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日本の歴史学者である清水克行と、辺境などを渡り歩くノンフィクション作家である高野秀行による読書対談。
前作に引き続き、異なる背景を持つ二人による対談は面白い。
そえぞれの知識、体験に裏付けされた着眼点から一冊一冊の本を掘り下げていくため、非常に読みごたえがある。
本書を読む前は全然興味がなかった「大旅行記」「ギケイキ」といった本についてもぜひ読んでみたくなった。
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『「ここではない何処か」を時間(歴史)と空間(旅もしくは辺境)という二つの軸で追及していくことは「ここが今どこなのか」を把握するために最も有力な手段なのだ。その体系的な知識と方法論を人は教養と呼ぶのではないだろうか』
教養とは経験や知識で積み上げたものの【解像度を上げる】こと。素晴らしい知的バトル。これを高校、いやせめて大学生時代にこんな授業を聴いていたら。これこそ一般教養で学ぶべきことなのだ。
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面白い。だが前作よりかは1弾落ちる。本書の中で紹介したイブンバットゥータや日本語スタンダードの歴史なんかは読んでみたいと思った。
軽く読める読み物。
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【感想】
「謎の独立国家ソマリランド」や「アヘン王国潜入記」といった、世界の辺境を旅するノンフィクション作家、高野さん。かたや明治大学教授であり日本中世史の専門家である清水さん。この二人が、面白かった本を何時間も語らいあって出来たのが本書である。お互いの専攻が「辺境」「日本中世史」とあって、取り上げられるのは歴史書、かつ「常識外れの一冊」が多い。
例えば、初めに紹介されている「ゾミア」。ゾミアとは東南アジア諸国と中国の間にひろがる山岳地帯のことである。ゾミアに住む人々は、「あえて国家から逃げて原始的な生活を送っている」と、筆者のジェームズ・C・スコットは紹介している。
通常、生活のレベルは徐々に文明化していく。現代で未だ原始的な暮らしをしている人は、ジャングルの奥地に住む少数民族ぐらいである。私たちに映る彼らの姿は、はっきり言えば「文明に取り残された野蛮人」だ。
しかし、ゾミアの人々は違う。彼らは常識とは完全に逆で、定住型国家から逃げ出し、集まった人々で「戦略的な原始性」をつくり出したという。
前提として、彼らには「国家はろくでもないもの」という意識がある。単純に「支配の象徴」であるからだ。稲作も国家的性格を強調させる農法として彼らは放棄している。そればかりか、彼らは文字も持っていない。国家は文字や農業(税)を通じて国民を管理していくからだ。文字を捨てるということは支配を避けるためのゾミアの知恵であり、戦略でもある。
しかし、文字を持たないということは、歴史や伝統を放棄することでもある。これは文明国で暮らす私たちからしてみればとんでもない話だ。生きるとは何かを残すことであり、それを放棄してただ今だけを過ごすなんて、何か意味はあるのだろうか?
しかし、ゾミアの人たちにとって歴史はそんなに重要ではなかったのだ。彼らは移動するから土地の奪い合いは起きないし、土地の権利を主張する手段も必要もない。生活の糧も遊牧や狩りによって賄えるし、物資が不足したら周辺国で必要なものを交換すればいい。
裏を返せば、文明化でメリットを得てきたのは国家の側だったのだ。国家に所属し、国家に管理され、支配されながら生きることを望んでいない人が、一定数いる。私たちのように「発展=素晴らしいもの」という考えは、世界の辺境においては普遍的ではないのだ。これぞ、辺境をもとにした「常識外れの一冊」ではないだろうか。
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以上は一例だが、本書ではほかにも、14世紀にイスラム世界のほぼ全域を遍歴した記録をつづった「大旅行記」、現代に生きる源義経の魂が自らの生涯を解説していく「ギケイキ」など、「辺境の怪書」を色々と取り上げている。
読んでいて感じたのは、自分がいる場所はまだまだメジャーの中のメジャーで、そこから少し外れれば、常識と思われていること全てがひっくり返る可能性があるということ、そして、その逆転を知ることはとっても面白いということである。
それは未知を知るワクワク感であり、同時に、世界を見る目が以前よりも多層的に生まれ変わることへの楽しさでもある。自分の見識・教養を広げるうえでは、こうした「ニッチでディープな本」を読むことも、一つの力になるはずだ。
――これまでぼんやリと映っていた辺境や歴史の像がすごくくっきりと見える瞬間が何度もあった。解像度があがるとでもいうのだろうか。同時に、「自分が今ここにいる」という、不思議なほどに強い実感を得た。そして思ったのである。「これがいわゆる教養ってやつじゃないか」と。
思えば、「ここではない何処か」を求める志向を私たち二人は共有している。でも浅はかながら私はなぜ自分がそれに憧れつづけていたのか気づかずにいた。
「ここではない何処か」を時間(歴史)と空間(旅もしくは辺境)という二つの軸で追求していくことは「ここが今どこなのか」を把握するために最も有力な手段なのだ。その体系的な知識と方法論を人は教養と呼ぶのではなかろうか。
もちろん、日常のルーティンにおいて、そんなことはほぼどうでもいい。だから往々にして教養は「役に立たない空疎な知識」として退けられ、いまやその傾向はますます強まっている。でも、個人や集団や国家が何かを決断するとき、自分たちの現在位置を知らずしてどうやって方向性を見定めることができるだろう。
その最も頼りになる羅針盤(現代風にいえばGPS機能)が旅と歴史であり、すなわち「教養」なのだと初めて肌身で感じたのだ。
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ずっと積読だったんだけど、もっと早く読めば良かった。誰かと同じ本を読んで語り合うって、すごく豊かな時間の使い方だなあ。
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はじめに 清水氏
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」で対談をした高野氏と清水氏。その続編をという要望はあったが、高野氏は、いや二番煎じになるので、これからはそれぞれの分野に立ち返ろうということになった。
だが、交流は続き、そのつど話題にでるのが「ゾミア」という本。高野氏に言われ読んでみようか、と言ったところ、高野氏から、それなら1冊といわず共通の本を選んで読書会を開いたら、という話にはり、編集者も同席していたため、この企画が走り出した。
対談は3か月に1冊の割合で8回、2年間にわたって行われた。集英社の機関誌「kotoba」に連載された。次の課題図書は一つの対談がおわるたびにその都度考えた。結果的に一つの本から生まれた疑問をもとに次の本が選定され、さらに考察が深まるという、毎回の話題に柔らかい連関が生まれた。
扱われる世界も「ボーダーレス社会」(1.2.3章)→「自力救済社会」(3.4.5章)→「無文字社会」(6.7.8章)、とゆるやかに変化した。
1章「ゾミア 脱国家の世界史」ジェームズ・C・スコット著(1936-2024.7.29)2009発表、日本版2013
2章「世界史のなかの戦国日本」村井章介著
3章「大旅行記」イブン・バットゥータ著(1304-1368)
4章「将門記」作者成立年不明 平将門の乱の軍記物語
5章「ギケイキ 千年の流転」町田康著 2016刊
6章「ピダハン」ダニエル・L・エヴェレット著(1951- )2008発表 日本版2012
7章「全集日本の歴史第1巻 列島創世記」松木武彦著2007刊 小学館
8章「日本語スタンダードの歴史」野村剛史著 2013刊
おわりに 高野氏
読書会は約3時間あまり。しかしテーマ本や関連本まで読むと準備が半端ではない。しかしこの読書会で、正面からテーマ「辺境と歴史」に向き合うこととなった。そして見えてきたものは、「自分が今ここにいる」という実感、そして「これがいわゆる教養ってやつじゃないか」
「ここではない何処か」を時間(歴史)と空間(旅もしくは辺境)という二つの軸で追及していくことは「ここが今どこなのか」を把握するための最も有効な手段なのだ。その体系的な知識と方法論を人は教養と呼ぶのではなかろうか。
「ゾミア」、「ピダハン」、「大旅行記」を読んでみたい。
2018.4.10第1刷 図書館
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世界の辺境と日本の中世。ノンフィクション作家と歴史家。
そんな二人が本の魅力を語り合う、ガチンコ読書対談。
・はじめに
第一章『ゾミア』 第二章『世界史のなかの戦国日本』
第三章『大旅行記』全八巻 第四章『将門記』
第五章『ギケイキ』 第六章『ピダハン』
第七章『列島創世記』 第八章『日本語スタンダードの歴史』
・おわりに
「ゾミア」・・・古い生活を残すことで定住型国家から逃げた地域。
「世界史のなかの戦国日本」・・・蝦夷地・琉球・対馬は、
最先端の辺境だった。中央よりも外へ。広い海へ。
「大旅行記」・・・イスラム繋がりの世界を巡る約30年の旅。
「将門記」・・・日本最初の軍記物は当時の武士と戦闘のリアル。
「ギケイキ」・・・きちんと「義経記」を基にした現代義経が
語る、パンクなピカレスクロマン。
「ピダハン」・・・アマゾンの少数民族ピダハンの、
無い物尽くしの文化と常識。数も左右も呪術も神話も無い。
「列島創世記」・・・古墳時代までの先史時代の日本を
認知考古学で紐解く。キーワードは「凝り」。
「日本語スタンダードの歴史」・・・室町時代末期から芽生えた
標準語。近世に地方に拡散し、明治時代にも影響が。
ヤバい面白い本がてんこ盛りの読書対談集。
辺境と歴史の怪書や驚書が語られ、文中にもヤバい本が登場。
細川重男「頼朝の武士団」は近々読む予定だったから、
なんか嬉しくなってしまった。つーか、読みたくなる本が
多くて悩ましい。だって辺境と歴史だもの。興味津々。
だから“おわりに”の教養の話も心に響くものがあった。
とりあえずこれらの本が近所の図書館の蔵書にあるのを確認。
でもその前に、高野氏と清水氏の本も、更に読みたいなぁ。