なんのために人は本を読むのか
読書人の、魂の叫びのような小説だと思った。
本を読む者はみな、こういう小説を待っていたのだと。私は待っていた。
野崎まど『小説』(講談社)の書名が予告された瞬間に、これはただごとでは済まない作品なのだと確信した。なにしろ『小説』である。小説の小説であることはこの時点で確定だろう。もしかすると作家の小説であるのかもしれない。とすれば小説についての自己言及要素が間違いなく含まれるだろう。豊かな読書が期待できる。
そう考えながら実際に本を手に取ってみたのだが、予想は半分当たって、半分外れた。
小説の小説ではある。だが作家の小説ではなく、これは読者の小説だったのだ。つまりわれわれ。本を読む者すべて。小説を読むという行為についての小説である。
本作の第一の特徴は視点の置き方にあるのだが、そのことについて触れる前にまずあらすじを紹介する。
主たる視点人物となる内海集司が小学6年生の年から物語は実質的に始まる。小説の中心にいるのは内海と、友人の外崎真だ。内海は自分の意志ではない理由から本を読み始める。医師で上昇志向の強い父が、本を読む賢いこどもという役割を自分に期待していることに気づいたのである。なるべく利口そうな本を探して読んでいた内海は、やがて物語、小説というものに巡り会い、それに惑溺(わくでき)するようになる。父の期待からはその時点で外れ始めているのだが、親子はまだ気づいていない。
内海の通う小学校は東京都墨田区にあった。学校に隣接してモジャ屋敷と呼ばれる建物があったが、生徒はそこに入ることを禁じられていた。内海の担任教師・佐藤学は無責任な男で、その理由を漏らしてしまう。モジャ屋敷に住んでいるのは高名な小説家なのだそうだ。立ち入りを禁止されているのは、執筆の邪魔になるからだろう。そんなことを聞かされて物語の魅力に目覚めた小学生が我慢できるわけがない。内海と外崎はもちろんすぐにモジャ屋敷に侵入し、住人である髭先生と対面する。意外なことに先生はふたりの行為を咎めず、屋敷に置いてある本を読むことを許してくれた。
以来内海と外崎は、モジャ屋敷に通って本を読むことが日課、いや生活のすべてになる。その関係は小学校から中学校に上がっても続く。外崎は親の転勤に伴って多摩地域に引っ越さなければならない可能性が出てきた。進学先も当然西東京ということになるが、なんとしても墨田区の都立両国高校にしたい。モジャ屋敷に通えなくなるからだ。内海は外崎が小論文による推薦入試に挑むのを手助けする。二人は無二の親友となる。
内海と外崎が小説を読む。それが基本となって進んでいく物語だ。内海の読書は分析的で、豊富な知識を体内に蓄えていく。外崎の読み方は対称的で、感覚的だが直観の能力が優れていた。外崎はどちらかといえば落ち着きがなく、内海がそれに苦労させられることもある。まだ髭先生と知り合う前、モジャ屋敷に潜入したふたりが窮地に陥ったことがある。黙って気配を殺して隠れていなければいけないのに、集中力のない外崎にとってはそれができない。一計を案じて内海は、書棚からJ・R・R・トールキン作、瀬田貞二訳の『ホビットの冒険』(岩波少年文庫)を抜き出して手渡す。外崎は夢中で読みふけり、無事に気配を殺してくれた。そういうこどもである。
本の前半では、こうした幸せな少年時代が描かれる。読みながら10代における自分の読書体験が蘇ってくるのを感じた。父の書斎に潜り込んで適当に抜き出した本に読み耽っていた午後の時間が。気がつけば午後の光が窓から射し込んでいて、空中に浮かぶ埃が数多の結晶のように輝いていたことを。同じような別の記憶が蘇ってくる読者は多いだろう。
当然のことだが、人はいつか日だまりのような幼年期を抜け、自らの足で歩まなければならない青年期に入ることになる。内海と外崎も入る。そうなってからが本の後半で、『小説』という作品を通じての主題がようやく立ち上がってくる。
本を読むという行為はどういうものか。なんのために人は本を読むのか。
その問いかけがいつの間にか『小説』を読んでいる者の胸の中に芽生えているはずである。作者は押しつけない。しかし『小説』を読んでいれば必ずその問いは浮かんでくるのだ。
青年期に入った内海は苦悩の中に漂う。すでに、賢い子になって賢い人生設計をしてもらいたい、という父の期待は裏切っていた。不安定な職に就いて生計を支えるのにかつかつの額だけを稼ぎ、ただ本だけを読んで暮らすようになっていた。小説を読むことだけが潤いであり、小説を読むために生きている。
ページをめくればそこに別の世界があり、現実を忘れることができる。それは本当か。物語はそんなに強固で、現実を凌駕してくれるものなのか。作者はもっと現実主義的で、冷徹に内海の心情を描く。少し長くなるが引用したい。
――本を読む。小説を読む。読んでいる間は物語の中にいる。読んでいない時は泥の中のような気分でいる。大好きだった本を読めば読むほど自分が人として駄目になっているように思えた。小説を読むことが頭の中で逃避や慰めという言葉と繋がってしまうのが辛かった。そうでないと思いたいのにその根拠が見つけられない。無意識にハッピーエンドの本を探してしまっていた。小説をまっすぐ見られなくなっている自分に気づいて一人で泣いた。けれど読んだ。毎日生き、毎日読んだ。小説を読むことが生きることだった。[……]
『小説』の最も大事なピースは、このひたすら読むしかない日々を送っていた内海が、ある事態に巻き込まれ、自ら行動を起こした後で浮かび上がってくる。それが最後のピースとなって完成するパズルの絵図は非常に壮大である。SF作家としてすでに定評のある作者らしいものなのだが、ここでは一切触れずにおきたい。読んで確認いただきたい。
視点の飛躍が楽しい
最初のほうに視点の置き方に特色があると書いた。この最後に浮かび上がってくるピースと視点の問題は密接に結びついているのだが、それも説明しない。ただ、おもしろい文体だと書くに留めたい。おもしろい文体なのである。カメラは基本的に内海の背後にあり、肩越しに彼が見ているものを写している。内海の内面を代弁することもあるが、読んでいると間違いなくカメラは彼の内側になく、外側にあるのだということを意識させられる。時折ぽんと飛ぶこともある。内海や外崎が出会った人々の側に移って、外側から彼らを描写するのである。まるでカメラを操作する者が、そうだ、ここで彼らの外側にある状況を録っておかなければ後で全体図を把握するときに困るはずだぞ、と気づいたかのように。ぽんと飛ぶ。その飛躍が楽しい。
小説についての小説であることは間違いない。小説について一から学んでいく内海の視点は、それ自体が一つの小説論的な問いかけになっている。ウィリアム・バトラー・イェイツの詩や芥川龍之介の小説を読んだ内海は「同じ人間が書いているのに人智を越えているような」感じを覚えることに不思議を感じるが、答えを出すことはできない。たぶん読者もできない。そうした答えの出ない問いについて考えるのも『小説』の楽しみ方だ。
読むと小説を好きになる。好きではなかった人も好きになってくれる、と願いたい。もともと好きだった人はもっと好きになる。それは自信をもって断言できる。私はそうだった。