仏教の思想 4 認識と超越<唯識>
アサンガ(無着)やヴァスバンドゥ(世親)によって体系化の緒につき、日本仏教の出発点ともなった「唯識」。仏教思想のもっとも成熟した姿とされ、ヨーガとも深い関わりをもつ唯識思...
仏教の思想 4 認識と超越<唯識>
商品説明
アサンガ(無着)やヴァスバンドゥ(世親)によって体系化の緒につき、日本仏教の出発点ともなった「唯識」。仏教思想のもっとも成熟した姿とされ、ヨーガとも深い関わりをもつ唯識思想の本質を浮き彫りにする。
※本作品は紙版の書籍から口絵または挿絵の一部が未収録となっています。あらかじめご了承ください。
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唯識論
2021/05/05 09:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
外界のものは全て識(心)が生み出したもので実在のものではないということを精緻な理論で語られている。インド大乗仏教思想の到達点だと本書では述べられている。正直、難解すぎて読み解けない部分も多かったが、唯識三年、倶舎八年という格言があるように本書1冊だけ読んで全部理解するのは土台無理な話なのでしょう。難解ではあったが興味深く読める本でした。
「アビダルマ」と「中観」の「総合に唯識哲学の課題があった」
2024/08/25 14:49
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:y0a - この投稿者のレビュー一覧を見る
「唯識とは、ただ表象があるのみで、外界のものは存在しないという思想」だという。日本では、西遊記のモデル、玄奘がインドから命懸けで中国に持ってきた学問、と言えばイメージが付くだろうか。玄奘が「長安に帰り着いた西暦六四五年」は日本では「乙巳の変(→大化の改新)」にあたる。その後、遣唐使の一人・学問僧道昭が玄奘と出会い、「中国で育ちはじめたばかりの玄奘風「唯識」思想」を日本に持ち帰った。
唯識派は瑜伽業(ヨーガ)の実践傾向が強く、煩悩に汚れた日常の「アーラヤ識」 が「人を輪廻に引き入れる」と考える。仏教学者の服部正明によると、「瞬間ごとに生滅する煩悩を伴った心の考察」は「アビダルマ」の影響を受けているが、「煩悩の汚れから離脱している」思弁は、中観などの「空の思想に連なっている」。つまり、「アビダルマ」と「中観」の「総合に唯識哲学の課題があった」と書いている。
これを哲学者の上山春平は、こうパラフレーズする。「テーゼ(正)としてのアビダルマ、アンチテーゼ(反)としての中観、ジンテーゼ(合)としての唯識というトリアーデ(三つ組)」。また、「近代哲学における大陸合理論(正)、カントの批判哲学(反)、ヘーゲルの思弁哲学(合)というトリアーデ」とも比較している。だとしたら、ブッダ入滅後、約千年をかけてインドの僧侶たちがそのような思想的ダイナミズムを生み出し続けているわけですごいと言えばすごい。
当然これらの議論は、現実を意識がどう捉えるのかという認識論系の議論にも展開もしていく。さらに、人間の認識には言葉がつきものだから、そうなれば言語学の根元の議論にもなっていく。たとえば言語と実在の関係について、「仏教では語のあらわすものは実在ではなく、語は単に日常的慣行のためにつくられた記号であるという見解をとる」という辺り、ヴィトゲンシュタインと接続する。また、原子論が出てきて「原子が集結するとすれば、一つの原子の上下と四方に他の原子が結合することになるから、原子には六部分がある」などと言う記述を読めば、見てもいないのにという気持ちにもなる(でも部分的には当たっている)。現在の枠で言う哲学でもない科学でもない(でもギリシャ哲学と雰囲気は近いかも)、太古の人間達の思索を楽しめる部分もあれば、クドくて嫌になったりもする。
興味深いのは、「知識は自己認識を本質とするというのが、唯識学派の基本的学説の一つである」という点だ。よく使われる比喩が「灯火は対象を照らし出すと同時に、自己自身をも照らし出すのである。 知識にはこの灯火と同様の性質がある」というものだ。だから、「対象が認識されるということは、われわれの知識の中に、知識によって照らし出された対象とその対象を照らし出す知識という二つの契機が同時にあるということを意味する」、なるほど。それは納得がいく。しかし、ここでやっぱり自己認識の件が顔を出す。ブッダが悟りを得た時に、「自分を認識する自分」という、自己認識ループの問題も同時に会得したのだろうが、これについて厳密な議論をしていくと、思考と言葉というツールだけで解けない問いがどうしても生まれるのではないか。洋の東西を問わず、突き詰めていくとそうなって行く、という気がする。
そしてそのルーツが、自分一人が悟った後(≒小乗)に、他者にその悟りを伝えること(≒大乗)を決意して、その後終生の努力をしたブッダの生き方にあることを考えると、何と大きな思想のウネリだろうと、半分呆れながらも、その強烈な説得力にたじたじとする自分がいる。