投稿元:
レビューを見る
出だしは心に移りゆくよしなしことを…って調子だったのが、最終的には自著の解説みたいになっちゃったのはご愛嬌だが、語彙の豊かなヒトの文章は読んでて気持ちがいい。
投稿元:
レビューを見る
『皆がその死を悼んで集まってきているその家のあるじは、いま無責任な客のような顔をして無聊を託(かこ)っている、この俺自身なのではないか』―『主客消失』
定義付けのされた言葉が多く並ぶ。それ故に文章の意味するところは、多少意図的な飛躍はあるものの、論理的である。著者の小説にはない角張った音がする。とても惹かれるところもあるのだが、何故か眉根を寄せずには読み進めることが出来ない。理屈を重ねれば重ねるだけ、読み手を置き去りにするこの語り手は、けれど、簡単に耳を塞いで拒絶して済むものでもない。
松浦寿輝は自分の中にある何かを内と外の対比によって炙り出そうと試みる。内と外にそれ程の差があるのか無いのか、そのことを先ずは示して見せようとする。それが時に我田引水的な引用になることがあるのはご愛嬌だとして。世界を二分した後、然るべき証拠を指し示しながらその差について、解く。それは科学的な物事の進め方のように、時に単純化された世界に我々が生きているのだという前提を要求するのだが、そのこと自体は理の進め方として充分に受け容れ可能だ。それでは何が引っ掛かるのかと言えば、この著者が饒舌であることそのものなのだろうと思う。
川村二郎に、本当に著作を仕上げた後に参考にした書籍を処分するのかと問われ、そうすると答えるエピソードが出て来る。その時、川村二郎は、同じように書籍を処分する評論家、恐らく立花隆(文中は伏字だが)を引き合いに出して、非難めいた言葉で、そういう人の書くものは薄っぺらい、と評する。彼我の差を省みずに言うなら、自分の感覚もこれに近い。
著者の小説の中では言葉が言葉を引き付け、思いもよらない展開を見せる。饒舌さと単純に言ってしまったが、言葉の使い方が適切で、時に古めかしく、時に難解に響く。それこそがこの作家の特徴で、そこに惹かれもする。もちろん言葉遣いだけではなく、薄っすらと暗い部屋の隅を眺めている内に浮かんでくる狂気のようなもの、その底無しの闇に吸い寄せられて行く魅力がある。そして恐らく、その虚構の世界の根底にあるものは原風景の変容に起因するものなのであろうと想像する。その推察に行き当たって、今度は自分自身の暗い部分を覗き込む。松浦寿輝は、巧みな言葉で周囲を固めてはいるが、その内側には少年の幼べなさが巣食っている。そのように虚構の中で発展する防御と基本的に同じ展開が評論の中でも表れているように思えるのだが、小説の場合と異なり、そこから飛翔するものを何故か感じることは出来ないのだ。
松浦寿輝はシンプルな主題を延々と書き込むことによって、自身の中にあるもやもやとした何かに迫ろうとする。それはスリリングな試みだが、どこまでも個人的な想いに過ぎないとも言える。もちろん全ての読み手が著者の言葉によって啓かれたいと思っている訳ではないと思うが、この文章に救いがない。ここにあるものは、夕暮れの丘に立つ少年の自分の姿ばかりだ。その時の自分と現在の自分の中に見い出し得る共通項を、普遍的なものに昇華させようという試みは、確かに構図としては誰しも一度や二度やってみたことのある試みだが、そこで見い出したものから普遍化した哲学を引きずり��すには、その感情は幼過ぎる。それを無視して言葉を重ねる度に、意図したものは本来の意味を失ってゆく。それが鋭利な言葉であるが故に切り付けた手応えが返って無い、ということなのか。松浦寿輝の昭和の原風景には見覚えがあるだけに寂しいことだと思う。
投稿元:
レビューを見る
ここに来て松浦寿輝は「人生のまとめ」をし始めたかのようにも読める。子どもの頃の思い出、今の世の中の行く末、芸術論、詩の創作のセオリー……それこそ吉田健一『東京の昔』などを彷彿とさせるところもありつつも、その吉田健一ほどには「余裕」をいい意味で感じさせ「ない」ところに興味を持つ。つまり、エッセイを常に「全力疾走」で書いていることからくるスリルを感じる。彼の鋭敏な知性は「随(くままの)筆」の運びに任せて思わぬ方向へと詩作を走らせる。その予測不能な展開と、そこから時に彼の実存の不安が垣間見えるその「弱さ」を買う