40年前には理解することが出来なかった
2015/10/28 02:57
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:garuhi - この投稿者のレビュー一覧を見る
1975年に林京子が「祭りの場」で芥川賞を受賞して、文壇にデビューしたとき、わたしはこの作品を読んでいる。でもその時、この作品の背後にある、のちに「原爆ファシスト」とも表されたという著者の凝縮された怒りを読み込むことは出来なかった。井伏鱒二の『黒い雨』も佐多稲子の『樹影』も素晴らしい作品である。けれども、原爆を体験してしまったもののみが知る「生体反応」とも言うべきものを、40年もの歳月をかけてやっと読み込むことが出来た。それは、筆者が後に「被曝していなければ、文章を書かなかった」と言ったことの真意に、少しだけ近づいたことを、意味すると思う。
祭りの場・ギヤマンビードロ
2021/02/22 16:40
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
10代のころに長崎で被爆された林京子の原爆体験をもとにした連作短編集。「被爆」といっても、この短編集の主人公「私」のように、ほとんど外傷はなく、放射能被害だけ受けている人や、即死した人、被爆後数時間から数日で亡くなった人、数ヶ月から数年で亡くなった人、被爆者としていき続け、三十三回忌に出席すると葉書を出してから自殺した人、被爆二世として生まれ、直接の因果関係は分からないものの、兄弟二人とも病で亡くなった人など様々な人がいる。同じ被爆者だから辛い体験を共有できるというわけではない。さらに原爆投下後に長崎に移り住んだ人も、被爆者と交流があるわけで、複雑な関係になっていく。
「あなたたちと付き合っていると、あたしたちも心情的には被爆者になってしまってい る、でも体験はない、だから体験を犯してはならないと思う、そこにいるのは死者だから、だから余計にあなたたちの行動を辛辣に見てしまう」
作中のこの科白が、この小説で私が感じた事を凝縮している気がする。
投稿元:
レビューを見る
林自身の長崎での被爆体験を主題とする「祭りの場」をはじめ、彼女の代表的な作品を収めた一冊。心情の襞に分け入る細やかな描写が心を打つ。なかでも「二人の墓標」は、素晴らしい作品と思われる。「ギヤマン・ビードロ」の連作からは、被爆者と被爆者でない者との関係のなかで生きようとする静かな意志が伝わる。
投稿元:
レビューを見る
長崎で被爆した経験を持つ林京子による連作。
「祭りの場」は被爆直後の様子を、「ギヤマンビードロ」は戦後数十年が経過した時点における八月九日を描いている。
林京子の描く原爆を読むとき、私は自分の身体が自分のものでなくなるような、奇妙な共振を経験する。
14歳で体験してしまったものを書き続ける、書くことによって現前化させ続ける林京子の試みに、いかなる言葉で応答しえるかを考えさせられる。
投稿元:
レビューを見る
長崎の被爆を材にした作品。どれも筆者の体験に基づく。被爆者の苦しさと被爆していない者の重苦しい情がどの作品にも見られる。区別の無かった世界が「そうでないもの」と「そうであるもの」に、8月9日を境に分かれたのか。全く自分の意志ではないところで、「分けさせられた」のだから、よけいにしんどい。どれも印象的だが、「二人の墓標」が心に残る。
投稿元:
レビューを見る
林京子は長崎原爆の投下中心部付近にいたにもかかわらず、奇跡的に生存できている今年(2012年)81歳になる作家さんです。周囲の人間が被爆により次々亡くなっていく中、結婚出産も経験し、被爆から30年後に処女小説として『祭りの場』を執筆しています。淡々とした語りで自分の感情をおさえ、長崎原爆投下とその後の記録と事実を、リアリティを持って描写しています。核を否定する力のある言葉を持つ数少ない文学者です。昨年の大地震により安全の概念が崩壊しましたね。今まさに、林京子が発し続けた「核」「放射能被爆」について地球規模の環境問題として真剣に考える時なのでしょう。
投稿元:
レビューを見る
長崎の原爆体験の小説です。
『祭りの場』『ギヤマン・ビードロ』どちらも短編集なので読みやすい。
表象不可能なまでに悲惨な内容をえがく林京子の文章の不思議な美しさ。小説の構造の巧みさ。
国語の教科書にも収録されているようだけど、この作品はもっと読まれて評価されるべきだと思う。
投稿元:
レビューを見る
2012.9.23読了。
血を核とし、常に不在者がまとわりつく。「原爆ファシスト」とも言われるが、『叫んでも甘えても、返ってくる思いは漠漠として空しい』のである。
投稿元:
レビューを見る
確かに語り継ぐことを命じられた人間の魂の記録であり、戦争の記憶が完全に消えつつある現在の日本に生きる人間が確かに継承していくべき歴史。
でも何だろう、違和感ではないのだが微妙なズレみたいな感触がある。もしかしてこれが「原爆ファシスト」と呼ばれた所以なのだろうか?
どういった文脈でそのような酷い仕打ちをこの作家が受けたのか全く分からないのだが、一方で文学に必要な要素である冷徹なまでの客観視という観点に欠けているような気がするのも確か。
結局、文学という「社会体制」は生命そのものを描き出すことは出来ないということだろうか。
極めて重い命題を突き付けてくる作品かと思います。
投稿元:
レビューを見る
被爆の痛みを知らず、また、忘れ、日々を安らかに生きる私たちにとって、林京子の徹底した“傷を負った者”側からの描写はあまりにも痛くて重い。まるで「被爆について、誰もがあまりにも無知に日々を過ごしすぎる」と言ってるように感じられる。または「被爆者が精神的にも肉体的にも深く負った傷を、自分のものとして受け入れることが、現代に生きるすべての人間に課された宿命である」とでも言うように。
『「どこの女学生さんじゃろか。可哀そうか。」…洋子は死んでいた…膝を抱いたまま、死んでいた。女の一人が「かわいそうに、ハエのたかって」と横顔に群がるハエを、手で払った。…太陽に向って飛んで行くハエを見おくりながら、洋子は死んでしまった、と若子は思い、「だけど、あたしには関係ない」とつぶやいて、山を降りていった。』(「祭りの場」の連作のなかの「二人の墓標」より)
いま、中高生に課題図書として、この作品を薦めるべきだろうか?
“作り物”の痛みの描写と、安っぽい共感しか得られないライトノベルしか読んだことがなく、恋愛とか「自分が興味のある身近な痛み」だけを軽く受け入れて、原子爆弾による想像を超えた痛みについては、自分の日常に直接的に関係ないというだけで無関心を装うというような隙間だらけの感受性ですべてを語ろうとする勘違いした中高生やその親にいきなりこの本を読ませることに、異論もあるかもしれない。
でも、この本の物語は、60数年前に実在した女子中学生の、率直な心から生まれたことを忘れないでほしい。
血が流れ、肉をえぐるありのままの描写を、何も知らない子どもの眼前に突きつけることは、非難されるべきではない。私たちは、現実を隠し、目をそらさせて、綺麗ごとのみで覆い包む行為こそ責めるべきだ。
(2010/8/9)
投稿元:
レビューを見る
最初の「祭の場」は、芥川賞受賞作なので、(当時の純文学の大御所はかなり手厳しい人ばかりだったから)相当巧いに違いないと思って読み始めたら、意外に巧者とは言えない文章。しょっちゅう時間が飛び、主語が省略され過ぎてたり、文末が唐突だったり。そうか、「火花」みたいなことは前にもあったのだな、と。体験者にしか書けない世界は、実際あったことはインタビューや文献を読み込んで書いてきた作家にとっては凄い衝撃で、多少文章に難があっても、認めるしかないのだろう。
しかし、一番読みにくいのは「祭の場」で、どんどん読みやすくなってくる。それは、巧くなっているということでもあるのだが、巧さが勝つと、生々しさが薄くなりがちで、そこが文章の難しさなのかもしれない。
確かに、日本は加害者でもあったことを考えれば、被爆者の人生をたどり、思いを描く作品群は一面的かもしれないし、いかにも無辜の民であったという書き方もどうだろうかとは思う。(当時14歳だった作者にはもちろん何の罪もないが。)
しかし、戦後、復興第一で邁進した日本が忘れたかっただろう被爆者の真の姿を公にした功績は大きい。
個人的には、少女の微妙な友情を描いた「二人の墓標」、上海の日本人遊女との交流を描いた「黄砂」も良かった。
被爆者だって、一人一人違う、思いはそれぞれなのだという当たり前のことを、体験していない人間は忘れがち。
8月には読むべき作品だと思う。
投稿元:
レビューを見る
題材の重さを「静」なる事実として結晶化させる過程の副産物。客観の欠如が,かえって文章にドライブ感を与えている。
投稿元:
レビューを見る
内容で読んだ本だ。文章が微妙とかそういうことではなく、書かれているものがすさまじい。
上海時代の話もよかった。
投稿元:
レビューを見る
すごい本だった。打ちのめされるとはこのこと。読まずに死ぬ事態にならなくてよかった。教えてくれた先生に心から感謝。
考えてみれば原民喜も読んだことがないのだが,絶対に読んだ方がいいな。
投稿元:
レビューを見る
原子爆弾が落とされた長崎の町を生き延びた筆者が、そのときに体験したことを淡々と書き記しています(「祭りの場」)。
怒りや絶望の感情を抑え、静かな文章でつづられるからこそ、原爆の悲惨さが伝わります。
体験者が語る「被害」の詳細な描写は思わず目をそむけたくなるほどの衝撃を受けます。
正直、細かな怪我の描写は凄惨で、ページを飛ばしてしまう部分もありました。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」とも言われるように、この作品からは原爆を落としたアメリカへの憎しみや戦争への怒りよりも、その犠牲を悼む要素が強いようにも感じます。
戦後80年を迎えようとしている現代の私たちが、忘れてはいけない記憶がここに残されています。