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2019/11/14 16:57
投稿元:
オペラはどこでどう生まれたのか
リュリとラモー―宮殿で栄えるオペラ
ヘンデル―歌はロンドンで花開く
モーツァルト―革命のオペラ
ベートーヴェン―天才にもできないことがある
ウェーバー―天性の劇場人
フランスのグランド・オペラ
ワーグナー―巨大な、あまりにも巨大な
オペレッタ―あえて軽薄に
ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ―イタリアの声の愉しみ
ヴェルディ―歌劇の「王様」
「カルメン」奇跡の作品
「ペレアスとメリザンド」―フランスオペラの最高峰
チャイコフスキーとムソルグスキー―北国ロシアで夢見られたオペラ
東欧のオペラ―独特の味わい
プッチーニ―より繊細に、よりモダンに
リヒャルト・シュトラウス―巨大なワーグナーの後で
ベルク―悲惨の大家
ショスタコーヴィチ―20世紀ソ連のオペラ
ストラヴィンスキー―アメリカで、英語で
オペラでないから「三文オペラ」
ミュージカルとガーシュウィン
ブリテン―苦い味わい
グラス―ミニマル音楽としてのオペラ
アダムズ―核の時代にオペラは可能か
許光俊(1965-、東京都、評論家)
2020/02/23 11:55
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著者の嗜好とは合わないけど、いろんな作品を教えてくれる。特に20世紀以降の作品には、興味がそそられる。入門のタイトルで現代作品まで紹介しちゃうのだから凄いよね。
2020/03/14 10:48
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オペラの歴史と作曲家、名作たちを紹介してくれる。近代以降のあまり知らないものも含まれていて勉強になる。オペラというとまだ蝶々夫人しか観たことなくて、あとはフィガロの結婚とかフィデリオとかカルメンをCDで聴いたことあるぐらいなんだけど、寿司と一緒で本場がいいと強く本場押しなので行ってみたいなと思った。
男の古い女性観の押し付け的な話は確かに同感で、蝶々夫人を鑑賞した時の違和感は多分ここに発している。
2020/08/15 11:37
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小学生に説明するように噛み砕いた語り口のオペラ案内。ただし、所々で著者特有の「毒」はいつものごとく滲み出る。ワーグナーは「指環」以降の後期の大作よりも「オランダ人」や「ローエングリン」を買い、リヒャルト・シュトラウスは「ばらの騎士」までしか評価しないし、チャイコフスキーのオペラへの評価が頓珍漢で、個人的には首を傾げたくなる箇所も少なくない。現代のグラスやアダムズに紙幅を割いているのは本書ならではの特色であろう。「本場の劇場でなければオペラは理解できない」という原理主義だが、コロナ禍以降の現在では虚しい。
2023/12/22 21:41
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原理主義に過ぎる面はあるけれど、オペラに対する著者の熱い思いが溢れている。時間軸に沿って作曲家、オペラ各曲が紹介され、最後にヨーロッパの著名なオペラハウスが紹介される。
その語りは上手く、取り上げられている曲のすべてを聴きたくなるし、紹介されているオペラハウスに行きたくなることは必定。その意味で入門書としては成功ではないか。
まあ、原理主義がすごいので受け入れられない人はいるだろうなと思う。
2024/06/18 08:59
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1045
270P
これ思った。イタリアとドイツは見所のある都市が散らばってて観光時間かかるけど、フランスは南仏とか田舎の良さもあるけど、文化はぎっちりパリに詰まってる感じした。だから臭くて汚いんだけどずっと居るとクセになってくる。
これほんと分かる。生みの親の地に行って見てやっと意味が分かったみたいなことあるよね。パリの芸術とか、スリランカのアーユルヴェーダの時も思った。生まれた土地から切り離して違う国に持ってきた時に抜け落ちたものって多いと思う。
許 光俊(きょ みつとし)
1965年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部美学美術史学科卒業。東京都立大学修士課程人文科学研究科修了。同博士課程中退。横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程を経て現在、慶應義塾大学法学部教授。近代の、文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。『邪悪な文学誌 監禁・恐怖・エロスの遊戯』(青弓社 )、『オペラに連れてって! お気楽極楽オペラ入門』(青弓社、のちポプラ文庫)、『クラシック批評という運命』(青弓社)、『世界最高のクラシック、『世界最高のピアニスト』(ともに光文社新書)、『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)、『昭和のドラマトゥルギー 戦後期昭和の時代精神』、『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』(ともに講談社選書メチエ )など多数の著書がある。
オペラ入門 (講談社現代新書)
by 許光俊
まずは何をさておいても、オペラが生まれた経緯について簡単に記しておきましょう。人間だって、素性を知ると、なんとなくわかった気がして安心するものです。 〈opera〉、オペラとはイタリア語で、「仕事」「作品」など、元来はいろいろな意味を持つ言葉です。そのひとつが本書のテーマである「オペラ」でありまして、この意味を表す語として現在では世界中で使われています。イタリア本国では、オペラのことをリリカと呼んだりもします。リリカというのは英語のリリックに当たる単語で、 抒情詩 という意味もあります。日本では長い間、「歌劇」と訳されてきました。それが特段間違っているわけではありません。
そのオペラが生まれたのは一六〇〇年ごろ、つまり日本では江戸時代が始まるかどうかというタイミングです。 憶えやすいですね。このころの日本は、みなさんがよくご存じのように、織田信長が戦国時代をほとんど勝ち抜いたかと思われたところですぐに殺されてしまって、豊臣秀吉の天下となりました。
イタリアは南北に長いブーツのような形をしています。その中にさまざまな地域性があって、オペラの誕生時、文化的な豊かさが際立っていたのは中部や北部でした。南は、シチリアに代表されるように、夏の暑さがひどかったり、土地がやせていたりで、経済的には苦しかったのです。文化活動がさかんになるためには、やはりお金の裏付けが必要ですから、オペラが作られ普及するようになったのが、長いこと経済的に栄えてきたフィレンツェやヴェネツィア周辺だったというのは、容易に理解できるところです。
よく言われることですが、ヨーロッパを支えている大きな要素は二つあって、古代ギリシアの文化・文明と、キリスト教です。ですけれど、古代ギリシア人が考えたこと、書いたことなどはその後のヨーロッパにスムーズに継承されたわけではありません。それどころか、一時期はすっかり忘れられていました。有名なギリシア哲学なども、いったんはアラブに流出し、そこから再びヨーロッパに戻ってきたのです。そんな次第があって、ルネサンス期以後のヨーロッパ人たちは改めて古代ギリシアに興味を抱くようになったのです。
モンテヴェルディが生まれたのは、クレモナという町です。アントニオ・ストラディヴァリ(一六四四? ─一七三七) などのヴァイオリン作りの名人が活躍し、現在ではたいへんな高値で売買される銘器が次々に制作された町として有名です。モンテヴェルディは、その近くにあるマントヴァという町の領主のもとで楽長として働き、のちにヴェネツィアの有名なサン・マルコ寺院の楽長にもなりました。
オペラの場合、ボックス席の中で家族や友人と観劇し、休憩時間には人々が笑いさざめくロビーに出て、飲み物や軽食をつまむ、それが、身体的にも、空間的にも、はっきりしたコントラストをなしているのです。こうした、いわば本場では当たり前のことほど、日本にいてはわからないことでもあります。オペラを見るということは、知らないうちに一万キロメートル離れた西洋の感覚に触れることでもあります。もしあなたが何かしらオペラに違和感を覚えるとしたら、その原因の多くはこのあたりにあるはずです。 たとえ万国共通と思われる悲恋物語であっても、その根底にはかの地との微妙な、けれど決定的かもしれない違いが潜んでいるのです。
その後、ヘンデルはイタリアに旅立ちます。音楽に限らず当時の芸術の中心とされていたのはイタリアでしたので、ほかの国からイタリアに行って修業し、 箔 をつけようという者は多く、逆にほかのヨーロッパ諸国に出稼ぎに行くイタリアの音楽家も多かったのです。 さすがヘンデルと思わされるのは、そのような本場イタリアに行って早くもオラトリオ(主として宗教的な題材の声楽曲。いわば、舞台装置や衣装、演技のないオペラのようなもの) やオペラで成功を収めていることです。ちなみに、アルプスの北からイタリアに行って成功を収めた芸術家の代表例として、ほかに少年モーツァルト、画家アルブレヒト・デューラー(一四七一─一五二八) がいます。どちらも音楽史、美術史の中で特筆される 超弩級 の天才です。
ヘンデルのオペラの最大の特徴は何か。それは美しい旋律です。しかも、声で歌ったときに最大の美しさを発揮する旋律なのです。ピアノや弦楽器や木管楽器で演奏してもきれいはきれいに違いないのですが、断然人間の声が合っているのです。単に音の上がり下がりが美しいだけではありません。ヘンデルは、楽器にはない声ならではの微妙な響き方などを理解していたのです。たとえば、チャイコフスキーが書いた有名な「白鳥の湖」というバレエ音楽がありますね。あの旋律を声で歌ってみたらどうでしょうか。悪くはないでしょう。でも、やはり陰を帯びた木管楽器の音色のほうが、もっともっときれいではありませんか。そのように、同じ旋律でも声や楽器の違いによって印象はだいぶ異なってくるのです。また、同じ声でも高い声、低い声、男��女か、そんなことでもまったく違ってきます。
ところで、オペラは見るものでしょうか。それとも聴くものでしょうか。オペラハウスに出かける人は観客なのでしょうか、聴衆なのでしょうか。どちらが正しいとは言えません。作品や演出によってどちらの場合もあり得ますし、見て聴くものだとも言えます。ただし、ヘンデルのオペラに関しては、ストーリーの進行を止めて披露される歌のあまりの美しさゆえ、聴くものだと考えて差し支えないでしょう。
ヘンデルは、イタリアからドイツに戻りますが、そこに長居することはなく、ロンドンに移り、結局そこで人生の大半を過ごすことになります。従って、ドイツ出身ではありますが、イギリスの作曲家と言ったほうがよいくらいです。しかし、彼の作品はしばしばイタリア語の歌詞を用いていますし、音楽にはイタリア風の趣もありました。ひとつの国の枠に収まらない芸術家と考えたほうがいいでしょう。…
ヘンデルは大食漢、それも病的なまでの大食漢だったと伝えられています。確かに彼の音楽からは、感覚の快楽を喜ぶ、開放的な一面が感じられます。ヘンデルはかのバッハと同じ年の生まれで、しかも生まれた場所も近かったのですが、バッハはドイツに留まり、特に教会音楽家として名声を博しました。ことに厳格で技巧的な書法では他の追随を許しませんでした。ヨーロッパを旅し、異国に住んで、感覚に訴える音楽を書き、劇場作品でヒットを飛ばしたヘンデルとはまさに好対照です。 とはいえ、ヘンデルの人生が順調だったわけではありません。特…
また、長いこと、女性は不浄のものとして教会で歌うことを禁じられていました。そのため、少年合唱より低く、成人男性より高い声域はカストラートが歌うと都合がよかったということもあります。ようやく一九世紀の終わりが近づいてきてからヴァチカンは正式にカストラートを禁じ、教会から追放することになりますが、それ以前には大流行していた時期もあり、ヘンデルはもとより、モーツァルトもカストラートのために曲を書いたのです。もちろん、現代にはカストラートはいませんから、カウンターテノールという特殊な歌い方をする男性、あるいは声が低い女性が担当します。舞台とはしょせん噓であり、作りものです。登場人物が台詞を歌うオペラは特に人工的と言うしかありません。その中でもとりわけ人工の極致をゆくのがカストラートです。
私たちは知らず知らずのうちに、すべては合理的に理解できるはずだという信仰、あるいは妄想にとらわれてしまっているのではないか。世界とは、簡単に割り切れるものではありません。また、世界がカオスだからこそ、統一感がある整った芸術作品が美しく感じられるのではないか。しかし、「魔笛」はそういうたぐいの美しさを求めていないからこそ、よりリアルなのではないかという気がします。
むろん、ベートーヴェンも手をこまねいていたわけではありません。作曲家である以上、オペラの傑作をものにしたいと野心を抱いて当然です。にもかかわらず、彼がなかなかオペラを世に問うことができなかったのは、まず性格の問題がありました。ベートーヴェンはまじめな人で、喜劇的なオペラを嫌っていました。モーツァルトの作品すら、音楽は��ばらしいのに、ストーリーがひどいと評したほどです。
ウェーバーはピアノ曲なども書きましたが、最高傑作はやはりオペラ「 魔 弾 の 射手」(一八二一年) です。ドイツにドレスデンという町があります。かつてはザクセン王国の宮廷が置かれていました。現在でもこの町のオペラハウスは世界有数の名声を得ていますが、かつて宮廷歌劇場と呼ばれたそこでウェーバーは活躍しました。このドレスデンは、チェコから近く、電車に二時間ほど乗ると首都プラハに着いてしまいます。「魔弾の射手」はドイツ・オペラの名作と言われますが、その舞台はボヘミア、つまりチェコの森です。地続きですから文化や歴史が大いに重なり合っているのは当然です。「魔弾の射手」の真の舞台、真の主人公は、この森かもしれません。森は、人々に食べ物や 薪 を与えてくれると同時に、どこかしら不気味で底知れぬものを感じさせます。ウェーバーに限らず、ドイツの芸術や文化においては、この森がしばしば重要な意味を持ちます。
モーツァルトの最晩年からベートーヴェンが活躍している時代、つまり一八世紀から一九世紀にかけて、ヨーロッパは大きく変わりました。フランスでは革命が起きて王政が崩壊し、それがヨーロッパ中に強い影響を与えたのです。そして、フランス革命のあと、揺り戻しなどもあって決して一直線に進んだわけではありませんが、徐々に市民社会が確かなものとなっていったのです。
となると、オペラも変わっていきます。もはや宮殿で上演されていたような上品で優雅な作品を作ったり求めたりする人はいなくなります。もっと大きな会場で、もっとたくさんの人たちに見せる形が取られるようになります。大衆は刺激的なものを好みますから、げらげら笑える喜劇か、悲惨で残酷なストーリーを見せ場たっぷりに仕立てるのが好評を得るコツとなります。オペラの新しい客は、いち早く裕福になった、こう言っては何ですが、成金の市民たちでした。裕福になった者は、王様や貴族のまねをしたがる。ヨーロッパの文化とはこのように上から下へと流れて形成されていったのです。
「アフリカの女」(一八六五年) は、マイアベーア最後のオペラです。主人公は、読者もきっと世界史で学んだでしょう、初めて喜望峰を回ってインドに到達した有名な冒険家ヴァスコ・ダ・ガマです。
リヒャルト・ワーグナー(一八一三─八三) は、ひとことで言えば、巨人です。オペラ、ことにドイツ・オペラの代名詞と言ってもよい。ワーグナーのいないオペラの歴史は考えられません。ついでに言うと、それどころか、ワーグナーのいないドイツ、ドイツ文化史、ドイツ史、否、それを超えてワーグナー抜きのヨーロッパ文化史も考えられないでしょう。そんな作曲家、芸術家が他にいるでしょうか。たとえば日本やアメリカの歴史の中で、ひとりの芸術家がそこまでの地位を占めるなんて、想像もできません。もし日本において明治維新以後で最大の文化人は誰かと問えば、おそらく 夏目漱石 と答える人がもっとも多いのではないかと思われますが、ワーグナーの存在感はその比ではないのです。
それに、オペレッタは、オペラ以上に作曲当時の世相を直接的に反映する傾向が強いため、その歴史を共有できない場所で上���されても、本当のおもしろさや皮肉は表現できないように私には思われます(日本での現状に合わせて台詞が改変され、観客を喜ばせるという趣向は頻繁に見られます)。
舞台は一九世紀のパリ。主人公は美人の高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーです。娼婦と言っても、お金を出せば誰でも抱けるわけではありません。特定の男をパトロンにし、贅沢三昧の生活をさせてもらうのです。現代の日本で愛人と言うと、囲われたマンションの中で会うというようなイメージがありますが、ヨーロッパの高級娼婦は違っていて、パーティーを開いたり、決して秘密の存在ではありません。単に美人なだけではだめで、会話の才能や頭のよさ、いろいろなセンスが問われます。ヨーロッパでは古代ギリシアの時代からこのような高級娼婦がいました。正妻の務めは子孫を産み育てることであり、男が人生を楽しむための女がこうした高級娼婦というわけです。
ホセはもう一度やり直そうと食い下がりますが、カルメンはまったく相手にしません。あげく、かつて彼女にプレゼントした指輪を投げて返され、自制心を失ったホセは、もはやこれまでとカルメンを刺し殺します。 人々が駆けつけ、ホセを捕らえます。
最後の幕でカルメンは、ホセにもらった指輪を投げ捨てます。ホセはそれでかっとなってカルメンを刺し殺してしまいます。(結婚、婚約等々の) 指輪とは、拘束や束縛やつながりのシンボルです。文字通り、カルメンはホセとのつながりを、完全に捨て去ったわけですから、ホセはなおさら頭に血が上ったのです。
オペラを大喜びで見ている男性たちにも、私は違和感を覚えます。彼らは、オペラの中で描かれている古い男女関係に浸って安心しているのではないか。私は、オペラを楽しみつつも、それがあまりに男性中心の価値観で作られていることに、うしろめたさを感じる瞬間があります。
特に二〇世紀以降、芸術においては、曖昧さや多義性が重視されています。色で言えば、微妙な中間色や、多彩さが求められています。あくまで一般論ですが、すっぱりとわかってしまうものは、高級な芸術とは言えないのです。
もっとも、一九世紀におけるオペラは、今日何となく信じられているような高尚な芸術などではなく、客の入りを気にする商売であり、娯楽という面が強かったのです。自分を満足させ、同時に客の喝采も得る、それをヴェルディが考えていたことは明らかです。
そのころのローマで悪名をはせていたのが、警視総監スカルピア男爵です。彼の 賄賂 好き、女好きは世に知られており、警察の力を使って無実の人々を弾圧したため、恐れられてもいました。政治的には保守派で、ナポレオンの活躍をいまいましく思っています。この好色な権力者が、トスカをものにしてやろうと欲望を抱いたことが、この物語の発端です。
このオペラでは、さまざまな登場人物が出てきますが、その中に、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢という人がいます。この人は、名前の通り、貴族の女性なのですが、ルルに激しく恋をしています。女が女に恋をする、つまりはレズビアンです。彼女は最後、ルルをかばうようにして殺されます。そして、「私のルル……」と最後の言葉を口にしながら、息絶えます。考えてみ���と、このオペラに登場する男たちは、みながみなルルを愛していると言いますが、献身的とか優しいという感じはまったくしません。一方的にルルに恋い焦がれ、燃え上がるばかりです。それは一種の支配欲の発露でもあり、男性中心主義という社会の枠組みに収まっています。だが、ゲシュヴィッツ嬢の愛は、それをはるかに超えています。ルルの身代わりになって監獄に入るなど、本当に純粋で、自己犠牲的なのです。でも、ルルのほうは彼女に関心がなさそうです。同性愛の片思い、それがこのオペラの中で唯一純粋で美しい愛であるとは、何たる皮肉でしょう。
社会主義リアリズムは、芸術は労働者のためのものでなければならないと考えます。すなわち、一部の洗練された趣味の持ち主だけが理解できるものではいけない。また、資本主義的な贅沢を魅力的に描いてはいけない。 つまるところ、社会主義に役立つ芸術以外は許さないというわけです。また、エンディングが悲しげというのもよくない。見る者が、よりよき社会を建設するために元気を出せるような作品が求められるのです。とはいえ、チャイコフスキーのような大作曲家の作品は、今更完全に否定するわけにはいきませんから、屁理屈をつけて、認めることにしましたが……。 こうした考え方が強制されたため、ソヴィエトにおいては、個々の芸術家が自由に創造力を発揮するというわけにはいかなくなりました。当局の方針と異なる音楽をこっそり作曲することはできるかもしれません。が、演奏の機会はないだろうし、あえて演奏すれば、反社会主義分子と断罪されるはめになります。思想的に問題があると見なされると、たとえ一流の腕前を持つ演奏家でも、シベリアあたりの 僻地 の学校教師に任命されたりしました。殺されなければまだよいほうかもしれず、特に独裁者ヨシフ・スターリン(一八七九─一九五三) の時代には、常軌を逸した弾圧や粛清が行われました。いったいソ連時代にどれほど多くの芸術家が活動の場を奪われ、命を落としたか。芸術にとっては大きな損失でした。
「ポーギー」には上から目線が感じられません。これに比べれば、「カルメン」も「ヴォツェック」も、しょせん頭がよくて才能もある人が、そうでない人を見下しているように感じられてきます。「ポーギー」には批判精神や冷たさがありません。愚かさを断罪せずに受け入れる寛大さがあります。それこそが、ガーシュウィンの音楽の最大の個性なのです。そして新大陸的とも言えるでしょう。 「ポーギー」は今日では音楽史上に輝く名作とされます。そのわりには上演されないのは、いろいろなむずかしさがあるためです。たとえば、アフリカ系の役を演じるために白人歌手が顔を黒く塗って舞台に上がれば、それだけで批判されるかもしれません。かといって、アフリカ系の出演者だけでは、小さなマイノリティの社会の中でのできごとに矮小化されてしまうでしょう。逆に、だからこそ今後斬新な舞台が作られることが期待できる作品でもあるのです。
これはあえて記すかどうか迷ったのですが……ブリテンは同性愛者でした。その点で、いくら才能があろうとも、明らかに少数者であり、指さされる身でした。彼が共同体、社会の残酷さを繰り返し描いたことと無関係ではないでしょう。
そして、不思議なことに、ある程度の時間聴いているうちに、長さや繰り返しが妙に心地よくなってくるのでした。普通のオペラなら(つまり西洋音楽とは、ということになりますが)、ドラマティックに盛り上がるところでは聴く者の緊張は増し、そうでない場面では気持ちが緩むわけですが、「アインシュタイン」の場合は、ずうっとぼうっとした気持ちよさが続くのです。西洋音楽の楽器やルールを用いても、狙うところは違うのです。インドやバリ島などエスニックな音楽から触発されただけのことはあります。
グラスの音楽は、まさにグラス節とでも呼べるような、独特の旋律やリズムをひたすらしつこく繰り返すものです。同じ音型を繰り返すことで緊張感を高め、やがてはクライマックスに導いていくのが、ベートーヴェンやチャイコフスキーなどいわゆるクラシック音楽の発想です。しかし、グラスの場合は、いくら繰り返しても緊張が高まりません。子供が、海辺に作った砂山の上に再び砂を盛ろうとしても、もとの砂山が崩れてすそ野が広がるだけで、高くはならない、そんな印象です。高い高いクライマックスは決してやってこないのです。
芸術には、科学のような進歩の概念は当てはまりません。バッハよりモーツァルトのほうが新しいからより美しい、モーツァルトより二〇世紀音楽のほうが新しいからより美しい、そのようには言えないのです。むろん、音楽に限った話ではなく、美術や建築も同様です。でも、そうは言っても、今世紀に書かれたこのようなオペラを知ってしまうと、一九世紀の名作とされるオペラは、なるほど魅力的だし感動的かもしれませんが、まだまだ甘いのではないかという気がしてきます。個々人の問題など、原爆を開発し使用するという国家レベルの犯罪的な問題に比べれば、いかほどのものかと思われてきます。
フランスはイタリアやドイツと異なって、中央集権の国です。従って、基本的にはもっともよいものはジャンルを問わずパリに集まります。パリのオペラハウスが、フランスで断然一番の存在であり続けているのは当然です。
パリでは、日本語で俗にオペラ座と呼ばれるパレ・ガルニエ(ガルニエ宮と記されたりもする。オペラ広場に面する)、およびオペラ・バスティーユ(バスティーユ広場に面する) で上演を行うパリ国立オペラがもっとも有名です。ガルニエはいかにも古風で豪華な建物ですし、逆にバスティーユは現代建築です。
そこからほど遠くないライプツィヒにもオペラハウスがあります。ドレスデンは長い間ザクセンの宮廷が置かれていた町、それに対してライプツィヒは商都です。ですから保守的なドレスデンとは対照的に、新しさに寛容です。ここで演奏するオーケストラは、世界最高のオーケストラというと必ず名前が挙がってくるゲヴァントハウス管弦楽団です。たとえ歌手や演出がつまらなくても、このオーケストラがたっぷり聴けるというだけで、このオペラハウスに行く価値はあります。
ところで、日本の音楽愛好家の中には、オペラハウスのオーケストラは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やバイエルン放送交響楽団のような、コンサートを専門とするオーケストラに比べて下手だという偏見を持つ人もいるようです。しかし、単に��が速く動くとか大きな音が出るといった表面的な技量があればよいというものでもないのが、劇場のオーケストラです。いくらミスが少ない整った演奏ができても、愛のシーンには甘美さ、復讐のシーンには荒々しさというように劇を盛り上げる感情豊かな演奏ができなければ、ナンセンスというものです。最近では日本のオーケストラがオペラを演奏する機会もずいぶん多くなりましたが、この点ではまだまだ進歩の余地があります。
スイスでもっとも存在感があるのは、圧倒的にチューリヒのオペラハウスです。金融などで豊かな町だけに、小さな劇場ながら、有名歌手が大勢登場します。必然的にチケットは高額なのですが、スイスでは物価全般が非常に高いので、それに見合っているとも言えます。 また、時計・宝飾品の見本市で有名なバーゼルのオペラハウスは、挑戦的な演出を次々に繰り出すことで知られています。日本にいるとなかなかわかりませんが、目下のところ、ヨーロッパのオペラ界ではもっとも注目されている劇場のひとつ。
昔は、いわゆる大歌手と呼ばれる人たちがたくさんいました。「それに比べると、今の歌手は小粒だねえ」なんて、何十年も前からの愛好家は言います。そうかもしれません。確かに声を聴いただけですぐに誰だかわかるような個性的な歌手は減りました。でも、今の時代には、今だからこそ見て聴くことができる上演があります。たとえば、昔の歌手には棒立ちになって歌ったり、自己流のへたくそな演技をしている人も多かったのですが、今では凝った演出、演技の上演がたくさんあります。そういう今だからこその上演に遭遇するには、海外に行かねばなりません。残念ながら、ヨーロッパと日本のオペラ界には大きな時差があります。
「でも、誰もが気軽に海外に行けるわけではない」と反論する人もいるかもしれません。いいえ、この時代、よほどの事情がない限り、行けます。行かない人は、行く決意をしていないだけです。本当に行こうと思っていないだけです。つまりは、本心では行かなくてもいいと思っているのです。残念ながら、そういう人は、オペラの本当のすごさを知ることはできません。オペラに限りませんが、あらゆる趣味、道楽、仕事、つまるところ人生は、真剣になればなるほど、本当のおもしろさや深さがわかるというものでしょう。
少し前、私はロンドンでたいへん高い評価を得ている日本料理屋で食事をしました。魚に非常にこだわりがあるそうです。しかし、私はそこで地元の魚の刺身を食べてみて、おおいに納得したのです。新鮮ではありました。でもおいしくないのです。そうか、ヨーロッパで魚の生食が広まらなかったのは、つまりはここの魚は刺身向きではないからなんだと。ヨーロッパ人は、牡蠣やうにや牛肉は生で食べますから、魚を生で食べられないわけはないのです。なのに海辺でも生食が広まらなかったのには、ちゃんと…
今ほど海外旅行が簡単な時代はありません。劇場のチケットはインターネットで買えますし、飛行機もホテルも、お手頃なものから贅沢なものまで、いろいろ探せます。休日も増えましたし、有給休暇も取りやすくなってきています。体が不自由だったら? 空港では職員が車椅子を押してくれます。車椅子用の席も劇場…
ですので、本書を読まれた方は、ぜひ本場でオペラをご覧ください。私が言いたいことはひたすらそれに尽きます。それをしないでオペラを語っても、生身の女性を知らないで女性論を語る未経験な青年のたわごとと変わるところがありません。ただちに、が一番いいことは間違…
2024/10/28 15:51
投稿元:
とにかくバロックオペラに興味をもったし
ワーグナーは偉大、おそらくヨーロッパ語を学ぶ=オペラの真髄に触れる事で言語学に精通してる頃から言語=芸術なのかなと思ったり...衰退してる印象ではあったけど伝承/更新に近いんだな
芸術の新しい門が開けた気がする、興味がない人でも芸術が好きなら絶対ハマる
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