日英の教育事情比較への洞察は底が浅いモトフミだし、日本経済の見立てについては、それが森嶋の本業だったにもかかわらず大ハズレ。結局この人は日本という共同体社会になじめず英国という「奇人を容認する国」へ逃げ出さざるをえなかった人にすぎなかったのではと思わせる本
2009/03/20 10:49
9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
森嶋通夫という学者が世に出たデビュー作的な本だ。初版から30年以上たってまだ刷られているわけだからベストセラーと呼んでよいと思うが、まあ、ひどい内容である。森嶋はその奇人振りが災いして日本にいられなくなり英国に逃げたという根強い噂がある。ことの真偽はさておいて、この御仁、よほど日本が嫌いらしく、30年前から一貫して「日本が悪い」「日本は没落する」と言い続けて死んでいった。どうしてこういう反日言説を垂れ流し続けたのか正直理解に苦しむ。よほど日本を恨む事情があったに違いない。
さて、本書はイギリスと日本の教育事情比較を述べたものだ。一応、日本と英国の大学で教授をしていた森嶋センセイのお話なんで、さぞや日英の優れた比較論を展開されていると思いきや、論語読みの論語知らずじゃないが、まあ底の浅い議論と思い込みのオンパレードで正直読後辟易とした。当事者は自分のことは見えないものだが、森嶋センセイも日本の大学のことも英国の大学のこともあまりよく見えていらっしゃらないようだ。こんな浅薄な議論をだらだら述べた本が30年以上も売れ続けているのは、日本に根強い舶来信仰のなせる業なのではないか。これなら英国のジャーナリスト、アンソニー・サンプソンが「英国の解剖」で展開した議論のほうが、遥かに深みがあって説得力がある。サンプソンは言う。「英国の高等教育は貴族による貴族のための教育であり、英国貴族は理論を尊び工業を蔑む。英国の理論物理、理論化学は確かに優れたものが多いが、これを実用に応用することが稀であり下手である。英国の優れた高等教育は、象牙の塔に閉じこもっての自己満足に充足していて、実業界との接点を持たないし持とうとしない。ケンブリッジ大学の研究室の廊下にはドイツの商人が門前市をなしていて、英国の学者が新しい発見をすると我先にそれをドイツに持ち帰り、新たな産業を興す。化学染料の原理は英国で発見されたが、それを実用化したのはドイツの化学産業だった云々」。要するに英国の貴族は、あくまでアカデミアの閉ざされた世界の中であくせくせずに高尚な「高等遊民の世界」に遊ぶだけで、それを実用化しようとしても出来ないのである。ここに英国がドイツとの競争に敗れ、アメリカとの競争に敗れ、日本との競争にも敗れた決定的原因があるのだが、英国人のエリートは頑としてこの庶民を蔑む貴族趣味を変えようとしない。
あと英国が没落したもう一つの原因は、牢固とした階級社会を維持し続け、全員参加型の競争社会の実現に失敗したことも指摘しなければならない。近代社会で産業を発展させるには社会の底上げをする必要があるが、これが英国では実現できていない。英国では大人の四人に一人が掛け算が出来ないと言われている。理由は数学教育の失敗にある。日本では小学校3年までには九九をほぼ全員がマスターするので数学学習の進度が非常に速い。小学校6年までには分数の通分、分数の四則演算を終了し、中学に入って一次関数、因数分解と進み、高校に行くと二次関数、三角関数や微分積分をほぼ全員がクリアーするカリキュラムになっているが、英国では分数の通分を習うのは高校生になってからで、一次関数や因数分解を習うのは高校生も後半になってからだ。なぜこういうことが起きるかというと英国や欧州では九九がないからである。分数の通分や因数分解では自在に頭の中で掛け算割り算を暗算できることが前提になるが、九九が出来ない英国人欧州人では日本の中学生にとってはお茶の子サイサイのことが高等数学となってしまうのである。だから買い物のとき奇妙なことが起きる。例えば825円のものをあなたが買おうとするとき、小銭を十分持っていなかった場合、千円札に25円を沿えてレジに立つだろう。そうすればお釣りが200円となるからだ。ところが英国では売り子は25円をつき返そうとしてくる。「825円のものを買うのだから千円札で十分たりる。25円などと余計な小銭を加える必要は無い」というわけだ。これではいかんとブレア政権時代、英国でもおくればせながら九九を導入しようという提案がなされたが、その際TVのインタビューを受けた教育大臣に英国のインタビュアーは意地悪な質問をした。「そうですか大臣、英国でも九九を導入するんですか。ところで大臣、7x8は幾つですか?」「そうくると思ったよ。昨日、ブレアと3時間かけて特訓したんだ。任せなさい。答えは54だ」
森嶋は輸出立国という日本型経済発展モデルを悪いことのように言い放ち、「日本も早く英国病患者になって、経済成長を停滞させないと先が無い」などと妙なことをほざいている。まるで英国病に罹った英国が正しくて経済発展を続ける日本が悪いかのような物言いだ。しかし森嶋のアホなご託宣にかかわらず日本型経済発展モデルは韓国、台湾、香港、東南アジア、中国に輸出され、アジア経済の底上げに大きく貢献し今日に至っている。アジアがつむぎだす莫大な製品をがぶがぶと輸入したのがアメリカで日米アジアの経済はスパイラル的に上昇発展していったのがその後30年に世界がたどった道である。日本が輸出立国である限り日本が没落するのであれば、日本よりも早く韓国が没落するだろうし、そもそも中国は大国にすらなれないことになる。それにだ。日本は輸出立国であることをやめていないが貿易摩擦は解消した。それは日本が米国や西欧に工場進出して現地で雇用を創出する一方、日本から輸出する製品と現地で製造する製品を差別化して、トータルで日本製品の現地シェアを維持し高める戦略を日本がとったからである。
面白い指摘も無いわけではない。それは英国の教員の給与が非常に低いという指摘だ。英国では基本的に恒産を持つ高等遊民が人生の暇つぶしとして学問の世界に入り込んでいく。もともと金持ちだから高給は必要ないわけだが、これが英国の教育システムを根底で支えているらしい。ご存知のように教育費の大半は人件費である。少子化が進む日本ではGDP比で見ると他国に比較すると教育費の比率は見劣りするが生徒一人当たりにかけている教育費は先進国中ダントツである。教員を労働者と看做して賃上げ要求を続けた日教組の組合活動がここに暗い影を落としているのである。昨今、欧州と日本の教育を比較するのがはやりで、もっと教員を増やせ、25人学級を実現せよなどと法外な要求を羅列する似非学者が多いが、都合の良いところばかりつまみ食いするのでなく、例えば義務教育に携わる教員の給与を大幅に下げるからもっと人員を増やして欲しいというような筋の通った要求をして見ろと本書を読んだ後、強く思った次第である。
70年代の英国の様子
2020/11/29 18:13
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鎮文修 - この投稿者のレビュー一覧を見る
イギリスと日本を教育と経済の点で比較する。
やや冗漫なエッセイという感じであり、イギリスと日本の相違をこの二点でもって語りつくせるわけではないので、イギリスの当時(70年代)の様子を知る資料の一つという意識で読むべきだと思った。
投稿元:
レビューを見る
すっごく上品な本!
著者がいいのでしょうね。
岩波の記念フェアにも含まれるはずです。
内容としては教育なのでそこまで興味なかったんですけど、
吸い込まれるように読めました。
さすが岩波書店。
投稿元:
レビューを見る
政権交代もあったりして何かと話題の2大政党制。
あれ?そもそも何で2大政党制の方向に来たんだっけ?という疑問のヒントになる一冊かも。
森嶋通夫さんは数理経済学の教授でしたが、かなり、目線を低く書かれていて面白く読めます。
続刊もあったのですが、今は絶版のようです。残念。
投稿元:
レビューを見る
ハマータウンの野郎どもの再読に向けての布石として読んだんですが、70年代に書かれた本の割には意外と先見性があるなぁって思いましたね。そして第4章がおもしろい。
イギリスの教育事情が興味深かったです。教育が成功しすぎているがゆえに大学と産業界のパイプがつながらず、いわゆる「英国病」にかかってるわけだけど、でもそのぶん個々はそれぞれ異なる専門性を得ているわけだ。だけど日本の場合は、画一的な教育がメイン。そして質の低い大学教育を経て学生は悔いなく学問の世界に別れを告げ産業界へと去ってゆく。そしてその産業界では個々の画一性が追い風となり産業界は力をつけていったわけであります。僕は「英国病患者」になりたい、なるつもりですよ。
※夏目漱石の小説に出てくる人物たちとイギリスを絡めた話はとっても興味深いもので、『三四郎』の「偉大なる暗闇」である広田先生に対する水村美苗氏の解釈と本書著者の森嶋氏の解釈が非常に説得的。それぞれ指摘している点は違うがそれが二元的に広田先生を規定している。漱石さん大好きです。
投稿元:
レビューを見る
イギリスについて知りたいなあという漠然とした思いから手に取った一冊。
副題の通り教育と経済という視点からイギリスが語られています。
著者の森嶋さんは数理経済学者で、大学教授からの視点が主とされています。
単線型教育の日本と複線型教育のイギリス。そのことによる経済成長への影響など、知らなかったことをたくさん知ることができました。
またその国を知るというためにはその国の制度を知ることの大切さも強く感じました。
30年近く以前に書かれた内容ですが、十分今に通じるものがあって、参考になりました。
どちらかというと教育のあり方についての日本とイギリスとの比較に比重が置かれていたように思うので、教育を学ぶ人はとても面白い一冊だと思います。
私自身教職課程を選択しているのでとても参考になりました。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
日本は高度成長を遂げて経済大国になったが、一方、英国はかつての大英帝国から小さな福祉国家へと変貌した。
長年、ロンドン大学で理論経済学を講じている著者は、英国の中等・高等教育の実際の姿と、日本の画一的な教育の現状とを対比しながら、教育の社会における在り方を論じ、これからの日本の教育と経済の方途を示す。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
日本とイギリスの教育を中心にした比較。イギリスの教育(先生)はかなりのウエイトでケンブリッジ卒の先生が多く、教育の力を注いでいる。日本の単線教育でなく選択肢はいろいろある。中学生が日本では子供子供しているが自分で考えさせる教育でかなりイギリスでは大人になっている。
投稿元:
レビューを見る
ロンドン大学教授が、イギリスと日本を対比しながら、英国病、イギリスの中等教育・大学、新日本列島改造について語る。経済企画庁、日本経済研究センター、関西経済連合会での講演を基に。著者の経験に基づいた感想。理論書ではない。
投稿元:
レビューを見る
国際的な評価を得ている経済学者であり、イギリスと日本で教鞭をとった著者が、両国の教育制度や経済のちがいについて語っている本です。
イギリスの教育制度についてややくわしい説明がなされていますが、比較文化論的なエッセイというべき内容で、日本の未来について読者が考えるためのヒントになるような興味深い指摘が、著者自身の見聞などをまじえながら述べられています。とくに、大学2年間で学士号を出すといった大胆な改革案を提示するなど、興味深く刺激的な提案がなされていて、おもしろく読みました。
投稿元:
レビューを見る
本書はイギリスで長年経済学を教えていた著者が、1977年に初版を出版したものである。その意味では巷に出回っている日本とイギリスの比較ものと同ジャンルとも言えるのだが、決定的に違うのは、著者の主張や推論には統計的裏付けがあることだ(数理経済学者としては当然の振る舞いである)。
イギリスを日本人が紹介する本は多数あるが、大半は限られた側面しか見ていないし、記述があまりに表層的でお粗末である。データの裏付けもない。それと比べると本書はトピックは限定的でも(経済と教育面)、統計データを元に推論を進め、リーズナブルな結論を導いているという点で、大変良心的な本である。また驚くべき事に27年前に提言されている日本の教育改革案などは今でも通じるものがある。
投稿元:
レビューを見る
836
森嶋通夫
1923年大阪府生まれ。1946年京都大学経済学部卒業。大阪大学教授、エセックス大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授を歴任。1976年文化勲章受章。2004年7月逝去。大阪大学名誉教授。LSE名誉教授。イギリス学士院会員。著書に『イギリスと日本』 『続イギリスと日本』 『政治家の条件』 『思想としての近代経済学』(以上、岩波新書)ほか多数。
事実、英国は日光の非常に乏しい国でありまして、ビタミンDの不足のために、「くる病」が非常に多い。ですから、「くる病」をもって英国病というのは、きわめて穏当であるかと思います。しかし、ここで「くる病」の話をすることは、経済の話を期待して、せっかく来られた皆さんに失礼でございますから、何とか経済的なイギリス病とは何かというようなことについてお話して、ご満足いただければ、拍手喝采でお帰り願いたいと存じます。
日本の皆さんは「イギリスにはティー・タイムがある。午前にも午後にもティー・タイムがあるから、仕事の能率があがらない」とよく言いますが、イタリーやスペインのシエスタほどではないにしても、ティー・タイムは日本人にとっては、実にいらいらするものです。けれどもその間の時間的ロスは、大学の職員の場合、午前午後合せて長くて一時間、短ければ三、四〇分ですから、「よく遊び、よく働け」という原則をふみはずさない程度ならば、ティー・タイムの制度は生産性の向上にプラスするともマイナスであるとも決しかねます。
その後、そのレクチャラーは抜擢されまして三十二歳の若さでマンチェスター大学の教授になりました。イギリスの大学で、その年で教授になるというのは稀有のことです。炭坑夫の子が一転して、エリートになったのです。もう一人私が知っている若い教授は、フィッシュ・アンド・チップスの店の子どもでありますが、フィッシュ・アンド・チップスというのは日本でいえば、おそらくうどん屋に該当するでしょうか。本人にさえ力があれば、イギリスでは、うどん屋の子や炭坑夫の子が大学教授になるのに、何の障害もありません。
ところで通常の人間の場合、その人が感じる満足度は、その人の持っている物の数量だけでなく、他人(たとえばライバル)が持っている物の数量にも依存するものですが、イギリス人は特別で、彼らは他人が何を持っていようと動じません。ひたすら自分の感じる満足は自分の持っている物の数量だけに依存すると信じて、他人の持ち物には無関心であります。たとえば、偽物のワニ皮のハンドバッグをもってパーティに行ったら、友人が本物を持って来た場合、目がくらくらとする娘さんがいるでしょうが──そうして私はそういう娘を可愛いく思いますが──、イングリッシュ・ガール(とくにインテリ階級のイギリスの娘)は、そんな場合、すぐネバー・マインドとあきらめてしまうのです。したがって、よし他人の持ち物に影響されたとしても、その効果はすぐ消失してしまいます。そしてイギリス人は、自分がそうだから他人もそうだろうと思います。こうして全員がそれぞれの効用関数の独立性と、相互間の無影響性をみとめますと、お互��にお節介はしなくなります。
日本の最初の憲法である十七条憲法第一条において聖徳太子が、「和を以て貴しとなす」といわれたのは、このように考えれば、彼の単なる思いつきや、偶然ではありません。和は大和魂の根幹であります。ところで大切なのは、その次であります。和が一番貴い徳性であるといっても、和とは何であるかがはっきりしていなければ、「Xを以て貴しとなす」といったのと、何らかわりがありません。聖徳太子は大変賢明な人でしたから、その点をよく心得ていて、他の条文で和とは何であるかよく説明しています。すなわち「和」とは兄弟や友人と仲良くする、それから親や目上の人のいうことをよく聞く、さらに多数派(マジョリティ)の意見に従うことであると説いています。したがって、上の人の命令に服従し、多数派に対して従順なのが大和魂の持主であり、そうでない人は下船してもらう。このようにして日本は、国内の平和、治安を保とうとしたのです。
パブリック・スクールはアメリカでは公立校を意味しますが、イギリスでは逆に私立校のことをいいます。いかにイギリス人が天の邪鬼でも、パブリック・スクールを私立校と訳するのは、意訳がすぎますから、おそらく公衆学校と訳すべきでないかと思います。昔はお金持の子弟は学校などに行かずに、各家庭で個人教育を受けていましたが、それほど金持でない家庭の子どもは、そのような教育を受けることができませんので、集団教育で我慢しなければなりません。こうして集団教育すなわち公衆のための学校教育がはじまったのですが、このような教育は近代国家になるはるか以前のことですから、当然のこととして、公衆学校は公立でなく、私立でありました。このような公衆学校は時代がたつにしたがって、歴史のある立派な学校になりましたから、公衆学校すなわちパブリック・スクールと言えば、歴史のある立派な学校のことを意味するようになりました。これらの学校は、その財政的基礎もしっかりしていますから、国家の援助を受けなくても、独立(インデペンデント)に経営していくことができます。
当然のこととして、誰しも子どもをパブリック・スクールにやりたがりますが、経済的な理由その他で子どもを志望校にやれなくても、イギリス人は決して絶望したりしません。彼らは、ある意味では、学校など何処を卒業しても同じことだと思っています。どの学校を出ても大した違いはないと考えています。おそらくイギリス人は、日本人が有名私立高校や東大に固執しているのを理解することができないでしょう。「どの学校を出ても同じだ。学校はきめ手でも何でもない」という意味では、イギリスには学校差はありません。しかしながら、別の意味ではイギリスにも学校差があります。「学校差はなくて学校差がある」という矛盾した命題を後ほど説明したいと思いますが、それに先立って準備として、まず国家検定試験制度について説明しておきましょう。
このような大学は決して楽園ではありません。したがって若い人も勉強が好きでない限り、大学に行きたがりません。彼らはつまらない思いで三年間大学に行くよりも、その分だけ早く、職場に飛び出して、実績をつくっておいた方が、ずっとかしこい生き方だと考えます。その上に、イギリスでは十六歳で義務教育がおわれば、親も子どもも一人前になったと考えます。子どもはお金の上でも、親に頼らなくなり、大学へは親のお金でなく、奨学金で行こうとします。
私は昔、高木貞治(数学者)の随筆を読みましたとき、「遊びでも本気にならなければ面白くない」という言葉を読んで非常に感銘を受けました。駆け足の百メートル競走や、タックルのないラグビーが面白いはずがありません。同じように大学生活も本気で生活しなければ、面白くないにきまっています。いまの学生が大学生活が面白くないというのは、本気で勉強していないからだと思います。