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小山田浩子さんの短編集「庭」に、というかそれを読んで考えたり思ったりしたことにセルフ触発されて、昨夜は久しぶりに竹書房の実話怪談文庫を買って帰った。
神沼三平太さんの単著デビュー作。神沼さんというと「死ぬ。消える。終わる。」(「怖気草」だったはず)という帯文には衝撃を受けたし、書かれる怪談もハードコアでブルータルな印象があったのだけれど、このデビュー作に収められているお話の多くは帯にもある「日常の小さな綻び。幽かな違和感」のような小さいけれどたしかに怪しい体験談。それでも、それらは小さくとも確実にあった、理由や因果もなく、見間違いや勘違いでも片付けられず、なんとも説明することも出来ないような、その怪しさもわからなさもそのまま受け止め、抱え続け、語るしかない、そういう体験で。そんな体験をしてしまうと、やはりその人の「世界は変わる」のだろうし、そんな話を一冊分読めばわたしの世界も、その見方も少しだけ変わるのだ。
突然出会ってしまったり説明の出来ない怪しい出来事というのは、その突然さや説明の出来なさにも怖さがあるとも思うのだけれど、それでもそんな出来事、体験が恐怖とはまた別の感情を動かす話もある。神沼さんのお母さんの葬儀の話(「花揺」)と、一話挟んだあるレンズと亡き母親に関する話(「レンズ」)には、理由も(本当の)意味もわからないけれど、それをそのまま受け取ったときに、ふんわりとやさしさのようなものを感じて、あたたかい気持ちにもなった。そしてわたしも母親の死を思う。ここでは少し哀しくもなる。いや、まだ存命なんですけどね。しかし、怪談を読んで、普段はあまり意識することがない身内の死をハッキリと意識し思うということも、世界の見方が変わるということなのだ、と思ったりもしている。そして、唐突さやわからなさ、説明の出来ないことへの恐怖の先にあるのは、更なる恐怖だけではなくもっと様々なものがあるはずなのだ、というのは結構重要なことなのかもしれない。
思いがけずあたたかい気持ちにもなって、重要なことにも気が付いた気になったけれど、それでも怖い話は怖いわけで。車中で読んでいた電車を降りた後の夜道は後ろを頻繁に振り返ったり、街頭に照らされる置物に驚いたり、何かを囁かれそうでイヤホンから流れるPodcastの音量を少しあげたりしながら歩いたのだった。
実話怪談を読んだ後は怖さに対して敏感になり過ぎているので、今まで気に留めてもいなかったものに怖さを見い出そうとしてしまったり、積極的に怖がりにいったりしてしまう。これも世界が、世界の見方が、変わる、ということだ。多分。そして今は「ずっ」という一編の影響で玄関のドアが気になっているところですね。あれ、、なにか物音がしたような…とか、ふざけていると本当に…