まずは疑ってみることから始めるという姿勢が清々しいエッセイ集
2006/11/20 23:18
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投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
脚本家・大石静の最新エッセイ集です。週刊ポスト連載の「ヤヤもすればヨヨと泣く」からの抜粋ですが、連載時のタイトルから連想される か弱さは微塵もありません。大石静のエッセイの特徴は、常識や当たり前と思われるもののことごとくを見つめ直し、そこに安易な思考停止や軽々しい責任放棄がないかと、懐疑的な言葉をぶつける点にあります。本書でもその姿勢には、いささかのぶれもありません。
たとえば、「若者の権力志向」と題した一編。
著者はウィークデーのすいている映画館に出かけ、次の回が始まるのをロビーでくつろぎながら待っています。そこへ劇場スタッフの青年がわざわざやってきて言うのです。「前の回が間もなく終わるので、○番扉の前にお並びください」。
すいているのだから並ぶ必要はないのでは?と尋ねる著者に、青年は苛立った風にこう言葉を継ぐのです。「決まりですから」。
著者は、決まりだからということに何の疑問も持たない彼の思考に恐ろしいものを感じます。決まりごとという権力を持つことにカタルシスを覚える若者や、それを許して権力に仕切られている方がお気楽だと感じる人間が増えていることを、著者は静かに冷静に危惧します。
私がもっとも勇気づけられたのは「生まれてきたい」と題された一編です。
「生まれる」というのは「産み落とされる」という受身のニュアンスがあると言われますが、この一編を読むと考えが少し変わります。著者は、知人がおなかの子供に対して「生まれてきたかったら、生まれてきなさい」と呼びかけ続けたというエピソードを引き、生命が親の都合ではなく、強い意志をもって生まれてくるのだということを実感するのです。
この一編を読み、私も思ったのです。そうだ私もきっと生まれてきたいと思ってこの世にやって来たに違いない。だからこそ、生き抜くだけでもしんどいと思えるこの世だけれど、私は絶対に生き通すべきなのだ、と。
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お母様方が見る大河ドラマ、朝の連続TV小説などの脚本家、大石静さん。週刊誌に連載されていたコラム?を本にしたもので短編区切りなので楽しめた。山の上ホテルを並ぶ文豪達の荘をされていたご実家の話は、驚きました。私、子供の頃の夢は『山の上ホテルで結婚式♪』でしたから(笑)
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ファーストキッチンの「ガリポテト」で知る若者の味覚、視聴率至上主義の真の背景、「全然いい」などデジタル化する日本語、子供に「翔人」と名づける親、ますます“若尊老卑”化する社会・・・。どんどん便利になる日本、でもどこか病んではいないか?
人気脚本家オオイシが、仕事、人生、恋愛を通して日本人の心イキを問う、痛快エッセイ。
(「BOOK」データベースより)
本書は、2002年12月~2004年10月までの期間に週刊誌に連載されていたエッセイをまとめたもので、「職人の意気」「日本のイキ」「人生の粋」の3つに分かれている。
「職人の意気」では、テレビで働く人たちを初めとして様々な”プロ”の職人魂とはなんだろう、といったものが著者自身の目線で描かれている。大石氏が脚本を手がけたドラマの裏側の事情も見えたりして、とても興味深く読んだ。
大石氏は現場で「疲れた」と口にする人間は俳優もスタッフも信用しないと言い切る。自分自身も何があっても「疲れた」とは死んでも口走らないと。それが”職人”、すなわちお金をもらって働く”プロ”ということなのだろう。
その「職人の意気」のなかに「若者の権力志向」と題されたエッセイがある。劇場スタッフが特に混乱が起きているわけでもないのにもかかわらず、「決まりだから」のひと言で客を思いのまま動かせようとする、という内容だ。1,200座席もある映画館に20人ほどしか客は居ない。けれど、そのスタッフは「扉の前で並んでください」と言う。その口調はもはや客に対するものではなく、命令に近いものだ。客にサービスを提供するという職務を忘れ、自分の言葉で人の動きを制御できる自分に酔ってしまった若いスタッフ。これではプロとは言えない。そのスタッフがアルバイトだろうが、正社員だろうが、客には関係ない。自分の対応一つで、その劇場に対する客の印象が決まってしまうという自覚がないのだろう。いや、自分が正しいことをしていると思いこんでいるのであろうことの方が恐ろしい。
「日本のイキ」のなかでは、日本の時代の移り変わりを感じさせるエッセイが多く収録されている。その中でも特に印象的なのは、上記の本の紹介文に書かれている「子供に”翔人”と名付ける親」。さて、これは何と読むのかおわかりだろうか。著者が電車の中で嘆いているやや年配の女性たちの会話から聞いた話。自分の孫が生まれたけれど、その子の名前が”翔人”だというのだ。”しょうと”ならまだ読めるし、理解できる。が、実際は・・・。読んでからのお楽しみ。よくもまぁ、こんな名前を考えついたものだと、ある意味、感心してしまう(苦笑)。
さて、同じエッセイの中で牧師である父に「勝利者」という意味を持つ名前を付けられてしまった画家の話も出てくる。生前に売れた絵はわずか1枚。世間に認められないまま自ら命を絶ってしまった。死後、彼の絵はようやく認められ、今では知らない人はいないだろうというくらいの有名な画家だ。名前とは、皮肉なものだという気もする。
「人生の粋」では、著者の人生観のようなものがよく現れているなと感じた。同感する部分もあり、ちょっと違うなと思う部分もあり。一番印象深かったのは���つのエッセイ。
「生まれてきたい」という話の中に、著者の友人が未婚のまま妊娠したときに診てもらった産婦人科医の言葉が出てくる。流産しかけた彼女に医師は言う。
「薬は使いませんよ。科学の力を頼るくらいなら、産まない方がいい。親の思いに左右されるような子も、弱過ぎる。何が何でも生まれてきたい子だけ、生まれてくればいいんだから」
ただ快楽を求めた結果、生まれてきた子も、苦しい不妊治療の結果、産まれてきた子も、みな「生まれてきたい」と自ら望んで生まれてきたのだろうか。それだけの思いを持って生まれてきた子でも、この世の空気を胸一杯に吸い込んでからわずか数ヶ月後、あるいは数年後に命を失うこともあるけれど・・・。
もう1つは「自由墓石って?」と題されたエッセイ。今はいろんな形の墓石が流行っているらしい。それに違和感を覚えるのは私だけではなかったようだ。著者の言葉を借りると、その自由墓石なるものには、生と死の哲学が感じられない。そこにはノーテンキな明るさだけが存在し、墓の持つ情緒もない、ということになる。
人は死んだらどこへいくのかわからないし、果たしてどこかへ行くのかどうかもわからない。死んだあと自分の墓のことまで気にするのかどうかも、生きている人間ならば誰も知らないわけだ。そう考えると、「お墓」というのは遺された者のためにあるのかもしれない。ならば、どういうお墓にしようと勝手といえば勝手だ。自由である。けれど、自分の墓はシンプルにして欲しいなと、生きている今はそう思う。
墓が必要かどうかという議論もある今日この頃。散骨葬もできるらしいから「お墓」は絶対的なものではなくなってきている。「生と死の哲学」というものも変わりつつあるのかな。
全部で48編のエッセイ集。著者の厳しい視線も優しい視線も感じることができる。もちろん楽しい視線も。どの言葉も書き留めておきたくなる話ばかりだった。