興味のおもむままに仕事を受けていたら、ジャンルが多岐にわたってしまい「ヨシナガが何をしている人なのかわかりにくい」と言われることがよくあります。そこで今回は、長くなるかもしれませんが今までの仕事と経歴をまとめてみたいと思います。
自分がWEB上で知られるようになったのは「僕の見た秩序。」という個人サイトが大ヒットした2003年以降の話なので、アルファブロガー、インフルエンサーとして紹介されることが多いですが、実はそれ以前にも色々あったので初の集大成まとめです。
目次
- 1998年(18歳、学生)
- 1999年(19歳、デザイン・映像)
- 2000年(20歳、映像仕事増える)
- 2001年(21歳、映像仕事が大型に)
- 2002年(22歳、映像終了&ブログ開始)
- 2003年(23歳、僕秩ヒット&受賞)
- 2004年(24歳、会社員と個人サイト)
- 2005年(25歳、WEB外に進出)
- 2006年(26歳、個人ブログ時代の終焉)
- 2007年(27歳、ブログ外活動に挑戦)
- 2008年(28歳、ブログ外の活動増)
- 2009年(29歳、外の活動さらに増)
- 2010年(30歳、ネットに顔を出す)
- 2011年(31歳、NTTと個人の能力が合致)
- 2012年(32歳、炎上など)
- 2013年(33歳、NTT活動多め)
- 2014年(34歳、LINEスタンプ出す)
- 2015年(35歳、スタンプが巨大仕事に)
- 2016年(36歳、肉スタンプ当たる)
- 2017年(37歳、共同体作りへ)
- 2018年(38歳、小さな共同体を広げる)
- 2019年(39歳、Virtualで名前を出さない活動)
- 2020年(40歳、コロナ禍なので全く新しいことを行う)
- 2021年(41歳、コミュ力が向上、NFT)
- 2022年(42歳、投資をやってみる)
- 2023年(43歳、自作シール制作へ)
- 2024年(44歳、身体性の尊重、アナログ回帰)
1998年(18歳、学生)
- 静岡高等学校卒業。静岡から東京へ
- 早稲田大学 理工学部情報学科入学
- 全く学校に行かず、グラフィック制作仕事を始める
若い…(笑)
1999年(19歳、デザイン・映像)
- 劇団「阿佐ヶ谷スパイダース」の宣伝美術デザイン(綺麗、スキャンティクラシッコ、イヌの日、十字架)
- シュガーソウル "secret GARDEN"イベント映像制作、VJ
15歳からMacでデザインをやっていたので、それが仕事になり始める。上京直後から小さな実績を積み重ねていくことで、当時『Garden』が90万枚の大ヒットだったDragon AshのKj(降谷建志)さん&Sugarsoulさんのライブ映像仕事を取れたのは大きかった。運も良かった。
2000年(20歳、映像仕事増える)
- 音楽アーティストの「ライブ映像」仕事が激増(ケツメイシ、RHYMESTER、ZEEBRA、初代J Soul Brothers、m-flo、傳田真央、他)
音楽ライブにこだわらず、ゲーム、ファッションショーなど面白そうな映像仕事はひたすら受けることに。ひっきりなしに仕事が来た。
- 東京ゲームショウ2000春 SONYブースでPS2ステージ映像制作
- ファミ通 enterbrain独立パーティ映像制作、VJプレイ
- MICHIKO LONDON 2000年度日本(東京)公演 VJ映像制作
- DoCoMo "M-stageVisual" 渋谷109イベント映像制作
- テレビ朝日「The Street Fighters」ロゴ製作
- 雑誌やテレビに映像クリエイター・VJとしてたくさん取り上げられるようになる
(トゥナイト2、D's garage21、他、雑誌や書籍多数出演)
がむしゃらに働いていた。数分間の特集とは言え、初めて自分の仕事を密着取材されてテレビで取り上げられた。
2001年(21歳、映像仕事が大型に)
- リリィ・シュシュ(小林武史プロデュース)ライブ映像制作
- TOYOTA MUSIC NATION FinalLive映像制作
- アランドロンの香水サムライウーマン・SHOGUNのCM製作
本格的に売れてきたため、ぜいたくだが大型の仕事だけを選んで受ける感じになってきた。お金もたくさん入ってきた。その中で、高校の頃から音楽を聞いていた小林武史さんの会社からオファーが来た。ビックリしたがうれしかった。
- 僕の見た秩序。ひっそりサイト開設(geocities)
日常が真面目でかっこいい系の仕事ばかりの中、初めてデジカメを買ったのでなんとなく写真を並べるためのWEBサイトを作成。当初は無料ホームページサービスのジオシティーズだった。
2002年(22歳、映像終了&ブログ開始)
- Mr.Children「wonederful world on DEC 21」映像制作
2001年のリリィ・シュシュ(現Salyu)案件がうまく行ったため「ミスチルのコンサートツアー映像制作」が決まる。分量が多いので他の仕事は全てお断りすることに。これまでで最大の仕事で長い期間映像制作をしていた。この間、外からは「最近ヨシナガは仕事してないな」と見えていたことだろう。
ところが、コンサート開始直前のリハでボーカル桜井和寿さんが小脳梗塞を発症されたため全国ツアーが延期に。最終的には全国ツアーではなく「一夜限りのライブ」に変更となった。
一応ライブは行われたのでミスチルDVDにも「DIRECTOR:TATSUKI YOSHINAGA」と、僕の名前がクレジットされている。もし全ライブが中止になっていたらこの記録は残らず、ただの「最近仕事をしていない人」になっていただろう。僕としても自分の仕事を考え直すきっかけになった。
また、この頃から音楽業界の不況を肌で感じるようになる。ミスチルも良い曲を出しているのにCDの売上枚数が伸びない。もしかするとこの業界って未来永劫、今後も伸びることはないのではないか…。
- 僕の見た秩序。にバカなことを書き始める
そして、業界縮小を感じる音楽映像の仕事を思い切って辞めてWEBの世界に入ることに。大きな仕事をしていた過去の栄光を利用しようか迷った(ミスチルの名前を出すだけでアクセス数が取れそうだ…)が、結局、映像クリエイターの経歴は伏せてただのバカなテキストサイト管理人として再出発する。匿名&顔出しなしで本当にゼロからのスタート。
突然サイトに「うんこ」と書いたりするだけの人になったので、それ以前の僕を知っている友人たちからは「ヨシナガが狂った」とも言われた。笑
2003年(23歳、僕秩ヒット&受賞)
- 個人サイト「僕の見た秩序。」がヒット。一年で1500万PVを超える。
売れっ子だった映像の仕事を捨てたのもあり、絶対に当てなくてはいけない背水の陣で臨んでいたブログがヒット。2002年末に「アザラシのタマちゃん」コラムで小ヒット(100万PV)し、この年の夏に作った「トリビアの泉 リアルへぇボタン」というコンテンツが1000万PVを突破する。
このボタン、実はミスチル映像を作っていた時の3DCG技術と、Flashのプログラミング技術を使っているのでかなりクオリティが高く、他のサイトでは簡単には真似ができなかった模様。運が良かった。
- Yahoo! WEB OF THE YEAR 2003 話題賞
そして同年、すごい章を受賞。大企業のお金がかかった超大規模サイトだけが並ぶ中、僕の個人サイトが10位に入っている。運が良かった。翌年以降、他にもたくさんの賞を頂いたので、本ブログでは一部のみ紹介する。
- 就職活動。NTT東日本に内定
ブログは大ヒットしているが、僕の勘が「ブログだけに人生をかけると今後行き詰まる危険がある」と告げるので試しに就職活動をしてみる。時代は超氷河期でたくさん落ちたが、運良くNTTに受かる。ありがたい。まだ学費を払っている学生(5年生)だったが翌年根性で卒業。教授にも非常に助けられた。昔から人には恵まれている。
2004年(24歳、会社員と個人サイト)
- 雑誌連載開始(2ちゃんねるぷらす)
- 「ゆかいな誤変換。」の書籍化決定
- NTT東日本入社
慣れない二足のわらじ生活がはじまる。大企業の正社員というのは想像以上にパワーを使うことがわかり、正直大変だった。個人サイトが国内個人では1位のPV数に膨れ上がっていたのもあり、2ちゃんねるに住所が書かれたりメールで殺害予告が届いたりとバタバタだったが、この時代はサイバー犯罪の概念も薄く、警察に相談しても何の対処もなかった。会社からの帰宅後にそういったやばいもの処理と格闘しながら、一日も落とさないよう毎日更新をしていた。
2005年(25歳、WEB外に進出)
- 「ゆかいな誤変換。」出版。
初めて本を出す。個人WEBサイトから本になった国内最初期の事例だったため、たくさんのニュースやバラエティに取り上げられた。めざましテレビのようなエンタメならわかるが、NHKニュース10のようなお硬い番組にも出して頂けたのはありがたかった。雑誌や新聞、ラジオにも数え切れないほど出していただいた。
- ガラケー用「携帯公式サイト」に国内個人として初めて登録される。
有料サブスクサービスの開始により、毎日更新のサイトが2つに増える。この頃書いていた有料のネタは「Suicaでお賽銭ができるようになったら面白い」「すべての電源がUSBになって個別アダプタを持ち運ばなくてよくなる」「全ての平面に広告が貼られていく」など今見ると微妙に当たっていて面白いネタも多いので、いつかどこかにまとめて出してもいいのかもしれない。
- 新宿ロフトプラスワンでトークライブ開催
ロフトプラスワン店長の横山さんからお声がけをいただき、初めてのトークライブを開催。「しゃべるのが得意ではない僕が170人を前に4時間もしゃべれるのか…」と不安に思いスライドを400枚用意した。結果、できた。何事もやってみるものだ。
ちなみにサイトを毎日5万~10万人も見ているのに顔写真を出していなかったのもあり、チケットは一瞬でソールドアウトだった。以後すべての公演が完売だったのでありがたい限り。そして二回目のライブからはダフ屋業者が出た。(ローソンチケットの瞬殺完売チケットを検索して自動的にページを作っているらしい?)
価値が何十倍も違うので全く比較にはならないが、過去に意を決して離れてきたミスチルのライブチケットと、自分のチケットが同じページに出ていることに笑った。
また、なぜかお客さんの間で「高価なものにヨシナガの下手なサインをしてもらう」というのが慣習になってしまい、人の頭、PCの液晶画面、ゲーム機、ヴィトンの財布、一眼レフ(レンズ面)、パスポートなど、書くのも恐ろしいものにたくさんのサインをした。
- サイトが1億PVを突破。国内個人サイトでは侍魂に次ぐ2番目の達成。
一番で達成したかったが、僕の人生はなかなか一番が取れず2~4位どまりになることが多い。1番が取れない代わりに小さなヒット確率が高い「秀才型」なのかもしれない。
2006年(26歳、個人ブログ時代の終焉)
- 宇多田ヒカルさんのブログに僕秩が出る
宇多田ヒカルさんがブログや雑誌インタビューで僕のサイトについて言及してくれるようになり、会いに行く。結果、非常に性格が似ていたので仲良くなりたくさんゲーム(シレンやテトリス)をしたり、水族館に行ったり、トークライブにも来てくれたり、本の帯を書いてもらったりした。これも運が良かった。
ここで見聞きした物事は今後の人生を考える上で非常に勉強になった。本当に成功の頂点を目指す必要はあるのか? いや、きっと・・・
- ゆかいな誤変換続編発売
宇多田さんに帯を書いてもらった本が発売。宇多田さんは他の帯依頼などは全部断っていたらしく、宇多田ファンの間で「あれは偽物ではないか?」と真偽が問われる事態に。結局、2006年の宇多田さんのコンサート対応問い合わせマニュアルに「あの帯は本物です」というFAQが追加されたと本人から聞いた。
- 変なキャラやグッズをたくさん作ってみる
- フレッツ光キャンペーン「ヒカリカエル」デザイン
- 「ネットランナー」(ソフトバンククリエイティブ刊)連載開始
ブログは非常に勢いがあったが、世の中に芸能人ブログが誕生し始め「個人ブログは終わった」と感じたのがこの年。音楽業界の時もそうだったが、そもそも見切りが早い性格なのかもしれない。以後、ブログで莫大な数値を獲得し続けることにこだわり過ぎず、やりたいことや心地よいことを追求する方向も考えるようになる。
2007年(27歳、ブログ外活動に挑戦)
- 絵本の出版
- 早稲田大学、山梨英和大学、東海高校の学園祭で講演
- ラクガキ王国ファンイベント開催
大好きなゲーム「ラクガキ王国」のファンイベントを行う。ここで今も親しいゲーム業界の人々(スクエニ丹沢P、ZUNさん、など)と出会う。イベントは自分のトークライブほど客が入るはずもなく赤字。ただ「大きな数字を取らなくても自分の人生に意味のある活動はある」と気付き始める(遅い)
- 飯野賢治さんがトークライブに来てくれるようになる
2008年(28歳、ブログ外の活動増)
- 「飯野賢治とヨシナガの気になること。」というトークライブを開始
上はまだネットに顔を出していなかった当時の写真。下は3年後の最終回。
- NHKスペシャル「デジタルネイティブ」
時代がネットに向いてきた。顔を出していなかったので声だけのインタビュー出演。僕の作品ではなく「二足のわらじの生き方(サラリーマンクリエイター)」が取り上げられる。今思うとNHKさんの先見の明すごい。
- 僕秩プレミアムがNintndoDSで読めるようになる
携帯有料サブスクのコラムがDSで無料化。打ち合わせで初めて京都の任天堂さんに行ったりした。小学生の僕に聞かせたら喜ぶだろう。
日本のブログ業界は想像通り芸能人に数値を持っていかれる形になり、個人ブログはここから全体が縮小化していく。数値競争ではなく早めに「やりたいこと」にシフトしていて良かった、と感じていた。
2009年(29歳、外の活動さらに増)
- 僕秩プレミアム!(講談社)発売
- ハイブリッドワーカー(講談社)発売
初めて年に二冊の本を出す。ハイブリッドワーカーは複数の収入源をもつ働き方(副業)について書いた本。その後に総理が「みんな副業しよう」と言い出すので、今思えば出すのが10年早すぎた気が…。
- 京都大学の学園祭(第51回)にて単独講演
数百人規模の大きい場所で公演。好きなことをして生きること、戦うことについて話した。「ヨシナガのような謎の人を呼んでみよう」と思える京大生のみなさんは本当にとんがっていると思う。
- 「日本タイトルだけ大賞」開始。発起人の一人に
- NHK 特ダネ!投稿DO画 キャラクター作成
NHK番組のマスコットキャラクター「DO画くん」を描かせていただくことに。絵本を出したりしていてよかった。今でも続く(2018年現在)人気番組になっており、スタッフさんには感謝しかない。
- 小学館 「小学六年生(小六)」 読者コーナー連載
キャラクター「ヨシナガ」として自分が登場。2007年に知り合ったゲーム業界つながりで、DSソフトと小学生の投稿イラストをコラボしたりする。
- Webクリエーション・アウォード「WEB人賞」受賞
2010年(30歳、ネットに顔を出す)
- RED RIBBON SUMMIT 2010出演
初めてメディアに顔を出す。この直前に「顔写真&本名がないためFacebookのアカウントが停止される」など、ネットに詳しい識者としては致命的な事件が起きており、やむなく出すことになった。自分の勘としては非常に迷いがあり、今でも正しかったのかわからない。(たぶん間違っていたと思う)
- テレビ東京 「スゴい会議!」出演
どうせ顔を出したので、今までお断りしていた顔出しの出演もお受けしたりするようになった。テレビに出るたびにGoogle検索(日本)の急上昇に入っていた。
- デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー受賞
これまでの賞と違い僕単独での受賞ではないが、キャラデザインをした投稿DO画がすごい賞を受賞。授賞式ではドラクエ、ツイッター、サマーウォーズと、周りの受賞者が著名すぎてビックリした。挨拶をするのもビクビクだった。
2011年(31歳、NTTと個人の能力が合致)
- ゆかいな誤変換。がATOKの広告に(バカリズムさん起用:電通)
- テレビ東京 「ゴッドタン」出演
テレ東の佐久間Pの人気番組に呼んでいただく。他にもいくつも声をかけていただきありがたかった。
この年、NTTレゾナント ポータル部門に異動になり、会社員での仕事がもともと個人でやっていたWEBサイト作りと完全合致するようになる。
以後、会社での仕事が増えて個人活動が減るが、それはそれでありなのではないかと思い始める。追求すべきはバケモノのような数値ではなく自らの幸福だろう。
震災があったので、ツイッターの内容がおもしろネタから情報発信に変わったり、チャリティイベントを飯野賢治さんと行ったり、今までは絶対にやらなかったことをいろいろ試してみた。
2012年(32歳、炎上など)
- ヨシナガ個人ではない記事をバズらせることを始める
NTTのプロモーションにブログのノウハウを利用する。登場人物が僕でない場合、「自分が出るよりバズらせやすいな」と発見があったりした。
- 「地震の時につぶやく言葉」が日本中に普及
2011年4月に開始した地震時Twitterに「おっぱい!」とつぶやく試みが日本中に普及し、毎回トレンドに入るようになってしまう。下品だし書くたびにフォロワーも減るのであまりよくないと思っており、2016年熊本地震を機に停止。だが、日本中に広まってしまった習慣は消すことができないようで、今も地震が大きいと10000人規模の人が書き込んでいる。僕の死後も続くのかもしれない。
- NAVERまとめサービスが開始したのでまとめを始める
ネットのまとめ記事をつくる事に挑戦してみる。ブログのノウハウがあるので非常に相性がよく、1記事24時間で108万PVを獲得するなどした。国民の100人に一人が見た状態に近い。ブログは1億PV獲得までに4年かかったが、こちらはあっさりと数千万PV(下)を取れたのが驚きだった。個人ブログだけではない新しい数字の獲得方を学んだ。あとで知るのだが、収益も発生する仕組みになっておりたくさんの収益が入ってきた。
- 家入一真さんと作ったサービスstudygiftが炎上
高すぎる学費と増加する貧困の中で、身近に困っている人がいたのでクラウドファンディングで学費を集めるサービスを作ろうとして炎上。身近な人を助けるのなら個人的に100万円くらい貸せばいいだけの話だったが、もっとお金を出してちゃんとサービスを作り、日本中の学生を救おうとしたが失敗。僕はメンタルが激しく強いので大丈夫だったが、ツイッターを巻き込む現代型炎上の走りだったと思う。実はこれは2006年に見た光景と非常に似ており、幸福な生き方について理解を深めるチャンスになった。
- 炎上でブラックジャックによろしくのマンガ仕事が来たりする
運が良かった(笑)
- ニコニコ動画 第5回動画アワード出演
麒麟 川島さん、浅倉大介さん、吉木りささんなどと共にニコニコ動画全体の年間大賞を紹介するアワードの解説者に。視聴者数は13万と多く、以後LINE LIVEの60万人に抜かれるまで自身の出たネット放送で最大の視聴者数だった。
- アルファブロガー・アワード2012受賞
2013年(33歳、NTT活動多め)
- NTTレゾナントから「Likecamera」リリース。1年で50万DL到達
「いいね!(Like!)」が付きやすくなるカメラという、後で言う「インスタ映え」だけを狙うようなカメラアプリを出す。リリース時に一度宣伝しただけで、あとはノンプロモーションで50万DL。ものすごくうまく行った。このサービスは個人で作っていたら今でも運営できていたかもしれず、自分の作るものと権利の所在について考える。
- NTTレゾナントで3Dプリントを使った企画をやったりする
個人では試しにくい、初期投資が高額なサービスは会社でやったほうがいいな、と気づきいろいろやってみる。
- ソーシャルの影響力を測るKloutスコアが国内14位に。
ソーシャルの力がすごいことになってきていた。国内のアカウントで僕より上にいるのが、浜崎あゆみさん、GACKTさん、小室哲哉さん、YOSHIKIさん、絢香さん、北島康介さん、ロケットニュース、大沢伸一さん、津田大介さん、シネマトゥディ、水嶋ヒロさん、きゃりーぱみゅぱみゅさん、茂木健一郎さんの13人だけ、という恐ろしい状況。
それまではアルファブロガー、カリスマブロガーと呼ばれていたが、インフルエンサーと呼ばれ始めたのがこの頃かもしれない。
- トークライブ「豆ナッツ~bean~」開催
ツイッター上で活躍していたエラー403くん、ダ・ヴィンチ・恐山くんと連名でトークイベントを実施。ゲストはARuFaくんと、ネタ系WEB界が好きな人には超豪華、そうでない人は全く誰かわからないというイベントだった。才能ある彼らは自分よりちょうど10歳ほど下。年下の才能ある人とも交友を広げていきたい。
- 再び炎上する
事実ではない炎上で大変だった。(手も握ったことのない友人と事実婚したことになった)僕はすごく困っている知人を助けようとした時に炎上することに気付き、「困っている人を助けなきゃ!」という気持ちを抑え「敢えて見捨てる」ことを決断しないと自らの身を滅ぼしかねないことに気づく。(遅い)
- 「恋する!brotherくん」リリース
プリンタと恋愛するゲーム「恋する!brotherくん」をリリース。Twitterトレンド1位になったり、実況動画がいくつも投稿されたり、日経や東洋経済の真面目なインタビューを受けたり、Yahoo!でまさかのTOPニュースになったり、とにかく話題になった。
なんと海外にも「日本がヤバい」という文脈で拡散。このあたりから僕のコンテンツが海外にもバズるようになる。ちなみに、当初の目的だったプリンタはよく売れた。
2014年(34歳、LINEスタンプ出す)
- ゆかいなエヅプトくんスタンプリリース
上手なイラストレーターのスタンプばかりだったので、逆張りで下手な絵のスタンプを出してみる。目を疑うくらい売れて驚くほどの反響があった。
@honami_s pic.twitter.com/1PDM6ld0H5
— enon kawatani (@indigolaEnd) 2014年7月5日
HISASHIさん(GLAY)、川谷絵音さん(ゲスの極み乙女。)、篠崎愛さん(グラビアアイドル)をはじめ、すごく多くの著名人の方がツイッターに書いたり、インタビューで「エヅプトくん使ってる」と話してくれたりして、完全に僕の手を離れた広まり方をしていた。一瞬でも売れるループに入ると自分で宣伝する必要すら無く、自動増殖していくのか…。
そして、映像クリエイターだった20歳から15年ぶりにテレビに密着された。番組はまさかの経済番組ワールドビジネスサテライト。
他にもテレビにはたくさん出た。この年はLINEの公式イベントに登壇したり、スタンプ大賞にノミネートされたり、エヅプトのキャラクターを使ってアプリゲームを作ったりした。
ファンの活動は増えすぎて、エゴサでは追いきれない状態になっていた。若い女性の間でエヅプトポーズでプリクラを撮るのが流行った。なぜなのか…。
2015年(35歳、スタンプが巨大仕事に)
- 日テレ「高校生クイズ」の広告キャラクターにエヅプトくんが就任
人気長寿番組「高校生クイズ」。PRキャラクターとして、2013年「AKB48」、2014年「ももいろクローバーZ」に続き、なぜか2015年「ゆかいなエヅプトくん」が採用された。舞台装置、トラック、Tシャツなどにもエヅプトくんが大量に印刷され、参加者全員プレゼントもエヅプトくんタオルだった。
参加芸能人の方もエヅプトくんTシャツを来てくれていた。うれしい。
- エヅプトくんグッズが4社21種類以上発売
すごい数のグッズが出た。正直、稼働が限界でエヅプトくん以外の案件が全くできない日々が続いていたが、未知の体験が毎日あり面白かった。
おもちゃ展示会などで、超有名キャラに並んで自分の下手な絵が出ているのは不思議な感覚だった。
- サイバーエージェントさんと「ゆかいなエヅプト炎上」リリース
炎上経験を活かしてエヅプトくんが炎上するゲームを出す。iPhone無料アプリ、最高3位を獲得。やはり1位が取れない人生なのか。
- ホンマでっか!?TV(フジテレビ)に出る
明石家さんまさんがLINEを使い始めたということで、スタンプ専門家として出演。当たるスタンプの作り方を話す。
そしてまさか、さんまさんのホンマでっかテレビでスタンプの話をしていた僕と今回の「タイトルだけ大賞」の発起人が同じ人だとは思ってないだろうな。我ながら人生好きなことしかやっていないので、自分の職業を一言で説明するのが難しい…。 pic.twitter.com/V9XD4ETckB
— 吉永龍樹(ヨシナガタツキ)@肉くん発売中 (@dfnt) 2017年3月22日
他、本にたくさん載ったり講演にたくさん出たり、エヅプトのマンガを連載したりした。そういえば、タイのテレビにもスタンプ作家として出た。同時通訳はしゃべり方にコツがいることがわかった。
- 「 言い訳ばかりの私を変えた夢みたいな夢の話」出版
個人ブロガーだった僕も、いつの間にか会社での働き方が完全にリーダー役になってしまったので、その時の話が本に。この頃からチームを作ることを考え始めた。この本自体は余り作り込めなかったことに若干の後悔がある。
- QREATER AGENTと契約
専属契約ではないものの、事務所に所属してみる。
2016年(36歳、肉スタンプ当たる)
- 実写スタンプ「肉くん」が当たる
実写のスタンプが出せるようになったので、生肉の写真を撮ってリリース。ツイートが24時間で200万回見られ、YahooのTOPページに出たりLINEニュースで紹介されたりしたため信じられない売れ方をした。
なんとLINEストアで総合2位と、順位だけならエヅプトくん(最高5位)よりも当たったのだった。運が良かった。
そして、エヅプトくんの時と同じく、たくさんの著名人の方(肉好きの声優さんや、グラビアアイドル、タレントさんなど)が宣伝してくれて、その結果出会える知り合いがどっと増えたりした。毎度になってきているが、海外のニュースメディアにも「日本がヤバい」という文脈でたくさん紹介された。
ちなみに、大当たりはしたがエヅプトほどの持続はしなかった。大量にパクリスタンプが出現したのだ。よく考えれば当たり前で生肉には何の著作権もない。やっぱりキャラクターを作るのが重要だな、と再認識するきっかけになった。
- LINE LIVE出演。視聴者62万人と過去最高数値に
2010年にニコニコで驚いた13万人を遥かに上回る視聴者数だった。サービスも世の中も日々変わり続けているから、僕も自分をアップデートしてついていかなくてはいけない。
- facebookについて書いた記事が約40000シェアと過去最高数値になる
facebookの電話番号設定がデフォルトのままだと危なかったので記事にしたところ、大きな話題になった。その後この仕様は修正されたので、facebookくらいの巨大企業でも個人の力で変えることができるのか…と感じた。
- ゲームアプリ「飛んでけ!メジェドさま」リリース
- LINEきせかえ数種類をリリース(最高ランキング12位)
- LINE公式「スタンプの祭典」に参加(講演&出展)
コミケのような展示即売イベント。初めて自分で店を出してみた。正直、僕の能力には全く向いておらず、誰かの力を借りることが必須だと感じた。会場の準備はもちろん、お釣りの用意すら一人では満足にできなかった…。
先月のイベントの様子がLINEさんの公式ブログにアップされてました!
— 吉永龍樹(ヨシナガタツキ)@肉くん発売中 (@dfnt) 2016年8月18日
【いろんな意味でアツかった! 「LINE Creators Festa -スタンプの祭典-」をプレイバック】 https://t.co/3DO5q3ejQ5 pic.twitter.com/uTU7hnGiOB
2017年(37歳、共同体作りへ)
- 「 言い訳ばかりの私を変えた夢みたいな夢の話」中国で発売
著書が初めて海外で翻訳され発売になった。
- LINE公式配信「スタンプアプリ徹底解明」 LINE LIVE出演
ゆうこすさん、芦沢ムネトさんと出演。35万人が視聴。
- 「ポリポリクラブ」コミケ出展
- アーティスト写真のカメラマン仕事も時々やる
もともと映像の出身なので、知人に頼まれた時に一眼レフを担いで撮影仕事も行う。カメラマンとして、僕の名前が全く出ないケースもあり(笑)
- はてなブログを開設してみる
2014年位から書けていなかったブログを試しに書いてみる。はてなブログで始めたので「はてなブックマークHotentryの1位(左上)を取るまでやってみよう」と仮の目標を定めたが比較的すぐに取れた。「今更個人ブログにのめり込みすぎても過去以上の恩恵はないだろう…」と思い直し更新頻度を下げる。人生の時間は有限だ。
- 2015年頃から取り組み始めた共同体作りを本気で行う
今本当にやりたいことを考えると「共同体」を作ることなのだと思う。僕は数字を相手にするのが得意で、機械や社会を相手にいろいろなことを経験してきたが、最終的に面白いのは人間だと思うようになった。(遅い)
バケモノのような数字を取ることも得意だが、バケモノのような数字は同時に闇を孕むのをたくさん見てきた。等価交換なのだろう。この力は必要なときにだけ使うとして、それよりも手の届く小規模な範囲で良いので、楽しく信頼できて生涯付き合っていくような価値観の近いグループを作りたい。
以前より遊ぶようになった。仲間と旅行にも行った(上)。こういう通常の人がしてきた経験を僕はほとんどせずに生きてきていた。数字の取れない活動を重視するようになった。友達の「ほしいものリスト」にたくさんプレゼントを送るようになった。人のために時間やお金を使うようになった。仲間の結婚式の主賓になって新婦代表のスピーチをしたりした。
HUNTER×HUNTERに出てくるクラピカの鎖を買ったので嬉しくてつけたまま過ごしてるんだけど、「電車の中で僕の周りだけ空く」という思わぬ特殊能力(エンペラータイム)が発動してる。 pic.twitter.com/Ig0SVGHd7x
— 吉永龍樹(ヨシナガタツキ)@肉くん発売中 (@dfnt) 2017年9月22日
「表情がいい」と言われたこの写真も仲間といる時に仲間が撮ったものだ。このバズは580万人が見たが何の仕事も生み出さなかったし1円も入ってこなかった。
でもそれでいいのだ。幸福であればいい。
このブログ記事の経歴を見ればわかるように、僕は元々神がかっているほど幸運なので、僕の回りにいる仲間も運が良くなることが多くなった。(そもそも名前が「吉永= Lucky eternally(永遠に吉)」という時点でどうかしてる)
2018年(38歳、小さな共同体を広げる)
- 小さな共同体の成立と運営
2015年、2016年と作ってきた10人程度の小さな共同体を2チーム運営。男女半々、全員を何らかの特殊能力(小説、俳優、アイドル、音楽、など)を持っている人のみで構成した。
全員が本職における利害関係のない、部活動のような場として機能させたかった。全員の能力がなるべく対等で、極限まで心理的安全性が確保された場にすることを心がけた。
本来は僕がリーダーですらない「全員対等」という関係が作りたいが、僕がリーダーにならざるを得ないのはジレンマだった。もちろん去る人もいれば入る人もおり、個々人のメンタルや本業の調子などでゆらぎはたくさんあるため試行錯誤をしながら現在も運営を続けている。共同体の運営はおもしろいが難しい。
ちなみに特殊能力者たちは、「自分が所属するコミュニティ」が人生で一つ増えることになり、目に見えて安定していった。紅白のような大きな仕事が決まったり、結婚が決まったり、子どもができたりした人で溢れるようになった。
2019年(39歳、Virtualで名前を出さない活動)
- 名前を出さない活動を試す
2002年(ミスチル)、2006年(宇多田さん)の日常を見る中でずっと感じていた「活動で成功し、知名度の頂点を目指す必要はあるのか?」という疑問に仮の答えを出してみることにした。
「ない」と。(これについてはいつかブログに詳しく書くつもり)
そのため、2018年後半からヨシナガの名前を全く出さない活動に焦点を絞った。
・秋元康さんプロデュースの22/7(VTuberアイドル活動)をネット戦略部分で手伝う
・VTuberになってみることで自分もYouTuberグループに入り運営を手伝う
どれも新規に多くのことを学ぶ必要があり、学習が好きな僕としては非常にやりがいがあり面白かった。名前を出していないので周囲からは「ヨシナガは最近何も作っていない」と見えていたかもしれない。
2020年(40歳、コロナ禍なので全く新しいことを行う)
コロナで生活が激変したため、服の製作や3Dスキャンなど、今まで全くやらなかったことを実験的にたくさん行った。(詳細は上のまとめ記事より)特に面白かったのは
・zoom用のビデオフィルターを作成。顔が小さくなるバカフィルターなのだが、世界中でバズり1000万回以上利用される
・週刊少年ジャンプの表紙に自分の作ったLINEスタンプが載る
の2つ。僕の雑な絵が人気漫画ワンピースのコラボスタンプになったのは貴重な経験だった。
2021年(41歳、コミュ力が向上、NFT)
- Tシャツを100種ほど作ってみる
suzuriで「バカTシャツ」を作ってみようと思いたち、100種ほど作る。実際にかなり売れたものもあり面白かった。そして僕にはファッションセンスがまるで無いことがよくわかった笑 - NFT(opensea)でマンガを連載してみる
全48回。NFTは未知のジャンルだが、何事もやってみないとわからないのでとりあえず色々試してみる。動くのだけは早い。購入も含めどっぷり体験した結果、NFTには深入りしないようにしよう、という結論を得た。 - 過去に出した副業本「ハイブリッドワーカー」がめちゃくちゃ売れる
メンタリストDaiGoさんが「今を築いた1冊」として僕の本を紹介してくれたらしく、発売から10年も経つのにたくさんの印税が入ってきて驚いた。運が良かった。
2022年(42歳、投資をやってみる)
- 投資をやってみる
2016年から地味にはじめていた投資を本格的にやってみる。こちらに本気を出すとものづくりを諦めることになるが、それでも試すことを選んだ。
詳細は上のブログ記事に詳しいが、歴史的円安もあり大きめの利益が出る。2016年から7年間、一度も負け越さずに利益が出続けているので、おそらくこういう取引自体が得意だったのだと思う。ちなみに単年では無理だったが、2016年からの累計では億トレーダーになることができた。
それと引き換えにクリエイター活動は新作スタンプを2つしか出せなかった。
2023年(43歳、自作シール制作へ)
- AIの登場と僕の能力の終わり
22年11/30のChatGPT登場後、これまで自分で作ってきたような暇つぶしコンテンツが無限に生成できることがわかり、数カ月間寝る間を惜しんでAIを触り続けた。
記事の自動制作はもちろん、直接会話できるAIボットも大量に作り、一部はバズったが(上の画像は自分の作った「AI神」がニュースランキング1位になっているところ)、僕がこれまで最も得意としてきた
・WEBサイトを多くの人に閲覧させる(認知心理学)
・数字ゲームに強い
という特殊能力が全て無に帰すと認めて完全なる敗北宣言をしたのが3/31。AIはネットの登場(1995頃)より、iPhoneの登場(2008頃)より遥かに衝撃がでかく、もう僕の人生でこれ以上の転換は起きないだろうという地殻変動だった。さよならインターネット。
その後、4月にネットの繋がりにくい家を探し5月に引っ越し。6月から植物やメダカを育て始め、デジタルではないことに全力を向けられないか考え始める。SNSの通知を全て切り、見る頻度も激減させた。 - ビックリマンシールのような自作シール業界に入る
デジタルではない活動の一環として8ヶ月以上「自分の本当に好きなものは何か?」を探し続ける中で、昔から大好きだったビックリマンシール風の48mmシール業界があることを知る。12月6日にアカウント開設。これからがんばっていきます。
2024年(44歳、身体性の尊重、アナログ回帰)
- 48mm自作シールの制作、即売会出展
23年12月から毎朝3時過ぎまで必死に作っていたシールを2月に初販売。4月には大阪、8月には東京でシール即売会にも出展。1年でなんと70種のシールを作成した。最も複雑な4重の金箔押しシールは自分の45年のものづくりの中でも1,2を争う複雑なデータ入稿の一つになり、この年齢でまだ過去最高を目指せるのは幸せである。シールはLINEスタンプと違いアナログで残るのが良い。 - カフェを作る
自分の作業場所を兼ねたコワーキングスペース「focus cafe(フォーカスカフェ)」を池袋要町にオープン。22年から物件を探し続けていたが、24年4月に出た物件を契約。
場を作りたい欲求はコミュニティを作りたい欲求と密接に結びつくものだったが、静かな作業スペースは雑談ができないため設計は改善の余地があったかもしれない。得意なインターネットと違い、僕の店舗作成能力はレベル1なのを実感。 - 住宅ローンを組んでみた
僕は非常に個人事業主っぽい能力だが、裏でサラリーマンとしても働いており、なんとNTT勤続が20年になった。会社員でいて得なことは多くないが日本では「謎の低金利で高額の住宅ローンが組める」というメリットがある。(高度経済成長時にできた制度のバグっぽいので今後無くなりそう)45歳は「住宅ローンがフルで組めるラストイヤー」ということがわかり、試しに組んでみることにした。住居にはほとんどこだわりなく生きてきたが、今後少しはこだわってみてもいいのかもしれない。 - 猫を飼ってみる
10月、住居に慣れてきたので猫を飼ってみた。AI以降、植物を育て、メダカを育て、ついに哺乳類に。猫をきちんとかわいがって育てる中で、自分はこの年まで平気で深夜3~4時まで作業をしている人生だったが深夜1時ころには寝るようになった。まだ飼い始めて数十日なのでなんとも言えないが「自分の創作の力が弱くなっている?」という気配も感じる。
AI時代をどう生きるか?と考え抜いた上での人生ルートだ。これでいいのだろう。ここからどこに向かうかを自分で見極めて進んでいくつもりである。
ということで、
2025年現在まで、ヨシナガがどのようなことを考えてお仕事してきたかのまとめでした。自分でもびっくりするくらい多くて、「ヨシナガが何をしている人なのか」は結局わかりにくかったと思います(笑)
引き続き新しい挑戦は継続して行い続けますので、お仕事依頼&興味のある方はいつでもご連絡下さい!(僕に会う予定のある方は直接聞いて頂ければいろいろとお話します!)
吉永龍樹(ヨシナガ)