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私は「未来からやって来た人」というのに、いまだかつて遭遇したことがない。遠い将来、我々の文明が高度なタイムトラベル技術を開発していて、タイムマシンでの時空を超えた旅行が現実のものになっていれば、もっと「未来人」らしき人にバンバン出遭っていてもよさそうなものだが、(あっ! あの人、未来人ちゃうか!?)というような人間には、ついぞお目にかからないのである。
私がイメージする「未来人」らしき人をごく簡単に説明すると以下のようになる。
①メタリックな全身タイツとでも言うべき「未来服」を隠し持っていて(目的地に着いたら、その時代の衣装を着ているが、出発時はタイツ的なものを着用)、時々それが時空旅行先の人間に見つかりそうになるために不自然に慌てふためいている。
②妙な予言をふと口走って、(しまった…!!)という顔をしている。
③変容してしまいそうな未来の歴史を修正するためだろう、いつもなぜか忙しそうにバタバタと走り回っている。
④困り果てた顔で、「実は未来からやって来た」と渋々白状している。
などなど。
しかしながら、三十四年間生きてきた中で、そういう挙動不審の人間は周囲にはいなかったような気がするのだ。皆さんの周りはどうだろう?
もしかすると、タイムトラベルは可能なものとなっているが、人間が存在する時代への旅行は、関わり方によっては後の歴史を大きく変える危険性があるために「時空旅行に関する国際法」で禁止されているということも考えられる。せいぜい、「古生物見学ツアー」が組まれる程度のものなのかもしれない。それでも、厳しい細則にのっとってツアー客は行動しなければならないはずだ。どんなに微小な生物でも指で潰したりするのは厳禁である。その生物の遺伝子が損なわれたことによって、後に生物学上ものすごい進化を遂げたかもしれない動物が消滅してしまうこともありうるし、何より、その遺伝子を持った小さな生物が自分のご先祖様かもしれないからである。特に、後々哺乳類に進化していく可能性がある脊索(せきさく)動物は要注意だ。触れず、関わらず、ひたすら観るだけ。時空旅行も意外に面倒くさいものなのである。
『マイナス・ゼロ』では、そういう時空旅行で行き着く先が昭和七年の世界なのだが、主人公である「浜田俊夫」がタイムマシンに乗って過去へ出発する基点となる時代が昭和三十八年であるから、現代の我々からすると、その昭和三十八年の情景そのものが既に、時空旅行で味わうノスタルジィを帯びている。私が誕生する、たった十二年前の世界には違いないが、両親がまだ十歳の少年少女という時代でもある。更に昭和七年ともなれば、その両親が生まれる二十一年前となり、私の祖父母らの子供時代となるのだ。この作品で描写されている昭和三十八年・七年は、私に連なる人々が実際に生き、元気に駆け回って体験した世界なのだ。したがって、私以外の読者でも若い方ならば、これは誰々が何歳だった時とか、私よりも年長の方ならば、この年は自分が何々をしていた時とかいった具合に、思い出に浸り、懐かしさを覚えながら、この作品を読むことが出来るはずである。
昭和二十年五月二十五日深更、十四歳の浜田俊夫は、住まいのある東京で空襲を経験する。母と避難しようとする俊夫は、隣家に住む三つ年上の憧れの女学生「伊沢啓子」とその父「伊沢先生」が無事に避難したかどうかを確かめる為に隣家に立ち寄るが、彼が発見したのは、焼夷弾の直撃を受けて頭に怪我を負い、気息奄々としている伊沢先生の姿であった。娘の啓子の姿はどこにもない。瀕死の伊沢先生は「十八年後の一九六三年五月二十六日午前零時、この場所に再び来て欲しい」との遺言を浜田俊夫に残してこと切れた―――――。
一九六三年(昭和三十八年)、浜田俊夫は戦争の終盤を生き抜いて三十二歳の働き盛りになっていた。就職した会社はテープ・レコーダーとトランジスタ・ラジオの製作で急成長し、彼はその技術部長として働いていたが、十八年前の伊沢先生の遺言がずっと気がかりになっている。約束の期日が近づく。彼は意を決して、当時、伊沢先生と啓子が住んでいた家の現在の住人が、及川という初老の男性であることを突き止め、その彼に連絡を取り、母屋の隣に昭和二十年当時からあるドーム型の研究室に居させて欲しいと願い出るのだった。
俊夫は、自分がそこに行ったからといって何が起こるのかは一切分かっていなかった。やがて、約束の時間がやって来て、研究室のドアを内側から開けた者は―――――、防空頭巾をかぶり、モンペをはいた憧れの啓子さんであった!
終戦間近の時点では俊夫十四歳、啓子十七歳だったはずの年齢差が、昭和三十八年の再会では、俊夫の方がはるかに彼女の年齢を上回ることになってしまった。当初、啓子は自分が十八年後の世界に一足飛びに来てしまったことに気付かず、パニックに陥り、俊夫は俊夫で、啓子が昭和二十年五月二十五日以降の記憶を失った状態で自分の前に現れたのだと解釈したのだが…。三歳上の啓子が変らず可憐な少女の容貌を保っていることに不審を抱いた俊夫は、彼女が本当に昭和二十年の世界から時を越えてやってきたのではないかと考え始める。そして研究室の中を覗くと、見たこともなく使用法も不明の、のっぺりした箱状のものが鎮座しているのであった。
そこから、俊夫と啓子の認識のすり合せが始まる。俊夫は啓子に16型テレビ・セットを見せ、ガスライターを使わせ、コカ・コーラを飲ませた。昭和三十八年の新聞、日本が無条件降服したこと、東京タワー、ありとあらゆるものを見聞させ、結果、啓子は自分が空襲の夜から十八年後の平和な時代へ、一瞬の内に移動したことを悟ったのであった。彼らは、現在では及川邸となっている元・伊沢家のドーム型研究室にある箱状のものがタイムマシンであり、伊沢先生が娘を空襲から逃れさせる為に、それを使ったのだという結論に至る。伊沢先生が残した大学ノートというものがタイムマシン内部にあり、旧字体と全く見覚えのない文字で書かれた日記が発見されるのだが、その不思議な文字を大雑把に解読し推理すると、伊沢先生が、はるか未来から昭和初期に来て住みついた人らしいことが分かっていく。
そして、それがタイムマシンであるということを理解した時から、彼らの数奇な運命の歯車がにわかに廻り始めるである。否、読み終えてから考えてみるに、二人がタイムマシンの存在を知らない頃から、彼らの人生はそのタイムマシンによって翻弄されていたとも云える。
俊夫は、啓子がうたた寝をしている間にタイムマシンの内部を検分するのだが、そのうち、タイムマシンを動かしてみたい衝動に駆られ始める。彼は啓子が眠っている間に、二十九年前の昭和九年へ行ってみることにした。これは伊沢先生が日本に来た翌年とされているのだ。啓子が眠っている間に行って、すぐ帰ってこれるものと考えていた俊夫はとうとうタイムマシンのボタンを押してしまったのであった………。
結論から言うと、俊夫が到着したのは更に二年昔の昭和七年の世界であった。この二年の誤差が生じた理由として、俊夫および我々の時代の十進法と、伊沢先生が元々の世界で用いていたらしい十二進法の違いが挙げられるのだが、この十進法と十二進法に関する勘違いが、この『マイナス・ゼロ』という作品をより一層面白くし、物語が佳境に入るにつれて、パズルの一片一片がカチカチカチッと奇麗にはまっていくような気分を我々に味わわせてくれる、いわば仕掛けになっている。ちなみに私は、俊夫による十進法と十二進法の推理、そしてノートに記された謎の文字の解読の箇所で、一回読み流すだけでは理解できなかったので何度も読み直しを余儀なくされた…。
が、その推理と解説を乗り越えた後のストーリー展開が、「計算し尽くされた推理小説」という範疇を超えて、浜田俊夫が出会う心優しい人々との「人情世界」、失われた古き良き時代をもう一度ゆったりと闊歩する「懐古趣味」といったものに彩られているせいか、なんだか心がジーンとしてくるのだ。昭和七年の東京の街並みなど知りもしないはずの私が、作者・広瀬正氏の綿密な風景描写のお蔭で、云いようのない懐かしさを感じる。このノスタルジィ。これこそが『マイナス・ゼロ』が単なる推理小説・タイムトラベル小説以上の作品と評価される所以(ゆえん)なのである。
浜田俊夫は昭和七年に到着した後、ある一つの不都合事が起こって、昭和三十八年に帰れなくなってしまう。普通なら、元の世界から誰かが都合よく救出に来てくれるものなのだが、浜田俊夫に助け手は現れない。いや、助けようとする人がいたことは終盤になって判明するのだが、やはり十二進法の勘違いに阻まれて直接的な救出が行えなかったのである。したがって俊夫は、昭和七年から三十八年までを、もう一度生き直すことになってしまった。むしろ彼の助け手となったのは昭和七年を生きる人々であり、間借りをさせてくれることになった仕事師のカシラやそのおかみさん達だ。
時、折りしも、日本が戦時体制へと変遷していく頃(ころおい)である。彼は昭和七年で生活するにあたって戸籍の必要を感じ、潜伏する予定の、とある共産党員の戸籍をそっくり受け継ぐことにした。俊夫がその共産党員に支払う見返りは千円。共産党員はそれを活動資金にして地下へ潜るのである。その人物の戸籍を貰ったことで、浜田俊夫は「中河原伝蔵」という名になった。しかし、このことで中河原伝蔵宛ての赤紙(召集令状)が、俊夫のもとに届く結果となるのだ。本物の中河原伝蔵が予備役陸軍歩兵一等兵だったこともあるが、共産党員でもあることへの懲罰的意味��いがあったらしい。
俊夫は応召しなければならないのか…、それともほかに何らかの逃げ道があるのか………!?
『マイナス・ゼロ』において非常に好感が持てるのは、先にも書いたように浜田俊夫(中河原伝蔵)を昭和三十八年に連れ戻す救出者が出ないことである。都合が悪くなったら元の世界へとんぼ返り、もしくは元の世界と移動先の世界を行ったり来たりというご都合主義の作品に仕上がってはいないということなのだ。だからこそ俊夫は、これから自分が生活していかなくてはならない昭和七年の東京の街々を、じっくりと観察しながら歩いている。様々な物の値段を調べ、当時の貨幣価値や物価感覚に馴染んでいく。その観察や体験が、当時の人々のささやかな生活を鮮やかに浮かび上がらせていく。この「救出者無し」という設定が、『マイナス・ゼロ』を大きく動かしていく原動力になっているのだ。
また、指定できるのが行きたい年代のみ、というタイムマシンのシンプルな性能も、この作品を魅力的なものとするのに一役買っている。最近のタイムマシンは行きたい年代や日時のみならず、場所も任意設定なのが標準装備だと思われるが、俊夫が乗るタイムマシンは場所の設定が出来ないことになっているのである。よって、年代がどれだけ変わっても、タイムマシンが出現する処はドーム型研究室の内部にあたる場所で、そこが時代によってただの原っぱだったり、屋内だったりする。更に建物の床の高さから出発して移動先が何もない原っぱだとすると、床の高さからマシンが落ちてしまうので、かなりの衝撃があるし、反対に地面から出発して建造物の内部に到着する場合などはマシンが床と衝突し、粉々になってしまう危険もある。
そういうタイムマシンの不便な部分があることによって、昭和三十八年にすぐ戻れると考えていた時期の浜田俊夫は、カシラたちにマシンの高さを調整する仕事を依頼せねばならず、それが縁となって親密な人間関係が生まれていく。そして、彼が元の世界に戻ることが不可能になってからも、その人間関係が浜田俊夫の昭和七年での生活を支えていくのである。タイムマシンが極めて高性能で、日時から場所から搭乗者の意のままになり、困ることがないようだったらドラマなんて起こりっこない。
浜田俊夫は、「昭和八年ごろからヨーヨーが流行りだした」という、今は亡き母の言葉を思い出して、そのヨーヨーで一攫千金を狙ったりもしている。試作品を作って、カシラの子供たちに向けて実演し、事務所まで借りて製作販売を担当してくれる玩具屋を募るのだが、こちらの事業はどうやら失敗したようだ。白木屋百貨店の火災事故に遭遇もし、ダットサンの一人乗り小型車・フェートンを千二百五十円で購入もしている。そういう、ちょっとしたエピソードの数々によって、読者の我々にも懐かしい昭和の香りが蘇ってくること請け合いだ。
最終的には、及川氏や物語の所々で名前の出てくる活動写真女優の小田切美子などもパズルのピースとなって物語上の重要な鍵を握り、それこそ時空がある一点へ向かってギュウッと収斂して行くのを見せつけられるかのように、作中に配置された謎が一気に解決していく。俊夫が昭和七年へ行ってしまった後、伊沢啓子が取る行���によってものすごい結末が用意されているのが見物の小説である。
平成二十二年五月十九日 読了
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うわー、すごいタイムパラドックス。こういう終わり方をするとは思わなかった。かなり意欲的な作品。電気や真空管の話など、著者の傾倒するものへのコダワリが面白い。
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タイムトラベルものとして、よく練られていて、目に付くパラドックスもなく、しかも最後にはどんでん返しがある。
タイムトラベルものでは、因果関係の遊びが色々されてる良作がたまにあるけど、この作品もそういった遊びがあり、しかも破綻が無くよくできていた。
だが、昭和に行ってからの描写では、特に何か事件が起こるわけでもなく、日々の生活が長々と展開していくので、ちょっと読むのがつらかった。
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始まりが戦争時。
またえらい所から始まってる…と読み始めれば面白い!
妙な申し出をそのまま受け取る家主に
久しぶりに会ったとなりのお姉さん。
そして出会った人々。
始まりは最初に。
最初は始まりに。
ぐるぐると回るメビウスの輪、です。
3分の2くらい読んで、展開が分かってきます。
が、それでも面白い。
かなり続きが気になって仕方がないです。
そして最後までいきついて、あれ? と。
そして奥付を見てびっくりでした。
そこでやっと『今』がどこなのかが分かって
なるほど、と1人納得でしたw
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途中の展開はある程度読めましたが、最後の最後で裏をかかれ、いい意味で筆者に一杯食わされた感じがします。司馬遼太郎氏が絶賛したのにも頷けます。
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『マイナス・ゼロ』のタイムマシンの行く先が「昭和7年」!大工のカシラの家に間借りするシチュエーションがユーモア溢れてますよ。
「あり合わせですみません」とおかみさんが出したのが、クサヤの干物。ゴールデンバットで一服、いやあ、いいですね。
主人公が巡る自分史の旅に同行するようなリアリティ溢れる描写がいい。驚くほど詳細な銀座の風景が甦ります。ゲーリー・クーパーとマレーネ・デートリッヒの映画「モロッコ」もも登場!ダットサンが無免許で運転出来たこと、ジョニ黒が1本9円、外国タバコはゲルベゾルテ、慶応の選手・水原、ヨーヨーに白木屋・・・
和田誠のカバーイラストと解説の星新一もいいですね。傑作SF小説!!
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タイムスリップ小説として有名なこの作品。
タイムパラドックスの構造を楽しむと言うよりは、
それに巻き込まれた人物描写に力点が置かれている。
それでも最後に意外なパラドックスも残されていた。
後書きに書いてあったタイムスリップ経験談が興味深かった。
タイムスリップとは自分の中の時間と外の時間のズレである。
星新一による解説はなんでこの人に頼んだのだろうかと思ってしまう内容。
よく、広瀬正といえば『マイナス・ゼロ』と言われるが、個人的には『鏡の国のアリス』の方が良くできてるかなと思った。
彼の小説はまだ数冊しか読んでいないが、これから楽しめる本がもう残り少ないことが寂しい。早くに亡くなったことが悔やまれる。
残った本もぜひ読みたいと思う。
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タイムトラベルものSF。優しい視点でノスタルジックかつ緻密に描写される昭和初期の生活が良かった。随所に仕込まれた伏線が終盤で一気に回収されていくのも爽快。面白かった!!。
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タイムトラベル物であるが、
非常に優れた作品に仕上がっている。
各ピースが、パチリパチリと狙った所に上手く収まって、
最終的に上手く 1 本の線となっていく。
作者のテクニックに脱帽する。
戦前の東京の描写も秀逸。
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●十分な準備もせずタイムマシンを動かしたり、しどろもどろな話しから
不審がられタイムマシンのことを話してしまったりと、場当たり的な
俊夫の行動に辟易しながら読んでいたが、何をやっても歴史が辻褄を
あわせてしまう、むしろ歴史の通りになるようにことを運ばなければ
ならない、と俊夫が考えていることは興味深い。俊夫の行動は論理的な
ものではなく、本能的なものに思える。歴史の通りに事を運ばなければ、
自分の生存が脅かされると感じているのかもしれない。
☆きっかけは『SFはこれを読め』を見たことと、病院の本屋でみつけたこと。
読了日:2010/06/23
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とっても物語に引き込まれました。
引き込まれすぎて電車を乗り過ごしたり、「ここは過去だ」と錯覚したり。
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長編タイムトラベルものの楽しさは、タイムパラドックスをいかにしてうまく丸め込んで最後にパズルのピースをぴったりあわせるか、だと思う。「マイナス・ゼロ」も順調にパズルのピースが埋まっていくのがまさに快感。だがしかし先の見え透いた予定調和ではなく、予想外の事柄も起こりつつきっちり落ち着くところにまとまるのには参ったというしかない。特に終盤の展開は、まさかの連続。矛盾がないといえば嘘になるが、そんな重箱の隅をほじくるのが野暮に思えるほど全体構成の完成度が高い。
タイムマシンが跳んだ昭和初期を舞台に戦前日本の人々の暮らしが蘇って、昭和をあまり知らない私にとっては、二重の意味でタイムトラベルしたみたいだった。日本人として、読んでおきたいSFと言われている(?)のも素直に肯ける。
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鮮やかだ。ジグソーパズルのピースが一枚一枚あわさっていって、そして最後の一枚がパチリと音を立ててはまる瞬間の、あの鮮かさだ。ラストが近付くにつれて震えが止まらなくなり、読み終わったときにはしばし茫然とした。
タイム・マシンに憑りつかれ、夭折した広瀬正の代表作。全体を貫くテーマは、「存在の環のパラドクス」だが、アイデア一発ではなく、的確な肉付けによって血が通い、活き活きと躍動する一遍の小説に仕上がっている。とくに戦後間もない銀座の描写は、解説の星新一ならずとも、感銘を受けるところだろう。そして、ずっと暗示されていた大きな環(ネタバレするので、詳細略)の存在が示されたとき、すべてのピースがおさまるべき場所におさまり、一枚の、しかし無限に続く絵が浮かび上がる。小さな環(ライター)が好対照を成しているのも素晴しい。
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合計3時間ほどで一気読み
久しぶりに裏切られた!という感覚になりました
最初から最後まで飽きさせません
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相棒が絶賛してたので手に取ったのだけど、残念ながらハラハラしすぎてうまく読みすすめない………。もうすこし時間を置いて、自分のコンディションが換わったら、もう一度読もう。