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マックス・ヴェーバーは、何かを認識する場合には、善悪や美醜といった価値判断と、何が事実かという事実判断を峻別し、社会科学では事実判断をもって仕事とするべきとする原則を提起した価値自由を述べている。並行して読む幾つかの本でこの価値自由論が登場したので、改めて考える。そして、本書の手引きとなるのも、この「価値自由」についてだ。
その延長で日本学術会議のあり方を批判し、上野千鶴子がデータを自らの主張に都合よく用いる点を学者あるまじきとし、アランソーカルによるサイエンスウォーズ(文系のわざと難解な用語を用いた論文を挑発した論争)を取り上げる。痛快な正論であり、まさに学者あるまじき、と私も思う。
ド正論を述べているのだが、しかし、世の中は、「都合に合わせて」学術を悪用しているようなのだ。
人文社会科学は、日本では「文系」とひと括りにして語られることが多いが、英語では「文系」に相当する言葉がない。また、社会科学は英語でもSocial Scienceであるが、人文科学はHumanitiesと呼ばれ、Human Scienceとは呼ばれない。つまり、人文科学はあくまで人文学であって科学ではないと考えられている。
しかし、論点は人文科学だけではない。理科系分野においても、至近の放射能問題、疫学論争などあらゆる範囲でトンデモ論が飛び交うのは、学問や科学の基本的姿勢を無視して、「都合に合わせて」議論がなされるからだ。
陰謀論に絡め取られる人が増えた事も、本質的には同根の問題だと私は思う。簡単に理解し易い方へ流れ、理解したい方に流れ、こうした都合でポストトゥルースが形成される。これは万人の納得を諦めた時、似たような認知の集合体に受容される事でエコーチェンバー化して加速する。分断が加速し易い環境ゆえ、科学を扱うものこそ、しっかりしなければならない。