum

    諸聖人の大祝日FestumOmniumSanctorum大祝日11月1日聖会は一年を通じて毎日ずれかの聖人を記念する。しかし本日は一切の聖人を総括して記念し祝賀するのである。今この祝日の起源を尋ねれば、キリスト御誕生前から既に、ローマにはあらゆる神々に献げられた壮麗な神殿があった。古代のローマ人達は多種多様の神々を崇め、自分達の征服した諸民族の神々までも尊敬するにやぶさかでなかった。但しその夥しい神々を一々祀るのは大変なので、彼等は一つの円形神殿を建ててこれに一切諸神を合祀したのである。ローマ人のいわゆるパンテオンとは即ちこの神殿で、今なお存し、ローマ市に遊ぶ者の目を楽しませている。ローマがキリストの恵みに浴するようになると、その神殿は聖堂に改められ、嘗て神々の像のあった所に諸聖人の聖像が安置されたばかり...諸聖人の大祝日FestumOmniumSanctorum

  • 聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者 St. Alphonsus Rodriguez C

    聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC.記念日10月31日旧約の義人ヨブは暫くの間に財産を失い、一朝にして7人の子に死なれるなど、不慮の災禍が打ち続いても、更に天主を怨む心なく「主与え給い、主取り給う、主の聖名は讃むべきかな!」と祈ったという。この感ずべき態度に倣い、不幸のどん底に於いても主を讃美した聖人は決して少なくないが、本日の主人公アルフォンソ・ロドリゲスもその一例とする事が出来よう。この人は1531年7月25日、スペインのセゴヴィアに呱々の声を挙げた。富裕な商人を父に持った彼は、春の夢にも似た美しい少年時代を過ごし、やがてその財産を相続して愛する妻との間に数人の子供を儲け、相も変わらぬ恵まれた生活を続けたが、幾干もなく天主の酷烈な試練の聖手は、人々の羨望の的で...聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC

  • 聖マルケルス百人隊長 St. Marcellus the Centurion

    聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion記念日10月30日マクシミアヌス皇帝の誕生日の祝賀において、ローマの軍団によって行われた催し事の時に、そのような催し事を偶像礼拝とみなした百人隊長マルケルスは、自分の軍用ベルトを振り捨てた。「私はただ永遠の王、イエズス・キリストにのみ仕える」と彼は宣言した。タンジール副知事の前に連行されたマルケルスは、地上の指導者に対する忠誠を拒んだ自分の罪を弁解したが、死刑に処せられた。後に、公式の速記者、聖カッシアヌスは処刑に憤慨したために、その処置を報告することを拒み、その結果彼もまた処刑された。これはタンジールにカッシアヌスという名の殉教者がいたことをうかがわせるが、聖マルケルスの真正の記事に対する想像上の付加であるかもしれない。聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion

  • エルサレムの聖ナルチッソ司教

    エルサレムの聖ナルチッソ司教記念日10月29日ギリシャ人であったナルチッソがエルサレムの司教に任命されたのは老年になってからであった。しかし、彼は老齢にもかかわらず教区を厳しく管理したので、敵意を持っていた者から無実の罪で訴えられた。多くのキリスト者たちはこれを信じなかったが、ナルチッソ自身は隠遁して祈りと黙想のうちに過ごしたいとかねてから望んでいたので、これ幸いとエルサレムを去った。数年間誰もナルチッソに会う者はいなかった。ナルチッソの留守の間、代わりに教区を治めるために任命された人物が亡くなってしまったため、他の人物が司教に任命された。ちょうどその時ナルチッソが現れた。長い間彼はエルサレムを離れていたので、人々は彼がよみがえったのかと思った。彼は非常に高齢になっていたので、アレキサンデルという司教が彼...エルサレムの聖ナルチッソ司教

  • 聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒 St. Simon et St. Juda Ap.

    聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.祝日10月28日聖書を見れば、主が公生活に入られて諸所を遍歴、さまざまの奇蹟を行い、世人を驚倒せしめ、ナザレトに帰郷、ここかしこの会堂で教えを宣べ給うた時、人々は感嘆して「あれは職人の子ではないか?あの母親はマリアといい。あの親戚はヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダなどという者ではないか?そういう身分の彼があんな深い智慧や奇蹟を行う力を、一体何処で得て来たのだろう?」と語り合ったとあるが、この言葉から一つの興味ある事実が判明する。それは外でもない、主が使徒と選び給うた12人の中ヤコボ、ユダの二人が主の親戚であったという事である。もちろんこのユダは主を敵の手に引き渡したあのイスカリオテのユダとは別人で、それと区別するためタデオ(勇者)とあだ名さ...聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.

  • 聖フルメンチオ司教 St. Frumentius E.

    聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.記念日10月27日アフリカ北部のアビシニアは、住民いずれもキリスト教を奉じているものの、それは遺憾ながらカトリックでなく、コプトと称する離教である。しかしその地方にはじめてキリスト教を伝えるに最もあずかって力あったのは4世紀のわがカトリック聖人フルメンチオ司教に他ならない。彼は小アジアのチルスに生まれ、少年の頃弟エデシオと共に伯父メロピオに連れられ、海路インドまで行ったが、その帰途食糧ならびに土地の産物を積み込む為舟がアビシニアの某所に寄港した所、土着民の襲撃を受けて、二少年を除く外乗り組みの人々はことごとく殺されてしまった。そしてフルメンチオ兄弟は国王の宮殿へ連れ行かれ、奴隷に売り飛ばされたのである。しかし国王は利口そうな二人を愛し、兄フルメンチオには書記...聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.

  • 十一月二日(3)、浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

    (3)-今日天国の聖人などは皆こういう楽しみをほしいままにしていられる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、しかし必ずしも聖人などの身の上を羨むにも及びません。我々も聖人などの踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国へ辿り着くことができるのであります。「我が父の家に住むところ多し」(ヨハネ十四ノ二)と御主はのたまうた。随って誰でも、またいくらでも天国には昇れる、聖人などに与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、もとより天地万物の御主、我々の造主にて在ますのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立って御命令に従わなければならぬはずである。しかし天主様は決して善業のために善業を行えとは命...十一月二日(3)、浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』

  • 悪魔が最も喜ぶ時 アッシジの聖フランシスコ

    悪魔が最も喜ぶのは、人の心の喜びを奪うときです。悪魔は、私たちの良心のほんのわずかな隙間に投げ込んで、私たちの心の汚れと人生の純粋さを汚すために、粉を持ち歩いているのです。しかし、霊的な喜びが私たちの心を満たすとき、蛇はその猛毒を無駄にするのです。アッシジの聖フランシスコ悪魔が最も喜ぶ時アッシジの聖フランシスコ

  • 聖エヴァリスト教皇殉教者

    聖エヴァリスト教皇殉教者記念日10月26日エヴァリストは救い主イエズス・キリストのようにベトレヘムで生まれた。ギリシャ系のユダヤ人であったがキリスト信者となってローマに行った。そこで97年から100年の間にクレメンス教皇のあとを継いで教皇となった。エヴァリストは発展途上の初代教会の組織造りに大いに貢献して、ローマを小教区に分割して7人の助祭を任命して仕事をさせた。これは使徒達がエルサレムの貧しい人々の世話をするために7人の助祭を任命したことと同様であった。エヴァリストは107年に殉教者として亡くなったと伝えられているが、明らかな証拠はない。しかし、キリスト教の初期においては有力な信者達が信仰のゆえに残酷な死を遂げたことは当然なことであった。聖エヴァリスト教皇殉教者

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