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栄西、道元、大燈、関山、一休、正三、沢庵、桃水、白隠、盤珪、良寛の生涯と思想。達磨に始まり日本で独自に発展した歴史を総覧できる名著を初文庫化。
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大応、大燈、関山、栄西、道元、一休、正三、沢庵、白隠、良寛などの禅僧の生き様を紹介し禅の本質に迫る。特に大燈、正三については今まで知るところがなく、印象に残る。
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若いころから、禅の世界に魅かれています。禅のもつシンプルだけど力強い雰囲気が好きで、座禅を組みにお寺に通ったこともあります。
しかし実際に学ぼうとすると、書いてあることが壮大な虚構に感じられたり、難解な公案で理解不能に陥ったりと、近づくことの難しさを実感してきました。
本書は、始祖の達磨から始まり中国での発達を経て日本に移入、展開されてきた歴史を、数々の禅僧の生き方の中に見ようというもの。
筆者自身、若年のころ禅寺に預けられ、その後に離れた経験をお持ちで、禅の実践者として、また客観的な観察者として、記述を進められます。
禅は不立文字の世界。言葉ではなく全人格的な経験を重んじます。組織化、教団化と本質的に相容れるものではなく、個人の禅を突き詰める「純禅」を本来のものとする。
これが筆者の立場です。
純禅に生きた大応、大燈、関山や道元らの名僧、乞食として生きてその精神を受け継いだ一休や良寛、宗派内で改革を唱えた沢庵、白隠らの生き方が肯定的に描写されます。
とりわけ魅力的なのが江戸時代の禅僧、鈴木正三(しょうさん)です。徳川秀忠の信頼篤い三河武士だった経歴を捨て、45歳にして出家した異色の経歴を持ちます。
筆者はこう書きます。
▲(正三はいいます)仏法は、悟らなければ用に立たぬと思うのは間違いだ。仏法というのは、ただ今のわが心をよく用いて、いまの用に立てることである。それ故、心をつよく用いることを修業という。心が強くなればなるほどいい。大いにつとめれば大きな徳がある。少しつとめれば少しの徳がある。
何と新しい自力禅であるか。… 難解さと馴染みにくさに手古ずっていた庶民や新興武士階級には魅力だったろう。
… 六祖(達磨から数えて6代目)慧能が、「悟りの木」などあるものか、求めて得られる悟りなどはしれたもので、求めることが悟りなのだ、といったことを思いかえしていただきたい。中国唐末の純禅が、日本の鈴木正三という武士上がりの禅僧が手探りでもとめた自力禅に湧出している。
「ただ今のわが心をよく用いて、いまの用に立てる」という指摘は新鮮で、目から鱗が落ちました。
道元が入宋した際に出あった典膳(料理番)の老僧とのやり取りで、「何も他人の料理番などせずとも修業に専心すればいいのではないですか」と問うた道元に対して、彼は「禅の何たるかをお前は何もわかっていない」と指摘するくだり。また、「庭を掃くときは、箒そのものになれ」という古くからの伝えと相通ずるものがあるように思われます。
今、目の前にあることに対して「わが心をよく用いる」。
遠かった禅の世界を少しだけ身近なものにしてくれる魅力的な著作だと思います。
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禅の歴史を幅広に見る本。
個人的には幅が広すぎて話がまとまらない印象を受けた。
内容も網羅的ではない気がしており、私には難しかった。
でも禅とは何か(歴史や美術、政治ではなく、純粋な行為である)というメッセージは、歴史的政治的側面に興味が湧きがちな私にはハッとさせられるものがあった。
そして大徳寺は昔から腐敗している時期があったらしい(いつでもそんなもんかと思った