ブルーバックスよりイケている理系本として
2015/12/21 07:06
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投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今まさに読んでいます。著者は物理学、数学、進化論を楽しそうにばさばさ切り取ってます。仏教学者以前に学部は工学部出身であり、理科系素養は十分であり、楽しい。どうしてこうさらっと自分の頭から出てくんだろうかな。そんな風に思っています。
なんかブルーバックス二三冊読んだくらいいいとこついてます。こんな風に頭にためていたんだって感じです
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投稿者:せいけん - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は徐々に理想的な視点を排除し、永遠不変の真理ではなく、一生物である人間の認識が必要とする論理として科学が発展してきたと考える。そして今という時代はひそかに隠された神の視点からの脱却途上にあるとし、たとえば量子力学におけるコペンハーゲン解釈は、観測者を不変の自己としか思えない生来の感覚、つまり理想から抜け出せないために生じる論理の綱渡りとする。不確定な波を一点に収縮する現象は実は存在しないというエベレットの多世界解釈が、真のパラダイムとなるべき理解法と主張する。世界も自分も無数に枝分かれしているというわけだ。続いて、生物学における進化論も、数学の発展も同様の歴史をたどっていることを、わかりやすく例を挙げながら説明し、それが、認識する主体と客体が混然一体となった仏教の世界観であることを示唆する。非常に面白い。
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投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教 仏教は、来世の平安を願い という印象を持っていたが、釈尊はそのようなことは説いていない。 遥かに実践的論証的という下りはとても新鮮であった。今 我々が仏教として信じているものは、後世の坊主たちが釈尊の名を借りていろいろ付け加えていったものにすぎないということがわかった。現代科学の基本的な考え方と釈尊の教えは共通する底流があるのだなとしみじみ感じた。
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
>科学の様々な領域で人間化が起こり、神の視点が次第に放棄され、人間固有の世界観の中でしか生きられない自分の立場を自覚していく、その先に何があるかと言えば、絶対者のいない法則性だけの世界で自己のアイデンティティーをどうやって確立していくのかという話に決まっている。それは仏教の話である。
本書は科学と(釈尊時代の)仏教を神の視点から人間化していく過程を共通点として語っている。
ただ科学と仏教の共通点についてというより前半は科学について後半は仏教について別々に語っているような感じがした(それぞれのパートはそれぞれパートで面白いのだが)
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花園大学の教養科学講座のまとめです。量子力学・進化論・数学史の章が大半でした。無理にこじつける意図がないだけに、これらもおもしろく読めました。例えば量子論はスリットの話。だからヤングが出てきます。そこで、アーリア人の話。雰囲気としては、理系向けの仏教入門書だと思います。
こうした概念で仏教を説明すると、非常に整然としてわかりやすいです。仏教は本来は理詰めで考えた方がわかりやすいのですが、教義が漢訳仏典から来ているので、つい難解と思ってしまいがちです。
理屈で攻めているので、かなりラディカル、細部には異論が多いと思います。
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読み終えると、タイトルのとおり「なるほど、科学と仏教は共通点があるんだな」と膝を叩くこと請け合いです。
内容の大半は科学の説明に割かれていますが、面白いのは仏教の説明に入ってから。
ブッダは、悟りを啓いたけどあくまで普通の人だという説明は、フラットに宗教と向き合う距離感を保ってくれるし、仏教は、何故こんなに多種多様な宗派に枝分かれしているのか? という発端の考えも、とても合理的で親近感が持てます。
褐色の恋人で有名なスジャータさんが、実は、ブッダの命の恩人だったり、大乗仏教の経典はブッダの言葉ではないと結論が出ていたり、トーマス・ヤングは言語学にも顔を突っ込んでいたり、面白いエピソードも満載。
唯一残念なことといえば、神仏習合の話も織り交ぜたら、日本人の国民性という面も見えてきそうなのに、そこに言及がないことかな。
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とりあえず、本書の目次を書き出してみる。
第一章 物理学
第二章 進化論
第三章 数学
第四章 釈尊、仏教
第五章 そして大乗
目次だけだと、何の本だかさっぱり分からない。1章から3章までは、科学と数学の歴史を紐解きつつ、著者独自の史観を提示している。具体的には、科学や数学の発展の歴史は、「神の視点を護持する勢力」と「神の視点からの脱却を目指す勢力」との闘争の歴史でもあり、「神の視点からの脱却」が1つ成功するたびに、「人類は発展した」とみなされてきた、と述べている。(ここでの「神の視点」とは、「人間の認知的直感」と置き換えて差し支えない)
4章では、仏教が興った歴史的・文化的・地政学的な背景を解説し、原始仏教とは本質的に「神の視点からの脱却」を目指した思想であったことを指摘している。ここで、科学・数学と仏教の親和性として話がつながり、さらに将来、脳科学が発展すれば、仏教を科学的・数学的に説明できるようになるハズ、という壮大な仮説で締めくくっている。5章はおまけ程度の内容。
…この説明だとトンデモ本のように思われてしまうかもしれないけれど(これは私の説明力の問題)、内容はしっかりしており、説得性も高い。著者は仏教学者でありながら、科学史や数学史に対する造詣も深く、その部分を読むだけでもいろいろ勉強になる本。
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パラダイムシフトが化学の人間化(神の視点→人間の視点)と共に発生するって考えはなるほど、と思った。そのことと仏教の関係は理解できてないからもう一度読み直さないといけない。あと量子論ってやっぱり不思議だ。観測することで結果が変化ってなんか変だよね。これを覆す理論がいつか出そうに思えるんだけど、これも最終的に神の視点ってことになるのかな(^^;) 本筋とは違うけど日本に伝わる仏教は原始のものと全然異なってるってのは勉強になった。
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科学の発展と仏教の発展を重ね合わせて書かれている。
物理学、生物学、数学の説明でほとんど終わり、肝心の仏教はオマケのように後半に登場する。
だが、その構成のためより仏教が科学的に分析出来るものであり、現代のコンテンツにおいても仏教の思想は取り入れるべき要素が多いことが感じられた。
多くの宗教は「救われること」を求められて広がっていった。
現代でも仕事や何らかの活動を通して「救われること」を求めている人は少なくないのではないだろうか。
その仕事を通して、誰を助けるかという文脈だけでなく、やる側はどう救われるのかという精神性にも注目していきたい。
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科学と仏教という全く無関係に見える二つの活動には、驚くべき共通性があるといいます。
科学は神が創りたもうた世界の解明を目指していましたが、科学の進歩は逆に、神なる視点との決別の歴史でした。
一方、仏教は神秘的な絶対者の存在を否定し、人間の存在だけを拠り所に世界観を組み上げてきた宗教です。
仏教と科学の、知られざる関係性を明らかにしていきます。
とにかく面白く、知的好奇心が刺激されます。
そういうわけで、私は脳科学がいつか仏教を、その体系の中に組み込んでくれるよう願っている。私自身の希望的観測で幾分大風呂敷を広げたが、敬愛するブッダ釈尊が、あこがれの科学者たちと並び称される日、「ブッダ釈尊は史上最も合理的な宗教家であり、そして最も慈愛に満ちた科学者であった」と称えられる日がくることを夢見ている。 ー 263ページ
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著者は京大工学部から文学部に転部し、哲学科で仏教学を専攻した仏教学者。実家も福井県の真宗高田派盛立山称名寺である。その経歴から仏教と科学の接点について考察する言説も多く、初めて著者を知ったのも『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』(共著)であった。
著者によれば、初期の仏教の特徴は次のとおりである。
①超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。
②努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。
③(略)
これらのうち①は科学が神の視点から人間の視点へとパラダイムシフト(人間化)してきた点と共通する。一方②においては、物質世界の真理を探究する科学に対して、精神世界の法則性を解明し「苦」からの解放を目指す仏教はやはり宗教なのである。しかし、著者の構想は更に膨らみ、もし脳科学が精神世界を科学的に解明し精神向上システムを構築すれば、もはや仏教と科学は一体化することになると夢想する。
本書の副題「犀の角たち」は、初期経典『スッタニパータ』の「犀の角のようにただ独り歩め」という誦句に由来する。本書では、仏教修行者だけなく科学の人間化のために尽くした科学者たちをも指すのであろう。著者は、「科学も仏教も、一人ゆく勇者の世界である。そこには本当のカッコよさがある」という。科学者でも仏教徒でもなくとも、願わくば多少なりともカッコよく生きたいものだ。
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科学のアプローチとブッダの取り組みとの共通性を示している。
著者によれば、科学の方向を「人間化・人間中心化」ととらえたとき、
仏教も同じ方向性をもっているという。
脇道だが、アーリア人の歴史も面白かった。
科学のパイオニアとしてのブッダ
サイの角とは、そのように(硬く)なり、歩き続けよという古いことばから
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佐々木閑氏は100分で名著で知った。当時メンタルがしんどかったので、見終わった救われた気持ちになった。仏教に出会えて良かったと思う。
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多層で複雑怪奇な仏教について、ほんの少し知ることができた。というか仏教は多層で複雑怪奇なものであると知ることができた。
また「なぜ原始的な仏教と日本の仏教は全然違うのか」という謎も少し知ることができた。
大乗仏教と原始の仏教は随分と異なるものであると、具体性を持って学ぶことができた。それでも、日本の仏教は日本の風土風俗に合った進化を遂げたものだと思うので、それはそれで良いのだと思う(祖先の墓が寺にあることは事実なのだし)。
それでも現代日本人に「貴方達が拝んでいる仏教と本来の仏教は全然違うものですよ」と言ったら大体反感食らうだろうな。
パラダイムシフト…流行りのビジネス用語で言えばゲームチェンジが近いだろうか。科学や宗教世界でなくても、今までの常識でありえないことを標榜する人を多数派が「感情的に」攻撃する様は今なおSNSでもよく見かける。
「科学的にありえない・証明できない」「義務教育内容と付合しない」という考えは正に神の視点ではないか?
トンデモな意見を全て受け入れようとは決して思えないが、陰◯論・反ワ◯チンというような流行語で、一風変わった意見を一括りにして考えなしに総否定することだけは避けたい。理解できなくとも一度立ち止まって考える訓練だけは積んでおきたい。
仏陀や著名な科学者が歩んだ軌跡を、一歩だけでも踏み込むことは無駄ではないだろう。
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科学と仏教という、一見したところどうにも関連づけようのないふたつの分野の隠れた関係性を明確化するというのが本書の目的なのだ
Location: 182
その際、デカルトは、探求のための言語として数学を用いることの有用性に気づいた。感覚的経験よりも数学的確実性を重視し、数学を用いれば物質世界の法則を一般化して語ることができるということを指摘したので
Location: 245
科学が人間化していくという現象を示すために、典型的な事例を選んで考察していこうと思っている。最初に物理学を考えた。次に生物学、特に進化学について見ていくことにする。ここにも、科学の人間化を示す事例が数多く見出さ
Location: 1032
華々しい五年間の冒険旅行と、その後の静謐な四十五年間。この奇妙な人生の流れの中で、彼の進化論はじっくりと醸され、成熟していった。それは一瞬でひらめく類の瞬間的な発見ではない。着実な自然観察によって集められた膨大な情報、科学以外の幅広い分野からもたらされる思考方法、キリスト教が押しつけてくる神の視点を跳ね返そうとする強靭な抵抗力、これらが何年も何十年も継続蓄積された結実点として、彼の進化論は花開いたので
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いま言ったような数学的根拠があるとはいえ、私はやはりその根底に、自然淘汰を神に見立てて、その被造物である人間を最上級生物として扱いたいという学者たちの思惑を
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しかし数学の歴史を見ていくと、そこには単に学説の進歩、定理の発見といったレベルとは別の、概念そのものの変更が至る所で起こっている。そこに数学の人間化という問題があるのではないかと思うのだが、簡単に結論を出すこともできない。そこで、第一章で語った「下降感覚の原理」というものを手がかりにしてみようと
Location: 1600
こういった大変革が起こった時、誰がどういった反応を示したか、それが知りたい。もしそこで数学者の誰かが、その変革に対して「そんな汚らわしい説が受け入れられるか!」と言って厳しく批判しているなら、その変革が新たな人間化を示している可能性が高いのである。ざっと見まわした時、目につく事例がふたつある。ひとつは無理数が発見された時。もうひとつは実無限が登場した時で
Location: 1622
自然数でなく、分数でもなく、どうやっても美しく表すことのできない数がこの世にある」と言ってしまったのである。そこでどうしたかというと、ピタゴラス学派のメンバーが集まり、彼を水に沈めて溺死させてしまったと
Location: 1672
無理数の登場が当時の数学にきわめて大きな打撃を与えたことを、この逸話ははっきり示している。無理数の出現によって、神聖なる数学が汚されたので
Location: 1677
有理数だけでできていた数学世界に無理数が入り込んでくるという現象は科学の人間化であったと想定することが
Location: 1680
ではもうひとつの事例、実無限の発見について見ていこう。実無限とは、無限の要素から成るひとつの数学的集合体を、実在の数のように扱う、きわめて斬新な概念である。無理数の発見が紀元前の話であったのに対して、こちらはおよそ百年前のことであるから多くの情報が残っており、登場人物も
Location: 1723
いかなる現実世界にも、ほんとうの正義の味方とほんとうの悪役などという区分はない。たしかに狂った殺人鬼のようなおぞましい悪人もいるが、それは例外的ケースとして、たいていの人間は本質的に悪人というわけではない。人それぞれ、自分の道を考え、自分で選択し、自分で行動を
Location: 1726
この虚数。最初のうちはまともな数として扱われなかった。それはそうだろう。二乗してマイナスになるというのは演算上の矛盾である。そんなものが数学的実在としてあり得るはずがない。そんなものが出てきたらなにかの間違いである。しかしそうなると、三次方程式が解け
Location: 1813
どうしても虚数の存在を認めざるを得ない。しかしそんなものは認めたくない。ギリシャで無理数が登場した時と同じ状況になっ
Location: 1821
無理数の導入が数学の人間化なら、虚数を承認したことも当然、人間化の一環に違いない。三次方程式を解くという論理的手続きの中で鬼っ子として生まれ、三百年かかって認知された。それほどに虚数は不可思議で、納得し難い概念だったということだろ
Location: 1831
もうここまでくれば、数学の人間化の様相は明らかである。数学も物理学とさほど違うわけではない。人間存在に起因する不可知性が次第に現れてきている。カントールの集合論の導入こそは、数学を決定的に人間化したということが
Location: 2067
科学の中にある人間化という現象について見てきた。この本では物理学・生物学・数学の三分野しか取り上げなかったが、科学がおおよそこの三分野を基盤として成り立っていることを考えるなら、科学全般が人間化していることは間違い
Location: 2397
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なので
Location: 2495
私は科学と仏教がどちらも好きで好きでたまらないので、多少は無理をして両者を結びつけたところがあるかもしれない。それでも、両者の根本的世界観が同じ次元にあるという点には確信が
Location: 3639
仏教学という学問は、学問としての品格がとても高い。その研究領域は、時間では二千五百年間、空間でみるとユーラシア大陸の東半分である。その広大な領域で、膨大な数の仏教徒たちが生み出してきた思想・文化・芸術・歴史、そのすべてを
Location: 3664
仏教が、他の宗教にはない図抜けた合理性の上に成り立っているということは、本書でたびたび指摘してきたとおりである。この仏教の特質が見えてくるにしたがって、若い頃に親しんだ科学の世界がよみがえってき
Location: 3670
仏教研究の中に、科学のデジャヴュを見ると言ったら分かってもらえるだろう