ウェイリー版 源氏物語 みんなのレビュー
- 紫式部 著, アーサー・ウェイリー 英語訳, 佐復秀樹 日本語訳
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ウェイリー版源氏物語 2
2009/04/10 15:55
天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響き
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。
よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。
原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。
流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。
乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。
巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」
という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。
♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋
ウェイリー版源氏物語 4
2009/04/29 22:28
「平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。
ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。
とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。
その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。
生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。
紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?
あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。
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