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起源はいつの間にか忘れ去られて、ただ形式だけが残ってしまうから怖いよねーということを何度も何度も繰り返し例を挙げて説明して下さっているご本。
という失礼すぎる説明しかつけられないほど、難しい! というか…正直分かりにく…い…
例そのものはとても面白いです。
脚注が多すぎて混乱しちゃうのは私の頭の悪さが問題です。
近代やるなら必読書って言われてる意味がよくわかる本です。
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東浩紀が『思想地図β』にて、文学は村上春樹などによって更新されたが、批評は柄谷行人『日本近代文学の起源』で更新が止まっている、と書いていた。随分と刺激的な暴言だ。柄谷行人にはその後『トランスクリティーク―カントとマルクス』、『世界史の構造』などの著書があるが、マルクス主義化した後の政治的思想家柄谷行人の仕事は、ばっさりと切り捨てられていることになる。政治を語ることに意味を見出していないオタク思想家東浩紀なりのはったりだが、僕も東の意見に賛成で、『日本近代文学の起源』の頃の柄谷の方が、政治化した後の柄谷より好ましい。というわけで『定本 日本近代文学の起源』。
日本近代文学は、ヨーロッパの近代文学の歴史を模倣して、発展していった。しかし、夏目漱石は、日本の近代文学が、ヨーロッパの近代文学と同じように発展していく必然はないとする。漱石は当時のリアリズムの作家よりも、フィールディングなど近代イギリス文学が明確に起立する前の作家を好んだという。
例えば、ロシア文学における近代主義は、ツルゲーネフの文体である。二葉亭四迷は、現代口語体の発見者として、日本近代文学史にその名を刻まれているが、柄谷によれば、二葉亭四迷は、ツルゲーネフの翻訳者として、同時代の作家に影響を与えたという。二葉亭が翻訳したツルゲーネフの近代的な文体から影響を受けて、同時代の作家は日本近代文学を構築していった。
ロシアに近代文学をもたらしたのはツルゲーネフだが、ロシア文学にはゴーゴリ的な文体の伝統もある。ほら話、ロシア特有の悲しみ、寓話、こうした近代文学におさまりきらないゴーゴリ的な文学の素養を、ドストエフスキーは継承したという。
近代文学に特徴的な記述方法とは、ルネッサンス近代絵画に見られる遠近法と関係する。遠近法の見方で世界を観察すると、風景が生まれる。遠近法があったからこそ、近代文学に風景が描写される。さらに遠近法で風景が描写されると、個人の内面も発見される。客観的に世界を観察するまなざしは、自分自身の心をも遠くから、冷静に観察し始める。遠近法があったからこそ、個人の内面が発見されたという逆説。
近代文学は風景を描写し、個人の内面を描写してきたわけだが、柄谷が『日本近代文学の起源』を書いていた当時からして、近代文学の語法は破綻し始めていた。現代はさらに破綻が加速している。ケータイ小説では、風景が描写されない。ネットでは個人の内面を赤裸々に吐露することは、ポエム始まった、メンヘラーだとして嘲笑の対象になる。何故ネット社会では、風景も内面も不要になったのか。風景の文章化を待つまでもなく、写真画像や動画ファイルでより濃密に風景を体験できる。内面描写は何故嫌われるのか。ネットは、一つの社会である。たくさんの情報が集積する。読者に役立つ肯定的情報こそ、ネットでは評価される。ネガティブな情報は、そういう意見もあるだろうねと見られがちだ。
ネットの普及で、価値観が多様化した。一つの事実を前にして、肯定的に評価する人もいれば、否定的に評価する人もいるということが、明白になった。小難しい小説や評論なんて、��は大勢の読者が望んでいないこともまたはっきりした。評価が集積している情報が、ネットでは評価される。日本近代文学は、ネットの時代に足場を失う。しかし、新しい形の文学はどんどんネットで生まれている。『うみねこのなく頃に』など、今までのものさしでは評価できない新しい文学たち。東浩紀による『ゲーム的リアリズムの誕生』などの仕事は、『日本近代文学の起源』を更新しただろうか。
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渡部直巳先生の文芸批評論の教科書として読みました。風景の発見、子供の発見、病気の発見、構造についてなどこれを読むと近代文学小説の見方が変わります。
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現代からするとあたかも自然と存在していたかのような近代文学の事象に、豊富な引用とともに考察がなされている。文学の存在に何かしらの疑問を持っているなら読みごたえがあるだろう。
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柄谷行人、最近ではあまり名前を聞かなくなったが、実は今もよく本を書いています。
この本は柄谷の初期の本で柄谷という人物がどういう人なのかを知るにはうってつけです。
しかし歳とったな、、、。
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タイトル通り、文学におけるあらゆる概念の起源を問う一冊。
引用が多く内容も難しいため半分も理解できた気がしないが、自明と思われているものの転倒を疑い、そこから正しい起源を求める鋭い手法の鮮やかさはこんな自分でも感じ取ることができた。
何度も再読する必要がありそう。
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文体というものにさほど注目してこなかった自分にとって、たとえば言文一致のような仕組みが私たちの文化に影響を与えてきたという指摘には軽い衝撃を受けた。「言葉の書き方など本質には関係ない」というようなナイーヴな主張はもともともっていなかったし、むしろ文体が内容を決定づけるところがあるという程度のことは思っていたが、それでも、である。
著者があとがきで示しているように、この本は決して文学史の本ではない。文学という素材を使いながら、その時代の思想の特異性を明らかにしようとしているのが本書である。ここで文学が用いられているのは、文章の変化がもっとも速く、バラエティに富むという性質に由来しているに過ぎないのだろう。
また、あとがきを読んで、僕もあずまんよろしく「批評家」になってみたいなと喚起させられるところがあった。今はこの本が書かれた当初に比べ、ポストモダン的思想もだいぶ落ち着いて(というか浸透して)いるだろうけれども、それでもこの本の持つ魅力はまだまだ衰えてはいないように思う。
それにしても翻訳が英語、ドイツ語、中国語、韓国語であるのはすごいな。こういう本を書けるようになりたひ。
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メモ)途中
第4章 病という意味
144 徳富蘆花『不如帰』 ヒロイン 結核で死んでいく浪子
147 実際に社会に蔓延する結核の悲惨さから離れ、ここでは結核はそれを転倒させる「意味」としてある
病がこのような価値転倒をはらむ「意味」として存在したことは日本にはなかった それはユダヤ・キリスト教的な文脈においてのみある
・モード、飾りとしての結核 『不如帰』がまきちらしたもの
cf.結核を病んだ堀辰雄 軽井沢のモード化
結核は「文学」によって神話化された
結核という服装を通して主張されたのは、「自我に対する新しい態度」(ソンタグ)
ロマン派的な結核のイメージ-西洋的転倒の凝縮
・『不如帰』にあらわれた結核の意味付けの倒錯性
↑
↓
正岡子規『病牀六尺』(“意味”としての結核とは無縁)
・明治20年代における知の制度の確立が隠蔽するものは相互に連関しあっている
例えば、結核の文学的美化は、結核に関する知(科学)に反するものであるどころか、まさにそれとともに生じた
不如帰の中では結核が結核菌による伝染病であることが既に前提されている
・科学史においてある説を真理たらしめるのはプロパガンダ(ファイヤアーベント「反方法」)
・病原菌:病気の特異的原因論 ←→ 患者の環境全体を重視した古代医学
病原菌の発見によってさまざまな伝染病が治療されるようになったかのような幻想 →しかし、西洋の中性・近世の伝染病は、「病原体」の発見時には事実上消滅していた(都市改造の結果)
p153
結核菌は結核の「原因」ではない (ほとんどすべての人間が結核菌その他の感染を受ける)
16cから19cにかけて結核が蔓延したことは結核菌の「せい」ではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない
・ひとつの原因を確定しようとする思想こそが神学的・形而上学的
「人間と微生物の闘争」というイメージは神学的なもの
そこでは細菌は眼に見えないが偏在している「悪」
明治20年代に結核についての学説が普及したとき、それがはらむ神学的なイデオロギーもまた普及した
不如帰にはこの学説のイデオロギー的側面が浸透している(あたかも原罪のような結核)
この小説は巧妙なプロパガンダであって、強い感染力をもっていた
p156
・病気そのものと隠喩としての病は区別できない
病気はそれが分類され区別される限りで客観的に存在する
病気は諸個人にあらわれるのとは別に、ある分類表・記号論的な体型によって存在する
それは個々の病人の意識を離れた社会的な制度である
・個々人の病識から自立し、また医者-患者の関係からも自立し、さらに意味付けからも自立するような「客観的」な病気は、近代医学の知の体系によってつくりだされたもの
・問題は病気がメタフォアとして用いられることではなく、逆に病気を純粋に病気として対象化する近代医学の知的制度にある
科学的な医学は病気にまつわるもろもろの「意味」をとりのぞいたが、それ自体もっと���の悪い「意味」に支配されている(神学的病気観)
157-158
・「病と戦う」とは病気があたかも作用する主体としてみなすことであり、科学もそのような「言語の誘惑」に引きずられている
ニーチェにとって、そのように病原=主体を物象化してしまうことが病的
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言うまでもなく、現代の古典的名著。本書は日本近代文学の起源、を述べているのだけれども、何よりも「物事を根本的に考えるとはどういうことなのか」を学ぶことができるのが最大の長所だとおもいます。思考の結果は、学問という分野の性質上いつか乗り越えられるものかもしれない。間違っているところも見つかるかもしれない。しかしそんなことは決して本書の価値を下げないだろう、とおもいます。そしてそれこそ古典の名に値する証だと。考えるとはなにか。日本が生んだ最高の思想家のひとりが実践を通して教えてくれる。
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なんとなく20年くらいぶりじゃねえの。という感じで再読。
近代文学史を相対化するねらいがあったのに、近代文学史として読まれてしまった不幸がこの本にはあったと言われているけど、改めて読み返すと、近代文学に関する記述はかなり手薄で、ディコンストラクション以降の「現代思想」の概説的な記述にかなり割かれているという印象を持った。その意味では、時代の産物ではある。
「遠近法」というキータームは、柄谷先生の影響で人文系でかなり流行ったわけですが、これってかなりロジックをすっ飛ばした比喩なんじゃねえかな、という気もした。
とはいえ、ここ3、40年の人文科学の流れの中で、この本の果たした役割の大きさは間違いないでしょう。
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[ 内容 ]
明治二十年代文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置それ自体を再吟味した論考を全面改稿した決定版。
文学が成立して思考の枠組みになる過程を精神史として描き、「起源」を考察しつつ「終焉」の地平までを視野に収めた古典的名著。
[ 目次 ]
第1章 風景の発見
第2章 内面の発見
第3章 告白という制度
第4章 病という意味
第5章 児童の発見
第6章 構成力について―二つの論争
第7章 ジャンルの消滅
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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これはとんでもなく素晴らしい構成の本ですね。最初にどどーーーんと「風景の発見」から「内面の発見」をブチ上げて、元来あった日本の文芸批評の読みを批判し、そこから告白・病・児童などの各論で、最初にブチ上げたことを精査しながら補足し、説の正しさを裏付けていく。あまりにクリアだな〜としみじみとした。そして、児童の発見の章がとても面白かった。ここに述べられている成熟について私は考えたいのだなあ。
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しっとりとして、選び抜かれた的確な言葉で主張を論証していく論文として、その美しさ、端整さに恐れおののく。
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文学的に相当訓練を積まないと、本書を了解していくことは困難だ。しかし、その大意を掴むことができれば、本書が扱う問題に関して、現代にも通じている事情が分かるはずである。キーワードの一つが風景の発見であるが、それは今まで人々が見てこなかった風景を発見するということである。ただ、そうした新たな風景を発見するには、同じく新たな方法を会得する必要がある。明治期は、ヨーロッパ文学の新しい潮流に触れたことで、日本文学の新しい動きが起こり、日本人は風景を発見したと本書は論じる。結びに、そんな近代文学も活力を失ってしまったという。近代文学の革新性は俳諧文学の再構成からも来ており、正岡子規の写生文にせよ、夏目漱石にせよ、俳諧のカーニバル気分を受け継ぐものであるという。つまり、江戸時代に多数人が集まり、句に句を付け足していく連歌を楽しみ、人々に開いて祭りのようだった、その気分がカーニバル気分である。翻って、私が行う、和歌の再構成や日記文学の再興、批評の立ち上げなど、それがカーニバルになるか、私も分からない。とはいえ、本書の視点は重要であった。
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柄谷先生って影響力があったのね。学者世界ではあんまり名前が出てこないけど、みんな読んでいて、先生の名前なしによっかかっていたわけなんかな。