乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない(橋本治流ビジネス書)
著者 橋本 治
従うべき理論がなくなって、どう生きて行けばいいか分からなくなった日本人は、「勝ったか、負けたか」の結果で判断するしかなくなった――本書は、こんな“腑に落ちる”話から始まり...
乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない(橋本治流ビジネス書)
商品説明
従うべき理論がなくなって、どう生きて行けばいいか分からなくなった日本人は、「勝ったか、負けたか」の結果で判断するしかなくなった――本書は、こんな“腑に落ちる”話から始まります。そして、「生きることが幸福でありたいという感情。これこそが経済という人間行為の本質ではなかろうか」と、一筋の光明に向かって、力強く語り始めます。乱世の時代に対する、橋本治からの「解」がぎっしり詰まってます。【目次】はじめに
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「勝ち組」「負け組」なんぞ断じてない。
2005/12/18 18:45
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:jis - この投稿者のレビュー一覧を見る
理解できない、もしくは非常に説明が困難な状況を、簡単明快に解説・説明するほど難しいものはない。特に、複雑極まりない現代の日本社会の世情となると、厄介きわまりない。
この困難事をやすやすと行うことが出来るのが、著者橋本治です。まずは「勝ち組」「負け組」の二分法を俎上にあげる。この「勝ち組」「負け組」という言葉の胡散臭さは、ある一定の基準から判断された価値ではなく、なんとなくの雰囲気から見いだされたものであり、バブル崩壊後の「どうしたらいいか分からない」状態から生み出されたと見る。
価値基準を「勝った」、「負けた」の二分法が分かりやすいからそう判断するようになった。「勝ち組」の評価は何処にあるのか、「負け組」は何処にいるのかという問題に発展する。
意外にも「負け組」の正体は日本経済そのものであり、この単純な二分法を持ち出してきた人々が、経済の専門家エコノミストというわけです。
政治の世界においては、もちろん「小泉純一郎」が「勝ち組」です。単純な戦略と大げさな呼びかけで、結果として完璧な二分法の完成者です。改革の旗手として、とても不可能と思えた「郵政民営化」をやり遂げる。「改革者」として登場する事自体が「勝ち組」の構成要素を充分満たし、それに乗っからない反対派を守旧として、「負け組」に落としてしまう。奇術のような不可思議さで牽引役になってしまう。
後半部分は、現在の経済市場分析に使われています。競争原理に貫かれて、戦後突っ走ってきた日本経済が青息吐息で、「消費者」の欲望を刺激する方法が、分からなくなっている。バブルが弾けた以降の日本は、まるでダッチロールする飛行機のようにどこに向いているのか、皆目検討のつかない状態が今だと言うことです。もともと経済は実態のないもので、ただ流れている血流のようなものです。
その中で蠢めき必死で泳いでいる、おやじサラリーマンたちは決して勝ち負けの一元論で計れるものでもないし、価値評価は多種多様であると暗に述べている。現実がある限り、何にも出来ない構造が限りなく続くかもしれないが、そこは我慢という奥の手もある。著者は弱者の応援もしてくれる。
なにはともあれ、この新書を読んで著者のユニークな視点、驚くべき論理展開を味わうのがいい。得した時間の使い方をした気になる。
これ”乱世”ですか、変な世の中ですね
2006/01/08 16:46
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
兎も角 去年は“勝ち組”“負け組”でやかましい事でした。
事実 昨今世の中 一国の首相をリーダーに“分断の社会”に雪崩をうっています。
その“勝ち組”“負け組”を かって“桃尻娘”や“窯変源氏物語”で文壇をうならせた橋本治氏が分析していると言う事で飛びつきました。
成る程 小説家と言う方は色々難しく考えるものですね。
ご存じ官主導の“会社国家”で戦後の高度成長を達成した日本はまず“大企業”を守る事で民の生活を安定させる事に成功した。やがて成長は飽和状態となり今度は“もっと金を使え、もっと贅沢しろ”で官はバブルを演出する。
経済はフロンティアを求める。輸出ドライブが行き詰まると欲望のフロンティアに火が付けられる。経済が欲望をかき立てる。人間が欲望に踊らされる事による“論理の逆転”
限度を弁えぬメチャクチャな主導の結果バブルははじけ、新しい主導原理として“改革”が叫ばれる。
しかし 経済はもはやどうにもならぬ所まで追い込まれた。経済の拡大が一線を越えたのである。
“指導者や支配者に“経世済民”をやらせていた時代の終わりである“
システムが崩壊し、従うべき理論は無くなり、どう生きていけば良いか解らなくなった日本人。
そこから出てきたのが とにかく“結果”で判断する“勝ち組”“負け組”の論理である。
“経済競争の結果、その競争に勝ち得た者が“未来への展望がある=勝ち組とされ、敗れた者は未来への展望がないとか甘かったと言う事で負け組になる”
“結果的に経済的成功を収めている=頭が良い“と羨望の的になり、その声に反論すれば”負け犬“の遠吠えになる。中間層は自らの負けを認めたくないものだから必死に勝ち組にぶら下がろうとする。
以上が橋本氏の”勝ち組””負け組”乱世の世の分析である。
余談であるが経済学ではこの理屈にデジタル社会の特性である収穫逓増(大きいものはますます大きくなる、勝ちが勝ちを呼ぶ)の論理や弱者に構っておれない非常時資本の本性の論理が加わります。
つい“そんな事ないでしょう”と半畳を入れたくなるが“負け組”を自認する橋本先生は“勝ち組”“負け組”なんて単に一面的な価値観で“つまらないよ”と言います。
何故なら“そのような社会のあり方はおかしい”と言うと“負け組”の欲求不満・ひがみとして“負け組の言う事には耳を傾けて貰えない”からとおっしゃる。
貧乏でも良いけれど、“負け組”故に耳を傾けて貰えないのは文人としてちょっと困ると言う所でしょうか。
まあ そんな持って回った言い方しなくても 負け組がとことん負けて、それだけで馬鹿にされて敗者復活戦もない社会なんて変でイヤな世の中だし決して発展するとも思えない。
そこで処方箋。先生は“経済はもう満杯になってしまった”のにまだ経済を発展させねばと考えたからおかしくなったのだから“元に戻す”べきだと主張します。
おかしくなった時点に振り返れと主張します。例えば“我慢”の効用を説かれます。この辺りはちょっと解り辛いのですが 結局“清貧主義”なのでしょうか?
折角 この様な価値観の根源を経済に求められたのですから、処方箋ももう少し経済的・社会的に探れなかったのでしょうか?