「ポスト産業資本主義」へ向かって
2009/10/20 12:57
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投稿者:CAM - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は14時間に及ぶ著者へのインタビューがベースになっていることもあり、叙述は平易である。しかしながら、内容は高度なものであり、軽易に読み流せるような書物ではない。著者自身も、本書は基本的には「理論書」であると述べている。著者は、その意味を「10年単位で振り子のごとく揺れ動くメディアや学界の風潮からも一歩はなれた視点から、それらの現象や風潮の背後にある基本原理を取り出し、その内容をできる限り統一的に提示しようとした本」と述べる(「平凡社ライブラリー版へのまえがき」;20頁)。そして、本書のもととなった単行本(2003年2月刊)が著者にとって大きな意義をもつものとなったのは、この本によって、著者自身がそれまで別々の主題として研究してきた「資本主義論」と「会社論」とが有機的に結びつくことになったからであると述べる(「平凡社ライブラリー版へのあとがき」;370頁)。
「平凡社ライブラリー版へのまえがき」と「同あとがき」の一部を紹介したが、これがよくできており、特に単行本刊行の2003年2月から本書刊行の2009年9月の間に起こったグローバル経済危機を踏まえて、著者の考え方のエッセンスが簡明に述べられている。これを繰り返し読むだけでも大きな収穫を得られると思う。
著者は、今回のグローバル経済危機は、株主主権的な会社のあり方の凋落をもたらす「ポスト産業資本主義」という舞台の、まさに劇的な幕開けといえる、と述べる(18頁)。そして、これまでの歴史の中で株主主権論から距離を置いてきた日本の多くの会社は、ポスト産業資本主義という新たな時代と親和性をもっていると述べる(19頁)。 もちろん、日本企業がポスト産業資本主義に適合していくためには、変わらなければならない点も多いのであるが、著者のこの指摘には、日本人として幸いだと感じ、勇気づけられる。ただし、著者が述べるこの意味を正確に理解するためには、著者も言うように(19頁)、多少の時間をかけて本書を精読する必要があろう。
全体に刺激的な考え方が述べられており、極めて啓発的であるが、日本型とも言うべき独特の会社システムが出来上がったのは、外在的な要因だけによるものではなく、日本という社会に内在的にかかわる要因がはたらいていた、という指摘(208頁)も、必ずしも目新しいというものではないが、注目したい。
第2章、第3章、第4章あたりでは、会社法の概要が平易に説かれており、ヒトとモノの関係をもとに「法人」の本質が説明されているのはわかりやすい。全体的に何度も読むにたえる充実した内容の書物であると思う。
ただし、金庫株(treasury stock)について述べられた部分(170頁)で、アメリカで、一般的にこれが認められているかのごとき叙述がなされているのは正確度に欠けると思う。たしかに、デラウェア州会社法などではこれを認めている。しかし、模範会社法(RMBCA)では金庫株を認めず、会社が取得した自己株式は、未発行授権株式(authorized but unissued shares)となって、基本定款(the articles of incorporation )が取得株式の再発行(the reissue of acquired shares)を禁止するときは、授権株式の数は取得した株式の数だけ減少するとされており(6.31)、カリフォルニア州会社法でも同様の規定を置いている。
モノとしてのヒトがカイシャをジャンプさせる。
2009/11/03 18:43
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投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「法人としての会社は、ヒトの役割とモノの役割を同時に果たしている。
法人としての会社は本来モノである会社資産に対しては所有関係の主体、
すなわちヒトとしての役割を果たしており、本来のヒトである株主に
対しては、所有関係の客体、すなわちモノとしての役割を果たしている。」
この指摘に魅せられ、自分の本棚に本書が並んでからずいぶん経った。
自らがヒトでもありモノであるような会社勤めを通じて、今あらためて
思うのは、自らをモノとして捉えることで見えてくるこれからがあるのでは
ないかということ。
法人がモノのように扱われる高度資本主義社会も黄昏を迎えて、では
ヒトに何が出来るのかを問うとき、知的になっていくモノたちの傍らで
ヒトがヒトっぽくあるには、モノとしてのヒトの特性(いわゆる身体性)が
今後益々際立ってくるのではないだろうか?それはつまり、思い悩み
しゃべり笑い走り跳び歌い踊る血の通った存在としてのヒトの価値の
問題だ。
会社はヒトを使い尽くすためのモノとして生まれ、モノになったような
ヒトはこのホシというモノを使い尽くしそうな勢いで会社も使い尽くした。
世界最大の会社もヒトの自我によって破綻に追い込まれた今、
会社はこれからどうなるのかを問うことは、ヒトはこれからどう
生きるのかを問うこととそう変わらない。
肉体というモノとして存在するヒトに出来ることは何か。
本書は終章で、経常的に起業家が生まれる社会を夢想する。
ビジネスチャンスというサバイバルロードを通じてヒトの可能性を
引き出すような起業。それはケモノが獲物を捕らえるときに発揮する
ような捕獲のタイミング、それを搾り出す体力と勇気の問題に
帰結してくるのではないだろうか。何だか少年ジャンプのような
世界観だが、きっと会社にもジャンプが必要で、ジャンプするには
テンションあげるために走りしゃべり歌い踊る祝祭がいる。
その祝祭の中に、これからのモノづくりニッポンの会社のヒトがいる。
日米双方の会社形態を、相対的に議論
2015/05/03 06:02
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投稿者:アラン - この投稿者のレビュー一覧を見る
会社は、アメリカのように、株主が大きな権利を持つのが、あるべき形式・理想形だということを、ロジカルに否定する。これを「法人名目説」と整理する。高度成長期日本の会社を、「法人実在説」と整理し、どちらの形式も、会社という性質上、存在しても、全くおかしくないことを解き明かす。そして、後者の形態は、産業資本主義にマッチしており、日本は高度成長期に、まさに大きな成長を享受する。しかし、ポスト産業資本主義(グローバル化・IT化・金融革命)において、日本の会社は機能不全を起こしており、シリコンバレー型の企業が望ましいとする。
「アメリカの会社があるべき姿だ」「いや、日本の会社のほうがよい」といった不毛な議論をせず、相対的に物事を見ているところがおもしろい。非常にロジカルで読みやすい。一方で、日本の会社が機能不全を起こしているとしつつ、ポスト産業資本で求められる会社の姿と、日本の会社とが、どのように違うのかが、よく理解できなかった。これは私の今後の勉強課題である。
また、資本主義とは差異から利益を得るところに本質があり、ポスト産業資本主義のもとでは、会社・個人の持つ情報でしか、差異をつけられないと言う。この点も、そのとりだと思う一方で、次から次へと新しいことを考えないといけないし、めまぐるしく変わる環境に対応しないといけないし、とても疲労感のつのる社会になるだろうとも感じた(既になっているかもしれないが)。
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H21.11
学者さんの本。分かりやすく書かれているけど、やっぱり難しい。僕にはちょっと。。。でした。
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ポスト資本主義の解説本といったところ。
法人とは2種類の顔がある不思議なもの
・「モノ」としての法人 株主にが支配
・「ヒト」としての法人 会社の資産を保有している
2種類の経営者
・個人オーナー等に委任された経営者 「任意代理」
・大企業等の経営者 「信任」
後者はまさに信任に支えられていることから、怠慢がおきやすい。
倫理性が必要。
→ エンロン事件
ポスト資本主義
差額性 → 差異性
法人という仕組みが私的な利益を追求する手段として使われ始めたのはまさに近代。NPOの仕組みは近代以前には普通にあったもの。
→ 都市、僧院、大学
これからの日本に大切なのは、リスクをとって勝負する個人を生み出す社会体制を築くことができるか否か。
個人としては、
カネをもっているかよりヒトのネットワークを築けるか。
さまざまな情報にアンテナを貼って機敏に反応できるか。
情勢が変わったときに変化に身を投じられるか。
多様な情報収集の中で、かつ専門性をもてるか。
ってあたりかな。
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2003年に発行された単行本の文庫版。
現実を見ると、社会は論理的に順を追って変化しているわけではなく、迷走して行き過ぎてを繰り返しながら進んでいるという印象。
しかし少しずつこの本の予想は現実になっている。
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300ページ弱の大作だけれど、話があちらこちらに飛ぶこともなく、というか話はいろいろ飛ぶんだけれど、展開が理論的で筋が通っているから、不思議と全体を見失うことなく全部を読み切れる。
この本が読みやすいのは、理論の繋がりがとぎれないようにとの著者の配慮と、もうひとつは所々でキーワードを持ち出して、そのキーワードを用いながら話を展開してくれているから。
アメリカ型企業→法人名目的企業→ポスト産業資本主義、かたや日本型企業→法人実在的企業→産業資本主義とこんなふうに適切な言葉を用いてくれるから、とても分かりやすい。
こういうカッチリとした理論的な内容の本は物理問題を解いているみたいで大好き。
法人において、従業員は社員じゃないなんて初めて知った。確かに僕たち労働者は会社と雇用契約を結んでいるから、会社の内部の人間ではなく、外部の人間だ。ただ、内部の人間では無いはずの労働者があたかも内部の人間のような意識で働いているというのが日本型企業の特徴。
「そもそも法人とは・・・」というテーマからグッグッグと、まるで詰将棋のように理論が進む。
多分日常生活には全く顔をださないテーマだけれど、生産性も全く無いけれど、世の中の仕組みに興味がある人は読んでもいいかも。こういう基本の部分を理解しているといろんな展開ができるように思う。
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利潤は差異性からしか生まれない。
卒論における、比較制度分析の中での企業特殊的人的資産の良い復習にもなった。
ポスト産業資本主義に対応していける日本の社会、会社の出現が鍵になっていくという説明も納得。(以前の産業資本主義における優位性をもつ企業体・制度が確立されたものが強固となっている日本の現状)
一様に米国型株式主義、日本の経営、を批判しているだけではなく、
読み易くもある。
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ポスト資本主義には日本式経営に利があるのは納得。しかし現実では決算の方式などが欧米をスタンダードとして日本がアジャストしていく流れは未だあるが、それでは長期スパンの経営や人材育成ができないため、高付加価値な日本の製造業は窮地に立たされるだろう。のみならず、著者の言うように来たる差異がますます重要になっている情報産業(むしろこれは差異そのものを商品化している)の時代においても国際規格設定の場に関与できるようなネゴシエーターが存在しなければ、これからも欧米式の経営を迫られ、日本企業はいいとこなしなのではないか。
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会社とは、モノとしての存在と、ヒトとしての振る舞いを併せ持つ特異なものである。
その会社を株主はモノとして扱いたいのか。経営者達はこの会社というものをヒトとして成り立たせるために、手となり足となり、頭脳となる。
日本の会社は、従業員でさえこの経営者として機能している。
商業資本主義から産業資本主義になり、そして現在ポスト産業資本主義の時代、今後の資本主義は何が基軸として機能するのか。
それは、今までと違い差異を意図的に作り出す事。第三の波とか情報化社会とか言われる状態。
そのような状況で「グローバル化」「IT革命」「金融革命」は必然的に手を取り合って訪れた、ということか。
そこでは、個々人のコアコンピタンスこそが重要な差異を産む源になると予言される。
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良著。
前半は、会社そして法人とは何かという説明に終始しているけれど、
後半はポスト資本主義における「強い会社」だとか「これからの働き方」の話になります。
キーワードは差異化と人的資産。
やさしい文章で、みんなが何となく感じているであろうことを明快に論じているので、頭が整理できる一冊。
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10年近く前の本だとは思えないほど資本主義と会社について、現在に当てはまる基本的な事項がまとめられている。もちろん今となっては若干懐疑的な部分が含まれているがそれを考慮しても良書。
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読了2012/02/23
【まとめ】
Ⅰ、不思議な存在としての会社
近代市民社会のもとにおける法人としての会社には、株主に所有される「モノ」としての側面と会社資産を保有する「ヒト」としての側面がある。会社の形態を巡る争いは、両者のうちどちらに重きをおくかという立ち位置の問題であった。コーポレートガバナンスはこの両義的な立ち位置を巡る争いから生じている。
法人は会社を契約主体とするものであり、法人制度は契約関係を安定化させるためのものとして生まれた。ここで、法人は観念的なものであるため、実際の運営には手足となって働く専門的な経営陣が必要とされる。しかしながら、法人の代表として彼らが結ぶ契約は、得てして自己契約になる恐れがある。これを防ぐために、(信任義務など)法律上、経営者には信認受託者としての一定の倫理性が課せられている。経営と所有を近づけようと言うアメリカ型のコーポレートガバナンスは、所有と経営の一体化した古典的企業のガバナンスと株式会社のそれを同視する理論的誤謬であり、この倫理性を解放したため必然的に失敗する。
Ⅱ、おカネの支配力の低下
ポスト産業資本主義においておカネの支配力は低下する。ポスト資本主義においても、差異性から利潤を獲得する資本主義の本質は変化しない。しかし、ポスト産業資本主義の時代は、「情報の商品化」など、差異性を意図的に創出し続けることが必要とされ、重厚長大な設備投資を行い労働生産性を高める産業資本主義とは異なる。そこでは従業員が築く人的資産の重要性が高まる。それはインセンティブによって引き出せても、おカネで買うことは出来ない。このことから、おカネとヒトの重要性が後者に傾き、株主主権論が主流化することはない。会社に求められるのは、従業員たちが、組織特殊的な人的資産を共同で築けるような心地よい環境である。株主からの支配(ホールドアップ)を拒み、長期的関係から従業員間の信頼を維持することが会社にとって重要となる。
【感想】
インタビュー形式だったためか、やや冗長な印象で2/3ぐらいにまとめられる感じがした。
基本的に、『モノとしての会社≒株主主権論≒欧米型コーポレートガバナンス≒法人名目説』に『「ヒト」としての会社≒法人実在説≒筆者のコーポレートガバナンス』を対置し、前者が企業と会社の混同から生じた理論的誤謬で、日本とは馴染みにくく、実際失敗しているかを示し、後者が倫理性の点で勝っており、ポスト産業資本主義に相応しいものかを説くものとなっている。
日本的経営はポスト産業資本主義に必要とされる組織特殊的な人的資産を育む制度として優れた面が合った。しかしそれは高度に産業資本主義的な会社として適応しすぎており、ポスト産業資本主義に相応しい形にはなっていないという主張には既視感ならぬ既聴感がある。戦前の軍隊よろしく日本の「家」制度的な官僚制度なのだなあと変に納得してしまった。
山本七平はかつて、日本の「家族的組織」について、家族は目的を持たずその存続のために機能することが望まれ、そのために、目的のために正当化は必要とされず、自身の存続のた��の調和が必要である。組織が目的に対応して正当化出来ている間は、家族内部の調和によって最大の力を発揮する。その一方で、目的から自己正当化できなくなっても家族的調和の原則は存続してしまうから、目的に対応出来ないまま存続し続ける。との旨を述べたが、もし筆者の言うようにポスト産業資本主義では、会社の新陳代謝が高まり、寿命は短くなるとすれば、どのようにして生存のみを組織の目的とする「家族的組織」の新陳代謝を高めうるのだろうか?短期的に痛みを伴う大改革か、現在ある仕組みからのモデルチェンジか?
山本氏は、この問いについて、日本人の日常性という規範が変化しない限り、つまり日本人が日本人である限り根本的に解決は出来ないとする。よって、考えるべき問題は、家族的組織が植物組織化(植物状態化)した際に、いかに倒産させ、遺産を継承しながら、いかにその構成員を別の組織に調和的吸収し、新しい組織的家族に相続させるかである。今要請されるのは、新しい事態へ対処するために自己の伝統、すなわち通常性の規範に基づいて、もっとも少ない混乱による社会改革の方法論を考えることである、と『なぜ日本は変われないのか』で述べている。「停滞」への焦りから、「欧米仕込み」の改革に飛びつくことだけは辞めてもらいたい。
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書名への答えである「ポスト産業資本主義」が何も特別な新しい社会ではなく、「利潤は差異性からしか生まれない」という原理から導かれる当然の帰結、という解説がしびれた。毎日の会社の中で起きること、起きつつあることが描かれていてなるほど~の連続。これはビジネスマン必読と思う。
非常に読みやすくて、前半の「法人」の説明と後半の「ポスト産業資本主義」の説明をベースに、その前後半が「日本型資本主義」という今属している世界の話でもって滑らかに結びつけられていて、非常にしっくりきた。学者さんの本は理屈がしっかりしてて好きだな。
しいて言うならポスト産業資本主義を示すもっと明解な言葉があればよかった。
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こちらの本においては縷々旧来の株主主権論の是非が論じられており、最終的に著者は旧来の株主主権論に対して「No」を突きつけています。
著者の提言が荒唐無稽だというつもりもありませんし、著者が提示している歴史的事実に誤りがあると言うつもりもありません。
ただ、著者が提言の前提として繰り広げる議論については数多の疑問を禁じ得ません。
それがゆえに、著者の下した結論や、最終的に著者が行っている提言(NPOをはじめとする非営利団体にヒントを得よう、など)の信頼性にまで揺らぎが生じかねません。
例えば、法人制度は契約関係を簡略化するために生じたというのは著者の指摘するところですが、それゆえに会社が「社会」の承認にその存在を基礎づけられるとか、会社が「社会の」公器だというのには論理の飛躍を感じます。
法人制度が契約関係を簡略化するために生じたのであれば、「社会」ではなく「契約の(潜在的な)相手方」の承認があればよいはずです。
また、会社と経営者の間の関係を「自己契約」とし、経営者の契約遂行の合理性は経営者の倫理観のみに依存するというのもどうなんでしょうか。
そもそも会社と経営者の間の関係を「自己契約」に終わらせないために株主が存在するわけですから。
経営者の倫理観なんて本来的に信用ならないから法律で規制しようというのも、倫理観がだめならなぜ法律が登場しなければならないのか。
人的資産しか有しないヴェンチャーに対して担保設定しようとすれば奴隷的拘束の禁止に反するというのもよくわかりません。
いわゆるキーパーソンとの間で連帯保証契約を締結し、実際に求償するばあいに債務弁済契約を締結してはならないの?
さまざまな論理の飛躍を駆使してまで著者が旧来の株主主権論を否定し、株主に対する利潤の分配に抵抗しようとするのは、いわゆる日本的経営に対する単なるノスタルジーなのではないかとさえ感じてしまうほど、前提部分の考察が杜撰に感じます。