こんな友達が欲しい
2018/06/09 18:43
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しゅんじ - この投稿者のレビュー一覧を見る
前作は対談でとても興味深かったが、今回は「読書対談」。面白くない筈がないとハードルを上げて読んだが、期待に違わぬ面白さ。対談で取り上げられている未読の本はすぐにも読みたくなる。だけどなあ、イヴン・バトゥーダに『将門記』に『ゾミア』かよ、敷居が高いぜ。それにしても噛み合う二人。タイプが似ていて、興味の方向や経歴が大きく違うってのがいいんだろうなあ。うらやましい。紹介した本をすぐ読んでくれ、語り合ってくれる、こんな友達が欲しい。
投稿元:
レビューを見る
前著ほどの驚きはなかった
日本史の話が多かったからか
ゾミアは面白そう
それとあとがきが素晴らしい
投稿元:
レビューを見る
いやあ面白かったなあと本篇を読み終え、笑う用意をしながら高野さんによるあとがきを読み出したのだが、まったくこのあとがきは素晴らしかった。感動的ですらあった。教養とは何か、なぜ教養は必要なのか、ということを、これほどわかりやすい言葉で実感をもって語っている文章を他に知らない。
「教養とは、自分がいる『今ここ』を時間と空間のなかに位置づける羅針盤であり、人生の終わりまで必要なもの」
胸にしみ通るような言葉だ。
以前出たお二人の対談本「世界の辺境とハードボイルド室町時代」がとても良かったので、第二弾を期待していたのだが、これは少し趣向を変えた読書会的内容となっている。まあ当然かもしれないが、選書がマニアック。私が既読だったのは「ピダハン」だけ。イブン・バットゥータ「大旅行記」全八巻!なんていうのまである。まず読むことはなかろうという本が次々でてくるのだが、お二人の話を聞いていると読みたくなってくるようでもあり、読んだ気になるようでもあり、とにかく非常に興味深い。
清水さんがまえがきで書いているが、この企画は、自分がこれは!と思った本について、その道の専門家であり、かつ気の置けない人と好き放題語り合う、という「不可能に近い欲求」をかなえたものなのだからして、まあ二人とも楽しそうなこと。取り上げた本の気になった箇所の話から、話題はどんどん広がっていって、知的な興奮に満ちている。
歴史学者である清水さんの博識ぶりは言うまでもないが、その清水さんと対等に渡り合う高野さんの、半端ではない読書量と知識に驚く。辺境に未知動物を探しに行ったり、行動してナンボの人だというイメージもあるけれど、意外や学者肌であることはわかってはいたが、その実力をまざまざと見せつけられた感じ。
へぇ~と感心したり、あ、そういうことかと納得したり、アハハ!と笑ったり、本当に楽しい一冊だった。前の本に続いて、表紙を山口画伯の馬バイクが飾っているのも二重丸。二番煎じはダメだからコンビ解消、なんて言わないで、またの機会があることを期待しています。
投稿元:
レビューを見る
辺境作家の高野さんと、日本中世史研究者の清水さんによる、読書会対談。二人の対談はとても面白く、紹介されている本はどれも読んでみたくなります。対談中の用語の多くに脚注が付いているのですが、個人的にはところどころ脚注がツボにはまった。例えば「ピンポンダッシュ」に脚注が付いていたり。高野さんが「おわりに」に書いているのですが、辺境と歴史っていうのは、空間軸・時間軸として自分の立ち位置から離れたところを知ることで、逆に自分が今どこにいるのかを知るために重要な知識なんだということが分かった。それこそが教養。我々は何処から来て何処へ向かうのか、それを考えるために必要なことが教養なんだな。
投稿元:
レビューを見る
読み終わった。一気読み。決して辺境も日本史の中世にも特段の興味があった訳ではないが、高野さんと装丁のデザインに惹かれて、また清水さんの序文を読んでこれは買わなあかんやつやと買った。いざ読み始めると予想以上に引き込まれて難しい専門の話でも微に入り細に入る解説で読みやすく理解する事ができた。おわりにに高野さんも書いておられたがこれが教養というやつなのかと思った。もっともっと知識を吸収したい、そんな気にさせてくれた。前著もぜひ手に取って読んでみたい。
投稿元:
レビューを見る
自分が絶対手にしないような本の内容を、読んだ人の感想や評価を聴いて、なんとなく読んだ気になった感が得られる本。
投稿元:
レビューを見る
ホント、この二人おもろい。
こういうその分野に詳しい人を一人入れた読書会って、やったらすごい楽しそう。
投稿元:
レビューを見る
ここで紹介された本、どれもまず自分からは手に取ろうとはしないだろうが、みな読んでみたくてたまらなくなった。特に『世界のなかの戦国日本』は文庫なのできっと買う。
投稿元:
レビューを見る
とりあげられている本はどれも読んでいないし、もともと歴史苦手だし、で、けっこう難しかった。やっぱりとり上げられている本を読んでないとぴんとこないのかも。でも、「ギケイキ」(これ、なんとなくタイトルはきいたことあったけど、まさか「義経記」のことだとはぜんっぜん考えもしなかった)をすごく読んでみたくなった。(「ピダハン」もおもしろそうだけど、高いなあ……。)
いやでも高野さん本当に頭よさそうだし、めちゃめちゃ本も読んでいて教養あると思うんだが。お相手の清水氏は教授だから当然だろうけど。
高野さんのあとがきの、教養が大切なのだっていう話になんだか感動した。この本でふたり読書会のようなことをして、体系だてて考えたり議論することで、高野さんが興味あるテーマ辺境と歴史のイメージがくっきりしたっていうようなことを書かれていて、なんだかうらやましくなった。わたしも、別になにか追求してるわけでも教養を高めようとしているわけでもないけど、ひとりで手あたり次第にバラバラ適当に本読んだり映画見たりしてて、まーーったくなんの意味もないのかも(別に意味を求めてるわけでもないけど)、とか思ったり。
投稿元:
レビューを見る
日本中世史の研究者と辺境冒険家の対談本第二弾!
難しい話も出てくるが、二人の熱気が伝わってくるのが良い。
投稿元:
レビューを見る
前回のハードボイルド室町時代よりこちらの方が好きかも。書評集とか書評対談って読むと案外面白くなくて、読んだことがある本以外は興味湧かないのが事実。でもこの本は掲載されている本を読んでもらう事を前提で書いていないです。読めんだろうと思う位長い本もありますし。
二人が読んだ本に対して話す内容として、歴史や人類学の枝として持論を主として話を展開しているので、単純に興味深い読み物として魅力的。
不思議な民族や過去の興味深い歴史を垣間見せてくれます。
早く高野秀行の本でないですかな。面白かったけれどやはり対談じゃなくて本読みたいですよ。純粋な新作ってアジア納豆が最後なんじゃないでしょうか。早よ出してください、待ちきれないです。
投稿元:
レビューを見る
お祭りで神輿を出すところと、山車を出すところがある 山車は都市部(京都、高山) 少ない
強大な権力から逃れるため、あえて窓口をつくらない
世界史の中の戦国日本 ちくま学芸文庫
なべおさみ やくざと芸能と
本の見返しの部分に、何ページにどんなことが書いてあったかメモする
明治初期の人口激減期 徳川家の静岡移転や廃藩置県によって幕府の旗本、御家人、大名とその家臣団がどかっと東京からいなくなって、東京の山の手からほとんどの武家が姿を消した
投稿元:
レビューを見る
前作あるのか!課題図書も読みたし。うふう。
【課題図書】
ゾミア 脱国家の世界史/ジェームズ・C・スコット
世界史のなかの戦国日本/村井章介
大旅行記/イブン・バットゥータ
将門記
ギケイキ 千年の流転/町田康
ピダハン 「言語本能」を越える文化と世界観/ダニエル・L・エヴェレット
列島創世記/松本武彦
日本語スタンダードの歴史―ミヤコ言葉から言文一致まで/野村剛史
投稿元:
レビューを見る
辺境と歴史がテーマの図書を提示しての対談。
高野のあとがきが実に良かった。
教養とはと云う事なのだが
「今自分がいるところ」を把握するには「ここではない何処か」を時間(歴史)と空間(旅もしくは辺境)という二つの軸で追求することが有効な手段で、その体系的な知識と方法論を人は教養と呼ぶのではないか。
全体的に楽しんで読めたが最後のこの文章にはグッと来るものがあった。
投稿元:
レビューを見る
本書はノンフィクション作家の高野秀行氏と中世史家の清水克行氏の読書対談第2弾。高野氏は以前に「間違う力」を手に取って以来、気になる作家ではあったが、まさかこれほどの教養をお持ちになっているとは思わなかった。高野氏の場合は、(あくまで想像だが)経験が先行しその後に読書によって知識を得ることで教養を身に付けていったと思われ、その経験から得られた教養が見事に歴史の事実と一致していることは驚きの一言に尽きる。本書で紹介されている作品は、お二人の対談を読んでいると、本書で紹介されているどの作品も読んでみたくなるが、どれも読みごたえがあって尻込みしてしまう。まずは手軽な「世界史のなかの戦国日本」あたりを読んでみたいと思う。
それにしてもタイトルにある「辺境」というキーワードが、これほど人類の歴史にとって重要なものだとは考えたこともなかった。
・辺境では異なる文化や物資が交錯しますから、経済活動が活発になって富が蓄積されるんです。
・中国人は人材を育成しないっていうんですよ。優秀な人材を見つけてきて、すぐへッドハンティングしちゃうと。そこが農耕民族的ではないと著者のそがぺさんは言うんですよね。要するに、種をまいて辛抱強く育てて刈り入れするという発想ではなくて、遊牧民族的であると。中国では宋の時代で農耕民族的な伝統が途絶えちゃったんだと。
・日本では、室町時代に綿を栽培できるようになるんですけど、大量につくれるようになったのは江戸時代からで、それまでは綿布は輸入する一方でしたからね。それに、秀吉が朝鮮から陶工を連れて帰るまで、日本では磁器も自力ではつくれなかったわけだから。そう考えると、この時期の日本は、やっぱり同時代の中国・朝鮮に比べて出遅れていた感は否めないですね。
・最近は、「銃・病原菌・鉄」とは「サピエンス全史」などのグローバルヒストリーが流行だが、記述が大味なんですよね。もちろん、疫病とか飢饉とか地政学とか人智を超えた要素を歴史叙述の中に組み込んだという功績は大きいし、そこは面白いと思うんたけど。あんまり出来の良くないグローバルヒストリーって、結局、国家間の主導権争いであり、パワーゲームに終始するじゃないですか。だけど、この「世界史のなかの戦国日本」は、そういうのからこぼれ落ちる世界に目を向けているし、そういう歴史のほうが僕はリアルで面白いと思うんです。
・僕が衝撃を受けたのは、その「美の考古学」に書いてあることなんですが、日本列島に限らず、世界各地の土器の造形や文様は、素朴段階、複雑段階、端正段階と三段階で移行していくということですね。
・縄文土器は文様の控えめな素朴段階から、ゴテゴテした複雑段階のものへと変わっていって、弥生土器になるともっと機能的な端正段階の形になりますけど、そういう変化は世界中どこでもおおよそ共通していて、なぜなら、同じホモ・サピエンスがつくるものだからという説明になっていますよね。
・、これって、現代人も縄文・弥生の人も、ホモ・サピエンスとしては変わりがない、だから現代の認知科学を考古学に応用してもいいっていうことです���ね。
・僕は文化や価値観と認知は違うものなのかと思ったんですよね。ホモ・サピエンスの認知は心の深いところにあって、文化や価値観はその上に乗っかっているんじゃないと。仕草は文化だから民族によって異なるけど、笑いや怒りみたいな、より動物的な感情は、時代や空間が違っても変わらないものなんだと。ということは、土器の文様やデザインの根本は、文化じゃないということになりますよね。もちろん個々の土器は文化的なものなんだろうけど、縄文土器と弥生土器の違いは認知レべルの違いだと。
・遠く離れた場所で似たようなモノがつくられるのは、それらの人たちの心の奥底にある、ホモ・サピエンス普遍の認知原理でつながっている何かが発露したからなんですよね。
・、文字から歴史を読み解く場合は、書かれていることがすべて事実だとは考えないんですよね。人はうそをつく生き物だし、何らかの自己主張のために文章を書き残している。たから、あえて書かれていることの裏側を読むとか、主張の背景を探るといった、少しねじくれた、意地の悪い読み方をする傾向があります。古文書を読む研究者の中でも優れた研究者は、むしろ「書かれていないこと」を読むことにエネルギーを注ぐ。そのへんのアプローチが少し違うのかな。
・本文の冒頭にいきなり内藤湖南が出てきますからね。「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」(内藤湖南「日本文化史研究」)という文章を引用して、「現代日本語の源流についても、約五百年前、すなわち応仁の乱以降の一五・一六世紀の日本語を眺めれば足りる」と野村さんは言い切っている。
・室町期には、流通が発達して、都にいろいろなものが集まってくる、と同時に、都の知識や教養が地方に拡散していった結果、人々が都を目指すようになった。
・従来、江戸時代は儒教の社会だと考えられてきたんですが、どうも違っていたようで。むしろ儒教と神道と仏教をミックスした心学みたいなものによって国民道徳がつくられていったと言われているんですよね。