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  • 自称善人の私の邪悪性

    強度のナルシシズムにとらわれた(つまり邪悪な)人間は、自己の完全なイメージをおびやかす相手にたいしては、だれかれおかまいなしに攻撃をしかける。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分が気に食わない人を悪とみなし、程度の差こそあれ、何らかの形で攻撃してしまう。 その攻撃は実際の言動として表すか表さないかは問わない。 レディー・ガガ並のポーカーフェイスをかましながらも、心の内で気に食わない相手のことを攻撃しているのであれば、それは立派な攻撃になる。 そしてなぜ攻撃してしまうのかというと、相手そのものが悪だからではなく、その相手が自分の完全なイメージを突き崩してくるからだ。 私…

  • 自分の中に住んでいる

    その人その人の個人的な経験から、生まれ落ちた国や地域の時代としての歴史も含め、ありとあらゆる要因が連鎖し、重層化し、密接に相関しながら、その人の考えが形成されている事はあまりに自明のことです。 宮野公樹『問いの立て方』 人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってし…

  • 失敗した時に実際の自分が見える

    邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。 失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。しがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分自身のことを実はよくわかっておらず、実際の…

  • 自称成人にならないために

    私たちは、いま生きて目覚めてこの世界の中に住んでいると考えています。しかし、ほんとうに目覚めているのでしょうか。自分が見、聞き、考えるとおりにものごとは存在するのでしょうか。 横山紘一『唯識の思想』 自分の見方でしか世界が見られないとのだとしたら、世界は自分の内側にあることとなります。そう考えることで瞬く間に自分と世界は同一となり、同意にて、自分というものが無くなってしまう、なぜなら、自分が思うこと、考えることが「世界そのもの」なのですから 宮野公樹『問いの立て方』 私たち自称成人は基本的に誤った前提で日々を過ごしている。 自称成人が陥りがちな誤った前提は以下のとおり。 自分は絶対に正しい 自…

  • 平気で人を否定する人たち

    あまり感心しないことであるが、現実に広く見られる集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみをいだくことである。これは、初めて集団を組むことを学んだ子どもたちにも自然に発生するものである。その集団に所属しない人間は劣った人間か悪い人間、あるいはその両方であるとして見下される。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは息を吸っては吐くように他人にネガティブなレッテルを貼り付ける。 そこには自分は物事をありのままに正確に捉えているという自惚れが大前提としてある。 そして、私たちは他人にネガティブなレッテルを貼り、見下し、否定することによって、お…

  • 「徳」というのは「大事にする習慣」のことなのかもしれない

    徳は得と同じで、わが身に得られて身についたもの。能力であり、そのあらわれとしての恩恵。効果の意味になる。 金谷治『老子』 古代の哲学や思想にはよく「徳が大事どす」というような文言が出てきて、その徳というのは一体何なのかしらんと、具体的にどういうものなのかしらん、と疑問に思っていたのだけれど、この徳というのは「大事にする習慣」なのではないかと最近思い始めてきた。 習慣であるからこそ、身につけることができ、それは能力として発揮され、その習慣や能力はあらゆる方面で恩恵や効果をもたらす。 「大事にする」というのは全ての人が日常生活において実践でき、大事にする習慣は誰もが身に付けることができる。 私たち…

  • 日常の種類

    今日で8連休だった正月休みが終わる。 年末は友人が遊びに来て、非日常的な過ごし方をしたのだけれど、それ以外は至っていつもの休日だった。 基本的に自分を大事にするための家事、運動、読書、執筆、瞑想の日々なのだけれど、すごく良い。 (人は基本的にこれらの営みを通じて自分を大事にできるし、自分が自分を大事にすることによって幸福になれるし、自分を大事にするための営みは、人によって多少の違いはあるかもしれないけれど、驚くほどに極めて平凡で、特別な資格や特別なモノや大金はガチのムチで不要で、誰でもできるのでこのことに気がついて多くの人にやってもらいたいとガチのムチで思う) 今後、諸行無常の理によって病気や…

  • 2025年の心がけ

    暦というのは人間が自分たちの都合の良いように作った便宜上グッズのようなもので、概念上の区切り、共同幻想なのだけれど、それは便利グッズであるが故にやっぱり便利だ。 (私の亡き愛犬に、今日から新年ぜよ!と喚いてもポカンとしていた一方で、散歩に行くぜよ!と喚くと、狂喜乱舞していたのだけれど、やはりこれは所詮暦は人間にとっての共同幻想でしかないということの証左なのかもしれない) 数日前に西暦という共同幻想が2025年に変わった。和暦という共同幻想が令和7年に変わった。 やはり新年になるとどことなく自分自身もリフレッシュされた感じがする。 (これは私自身が暦という概念上の区切りをがっつり取り込んでいるこ…

  • 新年早々から社会が敵に見えている人

    自分についてだけではなく、眼の前にいる「他人」というものについても同様に、なにひとつ知っていないということが事実です。あの人は〇〇さんであり、性格はこのような人で、私は嫌いだ、などと「その人」を知っているように思っていますが、はたしてそうでしょうか。すでに繰り返し述べてきたように、私たち一人ひとりは、一人一宇宙であって、私の外に抜け出すことはできないのですから、私にとっての他人とは私の心の中の影像にしかすぎず、他人そのものを決して知ってはいないのです。憎い、嫌いというのは自分のほうから一方的に付与した思いにすぎないのです。 横山紘一『唯識の思想』 私の知人に社会が敵に見えている人(Aさん)がい…

  • 今年の自分の運命予想

    知恵さかしらは欲望と深く結びついている。欲をとげるためのさかしらは、そのまま大きな虚偽の始まりである。 金谷治『老子』 うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。 邪悪な人たちがひどく苦しんでいるように「見受けられない」のは事実である。自分自身の弱さや欠陥を認めることのできない彼らは、外見を装わなければならないからである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 ここでいう欲望というのは仏教で言うところの貪欲だ。 貪欲というのは煩悩の一種で、欲ではない。 (『老子』の中の「欲」も欲望や貪…

  • 今年も繰り返すこと

    ストレスとは善の試金石ともいうべきものである。真の意味で善良な人間とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは、状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦悩に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である、と定義することができるかもしれない。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 真の意味で善良な人間というのは、ストレス下にあっても高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることがない人である。 まずはこれは「善のものさし」とする。 自分で自分の心の内側を見つめた際、そのもの…

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