近年、なんだか中篇小説(ノヴェラnovella)が元気だなあ、と感じる。一時はロベルト・ボラ―ニョ『2666』(邦訳880ページ、2段組)やエレノア・キャトン『ルミナリーズ』(邦訳784ページ、2段組)、ステファノ・マッシーニ『リーマン・トリロジー』(邦訳1499ページ)などのいわゆる鈍器本が目立っていたが、このところスリム化傾向が感じられる。ちなみに英米でノヴェラというと、だいたい120-200ページ未満だ。
先々月にこの欄でもとりあげたパレスチナ文学のノヴェラ、アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』(邦訳168ページ)は全米図書賞翻訳部門と国際ブッカー賞のダブル最終候補になっており、さらにドイツのリベラトゥール賞を授与された(しかしガザ攻撃が激化するなか授賞式は主催者側から一方的に中止を告げられた)。また、2022年に短篇集『七つのからっぽな家』が全米図書賞翻訳部門賞を受けたアルゼンチン出身のサマンタ・シュウェブリンも、それ以前にノヴェラ『救出の距離』が2017年の国際ブッカー賞の最終候補になり、シャーリイ・ジャクスン賞中長篇部門賞を受賞している。
さらに、今年のブッカー賞はというと、ガチガチの本命かと思われたアメリカの黒人作家パーシヴァル・エヴェレットの長編『James』(『ハックルベリー・フィンの冒険』を黒人奴隷ジムの視点から語り直した傑作)を押しのけて栄冠を掴んだのはあるノヴェラで、これはいろいろな意味で驚きをもたらした。受賞したのは、サマンサ・ハーヴェイの『Orbital(オービタル)』(未邦訳、原書136ページ)。宇宙ステーションで地球を周回しながらデータの収集を行う6人の飛行士たちの物語で、地球への愛と人間の営為への深い省察がこめられている。
発表後、今年の同賞はエヴェレットに与えられるべきだったと主張する記事がイギリスのテレグラフ紙に掲載されたこともあった。それぐらいこの選出にはインパクトがあったのだろう。とはいえ、ブッカー賞は2022年にもクレア・キーガンのノヴェラ『ほんのささやかなこと』を最終候補にしており、その後、同作はNYタイムズが今年発表した「21世紀のベストブックス」でも中篇としては珍しくランクインしている。
ブッカー賞のノヴェラの候補・受賞歴をたどると、その前は2011年にジュリアン・バーンズが『終わりの感覚』で受賞しており、受賞作で最も短い小説は132ページ(原書)のペネロピ・フィッツジェラルド『テムズ河の人々』(1979年)といった具合だ。
ヨーロッパは長篇小説の伝統が強いし、アメリカでは短篇小説は確たる文化的足場を持っているが、ノヴェラは出版のメインストリームではなかった。
今般のノヴェラの元気さは、2022年にアニー・エルノー、2023年にヨン・フォッセがノーベル文学賞を受賞したことでも印象を強めているかもしれない。もちろん、フォッセの小説と言ったら『セプトロギーエン』(未邦訳)という七部作があるし、エルノーも『歳月』(未邦訳)などの長編の評価が高い。しかし一方、どちらも中篇の名手であることに間違いはない。
今年は、フォッセの『朝と夕』と『三部作 トリロギーエン』、エルノーの『若い男/もうひとりの娘』という中篇集が邦訳されている。フォッセはもともと小説を起点に創作活動を始めており、小説家としては中短篇を得意としているのだ。
さらに言えば、2024年のノーベル文学賞受賞者ハン・ガンにしても、ブッカー賞受賞作の『菜食主義者』やその他の代表作『すべての、白いものたちの』は長めのノヴェラの範疇だろう。
日本では人気作家の中短篇集が続々
日本文学はどうかというと、今年は奥泉光『虚史のリズム』(1104ページ)、水村美苗『大使とその妻』(上下で688ページ)といった分厚い小説本も出ているが、一時に比べるとスリム化してきた印象がある。野間文芸賞を中村文則のノヴェラ『列』(160ページ)が受賞したのも印象的だ。
とくにこの数か月はなにかの合図でもあったかのように、人気作家の中短篇集が一挙に出版されている。先月とりあげた小川哲『スメラミシング』(河出書房新社)や、小川洋子『耳に棲むもの』(講談社)、平野啓一郎『富士山』(新潮社)、津村記久子『うそコンシェルジュ』(新潮社)、中島京子『坂の中のまち』(文藝春秋)、小山田浩子『最近』(新潮社)、宮内悠介『暗号の子』(文藝春秋)……。
平野啓一郎の5篇から成る『富士山』は人生の分岐をめぐる物語集とも言えるだろう。ほんのささやかに見えた選択や気づきが人生を変えていく。そうした人生の分岐点を題材にした小説としては、2人の「るつ」の人生が並行して描かれる川上弘美の『森へ行きましょう』や、ふつうの人びとのありふれた無数の決断が残酷な未来を形成する吉田修一の『橋を渡る』などが思いだされる。
それらはSF的要素を導入した物語だったが、平野の『富士山』はどれも徹底したリアリズム小説である。表題作の「富士山」ではマッチングアプリで交際を始めた四十路がらみの男女が主人公だ。
高給とりの会社員らしい加奈と、放送作家で収入は加奈の3分の1だという津山。加奈はひたすら結婚と子づくりというゴールに向けて活動をしており、つねに津山のことは目の前の恋人というより未来の配偶者として観察している。津山のほうは「僕、あわせられますから」というセリフが象徴するように、なにごとも加奈の好みを優先する。
そういう津山が旅行の際に、珍しく独断で「ひかり」ではなく「こだま」の席を予約する。なぜなら富士山が見えるE席が空いていたから。車窓から富士山を見たいという理由で所用時間のかかる「こだま」をわざわざ選ぶ津山に違和感を覚える加奈。車中でのある選択の違いからふたりの関係は思わぬ成り行きを迎える。
本書中で最も長い篇「息吹」は、平野の体験がもとになっているという。じつにリアルで怖い話で、一度読んだら考え方をもとに戻せないという点では、テッド・チャンの同名小説「息吹」なども想起させる。
主人公は妻と小学校高学年の息子のいる40すぎの息吹という男性。あるとき、入ろうとしたかき氷屋が満席だったためマクドナルドに入店する。そこで聞くともなしに隣席の中高年女性たちの会話を耳に入れる。片方は最近、大腸内視鏡検査を受けてポリープが見つかり切除したのだと言う。息吹は脇腹にいわく言い難い痛みを覚えたことがあったので、自分も検査を受けておくことにする。じつに気軽な気持ちからだった。
麻酔から覚めると、検査でポリープが2つ見つかったので切除したと医師から知らされる。切除したポリープの1つはガンだった。ステージゼロの時点で早期発見できて幸運だったのだが、息吹は「かき氷屋が満席だったという、たったそれだけのこと」で生死が分かれてしまうという確率の魔に魅入られ、彼の人生はそのときから分岐してしまう。パラレルワールドのモチーフを使って書かれているが、中年の域に入りかけたアラフォー男女の不安が肌感覚で伝わってくる秀作だ。
小説の本質を感じさせる小山田浩子「最近」
小山田浩子の連作短篇集『最近』もリアリズム小説でありながらいつも不思議な時間の流れをもつ。「赤い猫」は夫が心臓の不調で救急搬送された夜のことを妻の視点から語るが、記憶のいたずらな侵入性を小山田一流の文体で書いている。夫の検査を待つ語り手はふと気がつくと、子ども時代の回想に入りこんでいる。目にしたら死ぬという言い伝えの赤い猫が足下にまとわりつく感触が生々しい。詩人М・ムーアの言う「想像の庭に現実のヒキガエルがいる」とはまさにこういうことだ。
語りのおもしろさに惹かれたのが、この心臓に持病のある夫のモノローグで展開する「カレーの日」と「ミッキーダンス」だ。内容は、家で妻が作ったカレーを連日食べて週末もカレー屋に行って帰ってきたら妻がカレーパンを買っていた、というような他愛もないことが縷々書かれている。本作品集はすべて1人称文体で、他の5篇は「だ・である」の常体で書かれていなかで、この2編だけが「です・ます」の敬体で語られているのが気になる。
敬体とは聴き手を意識した話法で、コミュニケーション(語りかけ)要素を内包しているものだろう。日本語の敬語には、相手との上下関係、親しさの度合い、相手への配慮や感情表現が含まれている「カレーの日」の出だしはこうだ。
昼休みにパルスオキシメーターで脈と酸素量を測りながら、というのも少し前に不整脈で救急搬送されて以来の日課なのですがスマホを見ていると、タイムラインの先頭に『トッポイカレー閉店まじか』という文言が浮かんでいました。「エッ」と小さく声が出ました。トッポイカレーは新卒で勤めた会社(約1年半で辞めてしまったのですが)の近くにあったカレー店で当時よく行っていました。
書簡体小説でもないし、昔話などの伝承文学でもないし、だれに語りかけているんだろうという不思議な感覚がある。常体であれば、問わず語りの独白とも考えられるのだけれど。ともあれ、なぜか私生活の超こまかいことを一々読者に話してくれる(と感じる)この2篇。そうそう、小説ってそういうことのためにあるんだよね、と小説の本質を思い出させてくれる。小山田ワールドの醍醐味だろう。
フィクションの語り手の本質が明らかにする
その意味では、津村記久子の『うそコンシェルジュ』(表題作と続編がとくに秀逸)収録の「誕生日の一日」という一篇もナラティヴの本質について考えさせる。佐江子さんという喫茶店勤めの女性が主人公で、彼女が52歳の誕生日を自分ひとりでささやかに祝うという内容である。出だしはこんなふうだ。
今日はエツさんが十六時ごろ来たので、いつものように厨房にいちばん近い向かい合わせの二人席に通した。佐江子さんは、席が空いている限りは必ずエツさんをその席に通すようにしている。
「さん」づけからして佐江子さんの同僚か客か、なんらか関係のある一人称の語り手が予想される。誰かわからないが、ともかくも「こんなふうに言うと、まるで雅美ちゃんが佐江子さんをごみ箱のように扱っているようでもあるのだが」とか「相手のパンチ〈中略〉についての解説で、すごく筋が通っていて感心したそうだ」などと、佐江子さんたちを観察して報告してくれる語り手である。
いつ本人が出てくるのかと思っていると、どうもこれは見えない語り手が3人称で語っているらしい。佐江子さんの心情も逐次代弁するし、佐江子さんがひとに言わない過去も知っている。さらに、佐江子さんが独りで家に帰り、独りショートケーキなどを食べて誕生日を祝うようすも、この語り手は逐一見ていて、最後には、「誰かにお茶を出して話を聞くために生まれてきたんならそれでいいわ」という佐江子さんの心の声をダイレクトに聴きとっている。この語り手はどうしてここにいるんだろう? と不思議な気持ちにさせられる。
とはいえ、物語の語りとはもともとそういうものだったではないか? 数千年前にそれが生まれたときから。近現代の小説はなんとかしてその存在を隠蔽したり弁明したりしてきたけれど、フィクションの語り手とは突然出てきて、自分と関係のない人たちの生活を詳らかに語るものだ。それを本作は明らかにしている。
佐江子さんという孤独でつましい、おそらく将来にも不安のある中年女性のリアルな日常を、こうして見えない語り手の視点から寓話風の文体に仕立てたところに、津村記久子の鋭い批評があるのだろう。短篇だからなせる業だ。