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安吾が繰り返した述べた「肉体の文学」は吉行によって成し遂げられた。
吉行は全部同じという人もいるけど、どれも面白いよ。
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「男」とは「ナイーブで(愛しいほど)まぬけ」だと知った1冊。吉行が身をもって教えてくれる、ありがたい。
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吉行淳之介は病弱で、東大英文科に入っても学業に勤しむ気がおこらず、さっさとやめて女学校の教師になり、さらに編集者に憧れて、雑誌社に入っている。思想から離れて娼婦の街に着目した。
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またしても画像がないっ(笑)
自分が生まれる少し前に発売された本ですね。
育った街を考えさせられます。
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夏の休暇 は
グワっとせまる夏の濃い青の空の色と
夏休みの妙にゆったりとした生ぬるい時間
強すぎる太陽が地面を焦がす匂いを感じる話
あっけらかんとした語り口
予感に焦るまだすこし純な娼婦に自分を重ねるように私もいつかなるんだろうか
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芥川賞シリーズ⑧
娼婦との純愛物語といえる。設定が現代には合わないが、人を愛することの切なさがとてもよく表現されている。アカシアの葉が一斉に落ちていく場面で主人公は自分の心の葛藤も整理できていったのでしょう。
文学的作品なのでしょう、奥行きが深く読み砕けばさらに深く理解できそうですが・・・。
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浦野所有。
芥川賞受賞作。…ですが、この1冊だけでは、吉行淳之介の何たるかが理解できませんでした。
作風としては、一つの物語のなかで次々に話者(視点)をかえることで、立体的に見せるというのが特徴なのでしょうかね。
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暗色の絵画のような文章が、読物の中に引き摺りこんでくれます。
性的な話を美しいと感じたのは、この人の本が初めてだったと思います。
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かなり面白かった。
上手く言うことはできないけれど、これまで僕は、吉行淳之介は女性や女性に対したときの男性を描くのが上手いのではないかと思っていた。例えば吉行淳之介の作品には、風俗嬢のような人が登場して、それが魅力的であることが多いので、そうした気分のときに吉行淳之介を手に取ることが多かった。
けれども、この短編集を読んで、特に「漂う部屋」を読んで、吉行淳之介の別の側面を見ることができたと思う。「漂う部屋」には、『生の極限の姿から醸し出される奇妙なユーモア』に富んだ場面がたくさん登場する。どうしてこうまでいやに心に残るのかは分からないが、ユーモアと言わざるを得ないというような場面である。これが非常に面白いというわけである。
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吉行淳之介は『夕暮れまで』だけしか読んだことがなく、しかしその作品の印象がなかなか良くて気になっていた。
そこで、吉行の娼婦物を中心に読んでみることにした。
・「原色の街」
気に入るということは、愛することとは別のことである。気に入るということは、はるかに微温的なことだ。
・「驟雨」
その女を、彼は気に入っていた。気に入る、ということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。そこに愛情の鮮烈さもあるだろうが、わずらわしさが倍になることとしてそれから故意に身を避けているうちに、胸のときめくという感情は彼と疎遠なものになって行った。
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プレーンでドライな文章。中性的。色町を描きながら、エロスにおもねらないというか、たぶんすごいことなんだろう。
話としては女の一人称視点で、「くぅ、あたしったらだめなのに、アレなんてちっとも好きじゃないはずなのに、でもだめ…感じちゃうのぉぉぉひぎぃいい」みたいな、まあひどく誇張すればそういうことなんだろうけども。
とにかく文体には好感がもてる。
けどちょっと、やはり日本の私小説に対する抗体みたいのがすごくできてしまったと感じる。第三の新人とかも、おもしろいことやってんなーとは思うけど、きちんとは入っていけないのだ。この頃。
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男女の間に横たわる不毛、両者の間にきざした違和感が微細に描かれている。各短編に登場する男女は、みな心と体がバラバラに存在しているかのような印象を受ける。
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初期の5つの中・短篇を収録。篇中の「驟雨」は第31回(1954年上半期)芥川賞受賞作。吉行は、「原色の街」で候補になって以来、ほぼ毎回候補に挙がって来て、ここでようやく獲得したのであった。つまり、手練れではあるものの、最後のインパクトには欠けるとの評価だったようだ。また、後年にも『夕暮れまで』を書いていることから、官能小説化のようにも思われがちだが、実質はかなりニヒルでクールな都会派作家である。ここでも娼婦が描かれるが、情交の場面はなく、主人公の山村と娼婦の道子、それぞれのデラシネこそが描かれたのである。
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「原色の街」の舞台となった場所を訪れたのをきっかけに興味を持ち、はじめて作者の本を読みました。5編からなる短編集。お金で買う割り切った物理的な「肉体」の関係を通して、複雑な「精神」の構造や変化を描いた「原色の街」「驟雨」がとてもよかった。どの話にも共通すると思ったのですが、混沌としたなかで何かを結論づけるようなものではないのに、驚愕させられるような、印象に残るラストの表現の仕方、描き方は素晴らしい。この作者が個人的にすきか嫌いかは別として、凄い作家だなと思いました。
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「原色の街」
男どものだらしない欲望(エゴ)を集める自分自身こそ不潔である
そう考えるなら、彼女にとって娼婦は最適の職業だろう
そこであれば、不潔な肉体と潔癖な精神を
職業的意識において、完全に合致させることができるから
彼女は性的に不感だった
しかしあるとき、客の男に焦らされたのがきっかけで
エクスタシーに目覚めてしまう
潔癖な精神を離れて、肉体がよろこびを感じるとき
彼女が娼婦を続ける理由は、半分消失したのだ
肉体が存在の代価を支払うなら
それを賄賂に潔癖の目をごまかすことは可能だ
食っていくだけなら、適当な結婚相手を見繕うのに苦労しない女である
ところが新たに生じた問題もあって、結婚に思い切ることができない
その問題とは、情熱だ
ひそかに彼女は、性感を目覚めさせてくれた男への執着を抱え込む
それは純粋なロマンであると同時に
やはり一方的なエゴイズムの恋でもあるわけだ
「驟雨」
戦後日本を身体ひとつで生きている娼婦たちに
自由というものの、ひとつの理想を見いだそうとするのは
甘いロマンティシズムでしかないだろう
しかし、ロマンにおいて自らを戦地に駆り立ててきた日本の男たちだ
なんだかんだ言いつつ、それをどうしても手放せない
結婚を機に出世していく同僚を横目に見ながら
自分は娼婦との関係にこだわって、ばかな嫉妬に狂っている
タイトルの「驟雨」とは、街路樹の葉っぱが病気か何かで
一気に散っていくさまをそう呼んだものだ
それは、ロマンによって蝕まれた日常の終わりを予感するものか
「薔薇販売人」
実存は本質に先立つ、そう言ったのはサルトルという人で
これはつまりどういうことかというと
人間存在の本質を規定するのは行動である、ということなんだ
早い話、自分が何をすべきか?などと思い悩む前に
とにかくなんでもいいからやってみろ、といった考え方である
そのように行動することではじめて、自分というものが
形づくられていくというわけだ
そんな感じで薔薇のセールスマンやってみた!という話
主人公は、薔薇を売りに行った先で
人間の本質というものをうじうじ追いかけてばかりの男に出会う
そして互いを軽蔑するために
女をめぐってむなしい策略を仕掛けあうんだ
少なくともそれが、彼らの本質というわけなのだった
「夏の休暇」
小学五年生の夏休み
一郎くんは、父親と、その愛人に連れられて大島に向かうのだった
三原山の火口に登ったりして、まるで心中旅行のようだが
そういうことではないのである…たぶん
この父親というのが破天荒というか不安定な人で
急に笑いだしたり怒りだしたりと、一郎くんの心を振り回す
大荒れの海に海水浴する父を見ながら一郎は
軽い怯えと、「死ねばいいのに」的な感情を同時に抱くのであった
だがそんな父親だ、殺すまでもなく勝手に死ぬだろう
「死なぬなら死ぬまで待とうホトトギス」
これぞまさしく、戦後日本男児の生きる知恵とい��もの
「漂う部屋」
しかし日本人の平均寿命はどんどんあがっていくのだった
かつては不治の病として恐れられた結核も
戦後には、薬の普及と医術の進歩で、ぐっと完治率が高まった
ところが、先入観にとらわれた世間の人々はいまだに
結核の療養所があの世への入り口で
完治者の手術痕を、まるでケガレのようなものと見る
まあそれはしかたないことだ
結核患者たちは、せめて死のタブーを笑いに転化することで
自分たちのなぐさめにするのだった