タマホコリカビにとって倫理とは何か
2003/06/29 17:58
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドゥルーズの哲学は「根拠なき生成の論理」を探る「生の唯物論」である。
ドゥルーズは世界を「卵(ラン)」=「潜在的な多様体」と捉えた。否定性に対して多様性、可能性に対して潜在性を代置し、世界のリアルさ、すなわち「新たなものが現れつづけることにさらされる、剥きだしのなまのもの」を「俯瞰」的に記述しようとした。それは「潜在性の存在論」である。
また、ドゥルーズは、潜在性から現実化へと向かう生成の過程のなかで、出来事を現実化に導く、分化の途上にあるものとしての個体を重視した。個体は、現実化された諸区分(同一性)に収まらない、ひとつひとつが特異な存在である。ドゥルーズの哲学は個体の存在論であり「個体のシステム論」である。
《そして本当のことをいえば、われわれが生きる対象、われわれ自身、時間のなかでありつづける存在は、すべて特異な仕方でシステムを表現する個体にほかならないのではないか。個体こそが、この世界の姿そのものではないか。》
個体をめぐるドゥルーズの議論には、倫理についてのメッセージがはらまれている。ドゥルーズのポジティブな生成のシステム論において、個体とは「潜在的な多様体が、それを通じてしか表現されえない特異なもの」であった。それは〈私〉に依拠しないし、他者や死といった「否定的であることにより力を与えられる対象」が倫理の根拠におかれることもありえない。
《〈私〉ではない個体の倫理とは、人間の倫理というよりは、むしろ人間もそこに根づいている〈生成の倫理〉を目指すだろう。それは、人間の観点からなされる倫理のヴィジョンをひっくり返し、生命の唯物性や、その過酷さにすらしたがった言葉を導くことになるだろう。「人間」のパラダイム以降を描く倫理とは、こうした方向からしか生じないだろう。》
「人間」のパラダイム以降を描く倫理。──「生命や情報が緊急の主題になり、生態系がクローズアップされ、国家を逸脱したグローバリティが問われる」時代、つまり「ミクロな領域からマクロな領域まで、脳や遺伝子や免疫という生命の領域から、広域のひとの経済社会的活動に到るまで、包括的なシステムとしての視界が要請される」時代における倫理を考えること。
それは「単独でもあり群生でもあり、単性的でも有性的でもあり、植物でもあり動物でもあり、自己でも他者でもあり、さまざまなポテンシャルを含みつつあるハイブリッドな(異質なものが内的に入り込んでいる)もの」、たとえばタマホコリカビの個体に即して、「生命のハイブリッドな転変にそのまま応じる動的な視線をもちながら、倫理性について考えること」である。
──ドゥルーズの思考を俯瞰しつついくつかの襞にわけいって、その「衝撃力」を読者に実験させること。この小冊子を読み捨てて、ドゥルーズそのものへと向かうとき、解けない問いであるこの世界のうちに新しいものが産出される。
豊かな可能性、いや潜在性をはらんだ書物だ。生命系=ポジティヴィズム=ライプニッツ=ドゥルーズと情報系=ネガティヴィズム=ヘーゲル=デリダという「ヨーロッパ的な思考の二つの究極的なモデル」の提示は、示唆に富む。
投稿元:
レビューを見る
微妙な本。ドゥルーズのアウトラインというか、イメージとしてのドゥルーズを描くことだけを目指している本なので、カテゴリーとしては入門書なのだけれど、これ一冊では不十分。
ただし、イメージだけを描こうとする試みは間違っていないし、副題の「解けない問いを生きる」というのもまさにドゥルーズ的で良いと思う。
投稿元:
レビューを見る
・何に対してであれ反対する書物は、いかなるものも重要ではない。何か新しいものに〈賛成する〉書物だけが大切である。それが新しいものを生みだすことができる。(「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」)
・デリダの戦略とは、記号や言語、あるいはそれらを媒介とした解釈という仕方で世界に切り込むときに、結局は踏み入らざるを得ない方向ではないかと思われる。言語や記号によって世界を論じていくときに、世界は一義的に現れることはない。なぜならば、言語にはさまざまな解釈可能性が含まれるからだ。だから世界は、いつも複数の読まれかたを、どうしようもなくはらむからだ。そこでは、解釈を決定する現在はつねに不在であり、解釈の内容は、錯綜する絵栗チュールの空間へと向かっていく。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
いま必要な哲学とは何か。
「問いが解けない」という事態をどうとらえるか。
生命科学の時代に対応するドゥルーズ哲学の核心をクリアに描く。
[ 目次 ]
1 はじめに―解けない問いがあらわになってくること(哲学とは何か;ドゥルーズと哲学;いまという時代 ほか)
2 世界とは解けない問いである ―ドゥルーズの〈哲学〉素描(世界とは卵(ラン)である
生成する流れの論理
異質的な連続性 ほか)
3 「私」ではない「個体」が生きること―結論に代えて(ドゥルーズの倫理;個体と生;個体には固有性も中心もない ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
あまり哲学に詳しくない人がドゥルーズを知りたいと思ったらまずこれ。
高校で倫理をやっていた程度の知識量しかない私でも、なんとか読み進めることができた。
過去の哲学者の思想をカットしないで丁寧に説明しており、また、哲学用語(たとえば、脱構築など)にも丁寧な注釈が入る。
これを機にがんばって哲学を学んでみようという気にさせる本だ。
薦めてくれた子に感謝。
この次は同じく檜垣さんが著者であるちくま文庫の『ドゥルーズ入門』に手を出すつもりだ。
投稿元:
レビューを見る
僕が数年前から言いたかったこと以上のことをドゥルーズがすでに語ってくれていることだけは理解した。個人の中の多様性を積極的に発現させようとするのは、ある程度狂気を含まざるをえないことなのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
小著ということもありなんか書ききれていない感じがある。1つは、論証が済んでない、要点だけ書かれている(とくにデリダ=ネガティヴィストのあたり)。2つに、最後クライマックスに到るかと思いきや、なんか歯切れの悪い感じで終わってしまっている。生命と倫理への問題意識は著者の『ヴィータ・テクニカ』あたりに結実していくのだろうけれど、入門シリーズの一著作としてこの終わり方はどうかなーと思う。(これがまた難儀な注文なのだけど)。
ただ、終盤にいくにつれて面白くなっていくのは確か。ドゥルーズの読み方がまた増えたね!
↓↓
↓↓
ドゥルーズ「解説書」を何冊か読んで、三者三様の解釈があるらしいことが分かり、困惑している…
(追記)
以前感じたほど読みは多様ではない。この本では、著者が後書きに記したとおり、生命の跳躍に重心をおいたドゥルーズが書かれている。ガタリを取り込む以前のベルグソン=ドゥルーズ。
国分が主張するには、ガタリ後のドゥルーズでは跳躍モデルからの変転があるとかなんとか。
投稿元:
レビューを見る
イメージの力に溢れた本。力強さも繊細さも、概念的厳密さも批判的な視点も、横溢している。ベルグソンという源。デリダという対照。フーコーとの共鳴。簡単ではないが難解でもない。個体という概念の魅力と射程の深さ。三つの時間も興味深い。
現代における切実さと切れの良さではこのシリーズ最高作。
投稿元:
レビューを見る
ドゥルーズの思想の根っこの部分に焦点を当て、その一点を何とか伝えようとする入門書。ニーチェの「力への意志」とは結局何なのか。それをどれだけ厳密に、雲を掴むような話でなく語れるか。ドゥルーズの取り組んだことはそういうことだ、と理解したが、これでいいのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
たいへんかっこいい。こういうのをバリバリやれるのもいいななど思った。小伝に具体的な伝記的な話が全くないのだが、いまは浩瀚な伝記も出ていてちょっとみてみようかと思う。文庫化されるとのことだが、15年以上昔の本なんだ。お写真もだいぶお若い。
投稿元:
レビューを見る
そのもの自体を知ることができないという事態に対して、
その時点の存在ではなく、
生成変化するプロセスを中心にすえて考察、理解しようとする
変化、流れ自体がリアルと考える。
オートポエイシスの考え方につながっている?
そのもの自体が分からないという事態に対する
デリタとの戦略、方向性の対比が分かりやすい
投稿元:
レビューを見る
哲学書を読んだことがなかったのでサブタイトルに惹かれ読んでみたが、メインタイトル通りドゥルーズという人のことを紹介した本だった。
論理学的な言い回しに大学の教科書を読んでいるようで、内容は全然分からなかったけど面白かった。
投稿元:
レビューを見る
何年も前に書店で、青い表紙とタイトルに一目惚れした本。満を持して(うそ)、ひもといてみた。周辺哲学の知識に乏しく、書かれた内容の多くは理解できてないが、潜在的な多様体(p28)という「卵(ラン)」の概念に、ワクワクが止まらない、、!
投稿元:
レビューを見る
本文100ページくらいのドゥルーズの入門書。
入門書と言っても、100ページなので、ある視点を設定して、切り込んでいく形になる。この本では、ベルクソンの批判的後継者という観点でのドゥルーズ解釈がなされている。
で、その視点は、すごく説得力がありし、ナラティヴ・セラピー的なものを理論的な親和性が高い感じがした。