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悟りとは、自らの直接の体験であり、先人の教えによって得られるものでない。悟りに至るまでの体験は教えとして伝えられるが、悟り自体は伝えられるものではない。それは一瞬にして気付くものかも知れないが、そこには自他や物事の清濁に囚われない深い理解と受容がある。時間に囚われた思考・エゴには到達できない境地なのかも知れない。自分がこの思考であるとすれば、その境地を体験するのは一体誰なのか?
2010.9.25
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ヘルマン・ヘッセは車輪の下しか読んだことがなかったので、ヘッセが書いた別の本を読みたくて買った本。史実との乖離は置いておいて、悩み考えることを厭わなくていいと教えてくれる本。
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仏教がテーマの宗教観念の作品。
涅槃がどうのこうのなので好きな人は好きでしょう。多分。
頭が足りないのでついていけなかった。
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これも高校時代に読んだ本だと思います。
やはり「生きるって・・」なんて答えの出ないことを考えてしまう
思春期に読むのがいいかな。
前半はちょっと退屈だけど、主人公のシッダールタが人間らしい
愚かさを身につけた後半は、割とスラスラ読めました。
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古本屋で50円で買ったものが、
無上の感動を与えてくれた。感謝。
ヘッセの仏教への理解は本当に素晴しいと思う。
同時に、自分の志がそれと深く寄り添えるものであることを
心から嬉しく思う。
座右に置きたい書というのはこういうことだろうか。
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思い通りに我が子を育てられない苦しさがよかった。
ラストの壮大な対話にはもちろんついていけない。
満足度7-
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解脱の境地を求めて、愛欲・金銭欲などのあらゆる罪を犯すシッダールタ。様々な苦しみを味わった彼はある日川の流れから学ぶことを知り、全存在を愛する悟りの境地へ達する―。
シッダールタを仏陀としてではなく、四苦に苦しむ者として描いた作品です。現代にも共通な苦痛に苦しみ悩み、それでも答えを見つけようとする彼の姿に共感せずにはいられないでしょう。
何かに悩んでいる時、苦しんでいる時にこれを読めば、苦しんでいるのがあなただけではないことが分かるはずです。
お勧めです。
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僕が仏陀を好きになったきっかけの一冊。
僕は基本的に宗教が好きではないですが
仏教が好きというより仏陀が好きです。
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これからも読み返していきたい本です。
示唆に富んでいて、読む時々で感銘を受ける場所が変わっていくと思います。
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ヘッセというと、中学や高校で『車輪の下』などを読まされることが多いせいか、どうしても中高生向けの作家というイメージが強く、大人になってから手にとる方は少ないかもしれません。
事実、友人にプレゼントされることがなければ、本書を読まずに過ごしてしまったことでしょう。でも、久しぶりにヘッセを読み始めて驚いたのは、あまりにも今の自分にしっくりくることした。10代で、勝手にヘッセを卒業した意識を持っていた自分の不明を恥じ入りました。友人に感謝、です。
シッダールタとは、釈迦=ブッダの世俗の名前ですから、本書は釈迦の生涯を描いたものだとばかり思っていましたが、これも誤解でした。本書の主人公シッダールタと釈迦は全くの別人です。釈迦同様に、何不自由ない暮しを捨て、沙門(苦行僧)として悟りを求めて修業の日々を送るところまでは同じですが。
釈迦その人とシッダールタが邂逅する場面に至って、なんだ別人だったのか、と読者は知ることになるのですが、本書が俄然面白くなるのは、ここからです。釈迦と出会うことで悟りに近い大きな気づきを得たシッダールタは、しかし、釈迦に従うのではなく、世俗に生きる道を選びます。そして、「考えること、待つこと、断食すること」しか知らない超越した姿勢が逆に幸いして、美しい女性と社会的な名声と金銭的な成功を手に入れることができます。
ところが、シッダールタはやはり世俗の人にはなりきれず、成功すればするほど、倦み疲れ、生きる気力を失っていきます。そして、いよいよ限界だと知った時、内奥の声に衝き動かされ、三たび、それまでの生活を捨てるのです。
彷徨の末辿り着いたのは川のほとり。その川で、シッダールタは川の渡し守として四度目の人生を生き始めます。そして、この四度目の人生が、シッダールタにとって大きな転機となるのです。
本書は、少年が老人になるまでの魂の彷徨を描いています。その過程が教えてくれるのは、人はその気になれば、何歳からでも、何度でもやり直すことができるということ。そして、自らの魂の声に正直に生きている限り、どんな回り道をしても、最後には自分自身と世界とがつながることができる、ということです。
また、シッダールタが成功を手に入れ、それを放擲するまでの過程には、とても大切なビジネスの極意が書かれていますし、渡し守としての生き方には傾聴することの価値を教えられます。下手なビジネス書や自己啓発書を読むより、そういう実践的なことをずっと多く学べる点も素晴らしい。やはり時代を超える名著には、汲めども尽くせぬ知恵が詰まっているのですね。
詩と真実に満ちた美しい輝きを持つ言葉の一つ一つが、多くの気づきを与えてくれる一冊です。是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった。月と星は美しかった。小川と岸は、森と岩は、ヤギとコガネ虫は、花とチョウは美しかった。そうい��ふうに幼児のように、そのように目ざめて、そのように近いものに心を開いて、そのように疑心なく世界を歩くのは、美しく愛らしかった。
時々彼は胸の奥深くに、消え入るようなかすかな声を聞いた。それはほとんど聞えぬくらいにかすかに警告し、かすかに訴えた。それを感じると、彼はしばしのあいだ自覚した。自分は奇妙な生活を送っている、児戯にすぎないようなことばかりしている、自分はいかにも朗らかで、時々喜びを感じるけれど、ほんとの生活は自分に触れることなく、自分のそばを流れ過ぎて行く、と。
俗世間が、快楽が、欲望が、惰性が、彼をとらえてしまった。ついには、最も愚かしいものとして彼が常に最もけいべつし嘲っていた悪徳、すなわち金銭欲までが彼をとらえた。財産、所有、富もついに彼をとらえた。それは彼にとってもはやくだらないおもちゃではなくなって、鎖となり重荷となった。
価値もなく、意味もなく、生活を送ってきたように思われた。生命のあるもの、何か値打ちのあるもの、保存に値するものは、何ひとつ彼の掌中に残っていなかった。岸べの難破者のように、ひとり空虚に彼は立っていた。(…)いったいいつ幸福を体験し、真の喜びを感じたことがあったろうか。
断食することも、待つことも、考えることも、もはや彼のものではなかった。最もあさましいことのために、最もはかないことのために、官能の喜びのために、安逸の生活のために、富のために、あの三つを放棄してしまったのだ!
自分はあんなに多くの愚かさ、あんなに多くの悪徳、あんなに多くの迷い、あんなに多くの不快さと幻滅と悲嘆とを通り抜けねばならなかった。それもまた子どもにかえり、新しく始めるためにすぎなかった。だが、それはそれで正しかった。
ヴァスデーヴァは一言も発しなかったけれど、話者は、相手が自分のことばを静かに胸を開いて待ちつつ摂取してくれるのを、一言も聞きもらさず、一言もせっかちに待ち受けることをせず、賛辞も非難もならべず、ただ傾聴するのを感じた。そういう傾聴者に告白するのは、そういう相手の心の中に自分の生涯を、探求を、苦悩を沈めるのは、どんな幸福であるかを、シッダールタは感じた。
彼は川から絶えず学んだ。何よりも川から傾聴することを学んだ。静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず聞き入ることを学んだ。
シッダールタはヴァスデーヴァのこの傾聴をいつもより強く感じた。自分の苦痛や不安が相手の心に流れこむのを、自分の秘めた希望が流れこみ、向こうからまたこちらに流れて来るのを感じた。この傾聴者に傷を示すのは、傷を川にひたし、冷やし、川と一つにするのと同じことだった。
すべての声、すべての目標、すべてのあこがれ、すべての悩み、すべての快感、すべての善と悪、すべてがいっしょになったのが世界だった。すべてがいっしょになったのが現象の流れ、生命の音楽であった。
「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものもを見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」
「知恵は伝えることができない、というのが私の発見した思想の一つだ。賢者が伝えようと試みる知恵はいつも痴愚のように聞こえる。(…)知識は伝えることはできるが、知恵は伝えることができない。知恵を見いだすことはできる。知恵を生きることはできる。」
「存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。いっさいはそうでなければならない。いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。そうすれば、いっさいは私にとってよくなり、私をそこなうことは決してありえない」
「世界を透察し、説明しけいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界を軽蔑しないこと、世界を自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」
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●[2]編集後記
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土曜日、娘と一緒に青山の国連大学前の広場に遊びに行ってきました。友人と無印良品さんが主催の椅子づくりのワークショップに参加するのが目的でした。
国連大学前の広場では、ちょうどファーマーズマーケットが開催されていたので、ひやかしに行きました。農林水産省のマルシェ・ジャポン・プロジェクトで始まったこの青空市場。前々から噂は聞いていましたが、実際に訪れるのは初めてでした。
規模はそんなに大きくなかったけれど、家族連れや若いカップルで予想以上の盛況。驚いたのは、どの農産物も有機だったことです。産直だからと言って有機とは限らないことが多いのですが、青山のマーケットは、こだわりの農産物ばかり。試食させてもらいながら自慢の農産物についての説明を受けるのは愉しい体験でした。
道志産の自然藷のむかごが売っていたので、ついつい買ってしまったのですが、軽く塩ゆでにして食べたら、これがびっくりするくらいの美味。自然藷は、山のうなぎとも言われるほど栄養がありますが、そのエネルギーが詰まったむかごです。山盛りにしてもりもり食べるのは初めての経験でしたが、病み付きになりそうです(ちなみに、むかごには精力増進効果があるそうです)。
マルシェに対する補助金は仕分け対象となってしまったようですが、イギリスやフランスでは街の風景に欠かせないくらいファーマーズマーケットが盛んです。日本でももっと増えるといいですね。
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これぞ自分のために書かれた!と思えるほどの大切な一冊。人から見れば「こんなはずでは、、、」と思えても、それこそ仏陀の生き方を学ぶのではなく自ら探し求め続けた、ヘッセが必死になって作り上げたまさに「内面への道」のある意味到達点。
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時間は永遠から切り取ったかけら。
死は断絶ではない。
新しく手に入れるにはそれまで持っていた物への執着を捨てなくてはならない。
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シッダールタが生涯の経験から見出だした智恵が、言葉で語られている。世界が自分の空想を完璧に満たすことを求めず、ありのままの世界を受け入れて、自らもまた汚れることが重要だったそうだ。
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仏教の祖・釈尊の出家以前から悟りを開くまでの物語。
知識や学識からでは、悟りは得られず、自ら生きることを体験しなければならない。このことを書くために、ヘッセ自身数年にわたって苦行を行ったらしい。かっこよす。
史実書ではなく、物語であり、芸術だと思う。
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川は流れる。
しかし果たして本当に流れているのだろうか。
川はただ川であるのみであるのだろうか。
岸辺の石はただ石であるのみであるのだろうか。
私はただ私であるのみであるのだろうか。
ここにこうして記述してしまえば、この言葉は哲学を齧った少年の浅はかな疑問であると思われるだろう。
それを否定することは私には出来ない。そしてこれからの道を生き、さまざまな言葉や学術を身につけたとしても可能となる日は来ないだろう。
シッダールタはとても優れた少年だった。そして少年には唯一無二の友人がいた。彼は覚者、仏陀のもとへ行く。シッダールタはそこへは向かわない。その時点で既に彼は感じていたのだ、言葉では、知識では知恵を自我に取り込むことは出来ないと。それは自ら感じ生み出すことに基づくことなのだと。
それから彼はある町に辿り着く。
そこで彼はある遊女に魅了され、愛を求め、自らの欲望を満たすため賭けに溺れ、酒に溺れた。
彼は堕落の道を進んだのだと思われた。
だが、違うのだ。
廃れささくれ立った生活を送るうち、彼は自我を憎むようになる。自らの老いも重なり、彼は誰に何を告げることも無くその町をあとにする。
彷徨う中である発見を機に、欲望に埋れた過去の日々が、彼を覚醒させた。彼は自身の過去が前生であるかのように感じるほどに、彼は生まれ変わった。
やがて彼は川に達する。
流れる川だ。人びとの障害になる川だ。そしてその川を神として尊ぶ渡し守に再会する。欲望に埋もれる前に出会った渡し守である。
そこで彼はさまざまなことを、その渡し守と同様に、川から教わった。ここではあえて言葉でその内容を記述することはしない。ただでさえ私はこの小説のほんの一握り、それすら掴めていないのだから。
しかしそんな私ですら、この本の終盤では体が震えた。感動というものでは無く、もっと根源から湧き出るような、激しいものである。どうしようもなく重く、暗く、輝かしいもので、肉体と精神が合わさるようでそうはならず、何か大きな力に支配されるような感覚を強制するものだ。
私は私でない。私は存在しない。私は川なのだと。川はそこに実存するはずだった、しかし時は流れない。私と川を思うことにおいて、そこに時間の概念は存在しない。永遠に繋がり廻る、すべてを包括した川、すなわち私がここにある。
私の中には私が出会ってきた、またこれから出逢うであろう人や物、経験、すべてが含まれている。そして私たちを包む世界はそのすべてを既に含んでいる。世界は完全である。不完全を埋めるものを求めてもそこに答えは見つからない。
ここは完全なのだから。
私は完全にすべてを含んでここにある。そして過去も未来もその概念をもすべて振り払うことでなお、ここにあり続ける。
私は永遠に私であり、すべてを含む私である。