世界史に興味ある人は必読
2012/01/30 11:01
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mikowan - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本の世界史研究の歴史を知る上でも、大変勉強になる本である。イスラーム研究者である著者が、現在のイスラーム認識についての問題点を指摘するとともに、今後の歴史研究のあるべき姿を述べた問題提起の一冊である。
「地球社会の世界史」を
2019/02/07 01:29
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投稿者:midnight-sun - この投稿者のレビュー一覧を見る
2011年発行なので刊行から7年を経ているが、国境を隔てて感情的な対立が垣間見える今だからこそ手に取って読んで欲しい本である。著者の主張する「地球社会の世界史」観を身に着け、「地球市民」としての帰属意識を得ることが、平和な社会実現に結びつく端緒となることを願うばかりである。
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投稿者:なつめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
新しい世界の見方が示されていて、面白く読むことができました。欧米中心の限界がよくわかり、興味深かったです。
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投稿者:ta - この投稿者のレビュー一覧を見る
授業に学ぶ世界史よりも面白いです。特に世界史に興味がある人には、すごくおすすめの本だなと、思いました。
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「今の世界史は、時代遅れだから、早く新しい世界史を考えなければダメだ」って話。
第1章で語られる、日本の世界史教育が、これまで変遷してきたか?って話は面白かった。
第2章のフランスと中国の歴史教科書の目次も面白い。中国で他国の歴史教育がされてるとはww
それ以降は、ヨーロッパ中心史観を主な批判対象として、世界史のあるべき姿が検討される。
「地球主義」のイデオロギーで新たに世界史を叙述すべし、って主張自体は壮大で面白そうなのだが、本書で提示されるのは「時代毎の比較制度分析しましょう」っていう方法論だけ。
個人的には、ヨーロッパ中心史観に変わるような大きな物語が描けない限り、「新しい世界史」が、一般ピープルの歴史認識を変えるには至らないんじゃないかと思った。
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グローバル化がすすみ,ますます一体となる現代世界において,「地球市民」による「新しい世界史」のあり方を提起した書。
これまでの学校教育の世界史は,時系列による各国の歴史であり,またヨーロッパが中心であることに,さしたる疑問も持たずに慣れ親しんできた。
しかし著者はこれらを取っ払い,「人間集団間の総合的な比較によってある時代の世界の見取り図を描く」ことが必要であるとした。つまり世界史を時系列で捉えるのではなく,現代世界との対比を重視し,横との関連性を重視していくというのだ。この手法には,正直なところ難解に感じた。だが著者も述べているが,具体的な議論はこれからであろう。刺激と可能性に満ちた内容であり,世界史を教える教員は一読すべきだと思う。
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世界は一つ。そのことを世界史を通して実現させよう。そんな著者の思いが伝わってきた。世界史に関して全く無知であるが、それぞれの国がそれぞれの立場の歴史観でもって歴史を語る現状打開に向けての意気込みが伝わり、世界史を改めて勉強したくなった。
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従来の「世界史」を、"中心史観"を脱し、「地球市民」の立場からよりニュートラルに描き直そうとする、「地球史」試論。
ここで扱っている「世界史」とは、主に学習指導要領に準拠した、高等学校程度で教えられている世界各地域とその結びつきを含む歴史総体を指す。
全体の流れとしては、「世界史」のたどった歴史を諸外国と比較しながら振り返りつつ、現行「世界史」の問題点を指摘し、その克服の試みを通じて、現在の世界に合わせた新たな「世界史」の構想へと導入する。
肝心の、筆者が主張する「新しい世界史」とは、グローバル化が進み「地球市民」としての自覚が必要とされる現代において、一国/一地域中心史観を脱するとともに、主権/国民国家の存在を暗黙の前提とする時系列の各国史・地域史を解体した上で、各時代ごとの人間集団を横軸で比較した歴史を構成し、しかもあくまで「現在」との比較対象として、「世界はひとつ」として描く、という構想である。
この本の印象について、最初に少々厳しい評を述べる必要があると思う。
半分以上読み進めても、「新しい世界史」をめぐる筆者の具体的な主張が伝わってこないのである。先行する「世界史」の批判と自身の「新しい世界史」の構想・説明に3分の2以上が割かれているのだが、構想が具体例によってしか明示できないものであると思われるため、なんとも上滑りのむず痒い話が延々と続く。
筆者自身も冒頭で自覚的に述べているように、この本は研究の「中間報告」的な側面もあり、多少内容が実験的なものであることはあらかじめ予測できる。しかし、それにしても、結局何が言いたいのかを知るためだけにただページを繰ったという感が否めない。
主張の内容についても、いまいち納得がいかない部分がある。
筆者の主張は、とにかく中心史観を脱することにあると受け取れるのだが、それは本当に可能なのだろうか。
「新しい世界史」の構想をわたしが解釈する限りでは、「世界史資料集」という類の書に収録されている「○○世紀の世界」という地図をたくさん用意し、その上に載っている人間集団を、政治・経済・文化的な観点から比較対照する、という作業になる。その際、ヨーロッパ・中国のようなどこか世界の中心を措定することなく、国・地域の枠を超えた個々人の活動にスポットをあてて描く、ということになる。
ところが、今のわたしの持つ知識や枠組みでそれをやったところで、「AとBはこのように違うが、このような共通点を持っている」という気づきを、ただ差し出される地図に対して延々と積み重ねるだけになる。しかも1枚1枚の地図を時系列で結びつけていくことはしない。ここでは「物語」が永遠に不在なのである。
「歴史」が本質的にどういうものなのか、筆者はもっと読者に考えさせるべきであろう。議論はそれからで遅くない。わたしたちの中に少なかれ存在する、「歴史とは物語」という認識が、ここでの違和感の根源なのだ。
この点で筆者は、「国民国家」と「国民」創出のための歴史の批判を通し、この認識を否定しているように思われる。しかし、中心史観を脱した「物語性のない歴史」は果たして「歴���」と言えるのだろうか。これはそもそも「歴史」という概念をひっくり返すことになる、大事な問題であろう。ところが、この部分を筆者は大きく取り上げることはない。
もうひとつ違和感があるのは、「世界はひとつ」という思想を、現代の既定路線と受け取って良いのだろうか、ということだ。
筆者が「世界史」の問題点としてあげるように、「○○世界」「○○地域」と最初から区分して教えることで、各国・各地域は「もとから違うもの」という印象をわたしたちに埋め込む感は否定できない。
とはいえ、それらが実は「ひとつ」なのだ、と教えることも必ずや良いことではない。実際、わたしたちがみな「地球市民」だと仮定したところで、一歩外に出てみればわたしたちがそれぞれ「違う」ことは容易に発見できることであり、「ひとつ」≒「同じ」なのだと考えることは、むしろ怖くないだろうか。
『過去の世界の見取り図は、現代と比較するために作成される。過去の世界を眺め、その様相を知ることによって、私たちは現代世界の特徴をより正確に理解することができるからである』(P.180)
「世界中の人々は、みんな一緒に地球世界を創り上げてきた『地球市民』なのだ」と主張したところで、現実に存在するであろう支配-被支配の関係や格差は決して消えない。
筆者が上記のように言うとおりならば、「地球市民」≒「ひとつ」≒「同じ」という解釈を前面に押し出すことは、かえってわたしたちの目の前に存在する種々の酷い現実を覆い隠させることになりかねないのではないか。
筆者の時代理解と、その理念は真っ当だ。しかし、その分だけ、時代にどう対応していけば良いのか右往左往する「歴史学」という分野の直面する苦悩が透けて見える。
この試みはまだ発展途上であり、本当に「試論」の段階であることは重々承知である。とりあえず、5年後でも10年後でも、筆者のプロジェクトが苦難を乗り越えつつも実を結ぶことを祈る。そして、そのときわたしたちの目に飛び込む「新しい世界史」像が、ガチガチに凝り固まったわたしたちの世界を見る目を刷新してくれることを、大いに期待したいと思う。
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概略はわかった。しかし見切り発車的なものを感じる。問いたいことはたくさんあった。
求めるものが「世界史」である必要性はあるのだろうか。
地球市民として何が必要かと問え、我々「人間」を知ることであり、その歴史を知ることなのだろう。
著者はあくまで「現在の世界史の在り方」を問うているのであり、「新しい世界史の見方」を模索しているのである。
従って「新しい世界史の必要性」を問うているのではないのだろう。
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全体の方向性としては、納得いくものではある。しかし、逆に言えば、さほど目新しい視点でもない。マクロな視点の歴史のあり方としては理解できるが、ミクロやミドルな視点での歴史はどのように位置づけられるかの疑念を覚える。そして、「世界はひとつ」・「地球市民」という表現には違和感を覚える。どのような意図での言葉の選択なのかは分からないが(本書にはその意図は書かれているが、どこまでの含意があるかは私には分からなかった)、やはり短絡的な印象を受けざるを得ない。むしろバラバラの「世界」のなかでどうやって「他者」を理解していくのか、あるいはその理解の不可能性を認識したうえで、つながっていく必要があるように思う。その答えと本書の内容は微妙にすれ違っているように思う。
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算数はどこの国でも同じだが、歴史は国によって教える内容が相当に異なっている。
中国の世界史のクラスでは、中国の歴史はやらない。世界史と中国のつながりがない。
今の世界史は、バラバラ個別の地域史の集積。
個人の研究は同じ学会に所属する他の研究者に評価され、彼らに学問上の影響を与えればよいとしばしば考えられている。しかし、今や学会そのものがはあしてどのように社会に貢献しているのかということが問われている時代である。
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「イスラム」とか「ヨーロッパ」とか適当に使ったらあかんなぁと思った!
羽田さんの掲げる新しい世界史観は未完成のものではあるけど
ぜひとも授業に取り入れさせていただきたい。
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従来の、ヨーロッパ中心の世界史からの脱却を、という内容。
面白かったのは、地球市民としては国史など必要ないのだが、一方で偏狭なナショナリズムを生みだすためではなく、複合的な帰属意識のうちのひとつとしての「日本」を意識させるための日本史はあってよいと言っているところ。
それからオランダの東インド会社の行動が、長崎とインドネシアでの評価が正反対であったこと。見る角度と立場によって、評価が異なるのが歴史。
以前、、日本、中国、韓国が東アジアで共通した歴史をつくるという試みを知ったとき、そんなの無理だし痛い目をみる、と正直思ったのだけど、この本を読むと「グローバル・ヒストリー」として価値があるものなのかもなと思う。もちろん、三方がきちんとした「新しい世界史観」をもっていないと成り立たないけど。
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現在の「世界史」を自他の相違を所与の条件とする自国中心史観、ヨーロッパ中心史観とみなし、それに代わり、「地球市民」「地球主義」に立脚し「世界はひとつ」と実感できる「新しい世界史」像を提起する。歴史叙述からのあらゆる中心性の排除(被支配者やマイノリティ中心の見方も危険視される)、時系列による通史の放棄など、従来の歴史学の常識を否定する大胆で野心的な試みである。
問題は「世界はひとつ」という考え方、「地球市民」という帰属意識自体がある種の権力、イデオロギーとして機能する可能性に無自覚なことである。本書がヨーロッパ中心史観の例として攻撃する「世界システム」論が、「周縁」の立場からの新自由主義への批評性をもつのに対して、世界をフラットな存在として認識しようとする本書の考え方ではそうした批評性はなく、むしろグローバル化の諸矛盾を覆い隠し現状を追認する効果を与えている。英語での発信にこだわるのもその一例であろう。
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東京大学学術俯瞰講義2009を聴講して、羽田氏のことが
気になり、手に取った一冊。
日本史、特に幕末〜明治成立期への興味が強かったため、
世界史は全く勉強してません。
ただ、ふとしたことがきっかけで、現在の日本と世界の関係に
興味を持ち、本を手に取ったりしてみるものの、サッパリ
分からず(理解できず)、数年悩み続けていたとき。
偶然、iTunesで羽田氏の講義を聴講し、「世界史」
「世界史を理解する」ことに対する考え方が変わった気が
します。
まず、羽田氏が指摘する「ヨーロッパ中心視観」。
「日本人」として「日本史を学ぶ」ことによる「日本人への
意識の帰属」といおうか。
「欧米」が創っている(創り出した?)歴史が、潜在的に
意識の中に刷り込まれているのではないか、と感じた。
まだ、全てを読み終えているわけではないけれど、講義を聴講
して、氏の著書を読む過程での感想は、こんな感じです。