投稿元:
レビューを見る
<目次>
第1章 「漫才か、漫才じゃないか」への回答~漫才論
第2章 「競技化」で漫才はどう変わったか?~M-1論
第3章 「お笑いの得点化」という無理難題に挑む~採点論
第4章 路上から王者へ、挫折からの下剋上~コンビ論
<内容>
自分でも「漫才オタク」と呼ぶ”NON STYLE”のボケ、石田明の漫才論。彼ほど「漫才」を愛している者もいないのではないか?ヒョロヒョロの体で相方井上にどんどんぼけていく。時にネタのストーリーを越えて、自分の感情を入れていく。最初はこれも斬新だった。ベテランの漫才師は構成作家の作を演じていくのだが、現在の漫才師は、どちらかが書いていることが多い。その典型である。その彼が、昨今の状況を縦横無尽に語り尽くしている。面白くないわけがない!
投稿元:
レビューを見る
東京の電車内で偶然隣合わせになりました。その際もノートを開いて何やらお仕事をされていた様子。好きを仕事に出来ることはやはり素晴らしい!愛に溢れた一冊。
投稿元:
レビューを見る
のっけから、ボケは加害者、それに振り回されるツッコミは被害者、という表現にヒいてしまった。過去に口頭で聞いたときにはそんなに引っ掛からなかったので、こちらの心境の変化だと思う。
ナイツ塙さんのボケ・ツッコミ論を連想しながら読み始めたので、「ボケているひと」を「加害者」と呼ぶことに強烈な抵抗が湧いた、そういう認識なの? と。
観客だって、べつに、ボケ役のムチャクチャなボケを目の当たりにして、被害者意識を持って「なんでやねん!」というツッコミ(被害者による叫び)を期待しているわけではないはず、と……思う。(たとえば、差別的なことを言うボケに「なに言うとんねん」と言うツッコミに笑うのは……倫理道徳常識の確認・安心の共有? 緊張と緩和、なぜ緩和されるかというと……)
ただ、読み進めていくうちに……なんというか……
NON STYLEの漫才の実践は、石田さんの言うようにはなっていない。ボケ役の石田さんは、ツッコミ役の井上さんを飽きさせないように、楽しんでもらえるように、振り向いてもらえるように、笑わせるために、必死。同時にお客さんにも楽しんでもらえるように、工夫をこらしていて。
自分の役割は加害者、と認識しているひとの語り口ではなくて、それについては安心できた。テレビタレントになりたい井上さんに、漫才をやりたいという想いをぶつけることを、加害……迷惑をかけることだと考えているのかな、と捉えると、危うさを感じるけれども。
井上さんへのラブレターのような内容だった。「NON STYLEは俺の片想いやから」と、どこかで語ってらっしゃったように思うけれども、いまだに、こんな感じなの!?とビックリした。
「解散危機と再構築」の章、離婚危機の夫婦が関係の再構築を目指す道程と重なった。
井上さんの謹慎〜復帰までのテレビでの石田さんの奮闘ぶりを覚えているので、感慨深く読んだ。復帰ライブのYouTube動画、石田さんの完璧なプレゼンに感心した覚えがある……不祥事を起こした相方へのフォローとして、完璧な立ち回りに見えた。ものすごい愛だ。
父親に認められたい人生だった、父親が野球好きだったから野球部に入って、父親が板前だったから板前になって、しかし、舞台に出て、これが自分のやりたいことだと気付いた、というハナシ、泣けた。
"病んでいた時期"については、あちこちで語ってらっしゃることではあるけれど、「鬱病」と診断名が明記されていて、隠さず言える時代になったんだな、と思った。
医師に言われて安心したこと、ブラマヨ吉田さんに言われて安心したこと、吉田さんほどのひとでも手が震えるようなことがあるんだと知れて安心した、と、回復の過程が記載されている点も良かったと思う。
また、テレビに出ても、上の世代のひとたちが若手をイジる構図が待っているだけ、かまいたち、見取り図、ニューヨークあたりが中心となる番組が増えてほしい、という内容は、松本人志の復帰報道直後に読むと沁みた。
M-1出場者へのの個別の評価については、個人的には、そんなに。
最近のコンプライア���スについてと、放送可否を判断するのはあくまでテレビ局側、という指摘と、テレビ局側から事前に提出を求められるため、台本は書けたほうがいい、というあたりは、イマの記録として新鮮。今後どうなるでしょうね。
投稿元:
レビューを見る
おもろいやつには意見がある。世の中の全てに疑問を投げかけ、常に自分なりの持論を持つことで状況が一変した話が印象的。
投稿元:
レビューを見る
漫才やコントを分析する本が好きで塙さんとう大さんの本も熟読しました。今回の石田さんの本も大変読みやすく、漫才という素人目にすると「面白いor面白くない」の2択になってしまうジャンルを見事にそうなる理由を分かりやすく言語化してます。
投稿元:
レビューを見る
僕が初めて漫才に出会ったのは、姉に連れて行かれた心斎橋筋2丁目劇場でした。
「漫才ってこんなにおもろいんや」「こんなにおもろい人たちがいるんや」と衝撃を受け、一気に「漫才」と「漫才師」の虜になったんです。
それから、できる限り劇場に通い詰めるようになります。もともとオタク気質だった僕は、ネタを見ながらメモを取って、それを家に帰ってから清書して、ちょっとしたネタ台本を作って楽しんでいました。
その台本を見ながら「この人たちはどうしておもろいんやろ」と自分なりに理由を考え、また劇場に観に行って本当にそうなのかなと答え合わせをする。自分のことながら「昔も今も変わってへんやんけ!」と突っ込みたくなります。
漫才師になってからは同期や先輩の漫才を見て、つまらない自分をどうすれば人を笑わせることができるのかを徹底的に考え抜きました。「なぜウケるのか」「なぜウケないのか」と考えては、劇場で試してみて、お客さんの反応を見る・考えては確認、考えては確認、という繰り返しでした。
漫才の基本は「偶然の立ち話」です。
ある2人がたまたまあってしゃべり始める。片方が変なことを言って、もう片方が突っ込む。それがどんどん繰り返される。
もっというと、変なことを言うヤツ=ボケという「加害者」と、そのボケに振り回されつつ「なんでやねん」と問いただす常識人=ツッコミという「被害者」の2人がサンパチマイクの前で繰り広げる「おかしな立ち話」――ということです。
そして「偶然の立ち話」なので、ボケがどんな変なことを言うのかをツッコミ側が「知らない体」でなくてはいけません。
もちろん漫才は作り物です。台本を作って、何度もネタ合わせをして、調整を加えつつ練り上げたものをもって舞台に立つ。それは見るほうもわかっている。かつては「ネタ合わせ」があること自体、お客さんは意識していなかったかもしれませんが、今は完全にみんな理解しています。
それでも、「偶然の立ち話」という設定のもとで、どれだけ「打ち合わせがない」ように見せられるかどうか。どちらかが変なことを言って、どちらかが突っ込む、ボケの加害者が仕掛けてツッコミの被害者が打ち返す、というのがずっと繰り返されるのが漫才の基本です。
「漫才」を語るうえでは、まずはそこから始めるべきやと僕は思ってるんです。
<中略>
お客さんにとっても、実は「偶然の立ち話」という設定に乗っかる、もっといえば騙されるというのは一番わかりやすいスタンスです。
お客さんのこのスタンスでいてくれていると、必然的に笑いも起こりやすくなるんです。なぜかというと、お客さんたちにとって、変なことを言うやつを常識的な立場から問いただすツッコミは、自分たちの「代弁者」だから。
お客さんが心の中で「なんでやねん!」と思ったタイミングで、ツッコミが「なんでやねん!」と叫ぶ。お客さんがツッコミと同じ立場になる。いうなれば会場中がボケの「被害者友の会」みたいになると、演じる側と見る側とに一体感が生まれます。
こういう反応を起こせば起こすほど笑いが起こるというのが、漫才の��本メカニズムです。
だからこそ漫才は、長きにわたり愛されてきたんやと思います。ツッコミが代弁してくれるから、お客さんは何も考えずそこに乗っかればいい。漫才が大衆芸能であり続けたのは「人を選ばず笑わせることができるもの」だからやと思います。
そもそも、漫才の「嘘」とは何か。簡単に言い換えると、設定やボケに無理があるということです。
「そんなはずないやろ」という設定や状況のボケをツッコミが受け入れてしまうと、ツッコミがボケを信じすぎているように見える。それが嘘っぽい予定調和につながって、お客さんとの心理的距離感が生まれてしまうんです。
たとえば、さや香の「大学」というネタでは、石井くんの「だから実は俺、今年の春から大学行ってんねん」という振りから始まりますが、対する村山くんが、この振り(設定)を飲み込み過ぎているところが「嘘」なんですよね。
もちろん漫才は作り物やから、ぜんぶ噓と言えば嘘です。
問題は、それをいかに自然に聞こえさせるか、ボケの大ぶりな嘘に対して、ツッコミが信じすぎているような返し方をすると、ツッコミがボケに協力している感じが強すぎて、一定数のお客さんは引いてしまう可能性があるんです。
自然な笑いを起こすには、お客さんに「嘘の設定を背負わせる度合い」は少ないほうがいい。そこで分かれ目となるのが、ボケの嘘をツッコミがどれくらい受け入れるかという調整です。
あり得なさそうな嘘の設定には小さく疑問を挟みつつも、基本的にはその設定を共有したうえで話を進める。この意味では、さや香も真空ジェシカなどと同じく実は隠れた共闘型と言えるかもしれません。
これも1つの漫才の進化系なので、「嘘を入れるな」と否定するつもりはありません。ただ、お客さんが漫才の嘘についていけないこともあるというのは分かっておいたほうがいいと思います。
ありえなさそうな設定のネタは、ボケが提示する設定に協力しすぎないギリギリの線を狙いつつも、しっかりツッコミを入れていくことで、ようやく漫才として成立します。実は、かなり高度な技術が必要とされてくるんです。
さや香はそこが上手いと思います。新山くんのリアクターとしての能力が光っています。
2023年のM-1決勝、1本目の「ホームステイ」はブラジルから留学生がホームステイしに来ることになっているが、緊張するので直前に引っ越そうと思っている」という設定でした。さや香のネタの中でもかなりフィクション寄りな設定ですが、新山くんがどんどんツッコミを入れて加熱していくので、お客さんに嘘っぽさを感じさせません。
ときにはニッチなお笑い――たとえば僕の大好きな『ジョジョの奇妙な冒険』の名ゼリフをボケに入れるとか、やってみたいと思うこともありますけど、「ジョジョ」好きの人にしかウケないと分かっているのでやりません。
そういうことをすると、僕らのネタを見てくれる人たちの中に「ジョジョ」好きの輪ができます。「NON STYLEって、『ジョジョ』のマニアックなネタをやるよね。あれ好きなんだよね」と。
でも、これは「私たち『ジョジョ』好きだけが知っていることをやってくれる」とうマニア的な優越感でもあるでしょう。そんな��うにお客さんを選ぶようなことはしたくない。やっぱり僕らとして狙うべきは「ベタ」やと思うんです。
ベタっていうのは、見た人全員が共感できるもの。知識や文化レベルにほぼ関係なく、誰もが理解できる普遍的なものです。
ただ、ベタなことをベタな設定でやったらベタベタになって、「どこかで見たことがある」ようなネタになってしまいます。
勝負どころは「ベタなこと」を、いかに「斬新な器」に入れて新しく見せるか。今のお笑いシーンは、このフェーズに入っているように見えます。
たとえばヨネダ2000のネタは、めっちゃ斬新で奇抜に見えます。たしかに斬新で奇抜なところもあるんやけど、実は要所要所でちゃんとベタも入れている。僕から見て、さじ加減が程よいコンビの1つです。
「ベタが最強」とはいいつつも、ベタなボケとツッコミを続けているだけでは、「爆発力」に欠けてしまいます。漫才の展開で重要なのは、笑いのボルテージを徐々に上げていくことです。
誰もが瞬時に理解できるレベル1のボケから始めて、レベル2、3、4と上げていく。僕はこれをよく「クイズ番組理論」と表現します。
クイズ番組って、「自分でも答えられそうな問題」が出ると面白いですよね。
全然わからない問題ばかりでは面白くない。かといって簡単すぎても、わかったときの満足度が低くて面白くない。「あ、この人が正解出したけど、私にもわかってた!」みたいな問題が出ていると面白いわけです。
漫才も同じです。特にネタの最初の方のボケは、「何してんねん!」とか「なんでやねん!」とか「そんなわけあるかい!」とか、お客さんでもツッコミを思いつくくらいのものだと食いつきがいい。
それをいくつか続けておいてから、ふと変な間を作ったり、少しわかりづらいボケを差し込んだりする。それまで自分でも突っ込んでいたお客さんが、一瞬、迷子になって「ん?」となったところで、少しレベルの高いツッコミを鮮やかに決める。
すると、迷子状態が瞬時に解消されてドカンとウケる、という具合です。
これが漫才のクイズ番組理論。しばらくわかりやすいボケとツッコミを続けたうえで、一瞬「ん?(わからない)」と緊張させてから「ああ(納得)」と緩和させるという意味では、「緊張と緩和」の展開と呼んでもいいかもしれません。
笑い飯はこれも天才的に上手い。「最終的な笑いの爆発」への持って行き方が芸術的やなと思います。
音楽に音階があるように、お笑いにも「ベタの段階」みたいなものがあります。
笑い飯は「ドレミファソラシド」と順番に音階を挙げていくような感じで、レベル1から始めて、レベル2、レベル3……レベル8と、ボケのレベルを順繰りに上げていっているように見える。
最初にレベル8のボケをやったら、多くのお客さんはキョトンとするだけでしょう。でも笑い飯の場合は、すでにお客さんがレベル1、レベル2と徐々に〝調教〟されているから、最後、レベル8に到達したときに、面白さが最高潮に達する。その瞬間、お客さんの間で一種の達成感が生まれてバコーンとウケるんです。
笑い飯の爆発力の秘密は、そこでしょう。
いくら下手が最強といっても、ずっとベタだと飽きられてしまいます。「飽きる」は「つまらない」と同義ですから、ベタを打ち続けるのは、得策ではありません。
ベタというものを熟知していて、ベタを利用しつつ、ちょうどいい加減で自分たちの尖った笑いを入れていく。これが絶妙に上手い漫才師がウケている。今はそういう流れになっていると思います。
当時の僕はなぜ、自分はこんなにもつまらないのかと思い悩んでいました。そして、ある1つの答えに行き着いたんです。
僕には「意見」がないんや――。
「意見」があるやつは、なんか尖ってる。なんか面白い。そう気づいて以来、目にするものすべてに「意見」を持とうと努めてきました。
「日本の水道水は飲めるのに、なんでペットボトルの水を買ってんねん。俺は絶対に買わへんぞ。誰かがくれたら飲むけどな」
「たまに見かける、親子丼に乗ってる卵の黄身、ほんまに必要か? 偉そうに真ん中に鎮座してるけど、その下の卵と鶏肉だけでもう完成してるやん。いらんやろ」
「短距離走のゴールの瞬間、なんで中継番組ではスローモーションにするんやろ? ゼロコンマ何秒を縮めるために、血を吐く思いでがんばってきた人たちやぞ。全力疾走でゴールを駆け抜けるところを、そのまま流したれや」
くだらないことと思われるかもしれませんが、こんなささいな日常の一場面でも、「俺はこれを、どう考えるんや」と自問自答してきたんです。実際、そうやって何事にも意見を持つようにしてくなかで、少しずつ漫才師としての力もついてきて、」気持ちも上向いてきたように思います。
もともと劇場で見たネタをノートに書き起こしていたオタク気質の僕ですが、今のように細かく分析し、言語化するようになった根っこには、何にでも「意見」を持ってやると決意した、あのときの自分がいる気がします。
今までもこれからも、僕は漫才に対しても、それ以外のことに対しても「意見」を持って生きていたいと思っています。
僕らの最初の飛躍のきっかけとなった、井上がかっこつけるのを僕がいじる「イキリ漫才」は、テンダラーの浜本(広晃)さんのひとことがきっかけで生まれました。
井上のかっこつけは元来のものです。イキリ漫才ができてから「イキるキャラ」を演じ始めたのではなく、巣でかっこつける。
中学・高校からずっとそうだったので、僕は、井上がかっこつけるたびにイラッとはしても、面白いと思ったことはありませんでした。僕にとって井上は身内なので、客観的に見ることができなくて、「一緒にいて恥ずかしいからやめてほしい」としか思えなかったんです。
そんな見方を変えるきっかけになったのが、あるとき浜本さんに「井上のああいうところ、めっちゃおもろいやん」と言われたことでした。
最初は「ほんまっすか? 全然わかんないです。むかつくだけなんですけど」なんて言っていたんですが、浜本さんは「いや、おもろいで」と言う。ご自身がMCを務める番組に僕らを呼んでくれたときなども、浜本さんは完全に井上にロックオンし、かっこつけをいじりまくって笑いを取っていました。
僕らの世代が劇場やテレビでお笑いを見ていた頃と違って、今はサブスク、見逃し配信、YouTubeなど、好きなときに好きなものを、好きなだけ見られる環境があります。それだけでなく、好きなスピードで見ることまでできてしまう。
これが芸人を志す若い子たちにとっていい環境なのかどうか、正直、わからなくなることがあります。
それだけ学ぶチャンスが多いと捉えれば、お笑いのコンテンツがたくさんあって、いつでも見られるのはいいことなのかもしれません。
その反面、お笑いコンテンツへのアクセスがよすぎて、自分でやってみるまえに情報過多になるのは考えものかもな、とも思います。表層的に手段を真似るだけで、「ナマの会話として見せる」という漫才の基本が置き去りにされかねないからです。
現に、僕が教えているNSCの生徒たちを見ても、そう思うことが少なくありません。先輩たちの漫才を表層的に真似してるだけで、もったいないと思う子たちもいるんです。
たとえば、「後半にいくほどツッコミのボルテージを上げて、盛り上がりをつくる」という手法があります。ただ、これを真似して、「ツッコミの声を大きくして、振る舞いも大袈裟にしていく」だけだと、お客さんはついてきません。実は、ここで一番大事なのは、「ツッコミのボルテージが上がっていくことに、見ている人たちが違和感を抱かないようにすること」なんです。
NON STYLEには、「井上がやりたいことを石田が邪魔する」というネタがあります。
ここで井上のツッコミのボルテージが上がっていくのは、「何度も何度もやりたいことを邪魔されたら、どんどんイライラしてくるのが人情として自然」だから。お客さんが井上のイラつきに違和感を抱かず、共有できるからこそ、僕のボケがうまくハマる。そこで笑いが起こるというメカニズムです。
漫才では「どんなボケ」「どんなツッコミ」「どういう盛り上げ方」ということ以前に、どれだけナマの人間同士のやり取りに見せるかを考えなくてはいけません。
ボケという違和感満載の変化球にツッコミを入れる、その流れに必然性を持たせることができなくては、いくら大きな声で突っ込んだり、ボディランゲージを激しくしても笑いは取れません。お客さんは「なんでこの人、こんなに怒ってるの?」と思うだけでしょう。
ボケ1つ、ツッコミ1つでブツ切りにして笑いを取っているのではなく、会話という流れのなかで笑いを取るのが漫才です。もちろん笑いが起こるのはボケとツッコミの箇所ですが、そこでウケるためには、本当は「ウケていないところ」の持って行き方こそ大事なんです。
情報が多すぎる環境だと、実は物事の吸収率は悪くなるのかもしれません。
先ほど、サブスクや見逃し配信、YouTubeなど、お笑いコンテンツへのアクセスがよすぎるのも考えものといったのはこういうことです。
今のNSC生は勉強熱心で、勘どころもいいので、入学直後であっても、一見上手くできていそうなネタをします。全体のレベルは僕らの若手時代より、確実に上がっているでしょう。でも、彼らはまだ本当の意味では、漫才師としてのスタートラインには立てていません。
同期との激しい競争に揉まれ、すぐ近くにある寄席でとんでもない波を起こしている先輩を目の当たりに……という数年を過ごす内に、「漫才の基本」をつかんでいく。そこが本当の出発点���んやと思います。
投稿元:
レビューを見る
M-1に合わせて読み切り。ただのお笑い解説本じゃない。真面目に真っ直ぐに漫才に向き合ってきた石田さんの人柄が感じられる文章だった。
考察好きの私には分かりやすく刺さった。
漫才とは何か、なぜ笑いが生まれるのか、M-1はどんな大会なのか…
具体的な芸人の名前やネタを交えながら「なぜ?」に答えてくれる。
特にコントと漫才の違い、漫才は「偶然の立ち話」であるっていうことがすごく納得できた。
審査の仕方まで細かく解説されていた。
2024年M-1決勝の審査員に石田さんが抜擢されたのも納得。当日の審査も、「なぜ?」と本を読み返しながら考察してしまいそう。笑
投稿元:
レビューを見る
毎年M-1グランプリの決勝を楽しみにしている。
芸人さんが本気でこの大会に懸けて、試行錯誤している雰囲気が好きだからだ。
そのM-1で、素人の自分には面白いけれど審査員の評価がそれほど高くないネタを毎年のように見ている気がする。
どうしてプロの審査員はそういう評価なのか。
どういう視点で漫才を見ているのか。
いつも気になっていたからこそ、この本を読んでいてすごく楽しかった。
プロの漫才の見方を知ることで、今まで見えなかったものがたくさん湧き出てくる感覚。
言葉や仕草、表情の一つ一つ、会場の雰囲気や空気、身体全体で色々な情報を感じながら一つのネタをやり切る芸人さんたちの面白さだけでなく、かっこよさを知った。
もっともっと漫才が好きになった。
投稿元:
レビューを見る
2008年のM-1王者にして現役漫才師である著者が書き記した漫才論・M-1論。漫才の歴史を古くから振り返るのではなく主に2015年以降の第二期M-1を中心に話してくれるので敷居は低い。その空白期間に開催されていたTHE MANZAIはお笑い史的には軽視される傾向もある中でM-1に与えた影響を考察しているのが独自性があって興味深かった。漫才コントとコント漫才を明確に区別しているのも、その理由を読むと著者のこだわりが垣間見えて面白い。ナイツ塙の『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』とセットで読みたい一冊。
投稿元:
レビューを見る
漫才の形式を例え話にしてくれる場面が多く、読みやすかった。石田さんが漫才に真摯に向き合ってるように、自分も今取り組んでいることに目標をもって、日々自分の意見を持ちながら取り組んでいこうと、前向きな気持ちになれる一冊でした。
投稿元:
レビューを見る
いつも何気なく見て笑っている漫才の奥深い部分を楽しく知ることができました。これからは漫才を少し違う視点からも楽しむことが出来そうです。
投稿元:
レビューを見る
M1前に駆け込みで。
共闘型という概念やコント漫才と漫才コントの違いを知ることができてとてもよかった。
コンビとして活動が続いていくのが奇跡的なことで、当たり前ではないんだなと感じさせられた井上さん謹慎前後のコンビのエピソードもとても印象的。
投稿元:
レビューを見る
お笑い好きだったら絶対おすすめな本!
めちゃくちゃおもしろかった〜
ノンスタ石田さん、抽象化・言語化・構造化がとっても上手い。石田さんが漫才をどう捉えているのかから始まり、あの有名コンビの漫才はなぜ面白いのかとか、今後どんな漫才がくるのかなど、漫才を2倍3倍とより深く味わうヒントがたっぷり詰まっている。
実際、この本を読んでから2023年のM-1敗者復活を見直したけど、シンプルな面白さに加えて、この人たちはこんなところがウケてるんだなとかもう一段味わうことができて最高だった。
あとは石田さん自身の漫才との歴史とか、ノンスタの歴史なんかも触れられているのが熱い。
ノンスタの単独には何回か行ったことがあったので、こんな想いで単独ツアーやってたんだなぁと今さら感慨深くなってしまう。
2人とも、めっちゃ楽しそうに漫才やってたしな〜。
ノンスタの漫才は小さな頃から大好きだったので、続けてくれて本当によかった。
とにもかくにも、今年もM-1が楽しみすぎる!!!
石田さんも、審査員がんばれ〜
投稿元:
レビューを見る
答え合わせ
著:石田明
僕が今考えている「漫才論」をまとめておくことは、今後の自分にとっても、教え子であるNSC生たちにとっても、また、お笑いを楽しんで観てくれている人たちにとっておも、意味のあることかもしれないと思うようになったんです。
この本は、僕の今現在の「答え合わせの書」です。漫才師やお笑い芸人のみならず、漫才と好きな人たち、お笑いに興味がある人たち、あとは劇場で大笑いしながら目を取っていた当時の石田少年に届けたい。そんな思いを込めて書きました。
構成は以下の5章から成る。
①「漫才か、漫才じゃないか」への回答
②「競技化」で漫才はどう変わったか
③「お笑いの得点化」という無理難題に挑む
④路上から王者へ、挫折からの下剋上
⑤漫才、芸人、お笑いの明日はどうなる?
M-1の優勝前の「おはよう朝日です」で腕をブンブン振り回していたロケの下積み時代、M-1優勝後の現在、「大阪ほんわかテレビ」での肩の力がすっかり抜けた、等身大に近いコンビの表現の在り方の今。
NON STYLEを語る上では、「M-1」は切っても切れないイベントでもあり、彼らの一部分でもある。本書の書名である「答え合わせ」は、私達外側から見ている人間にはわからない、「Mー1」を中心点として捉えた、著者自身のお笑いにおける「仮説と検証」をまとめてくれている。
誰かのレールを辿るではなく、自分たちが考え、自分たちだけではなく、お笑い界を考えた結果としての行動とその過程が赤裸々に綴られている。
言わなくても良いことまでも暴露している本書からも、お笑い界の危機と著者の覚悟が見え隠れしている。
2024年M-1の審査員として参加されるのも、吉本の関西の日本のお笑いを背負っていると捉えられる本年にあえて受けたのもかっこいい。
投稿元:
レビューを見る
2008年にM-1で優勝を果たしたNON STYLEの石田明さん。現在は漫才師として活躍しながら、NSC(吉本総合芸能学院)で講師を務め、若手芸人を育てているという。そんな石田さんが漫才について何を思うのか。そもそも漫才とは何かという話に始まり、漫才の採点方法に関する話やNON STYLEのこれまでの道のりについて触れながら、プロとしての漫才に対する考えを語っている。
漫才に関連する書物を読むのは初めてで、何気なく見ていた漫才の裏に様々な努力があることを知ることができた。石田さんの人柄もあってか、プロの漫才師としての信念を感じられて良かった。ただし、途中いくつかお笑いコンビ名を挙げて話が進んでいくため、ある程度漫才界に興味ある人でないとピンと来ない部分がある(特にM-1グランプリ2023の決勝は見ておいた方が話が分かりやすい)。筆者より編集者の問題かもしれないが、文章に出てきたコンビの顔写真などが少しでもあれば「あの人の漫才のことか!」と読者に伝わりやすかったかもしれない。
この本で印象に残った主張
- 漫才は「偶然の立ち話」であることが基本。したがって、ネタ合わせしてきたものをどれだけ打ち合わせが無いように見せられるかがポイントとなる。
- プロの漫才師にとって、拍手ウケが起こりやすい手法や展開を取り入れることはそれほど高度な技術ではない。拍手ウケが狙って作られたものなのか、客席の笑いが爆発して自然とできたものなのかは、審査員がきちんと見極めなければならないところである。
- 自分の意見を持っていて尖っている人は面白い。ささいな日常の一場面にも意見を持つことで、漫才師としての力がついて気持ちも上向いた。