そしてオハナシはカタチを変えてツヅイテイル…
2001/05/25 01:25
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投稿者:安井 - この投稿者のレビュー一覧を見る
オウム真理教事件が起きた時、日本は震撼した。なぜ知的な若者たちが、オウムに惹かれ、残虐な犯罪に手を染めてしまうのか。宗教とはそれほどまでに引力が強いものなのか。そんな問に真っ向からぶつかり、橋本治は言う。自分が自分らしく生きるために、「宗教なんかこわくない」と言おう、と。新潮学芸賞受賞作。
徹底的に近代人の橋本治
2001/05/06 18:39
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投稿者:谷池真太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
オウム事件について橋本治が書いたもの。橋本治は、宗教は過去のものである、と断定する。それは「自分の頭でものを考える」人間にとっては宗教などという外的要因によって自己を導いてもらう必要がないからである。
だが、実際はどうであろう。皆、自分の頭でものを考えやしない。何となくまわりに流されて生きている。そんな現在の状況を、日本人はみんな宗教に犯されている。そのために日本人は宗教を知らないのだ。だから宗教に対して「怖い」「よく分からない」といった画一的な反応しか返ってこないのだ。と、橋本治は喝破する。
しかし、私は思う。現代という社会が「日本人はみんな宗教に犯されている」のであれば、それが普通なのではないだろうか。それに強い違和感を覚える橋本治という作家は何なのであろうか。橋本治の違和感の理由は彼が日本でただひとりの完成された近代人である作家だからだろう。
「個人」としての自我を持つ橋本治は近代化が完成されていない日本という国と日本人に対して「バッカじゃねえの」という思いを抱くのである。ここらへんの橋本治の感性は『青空人生相談所』でもうかがい知ることが出来る。もちろん桃尻娘などの一連の著作でもだが。
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対新興宗教の本です。宗教について橋本治が熱く語っているので、ムカつくか心酔するかどちらかになるような気がします。ちなみに私は、結構ムカつきました(笑)だってタイトルからして「いや、宗教はコワイよ」と突っ込んでしまったので。でも生産を奨励する宗教と、奨励しない宗教って考え方は、なかなか面白かったです。
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結局この本が言いたいのは、宗教なんてもう要らない、自分の頭できちんと考えれば宗教なんてなしでやっていけるはずだ、ってことですね。
しかし橋本治おそるべし・・・オウム事件真っ只中で「麻原しょーこーはどこに隠れているか」に対して、富士山麓の地下で巨大化して卵を産んでいる。卵の大きさは90cmぐらいで一つ一つがみんな”あの顔”で、毛が生えてて・・・ってどんな想像やねん(−−;気持ち悪すぎる(w。それ以上にキモチワルイ想像が「あさはらしょーこーってね、人に近づくとき、あの顔を寄せてクンクン匂いをかぐんだよ」って(−−;めちゃくちゃやー。気持ち悪すぎるー
ちゅーそんな感じの本です。実家へ
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「オウム真理教事件を契機に、日本人が本当の「近代」を獲得するために橋本治が宗教について真っ正面から取り組んだ話題の本、ついに文庫化!新潮学芸賞受賞作。 」書評より
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私もよくジャケ買いをしますが、この買い方って多いと思うんです。それを考えると、この著者がどれだけ捻くれているか、よくわかりました。宗教なんかこわくない!
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橋本さんが宗教について語っています。
自分も自己啓発本という名の宗教に嵌っているかもしれないので
それを客観的に自己分析するための道具として読んでいます。
宗教は自分で頭を使う事が出来ない人のお守りみたいな、
また自分で色んなこと考えるために宗教に入るという文章には
なるほどな〜と思いました。
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オウム信者は麻原に田中角栄をみた。孤独な官僚たちは田中に人間関係の心地よさをみた。
日本人は、宗教は信じるものだから難しいものではない、哲学は考えて勉強するものだから、難しいと信じている。
日本人に一番必要なのは、宗教ではなく、自分の頭でものを考えるという習性。
自分の頭でものを考えられるようになること。日本人は真面目になろうとすると、無意識に自分の内に宗教を求める。
宗教は生産をしない。
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橋本氏の書かれた本。例のオウム事件について書かれたものですが、
彼の仏教への理解の仕方は私は好きです。
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宗教と経済の関係性を独特の視点で教えてくれる。生産を奨励しない宗教と、生産を奨励する宗教。人間関係の基本はやっぱり労働の場所にしかないのダと納得の一冊。
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橋本治の宗教なんかこわくない!を読みました。オウム真理教の批判をベースにはしていますが、一般的な宗教論です。友人に勧められたのですが、結構面白く、一気に読んでしまいました。宗教には「内面に語りかける宗教」と「社会を維持する宗教」の2種類がある、とか、オウム真理教の犯罪は「子供のしでかした犯罪」である、などの面白い主張が展開されています。
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宗教とは、現代に生き残っている過去である。宗教が難しいのではなく、宗教を論じるために必要とされる「歴史に関する知識の量」が膨大だから、宗教を論ずるのは大変なのである。――本文より
『宗教なんかこわくない!』なんて、まさに「いったい自分は、どんな因果で宗教がテーマのゼミに入ったんだろう・・・?」と思っていた私にぴったりのタイトルではないか! と、借りて読みました。読みました。一字一句残さず読みました。
・・・が。あまり読んでいて楽しい本ではありませんでした(だから、敬語でこれを書いているのである)。というか、言わせてもらうとですね、私はとてもこの本が気に食わなかったのです。むっとしたのです。
この気持ちをどう表現したらいいものか・・・。
私は橋本氏の本を読むのはこれが初めてなのだけど、なんというか・・・すごく、「馬鹿は馬鹿だから放っておけ」と作者が言っているような気がしたのかも、しれない。あるいは、「馬鹿は何を言っても無駄だ」という風に、私には受け取られたかも、しれない。
確かに、何をいくら説明しても、わからない人はわからないだろう。自分でものを考えようとしない人だって、人の話を聞こうとしない人だって、たぶんこの世には掃いて捨てるほどいると思う。
けれど、やっぱり、そんな人たちだって、苦しくないわけではないと思うのである。鈍感だからって、痛みを感じないわけではないし、誰とも関わらずにいられるからって、全然寂しくないわけでもないと思う。
私だって、そういう人たちのことを、時々許せなくなることはある。人の痛みをもっと知れ、人の気持ちを考えろと言いたくなることもある。けれど、だからって、そういう人たちのことを考えるだけ無駄だ、だから自分や社会はそういう人たちみたいにならないよう、賢くなればいい、とは思わなし、思えない。
なぜなら、賢いことも辛いけど、賢くないことだって、辛いからだ。私は数年前の自分を本当に幼かったな、考えが足りなかったな、と思っている。あんなこと考えてたなんて馬鹿だな、と思うこともいっぱいある。けれど、そのことを恥ずかしいとは、あまり思わない。むしろ、あのときの無知な自分を大いに慰めてあげたいな、と思うのである。無知は無知なりに、苦しいこともたくさんある。それゆえ、愚かなこともたくさんする。
だからって、誤った道に進んでいいと言っているのでは、もちろんない。私が言いたいのは、人は急に賢くなれない、ということ。賢くなるには時間がかかる。だからある程度まで「自分で考える」ことが身につかない限り、馬鹿なこともいっぱいする。そして、そういうときの「馬鹿なこと」をしている間というのは、本人にとって、真っ暗なトンネルにいるような気がしてしまうものだということ。いつが出口なのか、いつ抜け出ることができるのかも、わからないということ。たとえあと数十メートル先に出口があるとしても、本人にとっては、今この時が全てなのかもしれない、ということ。
つまり、私がこの作者に言いたかったのは、「あなたにはこういう暗闇で手探りする時期の、あの苦しさを忘れてしまったのか?」ということな��かもしれない。
でも、本文の中に、暗中模索することについて触れていると思われる部分だって、ちゃんと書いてあったはずだ。それでも私が読後にこう思ったということは、そのくだりの書き方に、やっぱりどこか引っかかるものを感じたのだろう。
うーん・・・。あまりに長くなりそうなので、感想を書くのは、ここらへんでやめておく。
それでも私がこの本を☆2つにしているのは、やっぱりなんだかんだ言っても優れた論も書かれているからで、読んで「なるほど」と思うこともいっぱいあったからなのである。
でも、やっぱりすっきりしない。やっぱり、今思い出しても、ちょっとむかっとする。
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誰にも真似できない、橋本治さんの宗教論。オウム事件から宗教をあぶり出して、安易に批判すると思いきや、仏教の知識はかなりのもの。彼の宗教の考え方がとても好きです。
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宗教だけでなく、思想についても全く染まらず、自ら考える癖をつける必要性を感じた。
ネトウヨのような権威主義的パーソナリティの持ち主や、左翼のように現実を無視した理想論などに注意して対応したい。
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橋本治が、オウム真理教事件について語った本。
オウム真理教事件について、著者はその「幼稚さ」を指摘しています。麻原彰晃のお面をつけた選挙運動から、彼は「権力者」になりたかったのではなく、「人気者」になりたかったのだ、と論じ、さらに彼の語尾の下がる話し方から、この人は「人と対等に話をする」ということをしてこなかった人だ、と喝破します。
ただし、麻原やオウム信者の「幼稚さ」を指摘するのは、それほど独創的な主張ではありません。著者の独創性は、そこから翻って、このような麻原やオウムについて私たちが「分からない……」とつぶやくしかなかったのはどうしてなのか、という方向へと問いを向け変えるところにあります。この問いに答えるために、著者は日本史をさかのぼり、日本人が「宗教」というものに対して及び腰になった理由をさぐっています。
著者の議論は、ときにオタク・バッシングと見まごうような様相を呈することがあり、宮崎勤事件からオウム事件に至るまでのオタク・バッシングの渦中にあった人たちにとっては、こうした語り口に対して心穏やかではいられないということもあるのかもしれません。ただ、著者が批判しているのは、オタクであれ非オタクであれ、他者に対して無際限に自分を承認してほしいと要求する厚かましさに向けられているのだと、個人的には理解しています。