四十歳が迫ってきた頃のことである。勤務先からの帰り道、家には寄らず、車をさらに三十分ばかり走らせて海に向かった。初夏の夕暮れの太平洋を眺めながら、どうしたらよいものかと思案した。いつまでたっても甘っちょろくて不甲斐ない。若い頃は失敗しながらもなんとか仕事を続けていたが、年齢を重ねても依然として未熟すぎる自分に焦り始めた。さらに、このまま子供のいない人生になるのかと戸惑いが生じ、そして最悪なことに、夫との関係がきしんでいた。仕事中も涙がかってに出てきた。胸の中にぽっかり穴が空き、そこに充満した自分を否定するネガティブなエネルギーに負けてしまって、人生の迷子になった。
太平洋の向こう側のカリフォルニア州サンディエゴでは、日本の看護学校を中退してアメリカ人と結婚した五歳年上の姉が、子育てが一段落した後に娘と一緒に大学に入学して、親子で看護師の猛勉強をしていた。大学での猛勉強という選択肢が私にあるわけがない。
そんなある日、秋田県の雄和町に設立されたアメリカの大学の日本校のニュースをテレビで見た。日本で英語と一般教養コースを終了した後に、アメリカの大学に編入するというシステムのようである。夕飯を作る手を止めて、映し出された夢追う若者たちを見ながら、ふと、そこで一緒に勉強している自分の姿を想像した。
私は、高校の図書室での勤務が長かった。その高校は毎年のようにアメリカやオーストラリアからの留学生を受け入れていた。留学生は図書室で過ごすことが多かったため、私には彼らと話すチャンスがたくさんあった。別の高校に転勤して事務室勤務となり、留学生と会話することもなくなったが、英会話教室に通ったり、通勤時間に英会話のテープを聴いたりして、英語の勉強を細々と続けていた。テレビで秋田にあるアメリカの大学のことを知って以来、「留学」という言葉が私の心に住み着いた。
以前から、須賀敦子の『ミラノ、霧の風景』や『コルシカ書店の仲間たち』の本を読んで異国の地で勉強することにあこがれ、また『地球を救う50の方法』という本に触発されて環境問題に興味を抱いていた私に、アメリカの大学に留学して環境学を学びたいという夢が発生した。貯金と退職金を合わせると何とかなりそうだ。迷子から脱出するには留学するしかないと思い込んで、夫に相談した。高校教諭であった夫はこの考えを面白く捉えた。四十歳間近にして留学の夢を追う私は極端な性格かもしれないが、それをすんなり受け入れる夫も普通から少し離れた思考の持ち主かもしれない。
入手したミネソタ州立大学秋田校の資料によると、入学願書に自己推薦書を添付する必要がある。夫に添削してもらって自己推薦書を提出した結果、無事合格することができた。
私は、一九九六年三月三十一日に退職し、その三日後に、青森県八戸市から秋田県雄和町に引っ越して、ミネソタ州立大学秋田校に入学した。三十八歳のときである。胸の中のぽっかり穴は夢と希望で満たされて、まるで小学校に入学直前の子供が買ってもらったばかりのランドセルを背負ってそよ風の草原をスキップしているような、さわやかな気分であった。以来、二〇〇五年六月にアメリカから帰国するまで、夫と離れて暮らすことになった。秋田で英語と一般教養を勉強し、一九九八年八月にアメリカのミネソタ州立ベミジ大学に編入した。そして、二〇〇二年六月にニューメキシコ州中部のソコロという小さな町にあるニューメキシコ工科大学の大学院に進んだ。
この期間に猛勉強したというよりは、大量の難解な宿題をひたすら解き続けた。留学を終えても期待したほど賢くもならず、甘っちょろいままである。しかし、すごく面白い教授たちに出会った。そして留学のおかげで秋田犬のカイ君に出会った。ずいぶん時間が経過したが、この大切な出会いを忘れてしまわないよう、文字に残しておきたいと思う。
第一章で私が住んだ雄和町とベミジとソコロという三つの小さな町を簡単に紹介した後、第二章から第四章では時間軸をさかのぼることにする。小学生の頃から好奇心が旺盛だった幼なじみのクミコちゃんに励まされて、帰国後間もなく記録していたソコロでの卒業研究にまつわる話から始めたい。それからベミジと秋田の記憶の糸をたぐることにする。そして最後の第五章で、留学が導いてくれた秋田犬のカイ君との出会いについて話したい。