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憲政史家の倉山満による、7世紀から18世紀までの同時代の世界史と日本史を比べるという一冊。
同時代の世界と比べて日本がのんき、ただ国力があって国防だけは怠ってなかったということがよくわかった。
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世界史の中の日本史、日本史の中の世界史について。
以下、本書より。
【世界史教科書風の年表がいかに罪深いか】
日本の歴史に鑑みると、白人がやってきた事はつくづく傲慢です。
と書くと反発を覚える人もいるかと思いますので、世界史教科書風に事実だけを並べてみます。
1492年
コロンブス、アメリカ大陸を発見。
1493年
ローマ教皇アレクサンドル6世、新大陸における紛争を解決すべく教皇子午線を設定。
1494年
トルデシリャス条約。
教皇子午線に従い、東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と決める。
気の利いた先生なら、
「ポルトガルはアフリカに、スペインはアメリカ大陸に植民地をつくっていった」と解説してくれるでしょう。
生真面目な生徒は、解説ごと丸暗記します。
かくして、自虐的な子供の出来上がりです。
なぜでしょうか。
特に日本を貶めるような記述はありません。
だから問題なのです。
世の中、何が書いてあるかよりも何が書いていないかの方が大事なのですから。
人を騙す時には、嘘をつくよりも、大事な事を隠して教えない方が、より効果的なのですから。
世界史教科書風の年表に、その道の研究者ならば誰でも知っている事実を足してみましょう。
1492年
海賊にして奴隷商人のクリストファー・コロンブス、キューバに到達。
住民を大虐殺し、略奪の限りを尽くす。
本人は現地を死ぬまでインドだと信じていたが、アメリカ大陸を「発見」したとの功績で讃えられる。
1493年
ローマ教皇アレクサンドル6世、地図上に線を引き、「東はポルトガル、西はスペイン」と植民地獲得競争の縄張りを決める。
当然、現地人の許可などとるはずがない。
1494年
トルデシリャス条約。
教皇子午線の境界となる。
ポルトガルもスペインも日本を植民地にする事などできず、最後は追い返される。
世界史教科書風の年表が、いかに罪深いかおわかりでしょうか。
さも客観的に事実を伝えているかのようで、真実を何も伝えていないのです。
大航海時代と称するヨーロッパ諸国の植民地獲得競争など、侵略以外の何ものでもない事、そんな白人を日本は戦うまでもなく追い返した事。
こうした事実を抜きに、何の「世界史」を語るのでしょうか。
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なかなか辛口な語り口。
その点を受け入れることができれば、面白いと思えると思いますが、鼻につくようだと、読むのが辛いかも。
日本はいかに平和であり続けたか、という点と、日本で学ばれている世界史はいかに不自然か、という点を、力説しています。
ちょっと偏った印象を受けるものの、こういう捉え方も「あり」なのだと思います。
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日本史を、世界史と並べて解釈するという試みの本。
・1566年頃の人口は、日本とオスマン帝国は、1500万人程度で近い
・30年戦争では、日本はプロテスタント側に着いた。
・日本の鎖国が不可能になったのは、七年戦争によるイギリスのマニラ占領から
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高校時代に歴史の授業がありました、二年生のときに世界史を、受験期である三年生のときに日本史を習いました。日本史を勉強しているときには、世界史の知識は殆どなくなっています。まあ、定期試験の直前に詰め込むだけだったので仕方ありませんが。。。
そんな私ですが、試験で良い点数を取るためではなく、自分の好奇心を満たすために歴史に関する本を読み始めた社会人から、おぼろげながら、日本で重要な事件が起きている時に、世界は(これも西洋と東洋がありますが)どうなっているのだろうと思うようになりました。
これを自分で調べるのは大変な作業だと思います。そんな私にとって、倉山氏の書かれたこの本、並べて学べば面白すぎる世界史と日本史、は今の私には最適の本でした。
2019.11の最後の週にかかて読みましたが、本当に楽しい通勤時間でした。また類書も読んでみたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・当初、ムハンマドはユダヤ教・キリスト教共通の聖地であるエルサレムを礼拝の方向としていた、ユダヤ人に好感を与えるため、しかし624年に礼拝の方向をカーバ神殿に統一して独立した路線を歩もうとした(p21)
・聖徳太子は622年の死後、一族は蘇我蝦夷・入鹿親子に全滅させられた、その蘇我一族も中大兄皇子(天智天皇)に滅ぼされた、その側近であった中臣鎌足は藤原の姓を賜り、近代まで日本最高の貴族として君臨した(p30)
・当初存在した言葉を使うなら、幕府・将軍は使えない、幕府は「柳宮」、将軍は「御所様」「上様」「大樹」である、鎌倉幕府は「関東」(p32)
・ルネサンスは、人間だって自由意志をもってよいのだ、とする思想(人文主義=ヒューマニズム)である。そうなる前の暗黒の時代が8世紀の欧州に展開した、聖像禁止令に象徴されている(p41)
・ネストリウス派は、現在ではカトリック、プロテスタントの双方に「異端」認定され絶滅させられている、ネストリウス派は奈良時代(736年)に来ている(p41)
・イスラム帝国は698年にはカルタゴを占領し、瞬く間に北アフリカのビザンチン帝国領のすべてを奪った、これは先進地域である地中海アフリカを失ったことを意味する(p43)
・現在のポルトガルとスペインはイスラム教徒に占領されたまま、カトリックの信仰を守った。異教徒の占領下で信仰を守るのは大変である、これができたのは裏切り者を殺し続けたから、このために異端審問が行なわれた、この頃、日本では文武天皇により701年、大宝律令が制定され国の根本法とした。この正式廃止は、1885年の内閣制度創設である(p49、50)
・日本では軍隊の過半数をおさえたくらいでは、クーデターは成功しない文化がある。それより大切なのは、天皇の御璽(天皇の印章)を握ること(p52)
・フランク王国は分割相続が常であった、カール大帝は、弟のカールマンと共同統治であり、カールマンの死後は一人で支配した。仏・独・伊、それにベルギー、オランダ、ルクセンブルク(EUの原型)は、カール大帝の栄光を再現しようとする試みである(p63���
・カール大帝は、800年にサン・ピエトロ大聖堂にて戴冠式を行っている、これでフランク王国は西ローマ帝国の後継国家となった、この時、東ローマ皇帝の冠は、ビザンチン帝国が得ている。カール大帝の死後は、再び分割相続された(p85)
・7世紀の天智天皇から天武天皇にかけて、日本は完全に朝鮮半島から引き揚げて、対馬が西の国境線となった、東北の事業を完成させたのが桓武天皇で、青森県までが日本になった(p65)
・聖武天皇は、生涯に3回も遷都して、恭仁京→難波京→紫香楽宮と移ったあげくに、結局、平城京に戻ってきている(p66)
・京都の遷都の16年後、810年の薬子の変において平安京は確定した、桓武天皇の長男、51代平城上皇が旧都・平城京に戻ることで、二所朝廷と呼ばれる政治状態となる。現職の嵯峨天皇が平安京に、先代の天皇である上皇が平城京にあったが、これを嵯峨天皇が鎮圧した(p67)
・カール大帝は、イスラムには穏健に和を乞うてキリスト教徒の聖地巡礼を認めてもらっている、ヴェネツィアを割譲して皇帝の名前を認めてもらった、ヴェネツィアを通じてビザンチン帝国の陰謀に関与する足掛かりとした(p72)
・843年のヴェルダン条約で東フランク王国(ドイツ)、西フランク王国(フランス)、中フランク王国(イタリア)に三等分された。このドイツの部分に、のちの神聖ローマ帝国(正式名称は帝国)と呼ばれる国(神聖ローマ帝国という国号が使われ始めるのは1274年から)をつくったのが、オットー一世である(p76、78)
・十字軍は、しかけられたアラブから見れば性懲りもない侵略者である、アラブから見れば現代の欧米が中東に行っているのは十字軍にしか見えない、イスラエルとは十字軍が作った傀儡国家の再現である(p97)
・本来は一番偉いはずの天皇の上に、院政を敷く上皇(出家したら法皇)がいて院政ができるのは、「治天の君」という皇室の家長の地位にあるから(p102)
・キリスト教世界には「五大管区」があった、西から、ローマ・コンスタンティノープル・アレキサンドリア・エルサレム・アンティオキア(トルコ)、インノケンティウス3世は、ローマ教皇こそキリストの後継者としての首位権であるとした功績がある、彼は「マグナカルタ1215年」に無効の勅令を発し、以後数百年、イングランド人は忘れた(p118,122)
・インノケンティウス3世は、カタリ派を異端認定した、カタリ派は、「父(神)」と「子(キリスト)」と「聖霊」が一体とする、三位一体説を認めないから。古代グノーシス派(景教)も三位一体説を否定して、殲滅された。(p123)
・源平合戦とは言うが、平家討伐を命じた黒幕の後白河法皇とて源氏が力をつけすぎるのは快く思っていない、頼朝よりも実力が上だと思っている、新田氏・武田氏を頼朝は好まずに、忠誠心の高かった足利氏を重用した(p131)
・皇室、貴族、寺社を合わせて「権門」というが、頼朝がやろうとしたのは、権門に対して武士の権利を認めさせること(p132)
・ロシアが成立するのは1721年、モンゴルが攻めてきたときには、ロシアという国はない。��スクワ・キエフ・ノヴゴルドの三国があるのみ、後にこの国がまとまってロシアとなる。この三国はモンゴルの支配下におかれた(=タタールのくびき)であり、これを断ち切ったのが、モスクワ大公国のイヴァン大帝である、モスクワ帝国と名乗っていたロシアが欧州と認められたのは、1683年の第二次ウィーン包囲のとき、ポーランドのお陰(p139)
・北条氏は当初、政所(財政)の長官であったが、1213年の和田合戦により、侍所(軍部)を取り仕切る和田義盛を滅ぼし、両方の長官を兼ねるようになり、執権と呼ばれた(p143)
・北条泰時は1232年、頼朝以来の判例をまとめ法体系化して、御成敗式目を定めた、これにより専制政治をやめて合議制とした。これは江戸時幕府が滅びるまで武士の基本法典として重用された立派な内容である(p145)
・四代条軍の藤原頼経が権力を奪おうとした、この時息子の頼嗣が将軍に就いていたので先代将軍は京都に帰るのが約束であったが、居続けた。これを北条時頼は追い出した、さらに翌年に三浦泰村を滅ぼした、頼朝以来の御家人で北条に対抗できると目されていた。これにより、大江広元の息子の毛利季光も自刃した、これにより毛利一族は中国地方へ落ち延びていく、毛利元就の先祖である(p146)
・モンゴル一族は家族一族まるごと家畜とともに移動するので補給が要らない、これが強みである。外国を侵略したらそのまま住みつき、もとからいた兵士にさらに遠くまで攻めさせて人減らしをする。これがモンゴル帝国の拡大パターンである(p150)
・鎌倉幕府は、文永・弘安の役では主力を温存している、元軍は大宰府での戦い(前哨戦)すら突破できなかった。勝てたのは、対馬と壱岐のみ。鎌倉幕府は本州から援軍を送ろうとしたら到着する前に勝っていた。決戦局面まで温存する兵力を「戦略予備」というが、10万人単位の動員をかけたが実戦投入するまでもなかった(p151)
・鎌倉時代は親の財産は子供たちに平等に分割相続された、100年の間にそれを繰り返してきて、社会的な矛盾が元寇の戦後処理により一気に噴出した(p156)
・スペイン、ポルトガルが支配したのは、アフリカ、アメリカの弱い人たちで、ユーラシアでは騎馬民族のモンゴル、トルコに負け続けている、陸のユーラシアには自分より強いアジア人がいたので、避けて通って海から遠回りした(p163)
・1538年、プレヴェザの海戦で、欧州連合軍は、オスマン帝国に完膚なきまで叩き潰されている、千年の伝統をもつヴェネツィア海軍、スペイン艦隊も歯が立たなかった(p164)
・15世紀、日本の人口は1500万人、オスマン帝国は1800万人である、欧州全体が7000万人なので、日本は十分な大国である(p167)
・百年戦争の真っ最中に、イングランド・オックスフォード大学のウィクリフ教授が唱えた説はバチカンを戦慄させた、パンがキリストの肉で、ワインが血であるとは聖書のどこにも書いていないと論難しはじめた。最初に声を上げたのは1376年であるが、30年後くらいから急速に学説が支持された(p188)
・イングランドは、ヘンリー八世のときにカトリックから離脱して、のちの英国教会��いう独自のプロテスタントをつくることになった、しかし独自の教義を編み出したわけではない。(p204)
・アルマダの海戦は、暴風雨の神風が吹いてスペイン艦隊が難破しただけ、なのでその後もイングランドは苦戦を続ける。ポルトガル攻撃失敗、フランス出兵もうまくいかない、スコットランドは制圧できず、スペイン海軍は健在のため(p207)
・織田信長は、1568年に上洛したが、大義名分は「故・足利義輝の弟の義昭を将軍につけて、室町幕府を再興する」である、最大動員兵力2万人のところ、借金をして6万の兵力を率いた(p232)
・1559年にアウクスブルクの和議が結ばれて、カトリックはルター派を和睦した、その条件は「存在を認める」これは殺し合いを止めることを意味する。これにより、同じプロテスタントでも、カルバン派はルター派を激しく憎んだ。これにより、カルバン(オランダ)派は、カトリックよりもルター派を激しく攻撃する(p221)
・1648年、欧州のほとんどすべての国が参加した会議(参加しなかったのは、革命中のイングランド)によって決めたのは、1)主権国家の宗教勢力からの独立、2)主権国家の神聖ローマ帝国からの独立、3)主権国家の対等、これにより宗教戦争が終わった、欧州は1300年遅れで聖徳太子に追いついた、日本では天皇がアンパイア、欧州では教皇はプレーヤー(p127)
・1623年、アンボイナ事件でオランダと抗争して敗れたイングランドは、日本から引き揚げていった、なので幕府はオランダに傾斜していく(p232)
・モスクワ帝国は1700年からの大北方戦争でスウェーデンに勝ち、大国にのしあがった、1721年ピョートル一世はロシア帝国の建国宣言を行い初代皇帝となった、かつての東欧の大国(スウェーデン、デンマーク、ポーランド)が勝てなくなるのは18世紀のこと(p147)
・18世紀の欧州戦争は、別名「第二次英仏百年戦争」という、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争(世界中で行われたので、事実上の世界大戦)、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争の5つの戦争の総称である。明確にイギリスがフランスに負けたのは、アメリカ独立戦争のみ、最終的にはナポレオン戦争に勝利したことで、イギリスは大英帝国として覇を唱えることになる(p248,252)
2019年12月1日作成
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タイトルが面白そうだなと思って購入。
読んだら確かに面白かったというよりも、ああそうか~!!!
っていう改めて気付きのほうが大きかった。
分かりやすく書いてあるので初心者の方でも読めると思う。
日本って(日本人)みんなのんきなんだけど、確かに昔(昔といえど大昔)は
いざという緊急時はちゃんと団結してたのだなーとかも含め
今この現代とは雲泥の差…とはいえ、先の大戦から大きな紛争がないのはいいことだと思う。
筆者が書いていた内容の中で、思わず頷いたことが多々あって
「何事も、何が書かれてあるかよりも何が書かれていないかのほうが大事」
「人を騙す時は、うそをつくよりも本当のことを隠すのが効果的。書かれてある嘘は時に理論で見破られるが、書いていない本当のことは知識がないと見抜けない」
確かに。
史実はどうだったとか、●●先生はこう言っていたとかそういうのも
結局は都合の悪いことは後世の歴史家や権力者が改ざんしまくったものなのにな、とか。
色々読んでいてもそう思わずにはいられないので
趣味程度に留めておくのがいちばんいいなと思った。
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世界史と日本史を並べて書いているのは事実なのだが、散漫な印象。史実云々より著者の個人的な意見が多いような印象も受けた。
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歴史は何を主体に見るかで変わってくる。なーんてことは百も承知だが、主体を並べて見ると実に面白い。歴史の本質も見えてくる。
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日本が、どんだけ「まし」だったか。
つか、西欧なんてところがどんだけとんでもなかったか。
もともと西洋史と関係なく進んでいた東洋史、日本が否応なく世界史として関係を持たざるを得なくなっていく。当然、同時並行に進んでいくわけだから、影響があるわけだ。
それにしても、日本最強だった。
相変わらず、読みやすすぎてあまり知識として残らない。勿体無い。
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同時期の世界史と日本史を比較しながら18世紀までの特徴的な出来事を解説している。
いまいち並べて比較する利点を感じれず、史実を作者の主観とともにただ追っていくだけの印象を受けた。
歴史的な知識に疎い自分には読みづらさすら感じてしまった。
ある程度歴史に精通した人間には、面白く読めるかもしれない。