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木々が果たしている機能、それによってわれわれが受けている恩恵について多角的に、子供向けのことばで書かれています。
非常に勉強にはなるのですが、「なんとすばらしいのでしょう」「森に感謝しなければなりません」というような言い方が肌にあわないかったです。その感じ方に対して反対するわけでもないのですが。
そういうわかりやすい言い方で、子供の感情を刺激したほうが、子供に感謝の気持ちを植え付けやすいのかもしれませんが…。
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森について多角的な知識を得られる本。
ではあるんだけれど、感傷的な文章がいらつく。
デンマークのダルガス親子が気になる。
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最初に出版されたのが1981年だから、そりゃ古い。どこの家庭も新聞とってて、こけしや桐たんすや障子が普通の家にあって、ブラウン管のテレビを見ていた当時のこどもたちには素晴らしい本だったに違いない。
現代でも日本人が森林とともに歩んできた歴史や、人との関わりについて知るには良いと思う。
ただ、歴史や科学を語るには、子ども向けとはいえ、ちょっと表現が情緒的すぎる。柱にそっと話しかけたら、柱が恥ずかしそうに答えるって、物語じゃないんだから。
たくさんの要素を盛り込みながら、すんなり読めて分かりやすいのは素晴らしい。
でも、森林とともに生きているのは日本人だけじゃないからね。スウェーデンやフィンランドは国土に占める森林の割合は日本より上だし、一人当たりの森林面積で言えば、日本は世界平均以下。モノカルチャー経済や安易な伐採で熱帯の森林が破壊されていることや、後継者不足で日本の森林も荒廃していることなども取り込んだもっとグローバルな新しい本ができるといいと思う。
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「ペンギンの憂鬱」の中にソーニャとニーナが森にマツユキソウを探しに行くところがある。マツユキソウってあれではないかな「森は生きている」の花。と思い出した。
子どもの頃にラジオドラマで聞いて、劇でも見た。ときどき学校で劇を見せてくれていた。「北風と太陽」「ソラマメの煮えるまで」など、後は覚えていないけれど、面白くて何度も夢に見た。
特に好きだった「森は生きている」なのに焚き火を囲んだ12の月の場面しかはっきり浮かんでこない。それで図書館に予約した。2009年の新版が来て、誰も読んでないように綺麗で新しかった。
戯曲だし子供向けなので、楽しかった。
大晦日なのに、意地悪な老婆と娘に、孤児のまま娘がこき使われて苛められている。
まま娘はそだを拾っていた森の中で、モミの木を切りに来た老兵士が、おじいさんのおじいさんが大晦日の晩に一年の月を一度に見たと話してくれる。
お城では、これも両親のない王女がマツユキソウが欲しいとダダをこねている。
「マツユキソウがないと新年にはならないわ」
では明日は?と教育ががりの博士が訊く。
王女は「マツユキソウのない明日は12月32日よ、そして33日、34日。新年は来ないわ」と言う。
年賀のために来ている隣国の大使たちは途方にくれてしまう。
マツユキソウを持って来たものには籠一杯の金貨を与える とおふれをだす。
一方、老婆の言いつけで森に入ったまま娘は、日が暮れてもマツユキソウが見つからない。雪は深く手足は凍えてくる。すると遠くに焚き火が見えて、12人の人たちが話していた。
それが大晦日に集まった12の月たちで、12月のおじいさんから1月のおじいさんに一年の手渡しをしようとしていた。
可愛いまま娘は火のそばによって、マツユキソウを探していると言う。
そこで、一月の風景が過ぎ二月が過ぎ、三月の雪解けが過ぎ、四月になる。
あたりは明るく、草は萌え出て、マツユキソウの群れが花を開く。
まま娘は花を摘んで籠に入れる。四月は美しく輝く指輪をくれて、困ったときに投げて唱える言葉を教えてくれる。
家では老婆と娘が帰りを待っている。まま娘が持ってきた籠一杯のマツユキソウを見る、褒美は籠一杯の金貨だった。花を大きな籠に入れなおし、隙間を土で生めて二人はお城に出掛ける。
マツユキソウが来たお城では新年の宴がはじまる。
そこで、女王はマツユキソウが咲く春の森に行きたいと言い出す。
女官庁は「お母さんのわがまま、お父さんのとっぴょうしのない気まぐれを受け継いで、夏はツララが御所望でしょう」と嘆いている。
老婆と娘は案内役で森に行くことになる。兵士と二人の先導で森に入っていくが、王女は寒くてたまらない。
先へ行く兵士たちは道作りで大汗をかいて赤い顔をしている。
「なぜ赤い顔をしている?」「道作りで動いたからです」「それでは私もそうしよう、シャベルを持て、博士も、女官庁もみんなそうするのです」
息をきらしながらみんなで進んでいくが、迷子になってしまう。道案内の���婆と娘は、まま娘を呼んでくる。
盗んだ指輪を返し、無事森の中で12の月のお陰でマツユキソウに出会うのだが。
指輪は女王が欲しがり、まま娘が渋っていると、湖に投げてしまう、そこで娘は教えられた言葉を唱えると、一月のタンバリン、二月の角笛、三月の鈴の音が聞こえ、白い姿が娘を連れ去ってしまう。そして春が来る。
みんなでマツユキソウを摘んでいると、木の実がなる夏から秋へ、そしてまた一月。
帰り道が解らず震えていると老人が来て願いをかなえてくれると言う。
老婆と娘は毛皮がいい、犬のものでもいいから欲しいと言うと、二枚の毛皮をくれた、しばらくすると二匹の犬になってソリを引かなくてはならなくなる。
森の中では焚き火が燃えて12の月が揃っている。まま娘はなくしたと思った指輪を貰い、老婆もその娘もいなくなった家に帰る。
12の月は、順番に贈り物を持って家を訪れると言う。別れ際にすばらしい葛籠をくれる。帰り道のために立派なソリもくれる
女王はまま娘のそりに乗せてもらう。お願いしますと、ありがとうを覚えて、褒美を与えることが感謝ではないことも覚える。
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ままむすめ さようなら12月のにいさんたち!みなさんの新年の焚き火を、あたしは、わすれませんわ。
女王 わたくしはよろこんでわすれたいけど、わすれられないわ。
博士 わすれてこそーーー思いだすもので。
ままむすめ (ふりかえりながら)さようなら。四月の月さん。
冬の月たち 途中、なにごともないようにな。
四月 さようなら、かわいい子。ぼくがお客に行くのをまっていておくれ。
鈴の音がまだながくきこえている、やがてしずまっていく。森の中があかるくなってくる。朝が近づいてくる。
作者も訳者もなくなっている。1946年に書かれた戯曲、童話劇だが「青い鳥」と肩を並べる名作だそうだ。
訳者あとがきでは
この作品は、古くから伝わるスラヴの伝説、すなわち新年をひかえた大晦日の晩に、1月から12月までの月の精がのこらず森の中で出逢うという伝説をもとにして書かれたもので、境遇の不幸に負けることなく、いつも明るさと他人への思いやりを失わず、雄々しく勤勉に働く少女が思いも寄らぬ幸福をえたという、いわばソビエトのシンデレラ物語です。いわゆる継子いじめがあったり、娘と同じ年頃の両親のいない女王のわがままがあったりして、物語はおもしろく展開しますけれど、しかしこの作品のねうちは、そうした筋のおもしろさばかりにあるのでがありません。作品の底に流れている高いヒューマニズム、人間なり人間の生活なり、また社会なりへ向けた作者の眼の鋭さ、深さ、視野の広さ、などによって、この作品は普通ありきたりの童話劇でないものになっています。またその内容を現している形式の美しさによって高い芸術作品にもなっています
気の効いた、面白い台詞が沢山あり、こんな話だったのかと読んでいても楽しかった。ディズニーの映画になれば、劇場に見に行こう。「アナと雪の女王」のようにつくれるかも。
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母親が小学生の姪に読ませたくて購入したという本(未だ興味を持たれていないようだ)。「自然と人間シリーズ」三部作で知る人ぞ知る良書らしい。青い鳥文庫的には小学中級からとあり、大人も一緒に読んでほしいとの思いで書かれた本だ。
日本は国土の7割が森林である。森林がどれだけ大事で、わたしたちにどれだけの恵みを与えてくれたか。大人が読んでも、森林って凄い!と思わずにはいられない。その森林をずっと前から育ててきた山の人たち、荒れた大地を長い年月をかけて豊かにしてきた人たち。この本にはたくさんの感謝が詰まっている。いろんな人に読んで欲しい。まずは姪よ、読みなさい笑。
シリーズの他の本も読んでみよう。
201013読了
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社会科学と自然科学を結びつけて物事の本質を見極める眼は、もはや頭の柔らかい子供のうちに養わなければ遅いということ。
子供のために書かれた本。
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森について木について、その美しさを言語化している本。
小学校の理科の授業で、もしくは課題図書としてもぜひ、読んでもらいたい。
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森の多様なはたらきを、子どもにもわかりやすく語りかけている本。森は、紙や火、水、土という贈り物をくれる。森は風や雪、火事を防ぎ、気温を調節し、海の魚を養い、国土と風景をつくっている。そして、その中でも最も重要なのは、森が土のつくり手である。こうしたことについて、歴史的な視点も交えながら語られる。
この本を読めば、森と土と水がつながってくる。そして、なぜ自然を守ることが大切なのかが、ストンと心におちてくる。
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子供向けの本でしたが、それだけに大切なことがとても分かりやすく書かれていました。
この本に書かれていることは、誰もが一度は読んだほうがいいこと、自分たちが暮らし、生きていく上で知っておくべきことです。