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「小さないじわる」…思い当たる節がありすぎて反省した。やられてきたからやり返す、それが大きないじわるに発展していくこと。私という細胞が変われば良い。それを突き通すだけの気持ちを私は今からでも持つことが出来るだろうか?
「慈悲の心と、論理性の共存」... あまり感情的にならず、正しい心を持つこと。感情は持ちすぎると偏見が含まれてくるのだという。私も正しい心を訓練する必要がありそうだ。
本書に出てくる出来事は些細なことだけど誰にでも経験があるはず。だからこそ、私は私に出来ることを、私が大切にしたいものを大切にする。『この人は私と違う、まあいっか』ではなく、『なんだか私と違うけれど、この人も細胞の一部分である』ということ。忘れないように長々と記すことにする。
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小さな棘、ささいな悪魔を徹底的にとりのぞくと何がおこるだろう。
「小さないじわる」
この言葉にドキッとしました。
自分のプライドを守るためとか、ちょっとした憂さ晴らしから、小さないじわるをしてしまう。
心の中から小さな悪魔が、ちょっとだけいじめちゃえ!とそそのかす。
自分に余裕がないと、やってしまいます。
面倒だから、自分を認めてほしいから、許せないから、理由はいろいろ。
自分が知らないうちに、小さないじわるをしていたことに気づかせてくれます。
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インドの仏教の言葉「ただし手段が存在しているならば、何も心配することなく、正す努力をすればいい。しかしその問題に対して、何も手段がなければ、やはりそれ以上心配しても全く無意味である。」
苦しい時こそ現実を見る
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よしもとばななとダライ・ラマの対談というよりは、よしもとばななの思想の独白的な本。
「ちいさないじわる」の具体的イメージと、そこと闘うよしもとばななの姿が印象的。
そして、それ以外は何も無い本。
ダライ・ラマは、よしもとばななの話を引き出す触媒となっている。
ただ、「ちいさないじわる」のイメージについては、とっても心に響く。
自分も、ちいさないじわるをして生きている自覚があるので、気をつけたい。
札幌市の図書館で借りた本。
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ダライ・ラマも、素晴らしいのではないかとは思うけど、私にはよくわからない。それよりも印象に残ったのは、よしもとばななの人間観。
以下、引用。
人ひとりひとりは、歯車ではなく細胞のひとつひとつと考えるといいのではないか。人間ひとりひとりが細胞で、皆で大きなな「人類」という人間を、作っているのだと思うと、いろんなことがよくわかるようになります。
髪の毛の細胞の人、お尻の細胞の人、まぶたの人、唇の人、心臓の人、各部位の人にそれぞれ不満があり、それぞれの自負心があります。自分の部署でない機能に対して憧れを抱いたり、妬んだり、自分の部署の仕事をおろそかにしたり、それもすべてそんなふうに説明できると思います。お尻の人には頭の人のことがよくわからないくらい遠いが、確実につながっている。そんなところもよく理解できるような気がします。それから、異様な罪を犯したり、人を殺すのに心底喜びを覚えるような人たちに関しては、がん細胞のような異形の細胞だととらえると、しっくりきます。だとすると、その細胞全部が集まった人間という存在をひとつにつなぎとめているもの、それこそが魂と呼ばれるものであり、特定の宗教ではなく、生命への畏怖心を呼び覚ます、大きな物を、思うときの感覚ではないでしょうか。
目の前の人を自分の一部だと思うことができれば、その弱さを理解することも、人を攻撃することはすなわち自分に対する攻撃だと言うことも分かり、相手に対する怒りもなくなるはずです。
人類は全員で一人の人間であるという考え方になりました。人は皆根本のところでは同じ物を共有していて、それぞれに得意なことと不得意なことがあり、できることとできないことがあり、小さな細胞が集まって支え合って、人類という一つの大きな生き物を有機的に機能させている。たったひとつの共通項は、魂なのです。
自分が持って生まれた物を十全に全うすることが大切なことだと理解しています。私が自分の役割を、放棄してしまったら、私には細胞の代わりができる人はいないのです。
それを皆が身体的に、精神的ではなく身体的に、生活の感覚の中で真に理解できたら、この世は随分変わって行くと思います。
ただ自分を十全に生ききるとき、それぞれの個人は初めて元々持って生まれた自分の枠を超え、他の人と本当に同じになることができます。仏教的に言うなら、カルマを解消し、越えるということなのかもしれません。
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「小さないじわる」は「他者への配慮に欠く行為」だと理解する。
ダライ・ラマ14世への質問「どうしたら自分を変えられるか」に対する答えに、徳の高い人とは斯くやあらんと、思った。以下引用。「自分の嫌な部分が出てしまうというのは、習慣の問題。自分を分析し、正しい理解をしたら、それを毎日何度も自分の心の中に馴染ませ、強い確信に変え、慣れ親しんでいくというプロセスが必要。朝の段階で正しい心の設定ができていたら、一日をその気持ちを忘れずに過ごしていくことができる。そのようにして、何週間も何ヶ月も、何年も、そして何十年もその修行を続けていけば、必ずあなたの心をよりよく変化させていくことができます。」図書館蔵書
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とても興味深い題材だったので、もう少し踏み込んだ内容になると更に良かった 自分で考えてくださいということだと思うけど、実践していける具体的な行動などがあれば助かったかも
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20210215 よくわからない。救われた気になりたくて読んでみた。出来ることってなんだろう。日々生きていく事なのか。
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文字も大きいし、薄い本なので、
内容も薄いかなと思ったが、
最初、サラッと読んだだけでも驚きがあり、
(旅費の足しにアンティーク持ち出し推奨!)
更に読み返すと、ダライ・ラマ様の実利を
重んじる考え方(英語学習の勧め)や
不平不満を持たない心のありよう(鍛え方)に
頭が下がる思いがした。
一方、よしもとさんの新幹線のエピソードは、
愚痴ではないと言いつつも、
恨みの気持ちがあるように見える。
「愚痴やクレームではない」と言って語ることで、
「こちらの言ってることが真っ当」感が
出てしまう(ように思える)が、
このエピソードの結論に違和感を覚える
自分がいて、意図する以前のところで
モヤモヤしてしまった。
彼女の方に色々事情があるように、
車掌さんの方にも事情があるかもしれない。
(席譲った客が、実は聞こえないとこで、
車掌にありえないくらい嫌味を言ったとか)
なので
「愚痴になっちゃうんですけど、
小さな意地悪された例で...」と
愚痴(恨みの感情)を否定しないで
説明してくれた方が、読んでいて
余分なこと(車掌の心情とか)を考えずに
本来の内容について感じることが
出来た気がして、ちょっと残念。
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探してやっと手元に。
嬉しいけれど・・・。
吉本ばななさんのスピーチは、彼女そのもの、のようなチャーミングでいて、真摯な心打つ文章でした。
だけど、ダライ・ラマ14世のスピーチ、対談、質問に関しては、簡単にまとめられていて、ガッカリでした。 ユーモアや慈しみのある魅力が文字では伝わらない。 少し物足りない・・・が正直な感想です。
折角、文字に起こしたのに、勿体ないなぁーと想いました。