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第1章 「愛」の哲学序説
第2章 性愛
第3章 恋愛
第4章 真の愛
第5章 「愛」はいかに可能か
著者:苫野一徳(1980-、兵庫県、哲学)
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苫野 一徳さんの『愛』を読む。
ちょうど妻と暮らし始めて一年少しがたった。
私たちの間にある愛が成熟しつつあることを感じている。
著者が、大学時代「人類愛教」の教祖になったように、
私も、「あらゆる存在と生命の全ては根源的には絶対的に肯定されていて、その根源に愛がある」という啓示を受けて、その肯定の感覚があまりにも喜びに満ちていたので、何百何千もの詩を書いて、
それを本にしたりとかやってた。
きっかけは、ドイツ語の単位が取れず留年が決定し、サークルの多忙な仕事に追い込まれ、SNSで四方八方からくる心ない言葉に打ちひしがれ、世の中の矛盾を突きつけられ、そして失恋という「人生全否定しかない」というような状況の時、
ジョン・レノン・ミュージアムに行って、
そこで、
「心を開いて『イエス』と言ってごらん。」
という言葉に出逢ったことが私にとっての一つの「回心」だった。
心に傷を抱え孤独に悩み苦しんだジョンが発する、
それでもなお心を解放させて祈るように歌った人生の肯定と愛は、
この世の中の一切支えどころの見出せない私の存在の奥底に染み渡った。
ジョン・レノンは、キリスト教や哲学よりも雄弁に私を勇気付けてくれた。
しかし、私は決してジョンを崇拝せず、
私にしかできない形、
私にしかできない表現で、生命や愛を表現したかった。
苫野先生と同じく、
私もやはりあらゆる宗教や思想、芸術の根源には形は違えどこの「生命に対する絶対的肯定、絶対的愛」があるのだと、ある種の神秘的な恍惚、高揚感、悟りにも似た直観があった。
そしてそれはもはや宗教を超えた宗教だった。
あらゆる宗教的な形態に還元できない、生命、喜びそのものに浸り切り、
私はその形態の根源にいた。
クリスチャンでもなかった私は、思わず教会に行ってこの偉大なる生命の肯定に感謝を捧げていた。
それこそ、私は、天上に引き揚げられたかのように、あらゆる事物の根源を悟ったと錯覚すらした。
ところが、苫野先生はその後「劇鬱期」に突入し、
「人類愛は世界の真理などではさらさらなく、私自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲望によって作り上げられた幻影だったのだ」
と人類愛の思想を捨て去る。
カルトの教祖の多くが、人生のどん底において、時に霊的なビジョンも伴う「無限の生命との一体感」という体験をして教祖になるそうだが、これは心理学では「躁的防衛」というそうで、
その躁的な興奮や高揚感がないと、弱り切った自我は自殺しかねないわけである。
時折、孤独や苦悩を埋め、救ってくれるものとして「恋」が登場する。
恋の幸せな感覚も、「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」なのだ。
そして、恋は互いに「完全に一つになる」ことを欲する。
そして、恋こそが生きる意味で、
この恋さえ成就すれば、自分の人生は全く違ったものになる、と幻想を抱く。
恋は、失われた自分の真実を取り戻すための旅だ。
幸いなことに私の恋は���るで神がかったように成就した。
その恋は、求めて得るものではなくて、
「育てていくもの」に変わってきた。
幸せの質は変化したように思う。
成熟した愛は、
他者を絶対的な他者とみなしながら、限りなく尊重する。
絶対的な他者でありながら、絶対的に一つなのだ。
「分離感情」と「同一感情」が弁証法的に一つになっている。
教会で、
愛は「撞着的特性」を持つと教わった。
愛とはその人自身の存在を喜ぶこと。
共にいること。
別々の自由な存在であることが尊重されながら、一つであるということ。
苫野先生の哲学者として語れる愛はここまでだが、
信仰を持っている私にとって、もう一つの愛について。
祈りと呼べるものかどうかはわからない。
歩いている時、何か日常の作業をしている時に、ふと立ち止まって、
波のように神の慈しみの眼差しを感じる。
そして、「ああ、神さま」とふとつぶやく。
心が陰鬱な時でも、少し心を開くと、私を超えた存在がそばにいてくれる。
いや、私たちが祈り意識する前から、神はすでにそこに待っている。
それが恍惚で全てを一気に変えてしまうものであるケースは多くはないし、
なにかの講演会やセミナーのようにテンションが一気に上がるものでもないが、
それはたしかに深いところで、静かになされる美しいことだ。
キリスト教において、神の愛は哲学でなく、
神が自分の子どものために自分の命までも惜しまない、
それこそ、「はらわたがよじれるほどの」血潮滴る圧倒的に迫ってくる愛だ。
特攻隊が愛する人たちと後の人の平和を祈りながら死んでいった高貴さ、
青鬼が愛する友のために、自ら殴られ血を流し、それでも友を信頼して置き手紙をしていったこと、、、。
人間としてもっとも素敵な生き方、生命の使い方は、キリストの生き方と死に方に見いだすことができる。
そして、死が虚しさや終わりでなく、裏切ることのない希望であることも。
そこに、私たちは、「神の愛」を見る。
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タイトルは,そのものズバリの「愛」。なかなか手に取ってみようという本ではありません。それでも,読んで見ようと思ったのは,あの苫野一徳先生の著書だからです。
苫野さんの本は,『ほんとうの道徳』など,先に読んでいました。諸々の哲学者の話がでてくるのですが,それがとても上手に引用されていて,わたしのような哲学シロウトにもわかりやすく解説してくれるんです。それで,哲学への壁も少し低くなった感じがしていました。『ほんとうの道徳』は本当に読みやすく,分かりやすかったので,同僚にも紹介しました(うちの学校は,今年,道徳教育の研究発表校なので,ここは,道徳の基礎基本として読んでおいてほしいと思ったのでした)。
さて,本書の感想です。
先に紹介したように,本書の中にも様々な哲学者やちょっと違った分野の本からの引用があるので,パラパラめくっただけではちょっととっつきにくく思います。
がしかし,そこは苫野さん。ご自身の体験を入れたりして,「ほんとうの愛」について哲学してくれます。
こういう文章に慣れていて,しかも理解力のある人にとっては,「また,この表現の繰り返しかよ」と思われるかもしれませんが,わたしにはちょうどいい繰り返しでした。そのくり返される言葉とは,たとえば次のようなセンテンスです。
それがどのような「愛」であれ,それを「愛」と呼びうるならば,その根底には必ず「合一感情」と「分離的尊重」との弁証法がある。そしてそれは,より高次の愛になればなるほど,「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法へと高まっていくー。(77p)
様々な「愛」を解きほぐしていくときに,この二つの言葉が随所に登場してきます。その他にも,同じ哲学者の引用文が何度が登場してくるので,「なるほど,この文章はこういうことをいいたいのだ」と分かってくるのです。おそらく,カントやキルケゴールやニーチェ,ハイデッカー,ヘーゲル等の本を読むよりも,本書を読んだ方が,「だれがどんな風に愛を語っているのか」がよく分かると思います。
それにしても,哲学書が読みにくいのは原書がそうだからなのか,それとも訳書がそうだからなのか。ま,わたしにとっては『源氏物語』も読みにくいので,興味関心の置かれている場所なんだろうけれどもね。
というわけで(どういうわけだ!),本書は,『哲学入門「愛」編』という感覚で読めると思います。
最期に,教師と教え子との関係について…わたしの心にストンと落ちた文章を紹介します。
”教え子”。これもまた,倣岸な言葉である。彼/彼女の成長は,何もこのわたしの教育のおかげだったわけではないだろうに。
しかし,それでもなお,「教育愛」において,わたしは,彼/彼女はわたしの大事な”教え子”であるという思いを抱かずにはいられない。それは,理念的というよりは現実的な「歴史的関係性」の中で育まれた,少し先を行く者の,まだその道を歩み始めたばかりの者に対する情愛である。
このような情愛,その「合一感情」は,言うまでもなく,教え子をこのわたしの思い通りの存在に形作りたいとする欲望とはまっ���く相容れないものである。古代ギリシアの少年愛について論じた際にも述べたように,そもそも教育とは「分離的尊重」なくしては成り立たない行為である。相手を自分の思いのままに形作るのであれば,それは教育ではなく調教である。教育者は,”教え子”への「教育愛」などと気楽に呼んでいるものが,じつは愛の皮を被った調教欲望でないかつねに省みる必要がある。(214p)
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“真の愛”それはいったい、いかに可能なのか?
ー自分の尻でしっかりと座ること。
すなわち、自己不安と、その反動ゆえのナルシシズムー
自己の価値への過剰な執着ーを乗り越えること。
そして、「意志」をもつこと。
わたしはこの人を、わたしとは絶対的に分離された
存在として尊重するという、「意志」を持つこと。
これら2つの条件を満たさない限り、
わたしたちが“真の愛”を知ることはない。
1度読んでいたが、そのときは内容の6割ほどしか
理解できていなかったように思う。
今は8割ぐらいだろうか?
自分の中で、愛はいかに可能なのかということが分かるようになってきた。
なぜ、分かるようになってきたのか?
それはまさしく、自分の尻でしっかり座ることができるようになったこと。
そして、ナルシシズムを自らの理性によって暴くことが自分なりにできたからだと実感している。
これらのことができたのも、愛は理念的な概念故に、
意志しうるということだ。
愛という理念的な概念を意志をもって目がけたからこそ、今実感を得ている。そう感じるのである。
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僕はもっと生きないといけない!生きてみたい!と強く思った。このような愛があるのなら、生きて確かめたい。25歳の僕はまだ、そこまで愛を経験していない。
「わたしとあなたの境界線は、いくらかおぼろげになる」ほどの極限的なエロティシズムとしての性愛。
自分の命と引き換えにしても、我が子を守りたいという親の愛。
「愛する妻がまだ生きているかどうか...それは、わたしの愛の、愛する妻への思いの妨げにはならなかった。」と言ったフランクルの極限状態での愛。
このような愛を自分もいつか経験できると思う。彼岸的な理想ではない。自分の意思で育てていくべきものだ。もっと自分の人生を生きてみたい。
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何回も読みたい本。
ぼんやりとは理解したような…。
「愛は、わたしたちが自分の尻で座り、自らの意志をもって、育て上げていくもの」
大人は子どもに、愛される経験まではないにしても、承認される経験をさせることが大切で、愛の皮を被った調教的要望ではないか常に省みる必要がある。
合一感情・分離的尊重の話があったからこそ、すんなり理解できた。年齢を重ねてきて、子どもと関わる機会が増えたからこそ、忘れたくない。
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「ほんとう」の愛とは?
それはいかにして可能か?
友愛、性欲、性愛、恋、恋愛、キリスト教の無償の愛などとの違いは何か。
それぞれの言葉の使い方や自らの体験を道具に、考え抜いていきます。
著者20年の思索の結果が解き明かす、愛のすがたとは?
深いところまで徹底的に考えていく哲学書ですが、難しすぎず、分かりやすく、丁寧に書かれています。
お勧めです。
確かに、わたしたちは、“真の愛”と呼びうるような「愛」に浸されている時、それが無 条件の「愛」であることを感じる。わたしは、この人が美しいからとか、才能があるからとか、わたしを愛してくれているからとかいった理由によって愛しているわけではない。わたしはこの人を、この人がこの人であるがゆえに愛しているのだ。それゆえ、もしこの人が美しさや才能やわたしへの愛を失ったとしても、わたしは変わらずこの人を愛し続けることができる。“真の愛”において、わたしはそう確信することができる。
しかしこのことは、わたしたちは何の理由もなく誰かを愛することができるということを意味するわけではない。愛ははじめから終わりまで徹頭徹尾“無条件”であると考えるのは、柔な愛の理想にすぎない。
だれかを愛するには、結局のところ理由が必要なのだ。この人が美しいからとか、同じ魂を共有しうる人だからとかいった理由で、わたしはだれかを愛し始める。
しかしひとたびわたしがだれかを心から愛したなら、わたしは確かに、その理由や条件を置き去りにすることができるようになる。わたしはかくかくしかじかの理由でこの人を愛しているのではない。この人がこの人であるただそれだけゆえに、わたしはこの人を愛しているのだ。わたしはそのように確信することができる。
なぜか?
ー「意志」のゆえに。
「無条件の愛」とは、だれかを愛するのに条件は必要ないという意味ではない。それは、ひとたびだれかを愛してはじめて、その愛に条件などないと意志しうるものなのだ。
209-210ページ
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愛とは何か?
この深い問いに哲学的アプローチで答えんとする本著。
最終章とあとがきで収斂された一つの回答は、非常に説得力のあるものだ。
思えば、小中学の頃、「自分は誰のことも嫌っていない。人を嫌うなどできない」と嘯いていた時期が私にもあった。それは苫野先生が唱え、後に否定した「人類愛」に通底するものが多少あったように感じられる。私のそれは、「誰からも嫌われたくない」という思いの反動だったに違いない。
私も、子の親となり、苫野先生が本著で説く愛の本質に迫っているように思われ、そのことを本著が言語化してくれたことで幾分スッキリしたようにも思う。
やや難しい点もあるが、その分読み応えもある。
ぜひ。
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椎名林檎が、まさに愛は知性から生まれるって言ってたのをこの本を読み納得した。
愛は意志をもって成立しうるし、きっとその意志は非常に強いものなんだなと感じた。
カントの定言命法がこのようにも繋がるのかと感じさせられた。
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愛とは何か。
具体的な事象を積み重ねて哲学的に考えている。
愛には理念性がある、というのが面白い。
憎悪が生まれる愛は愛ではない。
ただ、苫野一徳は何事も本質を見出そうとする。
本質って何を持って本質とするのか。マジックワードになっているきがする。
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愛ってなんなんだろうと思って読み始めた本だけれど、さまざまな人が愛について語っていて、何が何だかよくからなくなった。
恋愛、性愛、友愛、親子愛などさまざまな愛があるけれど、人それぞれ定義があって、みんな捉え方が違うものなんだなぁと感じた。
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少しずつしか読み進められなかった。私にとってタイミングが合っていなかったのだろう。愛(特に性愛)を他者の言葉でしたり顔で語る季節は遠くに過ぎ去ってしまい,今はもう愛を自分の枠組みの中で収めてしまっている。基本は自己の拡張であり,対象を自分の一部であるかのように大切にする行動を導くものが愛だろう。自分が自分を大切にできないなら愛することは難しい行為。自分を大切にするためには大切にしてもらう体験,つまり愛された経験が必要だろう。愛が普遍的なものであるならば,社会装置としての愛概念ではなく,生物学的な基盤があると思う。誰かを何かを愛しているか?誰かに愛されているか?どちらの問いにも確信を持って答えられないし,答えられる時がこれから訪れるという確信もない。しかし,自分にとっての愛は何かを考えることは,生き方に大きな影響を及ぼしそうだ。愛に基づく仕事,愛に基づく人間関係,愛に基づく趣味,・・・一種の孤高の職人をイメージさせる。
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2002年に『幸せについて本気出して考えてみた』という楽曲をポルノグラフィティがリリースしているが、本書はまさに’愛について本気出して考えてみた’と言うべき一冊。
言葉のニュアンスの上では「愛」と「恋愛」は何となく違うものかな?ぐらいのボンヤリとした感覚はあっても、その違いを言葉で説明出来る日本人が果たしてどのくらいいるだろう。
日常において氾濫する「愛」について、哲学の視点から鋭く整然と簡潔に考察が述べられている。
実生活において’君の言っていることは愛ではなくて愛着、いやむしろ執着だよ’なんて指摘する場面はまず無いであろうが、知っているのといないのとでは例えば愛をテーマにした物語に触れた時、音楽や絵画に触れた時に作者の’真意により近い’受け止め方が出来るのではないだろうか。
本書中で心に残ったフレーズは結構あるが第三章の
「恋に落ちた時の胸の高鳴り、それは、わたしがこのわたし自身の憧れを知り、そしてその憧れを、この世界に見つけてしまった驚きであり喜びなのだ。」(p115)
という一節はとみに好き。
第五章、
「わたしの存在がそのままにおいて承認されること。」(p204)、「親、保護者、教師などの一つの存在意義は、ここにこそある」(p205)
という部分も大いに頷ける。
自分が自分を愛せる為にも、はたまた他者を愛せる為にも、本書を通じて一度は’愛について本気出して考えてみる’のも如何だろうか。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』も書籍化されているならば読んでみたい。
1刷
2022.3.1
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自分が語っていた愛をより解像度高く言語化している
未だ自分の恋愛関係は合一感情→存在意味の合一まで育て上げられていないのだと理解した。
絶対分離的尊重には自由と責任を理解するだけの人格的な発達が必要
弁証法の考え方っていいねなんかパズルみたいで面白い
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愛について言語化して理解できた。しかし、さらにわからない愛の概念も頭に浮かんできた。
この本にあるように、押しては返す波のようです。