丸かじり
著者 東海林さだお (著)
獲れたてのタコをがしがしと丸かじりして「いけない……うまいもの食ってると嫉妬される」とおびえながらもついうっとり。フライ一族の中でトンカツの次に偉いのはメンチカツとハムカツのどっち? カレー専門店は明るいのに牛丼屋の雰囲気はなぜ暗い? ヒラメとエビ入りネコ缶の味わいとは? うまくて凄いショージ君の日常は、読むほどにしみじみじんわり、笑いの涙がにじみます……。あくなき探求心と鋭い観察眼が捉えた抱腹絶倒の食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズ。
トンカツの丸かじり
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トンカツの丸かじり
2009/12/06 07:04
トコロ天の困惑、納豆の誤解
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書『トンカツの丸かじり』の所載の「トコロ天は磯の香り」を読んで、いささか心がうずいた。
漫画家であり食べ物エッセイストでもある東海林さだお先生がこう書かれている。
「醤油と酢だけのほうがずっとおいしい」
なになに、トコロ天は醤油と酢だって?・・・
さらに、「ポン酢で、サラダ感覚で食べるのも乙だ」だって。
さすがの東海林先生も何か大事なものを忘れてしませんかって文句をいいたい。
「おろし生姜も意外に合う」。
ちがうって。
私なんか、晩ごはんの席にトコロ天が出てきたら、怒りますね。
時間帯が違うだろう。ここは大人の時間だから、子どもはあっちに行ってなさい、って叱りたい。
トコロ天には黒蜜でしょ。
夏の三時のおやつでしょ。
ところが、そんなことを書くと、こちらの方が何か不思議な生物みたいな目で見られてしまうのですね。
文化の違い、風土の違いに驚いた。
どうも全国一般では、トコロ天には醤油と酢になっているようで、黒蜜派は圧倒的に不利みたい。
それで、晩ごはんにトコロ天醤油酢未知との遭遇に挑戦したのがかれこれ十年前。
まずいとはいわないけれど、やはり隠れトコロ天黒蜜派でいたい。
これとよく似たケースが納豆で、小学生の頃に痛い思い出がある。
国語の教科書に納豆を売る少年の話が出てきて、先生が「納豆食べたことない人?」と質問されたことがあった。
ちなみに私は大阪の小学生。
大阪の人は納豆なんて食べない。
あのねばねばが気にくわない。
大阪人はもっとすぱっとしてまっせ。
ところが、納豆知らない大阪の小学生はその教室で私一人だったわけであります。
エエー。なんで。なんで、こいつら、納豆知ってるの?
泣いておうちに帰って、ばあやに、ちがった、母親に納豆恥事件のあらましを告白した。
母親はそれまで納豆を子供に食べさせなかった自分の不甲斐なさを嘆き、そこらへんのお店から納豆を少しだけ買占め、「さあ、食べ。これが納豆よ」と、私に納豆初体験をさせてくれたのであった。
ふぉふぉきいに。(納豆の糸で口がねばねばしてうまく言えなかったが、これはおおきに、つまりありがとうと言ったわけ)
ところが、あとでクラスメートに聞くと、納豆は納豆でも、彼らが知っていたのは甘納豆だったという。
そうなんだ。大阪では納豆といえば甘納豆で、トコロ天といえば黒蜜なのだ。
東海林さだお先生には、ぜひそういう大阪の甘い食生活も書いて欲しいものだ。
◆おかげさまで書評ブログ「本のブログ ほん☆たす」は1周年を迎えました。
キャベツの丸かじり
2009/10/04 08:01
新聞紙の効用
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
東海林さだおさんの食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズの魅力は、細部へのこだわりと具象性にあります。
この『キャベツの丸かじり』に収められた「懐かしののり弁」という章にこんな文章、
「弁当包みは、布製のやつなんかではなく、新聞紙でなければならぬ。その新聞紙は、弁当を開いたとき、醤油のシミがついてなければならぬ」。
これこそ、紙は細部に宿る、醤油のシミは新聞紙に宿る、の見本のようであります。
この文章だけで、新聞紙のはしっこに、弁当箱の醤油またはおつゆのシミがにじみでていたときの切なさが、シミジミわきおこるのであります。
「まったく、かあちゃん、また汁物を弁当のおかずにしたな」と、ぼやきたくもなるのです。
さらに、弁当箱の横にあった、地図帖なんかの端も、醤油のシミで濡れて、ぼわぼわになっているのに、怒りが爆発します。
「だから、おでんなんかおかずにするなといったのに」
この弁当箱の例をみるまでもなく、新聞紙と食べ物とは実に長い間、蜜月の時代を過ごしていました。
相性がよかった。
たとえば、焼きいもと新聞紙。
あのほっかほっかの焼きいもは新聞紙でくるまれて、はじめてこれから寒い季節がやってくるのだなという風情がでるというもの。
しかも、この場合は政治面ではなく、文化面あたりの新聞紙の方が似合う。
「枯れ葉よ~」とシャンソンがあれば、もっといい。
秋といえば、サンマ。
これだって、新聞紙にぼーんと放り投げられて、くるくるって丸められて売っていた。
おお、サンマを一匹買ったぞ、という気分になる。
この時はTV面か、社会面がいい。
「だんなを出刃包丁でさした」とか、「隣家の煙が目にしみたから」みたいな、事件ものが似合う。
まるまるぼーんといえば、新聞紙とタクアンもそういう関係にあった。
これは、教育面がいい。
なにしろ、タクアンのことは「こうこう」(孝行)というではないか。
このように、新聞紙と食べ物は、相思相愛だったのだ。
それなのに、最近ではどうも不仲説がながれていて、一部ではすでに破局か、とまで噂されている。
弁当箱を新聞紙で包みますか。
焼きいもを新聞紙で包みますか。
サンマは。タクアンは。
すべて、NOなのです。
いったいどうしてこんなことになってしまったのかを丸かじりレポーター諸氏が追求したところ、どうも食べ物さんの浮気が原因らしい。
新聞紙さんの容姿がみすぼらしい、貧しくみえて仕方がない、そういうあたりが原因のようだ。
あるいは、包み紙が包み紙として成立したことやビニール袋の台頭がめざましいことも考えられている。
それでいて、英字新聞はまだまだオシャレということで人気がある。
弁当箱に、ニューヨーク・タイムズ。
焼きいもに、ル・フィガロ。
サンマに、プラウザ。
タクアンに、人民日報。
たしかに、グローバルではありますが。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でご覧いただけます。
タコの丸かじり
2009/08/16 08:28
はじめがかんじん
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
太初、タコありき。
これ、「丸かじり」の常識であります。
タコがなければ、つづくキャベツもなく、トンカツ、ワニもなく、どら焼きも生まれなかったのであります。
だから、タコはえらいのであります。
そう、これが「丸かじり」シリーズの記念すべき、はじまりなのであります。
本書のなかで、創始者東海林さだお公(ええい、ひかえろう、ズがたかーい)は、後々の末裔たちにこうおっしゃっている。
「丸かじりは痛快である。」(「天下一品丸かじりのすすめ」の書き出し)
なんという、ありがたきお言葉。
あたしゃ、耳の穴、お掃除いたします。
そもそも「丸かじり」の魅力とは、はじまりのひとことにあるというのが、全国「丸かじり」統計協会の調査で解明されているわけで、これもひとえに創始者東海林さだお公(ええい、もっとひかえおろう)のお優しいお心遣いからであることも、全国「丸かじり」母親の会の意識調査で判明していることは周知の事実であります。
たとえば、「スイカは楽しい。」(「スイカはがぶり食いに限る」の書き出し)
簡にして単、明にして瞭。
シオにしてタン、石川にして遼。
おもわず、スイカ音頭を踊っちゃいました。
たとえば、「串はエライ。」(焼き鳥の串の業績を讃える」の書き出し)
一体この五文字にどんな秘密が隠されているのかと誰もが思いいたす。
あたしゃ、おもわず、串でのど刺しちゃった。
たとえば、「塩鮭は哀れである。」(「勇気をもって厚く切る塩鮭」の書き出し)
この書き出しだけで、どれだけの婦女子が涙にくれたことか。
なんとなく、さだまさしの「北の国から」をハミングしてしまいました。
たとえば、「何から食べるか。それが問題だ。」(「にぎり寿司の賢い運営計画」の書き出し)
ここから、かの有名なシェークスピアの『ハムレット』が生まれたのではないことが日本国民として残 念でしかたがない。
かように、東海林さだお公(ええい、時にはズをあげて、こちらを見ろ)の文章の「はじまり」は深いのであります。
なにごとも、はじまりはかんじん。
これも、タコあっての、はじまりなのであります。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でご覧いただけます。