毎度のことばかりだが・・・
2015/12/31 18:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ともクン - この投稿者のレビュー一覧を見る
適菜収は明らかなペンネームだと思い、もう同氏の著作モノは二度と買うまいと思っていたのが、書店で見るとつい買ってしまう。毎回お馴染みのB層4象限図を使用、過去の偉人達の片言を満載・・・今回は新たに三島を山車に利用し、保守について、民主主義について、悪口雑言を駆使してぶちまける。毎度のことばかりだが、ついつい引き込まれることも。仕方ないか。
投稿元:
レビューを見る
近代大衆社会がどのような形で暴走し、どのような形で行き詰まるのか(中略)その兆候をすばやく察知し、わが国の現状に警告を発したのが、作家の三島由紀夫(一九二五~七〇年)です(中略)三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促し、割腹自殺しています。(中略)
三島は時代のいかがわしさに吐き気を覚えていた。
なぜ今の日本はおかしくなったのか?
なぜ世の中バカばかりなのか?
そういう疑問を持ったとき、三島が残した厖大な量の評論は非常に参考になります。
だから、三島の言葉を振り返りながら、今の世の中、ひいてはわれわれの思考の土壌について考えてみようというのが本書の趣旨です。(「はじめに」より抜粋)
投稿元:
レビューを見る
平和ボケで思考停止した脳に一撃をくれる本。
SNSが浸透して広告が衰退しているのと同様に、政治も政治家主導から国民主導になる時代がきている。今はまだ草茅危言の状態だけど。恐怖心を煽る情報操作は若い世代には通じない。踊らされてるのはミーハーな大人たちってことだろうか。
いずれにせよ、自分たちで政治を考える時代がきている。
投稿元:
レビューを見る
保守とは何か。
僕は、いわゆる保守派とされる層とは折り合いが良くない。であるならすなわち革新であるのか。
しかしそうとも言えない。
本書でいう保守は、「いい悪いの前に、異物が来たらまず追い返す」「いかがわしいものを肌で察知する」ものであり、また伝統を、文化を守るものである。
であると僕は保守かもしれない。いやむしろ保守だ。
一方で保守派といわれる政治家は実のところ、こうした保守の理念は持たない。むしろ破壊者であろう。
本書はいわゆるB層と、それらが支持する破壊的政治家をこき下ろす。バカ、バカ、と。Bがつく言葉には悪意のあるものが多い。
保守の定義の前半と、安倍・橋本といった破壊者への批判の後半に別れる。書き方が上品ではない。絶対的であるべきだないといいながら絶対的な匂いが漂う。
こういう本は十分警戒して読まなければなるまい。ただ、それでも読まないよりいいかな、と思う。
投稿元:
レビューを見る
2015.12 課題図書(2)
■■12/17@コメダ珈琲店■■
サイコパス/参議院改革/デモスとエトノス/日本的とは?/言語共同体としての日本/x=0 p=∞/沖縄独立論/制空権/抑止力
投稿元:
レビューを見る
今の政治ってなんかおかしい、と思う人に読んでほしい本。
自分もB層に当てはまるところがあるので、もう少し保守的な面を強くするのも大事かと。これは、個人的に。。
マスコミなど、耳にする「保守」がよくわからない。保守派と言いながら、改革をするなどと矛盾をしているなぁ、となんとなく思っていた。そこに、この本の三島由紀夫の言葉を通じて、現在の政治の姿が若干見えてくるようになったので、良い本だですね。
著者が保守を「人間理性に懐疑的であるのが保守」としていますが、これが良かったです。ちょっと考えるときに、この価値観で考えると納得がいくところがあります。会社のあの人、保守的だけど、こういう価値観に立てば理解できるな、と。
扇動的な言葉が多い昨今、今一度保守的な考えがあることを見直すのはとても良いかと思います。
すべてを信用はしていませんが、自分の価値観を揺らしてくれたので、良書ですね。
投稿元:
レビューを見る
三島由紀夫というより、保守について書かれている本。リアルタイムで『維新』のゴタゴタを見ているためか第四章がまさに同意。
投稿元:
レビューを見る
作家、哲学者の適菜 収 氏の著書です。
三島由紀夫の言葉を引用しながら、著者の考える「保守」を論じる内容となっています。
本書では冒頭に「保守」の定義、本質として「人間理性に懐疑的である」と述べられていますが、この定義はよく考えられていると思います。腑に落ちました。
そう考えると世の中の保守派はほとんど真っ当ではないです。
また、三島が守ろうとしたものは「言葉」であり、「言葉を守ることが国を守る」ことに繋がるということも書かれています。
私自身、この「言葉」というのもを使う力こそが、政治家の力量と考えています。立法府は法律を作るのが仕事です。法律は言葉での表現ですから。
本書では、安倍総理や大阪維新の会の橋下氏への批判に多くのページがさかれていますが、彼らの「言葉」が乱れていると感じる場面は多々あります。
私自身はある部分では「保守」であり、ある部分では「改革」であり、著者の意見に賛同できる部分もあれば、そうでない部分もあります。
この本は、著者の「保守」視点で一貫性を持って書かれていますので、普段あまり異なった意見を目にする機会が少ない方には視点を広げるよいきっかけとなるのではないでしょうか。
投稿元:
レビューを見る
三島由紀夫没後45年にあたるということで、注目された三島特集で目にとまった。帯にB層が図解されており、耳新しい言葉だったが、意外にも腑に落ちるところがあって、読んでみた。内容には比較的共感を覚える。民主主義とは、自由とは、平等とは。これまで金科玉条のように、正しいと疑わなかった言葉を、少し下がって考えてみるきっかけを本著は十分に与えてくれる。随所に、三島の著作からの引用が紹介されるのも面白い。例えば、我々は遠い祖先から引き継いできた文化の集積の最後の成果である、というところ。自分の背中に日本を背負い、日本の歴史と文化と伝統の全てを背負っているのだ、という気概。これこそが、本日の行動の本となる。また、善からは善のみが、悪からは悪からが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではない。全く同感である。
投稿元:
レビューを見る
全体主義者の手口、社会不安を煽り、弱者の情念を集約することで権力を一元化する。
ロベスピエール、ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポト、
ニーチェ、神は死んだ、神
は死んでいない、唯一神教の神は近代イデオロギーに化けて、依然として我々を支配している。
投稿元:
レビューを見る
近代大衆社会がどのような形で暴走し、どのような形で行き詰るか、その兆候をすばやく察知し、我が国の現状に警告を発したのが、作家の三島由紀夫。三島の言葉を振り返りながら、今の世の中の思考の土壌について考察する。保守とは本来常識人のこと。三島は保守の立場で議会主義を守ろうとした。三島が最大限に警戒したのが全体主義。右と左から発生する全体主義に警鐘を鳴らした。保守とは人間理性に懐疑的であるということ。抽象的なものを警戒し現実に立脚する。保守主義にイデオロギーはない。保守主義の要諦が実はここにある。
投稿元:
レビューを見る
概ね首肯できる。ただし、移民のところは、日本民族の純潔性を言っているようで、どうかなと思う。日本という国が成り立っていくにはどうするかという視点は必要だと思うし、その中で移民の問題も避けられないのではないか。
投稿元:
レビューを見る
「保守」と現在の日本の自称「保守派」は違うというところからはじまり、三島由紀夫の著作を援用しつつ、著者一流のB層批判、橋下元市長批判等が展開されます。
投稿元:
レビューを見る
B層とは、郵政選挙の際に自民党が広告会社に作成させた企画書において、構造改革への支持とIQの高さの2軸で分け「構造改革に肯定的でIQが低い層」「具体的なことはわからないが、小泉のキャラクターを支持する層」と規定したもの。郵政選挙では、「改革なくして成長なし」「聖域なき構造改革」といったワンフレーズ・ポリティクスが集中的にぶつけられ、「郵政民営化に賛成か反対か」「改革派か抵抗勢力か」と単純化することにより、B層の票を集めた。これは、ナチスなどの全体主義政権下で確立された手法でもある。
ナチスは、ふわっとした民意にうまく乗り、既得権益を持つ人間という敵をでっち上げ、大衆のルサンチマンに火をつけ、社会に蔓延する悪意を吸収することにより拡大した。全体主義者の手口は、社会不安を煽り、弱者の情念を集約することで権力を一元化する。橋下はナチスより純粋な全体主義。大阪都構想の住民投票が通れば、「特別区設置協定書」に記載されていない事項の多くは市長により決定されることになっていた。個人が極端な形で分断されてしまった現代社会では、常識が消滅し、社会に偏在するあくが極端な形でつながってしまう。それが「橋下」という現象だったと著者は分析する。
ハンナ・アレントは「革命について」で、フランス革命を分析し、同情や平等の概念がテロリズムに行き着く構造を明かした。また、「民主主義と独裁の親近性は明確に示されていた」と指摘している。
ニーチェの「神は死んだ」は、世の中の人間は神は死んだと思っているかもしれないが、唯一神教の神は近代イデオロギーに化けて、我々を支配しているということ。ニーチェは、宗教一般を否定したわけではなく、キリスト教の根底にある反人間的なもの、真理が隠されており、真理を代弁する僧侶階級が権力を握ることを批判した。
投稿元:
レビューを見る
三島由紀夫は表現者であり小説家、かつ顔も名前も売れていた。その彼が、ひっそり死なず、大衆に晒して割腹し、そこに主張を込めたのだから、その死はパフォーマンス以外の何物でもない。時代の変化に命を賭けたなら結果を見ずには無責任。諦めたという事なら、自らが忌避した小説家の自死と何が違うか。
その三島が憂いた日本の未来に関し、保守の定義に囚われて、結局、大衆を揶揄するだけで、その構造的変革に踏み込めないならば、B層以下だろう。今更、三島由紀夫を祭り上げた所でA層にもC層にも届かない。故に、放言は空中浮遊し虚しく響くだけで、ならばB層を使いこなす活動家の方がマシではないかと。自らの死を高く見積もっていたか、単に一人の生き様だったか。
同時代人が嫌いで、反時代人が好きだと三島由紀夫。時代に流されるだけの大衆が数の論理で過ちを犯すのは許せないが、自らは衆目に置かれて主張をしたい。愚行権は認めながら衆愚政治を許さぬ制度設計のように、非エリート層を諦めた上で、一体何を覚醒させようとしたのか。男一世一代の啖呵を切るも行動変容させるはずの決定打はミスり、自衛隊のガヤによってかき消され、言葉の音量が小さく聞こえやしない。そんな実務的なミスに命をかけて、何が残るというのか。
適菜は人間理性に懐疑的であるのが保守だと言う。いつからの保守、何に対する保守、いつまでの保守なのか。捉え方が変わるならば一意の定義は無駄だ。そこに時間をかけて意味があるか。逆バーナム効果のように、誰でも的を外し、安全圏から他者批判だけできるようなポジショントークが可能だ。批評家の話法に過ぎない気がした。卑怯だし、合理性もなく、無意味である。