キリスト教史の視点以外にも読める
2016/03/11 18:33
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投稿者:ぐどん - この投稿者のレビュー一覧を見る
反知性主義について、キリスト教史およびリバイバリズムの流れから追った本書だが、単にそれだけで読み終えるにはもったいない本。結果的にではあるがアメリカの大学史の外殻もなぞっており、もし高等教育史に興味があるのなら強い補助線を引く意味でも読む価値があると思う。
反知性主義とは「バカ」という言葉を学術的に表現したものではない。むしろ正当な存在意義がある事を本書は示している。では反知性主義とは何であるのかは、自身で読んで確かめてほしい。
ふたつのアメリカ
2017/07/18 18:47
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投稿者:きみどり - この投稿者のレビュー一覧を見る
権力と結びついてきれいごとを言っているだけのように見える知識層の人たちと、
ただただひたすらに地に足つけて地道に汗を流して働く人たち。
トランプさんやサンダースさんが支持された理由もわかるし、
進化論や地球温暖化をかたくなに否定する人たちがいる理由もわかる。
日本では、自称「知識人」のコメンテイターが、
意見の多様性を認めることができずに、
レッテル張りのために使うことが多い「反知性主義」という言葉だけど、
もっと深い意味があるんだな、と。
アメリカについて考えるうえで重要な一冊
2023/09/28 12:49
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
反知性主義というとホフスタッターのそれが思い浮かぶが、森本の本書での評価はホフスタッターと必ずしも一致するのではない。アメリカの反知性主義をどう評価するにしても、アメリカ社会を作っている要素の一つであることに間違いなく、アメリカについて考えるうえで重要な一冊である。
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今年のベスト候補②
「反知性主義」というのは分かりやすいようで、分かりにくい。
単に、漠然と知性が無い、知性レベルが低下している状況を指す言葉かと思っていたら、結構、奥が深いらしい。
高度に知性主義が進んだアメリカ社会において、知識ではなく、もっと生身の直観、体験、心情から、信仰、哲学、生き方といった人生の根本的なものを捉え直そうというムーブメントとでも表現するものという。
確かに、アメリカは分かりやすそうで分かりにくい不思議な社会。高度に学歴社会でありながら、偉大なるアマチュアリズムが共存している。会社でも、日本に比べてはるかに学歴主義が浸透しているにも関わらず、やっていることは「試してみよう」のアマチュアリズム。
そんなアメリカ社会、またアメリカ人を理解する上での必読書。
特に、魂の救いと、この世の成功とを重ね合わせる信仰観は、なかなか腑に落ちないものだったが、この本を読んで、あぁなるほどと思わされた。
面白かったのは、自由競争を通して教会が鍛えられたから、今に至るまで教会が元気なのではないかという見方。
早くから政教分離原則を打ち立てたアメリカ。そのため、政府の支援がなくなった各教会は自分で食っていかなければならない状況になった。つまり、教会は、信徒を集め、献金を集めなければならなくなった訳ですが、この競争相手は、別の教会だけではなく、休日に盛んな「娯楽・リクリエーション」にもなる。
「娯楽・リクリエーション」との競争に打ち勝つために、教会は工夫に工夫を重ね、ふんだんにエンターテイメント的要素も取り入れつつ、信徒獲得に努力していった。その結果、今に至るまで、先進諸国に稀にみる教会の盛況がある。市場至上主義の教科書のような説明だが、説得力がある。
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帯を見る限り,社会的に危険な思想がどう形成されるのかという物騒な話をセンセーショナルに描いた本のように見えるが,実のところ,アメリカ的なキリスト教の受容について,伝道者の歴史を中心に描いた著である。
私は,キリスト教から検討したアメリカ入門として読み進めた。例えば「反知性主義」が知識を学ぶことからの逃亡ではなくて,むしろ積極的な平等主義,あるいは反権威主義的な態度の発露であるという点や,「多くのアメリカ人にとって,教会とは当時も今も,社会的な交流の場なのである」(p. 209)という点は,日本であればどこが該当するのかなどを思い浮かべながら考えるところが多かった。
学術書ではないため,引用・参照は最小限であるが,それでも参考文献が数多く,巻末にあげられているので,これからアメリカに関した何かを学ぼうとするならば,一読しておいて「損はない」と思う。
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なぜ大統領選挙があのようにもりあがるのか、分かったような気がした。「特命全権大使米欧回覧実記 1 普及版 アメリカ編」を読んだ後だったので、タイミングとしても良かった。
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キリスト教から見たアメリカ史、あるいは「キリスト教のアメリカ化」の歴史。
ピューリタンの国として逆に極端な知性主義から始まったアメリカの、民主的平等への熱情の帰結としての「反知性主義」の誕生と、それを担った伝道者の列伝。
アメリカの「反知性主義」は、知性など無用だと切り捨てるような、偉そうにしている「知性」へのルサンチマン的な反発のことではない。知性が権力と固定的に結びつくことへの反感、「知的特権階級」への反感、知性の越権行為への反感であるという。それは民主的で平等な社会を求める気持ちの帰結である。
だから、アメリカでは極端な知性主義と反知性主義が共存できる。アメリカとはそういう社会なのだと考えると、その行動が腑に落ちることがたくさんある。
映画のシーンを参照したりしながら、ひとりひとり実にユニークな伝道者のアクションが活写されていて、実におもしろく読める。誰も、信者の不安につけ込んで騙してやろうとしているのではない。アメリカ的キリスト教においては、信心深いからこそ信仰とビジネスが手を携えて、熱狂していってしまうのだ。
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ICU学長の森本あんり先生が、米国の礎になっているキリスト教感を解説しています。米国がキリスト教とどう関わり、国際社会の中で、なぜ今のように振舞っているかが分かります。反知性は、知性に対するアンチテーゼ、それが米国です。
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「チャーチ」「セクト」などアメリカ(人)の根底にある考え方を知るのに格好の一冊。あんまりオツムが良さそうに見えなかったブッシュJr.が大統領になれたわけもよく分かる。ハーバード大学の建学の経緯や位置付けは、ある種の人たちとの飲み会ネタには使えそう。
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タイトルから、作者の名前の印象からは、一体なんの本なのか分かりにくいだろう。アメリカにおけるピューリタン、キリスト教におけるリバイバル(信仰復興)の歴史。学歴がなくとも話術があれば牧師や説教師となることができ、その人望によって宗教を利用したビジネスも成功させやエピソード満載。教会という必要とされたコミュニティの場の存在。アメリカにおける大学の序列。
著者はICUの学長ではあるが、決してキリスト教を礼賛する目的ではなく、史実をユーモアを交えた語り口にインテレクチュアルを感じる。ヨーロッパとは異なるアメリカでのキリスト教への対峙の仕方を知ることがこれほど興味深いとは。
映画『ペーパームーン』の例が紹介されていて、未亡人の家を訪問して亡きご主人からの依頼だと夫人の名前を金文字でいれた聖書を売る詐欺の話である。これも当時のアメリカにおけるキリスト教の浸透ならではか。
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本書を読んで「反知性主義」という言葉の定義が分からなくなった。
知性にたいする反発だとか、愚民政策だとかを連想していたが、本書を読むと少しニュアンスが違う。
単なる知性への軽蔑と同義ではなく、知性が権威と結びつくことに対する反発「反権威主義」だという。
アメリカ人が如何にして、キリスト教を信仰し、反知性主義になっていったのか、歴史を紐解き非常に分かりやすく書かれている。
それにしても、キリスト教派がたくさんあることに驚いた。
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反知性主義、それの根底にある、アメリカのキリスト教史についてとても興味深く書かれていました。理解が及ばない部分はありましたが、キリスト教史から見える今のアメリカの姿というものが少しわかった気がします。
しかし、根本的にキリスト教への理解が浅いのということがよくわかりました。
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建国から今日まで、一貫してアメリカの土台に横たわる精神的土台についての本だととらえた。アメリカにおけるプロスタンティズムのあり方について、リバイバリズムを話題の中心に据え論じている。
「知性にせよ信仰にせよ、旧来の権威と結びついた形態はすべて批判され打破されねばならない。なぜなら、そうすることでのみ、新しい時代にふさわしい知性や信仰が生まれるからである」とある通り、反知性主義は既存の権威に対する反抗である。懐疑が哲学的態度土台であることからもわかる通り、このような姿勢は(反知性主義という名称とは反対に)非常に知的なものであった。このような精神性の系譜は、こんにちアメリカを特徴づけるプラグマティズムへと接続していった。
本書を読んだあと、アメリカという国に興味がわいた。個人的にはアメリカ史に対する入門書として非常に有用だと感じた。
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昨今の日本における「反知性主義」は、佐藤優が「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義しているように、ネガティヴな意味で使われるケースが多い。著者はそういう側面があるということを認めつつも、しかし、反知性主義発祥の地であるアメリカにおいては、反知性主義はそれにとどまらないもっと積極的な意味を持っているとも言う。それを一言で言うと、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である」(p.262)。本書は、アメリカにおけるキリスト教の受容史をたどっていきながら、反知性主義の持つポジティヴな側面を浮き彫りにしていく。
ヨーロッパのキリスト教はアメリカに渡った途端に土着化して変質した。その特徴を端的にあらわすと、神の前では万人が平等だとする「ラディカルな平等主義」と、人間が信仰という義務を果たせば神は祝福を与えるという「宗教と道徳と成功の直結」、この二点に集約される。紆余曲折を経ながら、両者が一体となって誕生したのが反知性主義である。
建国当初から平等で民主的な国であったアメリカには、ヨーロッパのような伝統的な権威構造が存在しなかったため、知識人が国家の指導者となったり、権威や権力と結びついたりすることが多かった。しかし、「ラディカルな平等主義」はこれを許さない。すなわち、反知性主義は、知性そのものに対する反感ではなく、知性と権威とが結びつくことに対する反発なのであり、いかなる権威に対しても自分自身の判断で立ち向かっていくという精神態度のことである。その意味で、反知性主義とは「反権威主義」というニュアンスに近い。それがプラスに作用すれば、個々人の自尊心を高め、知性の越権行為に対するチェック機能が発揮され、アメリカの民主主義的な精神基盤を形成することになる。しかし、それがマイナスに働けば、独善的で自己中心的な世界観に立てこもることになる。よく悪くも「アメリカ的」である。
こうした思想は信仰の確信によって裏打ちされており、それは正しい行いをした者だけが成功するという「宗教と道徳と成功の直結」によって大衆に浸透していく。それはあまりにも単純な同一化であるが、そうであるがゆえに大衆への強い訴求力を持っていた。これら一連の動きを期せずして主導していたのが信仰復興運動(リバイバリズム)である。しかし、リバイバリズムは本質的に矛盾を内包している。富や権力に対する民衆の反感を基盤として巨大化していくその運動は、その大衆的成功のゆえに自らが権威や権力の一部分となって、本来の反エリート主義的な性格を失って自壊していくのである。
このように、反知性主義にはどこかアナーキーな要素が含まれており、アメリカにおいてリバタリアニズムが説得力を持っていることや、反進化論を唱える創造主義の影響力が強いことなども、こうした文脈で読み解いていかなければならないとする。
アメリカというよくわからない国を理解するうえで非常に収穫の多い読書体験だった。
さて、本書の最後に「日本に反知性主義は存在するか」と問題提起されている。そこでは明確な解は提示されていないのだが、自分なりに考えたところでは、「官僚主義」や「岩波文化人」、「大手マスコミ」に対する批判がそれに当たるのではないかと思い至った。本書末尾の著者の指摘はきわめて重要なので、そのまま引用してレビューを終える。
「知性と権力との固定的な結びつきは、どんな社会にも閉塞感をもたらす。現代日本でこの結びつきに楔を打ち込むには、まずは相手に負けないだけの優れた知性が必要だろう。と同時に、知性とはどこか別の世界から、自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない。日本にも、そういう真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている」(p.275)
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出来事の報告者たちがその出来事の登場人物である、ということは、実はすべての真正な歴史証言に必須の事態である。なぜなら、証人であるということの中には、当事者であるということが含まれるからである。誰も、第三者を介して知ったことを「証言」することはできない。歴史の証言者は、常に自分が証言しようとする出来事の一部である。目撃した出来事を、自分がそこに居合わせ、気がついた時にはすでに自分も否応なくそれに巻き込まれていたところの出来事として語るのが「証言者となる」ことの本質である。(中略)歴史はすべて、誰かによって語られた歴史なのである。(p.79)
「あたかも、舞台のコーラスダンサーの最前列の若い娘に心を奪われた亭主を見ている古女房」。これがアメリカの底流をなす反知性主義を適切に表現していると言ってよい。われわれがゆっくりとその歴史を追いかけている反知性主義の原点とは、要するにひとことで言うと、このぴちぴちとしたコーラスダンサーが振りまく魅力であり、その若い娘に看取れている亭主の心持ちなのである(p.83)
田園と自然は、人びとを正直にする。そこは幽玄で馥郁とした理性が息づく場所である。なぜなら、都市では自分の策略と知恵が処世の行方を左右するため、自分を尊大に思いなすようになるが、自然の崇高な美を見る者は、それを作り出した偉大な力の存在を認め、これに感服する心をもつようになるからである。だから深い山の中で釣りをする者は、おのずと宗教的な畏敬をもつのである。
精神の謙遜と平和は、自然の美しさのうちに聖性を感じ取り、心の眼を創造者へと開くことによって得られ利。そのため彼は、「書物」に頼りすぎることを警戒する。書物は、読み方によってはもちろん価値のあるものだが、何といってもそれは過去の心であり、昔の時代の人びとにとっての真理にすぎない。真の学者たるものは、他人の権威や、社会の礼法や、世間の評判などに寄り頼んではいけないのである。ここに、エマソン一流の反知性主義が表明されている。(pp.137-8)
反知性主義は単なる知性への蔑視と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。そのためには、自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛え上げなければならない。この世で一般的に「権威」とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ、という覚悟が必要だからである。だからこそ反知性主義は、宗教的な確信を拝啓にして育つのである。(p.177)
「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性とは、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが「知性犯」はいないのである。(p.260)
知性が欠如しているのではなく、知性の「ふりかえり��が欠如しているのである。知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる。どちらにせよ、反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである。(中略)反知性主義とは、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。知的な特権階級が存在することに対する反感である。(pp.261-2)
知性と権力の固定的な結びつきは、どんな社会にも閉塞感をもたらす。現代日本でこの結びつきに楔を打ち込むには、まずは相手に負けないだけの優れた知性が必要だろう。と同時に、知性とはどこか別の世界から、自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない。日本にも、そういう真の反知性主義の担い手が続々現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている。(p.275)