T.コージさんのレビュー一覧
投稿者:T.コージ
家族のゆくえ
2013/01/10 12:32
<戦後最大の思想家>による究極の家族論
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の言葉からはじまり、逆の指摘をするシュンペーターの主張も参照しながら、乳幼児の発達成長をフーコーの手つきで「身体の考古学」として解いてみせ、そこから家族のナゾ=対幻想が明らかにされていく。本の帯にある「渾身の書下ろし!」のコピーは24年前角川書店による著作の初文庫本化時の宣伝文<戦後最大の思想家>とあわせて考えるとけっこう感動ものかもしれない。何か元気がでる刺激を与えてくれるのだ。著者をめぐる環境は...つまらない左翼風言説、他にすることが無いのか?と思わせるような意味不明の反発、最近問題?の若者以上に意味なしのプライド?が原因で読解不能に陥っているアカデミシャン...とあまりにもマンガチックで不幸だが、資本主義はこうやって本書のような価値ある商品を届けてもくれる。それに気がついたとき、元気がでるのは当然だ。この戦後最大の思想家は、いよいよ今こそ読まれなければいけない存在なのだと思う。
<赤ちゃんにとって母親は、心身ともに全世界になる>こんな当たり前のコトが当たり前に主張されている。それも力強く、一生をかけてそれを主張したかったようにだ。ここに著者の魅力と説得力があるような気がする。
要所でフーコーと自らの共通概念が示されるが、それは著者が世界レベルであることを示しているというよりも<衆愚であること><一人であること>が大切なのだという一貫した思想を示しているに過ぎないのだろう。ゲイとして究極の<単独者>を生きたフーコーとかつて<自立の思想>でカリスマとなり、現在は自らひきこもりであることを表明しながら繊細で大胆な提案をしてみせる著者には深い共通点があるに違いない。繰り返すが、著者は、今こそ読まれるべき思想家なのだと思う。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
2012/01/31 22:42
<一般意志2.0>はDDイデオロギー?!
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●ルソー版一般意志からアップデートした<一般意志2.0>
本書で再び注目を集めているのがフランス革命の契機となったルソーや社会契約論。本書のキッカケも、そこだ。ベンヤミンの<アウラ>やラカンの<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにして生まれたように、本書の<一般意志2.0>はルソーの<一般意志>をキッカケにしている。著者がバージョンアップというように<一般意志2.0>と<一般意志>は近く、本書ではルソーのそれは<一般意志1.0)>とされる。
タイトルには「ルソー、フロイト」といったオーソドキシーとITを代表する「グーグル」が並び、本文でも相当量をさいて援用されている。特にルソーとその<一般意志>は本書のメインだ。一般意志については各章で繰り返し述べられるが、ルソーにもとづいた根本的な定義は以下のようなもの。
P44
全体意志は特殊意志の単純な和にすぎない。
しかし一般意志は、その単純な和から「相殺しあう」ものを除いたうえで残る、
「差異の和」として定義される。
この<一般意志1.0>と(本書では)されるルソー版一般意志からアップデートしたのが<一般意志2.0>。本書の主唱するオリジナルな思想?だ。
●少数の専門家よりも多数のアマチュア
<一般意志>の可能性に期待する<一般意志2.0>という思想。それを担保しているのはスコット・ペイジの思想?だ。本書のP31~32で紹介されている「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」の2つ(『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』で紹介されている)で、ある意味でルソーそのものより重要かもしれない。一言でいえば多数のアマチュアの意見は少数の専門家の判断より原理的に正しいというもの。衆愚がプロを超えるという事実を複雑系の研究から実証してしまったのだ。
これはルソーの一般意志を発展的に実証したともいえる研究成果だろう。民主主義は全員参加が理想であり、全員の意志が何らかの形で反映されることは最重要な目標のはず。全員が全員であるほど(より多様であるほど)正しい意見と正確な予測が可能になるという発見は、既存の民主主義のイメージと大衆の概念をリセットし、それら(一般意志)を絶対に肯定できるものとして再把握させてくれる。
●感覚(モノ化)し認識(考える)する
本書の<一般意志>を補強する重要な部分は『エミール』にも負っている。『エミール』は教育関係者なら必読だろうが、現在の日本の教育は『エミール』の真逆にいく可能性があり心配なところ。著者は他者の言い分が(を)モノ化する(させる)ことをエミールから援用して説いている。エミールの基本はシンプルで、理解力が未熟な幼少期には具体的な経験(だけ)をさせろ…いわゆる「消極教育」「実物教育」というもの。樹に登って落ちると痛いし怪我もする、不注意に走り回っていれば転ぶこともある…というように遊びや生活行動の中で具体的な経験をさせることにウエイトをおいている。行動させその結果との因果を考えさせることを繰り返し体験させる。感覚による体験とそこからの反省や考えることによって理解力、認識力を身につけていく…これが理想の教育だ。逆に幼少期に抽象的なことを教育すると理解力が歪んでしまう。神はいるとか国家は絶対だと教えると、その部分だけ認識が棚上げされ(絶対視され)客観的な認識ができなくなるからだ。典型的な洗脳でもある抽象的な価値判断をルソーは人間の間違いの源と考えた。ルソーが客観的な認識のリソースとしての百科全書(モノの列挙)に参加した理由がこれだ。宗教や王権という抽象的な世界観から百科全書的(モノ化し論証可能)な世界観への移行…フランス革命を準備したのは当然だろう。
他者(の意志)をモノとし、その総体を一般意志2.0とする本書は、他者への絶対的な肯定と理解を前提としているといえる。コミュニケーションのいらない政治を主張し、他者への絶対的な肯定と理解を前提とするのが著者の主張なのだ。朝生TVで橋本大阪市長の政策や説明に対して、異議はないがどこかオカシイ、優しさがないと指摘した著者のセンシティヴな認識は、いまこそ貴重だろう。
●コミュニケーションを超える
コミュニケーションが前提ならばコミュニケーションスキルが高いものが決定権を握る機会が圧倒的に多いだろうし、民主主義が多数決ならば常に多数派の意見だけが通る。そうやって能弁は寡黙に勝利し、51票は50票に勝ち続けるだろう。しかもアローの定理のように「民主主義は成立しない」ことを証明する数理的な結論を得ても、何も解決しない。それどころか既存の情況を正当化し現状保守を補強するだけかもしれない。
そういった現実に対して、著者はオタクやアキバのローカルルールやAKBファンのようにDDを主張しているともいえる。DD=誰でも大好き…。圧倒的な他者への肯定が著者の主張の根幹にあるのだ。著者の仕事をオタク論議やサブカルレベルと見下す?ような有名な論者もいる。評価すべきは逆だと思う。オタクやサブカルを語れるからこそ根本から政治を語れるのだし、少なくとも従来の旧態依然としたスタンスとは違う。常に外部を肯定し留意する著者の視点は他の論者にはないものだ。著者がひきこもりでオタクだったらしいルソーから見出したものは大きい。
デフレの正体 経済は「人口の波」で動く
2011/12/30 12:04
全数調査データによる圧倒的な事実! いろいろ使えます!
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2011年の元旦、日本のこれからを考える経済番組で希望や可能性を語れる論者として紹介されたのが著者のマスメディア初登場。バブル崩壊後は大部分の論者が政治や社会を批判するばかり、そうでなければ意義不明の御用学者…という情況の中での新鮮な登場でした。日本全国ほとんどの自治体を歩いて回った著者の説得力ある主張にメディアが注目したのでしょう。現場からの見解であり、参照するデータも全数調査でもれがない全国規模のデータばかり。何らかの理論や先入観による言説ではなく全国の現場を直接見て、全国規模で長期スパンのデータとつき合せて考えられたのが本書の内容です。
本書のベースになっているデータの特徴は以下。
・ソースはネットで公開されているものだけ
・全国調査のものだけ
・数値は絶対値のものだけ
・スパンは長期のものだけ
『デフレの正体』で扱われている数値は全数調査のものばかりで調査対象の漏れがありません。全国を範囲とし対象となるもの全てが把握されている数字です。マーケテイングという名目で限られた範囲しか調査していないものとも根本的に違います。しかも変化率や対前年度比などの相対的な数値ではなく、個別の絶対数を長期にわたって把握したもの。それは事実を見るという一点にフォーカスしたスタンスのものです。統計値といいながら率(確率・変化率)しか見ない近視眼的な評価は除外されています。統計の本来の意味は揺るぎない絶対値を把握することであってスパンを限ったナントカ率で思考停止に陥ることではないからです。著者は20年間も景気が浮上しないという事実から、基本的に既存の経済のあり方が通用しなくなってきていることを念頭に現行?の経済学にも否定的です。まず現実を把握する…そこからノンジャンルで思索している著者は長期スパンで全国規模のある変化があることを発見…それが「人口の波」です。
●96、97年をピークにすべてが下降へ
経済産業省の商業統計をはじめ、書籍・雑誌の売上、貨物総輸送量、旅客輸送量、ビールの販売量、1日あたりのタンパク質の摂取量や水道使用量…など多くの統計から導き出された共通の傾向があります。96、97年をピークに減少しはじめたという事実です。これこそが「人口の波」に影響されて変動する経済をはじめとした変化の現れでした。コンドラチェフの波以上にリアルなのは確か。
小泉竹中路線の構造改革で格差が拡大した!という批判がよくあります。経済的に期待されたトリクルダウン効果がなかったのが原因ですが。そのいちばん大きな要因が「人口の波」だったのを著者はデータから読み取りました。私見では97年橋本内閣による消費税増税が、ようやくバブル崩壊から回復しそうだった景気の芽をつぶしてしまった事実はとても大きいと思いますが、もっと根源的な原因が「人口の波」だったのです。
著者がマクロ理論に対して挑発的なスタンスなのは確かですが、ツラレた人間が多いものも確か。本書に対する「経済学的には、誤りだらけの本です」という経済学信奉者からの批判は、逆に経済学(その信奉者にとっての)が誤りだらけだということを証明してしまっているかもしれません(バブル崩壊以降の失われた20年間のあいだ無力だった言説(経済学?をはじめ)は無能無効であることは否定しにくいもの。すべてが日銀や政府だけの責任であるわけもなく、そういう状況下でまず的確な現状認識を示した本書は貴重です)。少なくともそれは私が知ってる経済学(剰余価値や限界効用といった価値を追究する学問)とは違います。本書のようにフィールドワークによって現実を直視した見解と、帳簿と簿価は普遍かつ不変だと思い込んで三面等価理論やマクロ経済学を教条としてしまっている立場と、どちらを一般の読者は評価するでしょう。50万部を超えて売れ続ける本書が照らし出すのは不況の現況や原因だけではなく、ネットで顕在化するイタイ言説や歪んだ認識の多さでもあるのかもしれません。
●理論ではなく現実をみる人たち(当たり前だけど)
本書の特徴は繰り返しますがデータが全数調査、全国規模、長期間の変化というもの。全国規模で大きく長い変化を反映したものだといえるでしょう。
本書が提起した「人口の波」の問題と関連する経済学上の考察が「世代会計」。この「世代会計」に基づいた本が『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木)です。 重要なのは基本となる公的なデータ。そのデータを作る官僚の立場にいた著者の『ワケありな日本経済ー消費税が活力を奪う本当の理由』(武田知弘)は大企業の莫大な社内留保金についても言及している唯一の経済書かもしれません。日本のバブルとアメリカの関係など興味深い見解もあります。
以上の3冊はバブル崩壊以降の日本の社会・経済をめぐる状態について現実を直視した必読の本。ナゼだか3名とも経済学者ではありませんが…。
経済の大きな動因ともなる政治的なファクターも含めてグローバルなレベルから日本と世界を俯瞰しているのが『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫、萱野稔人)。イラク戦争がドルをめぐる戦いだったこと、日経平均株価がアメリカに左右される理由などラジカルな見解が続き、また3.11へ臨んだ日本人の姿勢に世界に冠たるものになる可能性だどが類推できる内容になっています。
『デフレの正体』をはじめ以上は理論ではなく現実を直視するためには必読の4冊です。豊富なデータを読むだけでもためになります。また数値だらけのような読みにくさもありません。
ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義
2011/12/16 14:07
左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。
アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。
ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。
パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという欧米の認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。
ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうる…ということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。
基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。
P176
ネグリ=ハートの<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。
これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。
吉本隆明と柄谷行人
2011/07/08 17:46
吉本隆明からの遁走。吉本読者旧世代の最期を飾る一冊かも?
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
柄谷行人の読者には興味深い一冊。文学や哲学をいままでどおりに語りたい人にはいいかもしれないが…。
●「個体化」という幻想の理由は?
論点を先取りして言っておくと、吉本の書いたものには「個体として~」「個体に~」といった表現が多々に見られるが、「個体化」(individuation)という言い方は見られない。しかもそれは、単に語が不在であるだけでなく、吉本の議論が結局「個体」の存在を前提とした議論であって、「個体化」の過程を示していないことの現れではないだろうか。そのことが、「個-類」「個人-家族-社会」の連関の把握にも作用せざるをえなかったのではないだろうか。ちなみに、「個体化」「個体化原理」は古代から現在に至るまで、哲学の恒常的に最も重大な問題の一つでありつづけている。(P87「第二章 個体とは何か」)
結論を先取りしていうと「哲学の恒常的に最も重大な問題」は吉本においては終わっている。あの暗くアイロニカルな「勝利だよ、勝利だよ」の言葉の示す通りだ。あるいはそれを終わらせたのが吉本理論の副次効果であり可能性でもあるだろう。
当然だが吉本は「個体化」の過程を示していない」。人間は個体化するわけではないからだ。人間は現象学や実存哲学の根本命題のように<既に>個体であり人間の現存在というものは始めから(終わりまで)個体だ。吉本はその事実からはじめている。いかにも理系らしいスタンスで、理論的な展開は三木成夫の解剖学や発生学をはじめ自然科学のマテリアルな認識が前提になっているのだ。逆に古代から現在に至るまで恒常的に最も重大な問題とされながら、それを解決できなかった思弁や哲学に今さら何か価値があるのだろうか?
「吉本の議論が結局「個体」の存在を前提とした議論」なのは、この世には「個体」しかないからだ。個体としての個人しかいないのにナゼか国家が存在し、神を信じるものもいて、おそらく間違いなくすべての個人に悩みや楽しみがあり、生まれて死んでいく。その理由はナゼか? そこにはどんな価値や意味があるのか? この個人しかいない現実と、それなのに類にまつわる諸々が生成する理由を、吉本は解こうとしている。マルクスの『経済学・哲学草稿』と同じ問題提起だ。吉本は自らの問題意識と同じものをマルクスに見出したのかも知れない。
人間は個人でしかない…という認識こそ、だのにナゼ人類が成り立ち共同性が成り立つのか?という問題意識とナゾを際立たせるハズだろう。
●個体に<類>は発現している!!
吉本が“もっと早く知っていれば!”と残念がり、高く評価していた理論が解剖学者の三木成夫のものであることは有名な話だろう。解剖学者であり発生学者でもある三木の理論はラジカルな影響を吉本に与えている。三木が示す、個体発生は系統発生を繰り返す…という事実から吉本が受けた影響は大きく、身体的な事実性としてだけではなく観念の運動としても歴史的な解釈で負うところが深い。
『母型論』などで、系統発生は類の時間性の発現であり、それを個体発生がフォローしているという事実に吉本は注目している。吉本は三木を援用することで個体そのものに類の発現を見出したのだった。あるいは類というものが個体に全面的に依拠しているという事実を生物学的に認識しているともいえる。個体が構成していく集合態や共同体ではなく個体そのものに、である。個体が構成する共同体から共同幻想のような(類を前提とする)空間性を見出すのは当然だが、吉本は個体そのものに類の発現を認識しているのだ。この三木の仕事のような吉本理論を支えているマテリアルに証明可能な科学的な認識が本書では捨象されている。それはナゼか?
人間は「個体化」するのではなく「類が個体に発現」している。
観念は身体に依拠するが身体に還元できない…という心的現象論の認識は最重要なポイントで、観念の身体に還元できない部分は?という問題を提起している。これこそが共同幻想の起点でありうるものだ。同じように、共同性も個体に依拠するが個体に還元できない…この還元できない領域を探究し続けているのが吉本の仕事だろう。
本書には、柄谷の問題意識を『ひとは何故超越論的問題に取り憑かれるのか』と言い換えて指摘した東浩紀の言葉が引用されている。この東の鋭さに気がついているなら、同じような指摘が有効だろう。著者は何故「個体化」という問題に取り憑かれているのか? 答えはシンプルだが、それこそ<純粋疎外>概念から導かれるものだ、と指摘するにとどめておこう。
古代から現在に至るまで、ひとは何故「個体化」という問題をフレームアップするのだろうか?
解答は<純粋疎外>をキーとする認識からはシンプルなのだが、まずは自ら思念してみるべきだ。
理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性
2010/07/08 20:07
数理解析に裏打ちされた厳密な理論が示すのは限界だった…
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本を読むとモテるという都市伝説まで生まれつつある必読の一冊!
●民主主義は成立しない!
完全な民主主義が成立しないことを数学的に証明した「アロウの不可能性定理」を紹介するところから本書ははじまる。そして、ライプニッツが、想定できるあらゆる可能性を紙に書き出しながら理性的に計算した帰結として当然のことながら結婚を取りやめた、というエピソードなどを絡め、シリアスな問題を時に爆笑とともに紹介してくれる。間違いなく本書は知的エンターテイメントの最高峰だろう。事実ギークな読書家小飼弾氏が大絶賛し、流行のtwitterでは「現代の『構造と力』だ!」というコメントが流れ、本書の読書会ができるなど発売後2年にして評価はさらに高まり読書は盛況な様相を見せ始めている。現在6刷であり、これは新しいロングセラーの誕生だ。
自分も本書を入手するのに6軒の書店を巡り最後の店舗に残っていた最後の一冊をようやく買ったのだった。twitterのコメントを見ても売れているのは事実だろう。
ところでアロウの定理は極論するとジャンケンの3つの相(グー・チョキ・パー)の強さの順位付けが不可能で、どこを始点にするかで強弱の相対的な関係が決まることなどを数理化し、投票の順番や好き嫌いで結果が左右されることを証明しているようだ。
アロウの定理が示すのは集団における社会的選択(代表的なものが選挙)の限界だがライプニッツの結婚しないという選択が一つの解であるように、おそらくは選択しないという解も現実には行使されているハズだ。たとえば投票拒否である。
この行為としての解は本書には直接関係ないがラカンや斎藤環氏が援用していた「三囚人のエピソード」のような解、急き立てられて行動してしまう…という論理破りが現実には機能していると思われる。古く?はニューアカの「パラドキシカルジャンプ」などの概念も同じ。マルクスなどでいわれる革命とはこの行動のことだろう。
集団における選択方法は論理的な限界がある訳だが、俯瞰してみると誰もが限界に突き当たるわけではない。その選択方法を意図し主張した者は多くの場合予め最大利得を目論んでいるのであって損をしない(選択をしている)だろうからだ。つまり論理に限界はあるがそれを知ったうえで「戦略的操作」をし、そもそもその方法を意図し選択することで、そこに最大利益を見出し期待することもできるからだ。政党が自らに有利な選挙や方法を求め画策するのは当然だろうし見飽きてきた光景だ。しかしまた解決していない問題でもある。本書はそういう現実の問題にも切り込んでいる。
●「囚人のジレンマ」で生き残る3行のプログラム
個人の選択における限界を示すものとして「囚人のジレンマ」がある。なかなか決着しない囚人のジレンマ論争を見てコンピュータで競わせることになり、最も高い利得を得られるプログラムを選ぶコンテストが行われた。政治学・経済学・心理学・社会学などの分野から14名の専門家が応募し、総当たり戦の結果優勝したのは、驚くことにFORTRANで書かれたわずか3行のプログラムだったという。最初は協力を選択し2回目以降は相手の前回の行動と同じ行動をとる…というシンプルなもので「しっぺ返し」戦略と呼ばれる。結果は精緻な論理も微細にわたる戦略も全く関係なかったのだ。そして今度は「しっぺ返し」を負かすことを目標にして行われた2回目のコンテストでも優勝したのは再びたった3行のプログラムだった…。
個人的には生態学関係(宇野理論系出自の)の本で、隣接する2種類の生物の生き残り戦略として実際に「しっぺ返し」が行われているというのは読んだことがあり、それからすると自然状態で行われている行為や論理に、人間はこれほど考えなければ到達し得ないという事実が、より本質的な限界を示しているのではと思わせるほどだった。本書はそういった事実を丹念に集めて検討されている。常識では答えが出ているようなことでさえ個別の専門分野毎ではデッドロックに突き当たるまで察知できないのも、ある種滑稽でさえあるだろう。本書の最後に引用される経済学者センの「合理的な愚か者」という言葉が象徴的だ。
世間ではノーベル金融工学賞受賞者2名が代表を務めるグローバルマネーの代表であるヘッジファンドが倒産しても経済学(者)や最先端理論に疑問を突きつけることはなかったが、本書は何にでも疑問を突きつけている元気な本でもある。とてつもなくラジカルな問題をとてもつもなく可笑しく伝えてくれる本書はとてつもない本なのだ。学者であれ仕事であれ趣味であれ読書であれ、自らのジャンルに自負を持つ人こそ読むべき必読の一冊であることは間違いない。常識と知見のコペルニクス的転回が味わえるかもしれない。場合によっては猛省を求められる恐ろしい本のようだ。
それに、なんといってもこれだけの専門分野ごとの限界を一般人にわかるように書かれていることが素晴らしい。またどの章あるいはどのパートから読んでもわかるようになっていて気が向いたところから読めるのも親切。繰り返し読んでも面白い。しかも、この本を読んでるとモテるという都市伝説まで生じつつあるらしいのだ。お試しあれ!(当然だが理論的な保障はないです!w)
吉本隆明のDNA
2010/03/19 14:29
6名の思想の根本が書いてあるキチョーな吉本本? 6名それぞれのファンにもオススメ!
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
6名へのインタビューは各人の思想の根源まで到達するもので、吉本だけではなくそれぞれのファンや読者にとっても貴重な内容になっている。現在の若い世代に続く内容と説得力がある。取材の最後まで不機嫌だったという上野の言葉も印象的だ。
「ほかの人たちはみんな吉本体験を、そんなぺらぺらしゃべるの?」
上野をはじめ全員が吉本をネタ?に自らの思想の原点までもしゃべらされてしまっている。著者の執拗?な取材の成果でもあるだろうが、いままで黙ってきたが本当はしゃべりたかったんだ…とばかりに各人が語り出す姿は不思議?でもあり微笑ましくもある。各人の言葉には、照れながら昔の恋人のことを想い語りしているような雰囲気がある。はじめて吉本との関係?を明かす姜のようなものから、とことん思想的理論的に突き詰めようとした宮台、いまこそ吉本に可能性を見出している中沢…とバリエーションも豊かだ。
・姜尚中「…彼の全体をつかまえようとする原理論は、僕にとっては必要なプロセスだった。」(P66)
偏狭な民族主義に囚われることがなかったのは吉本の思想のおかげだという姜の自覚は貴重。吉本やマルクスはより抽象的で普遍性のある(つまり全体を包含できる)観点の方に移動していく…という明解な答えをもっている。民族より<全体をつかまえようとする原理論>を選んだ姜の勇気と困難は、誰もが経験する困難であり根本的な問題だろう。
・上野千鶴子「『対』という概念を出したのは、彼だけ。しかもそれを思想の対象として概念化した人はいない。」(P83)男性の多くの思索者らの吉本論からは、対幻想論は「すっぽり抜けおちている。」(P84)
ズバリの指摘だが、正確には<抜けおちている>のではなく<理解できないだけ>なのだろう(対幻想論を抽象化(学者の仕事だ)したアカデミシャンは橋爪大三郎くらいしかいない。在野でも皆無)。『構造と力』などは<対>に対して<エディプス△>を突きつけたがその後の展開がない…。
・宮台真司「吉本の立ち位置――<大衆の原像を繰り込め>――は一貫しているでしょう。大衆がもっているものを批判してはいけない、大衆がおかれている関係の絶対性がすべての出発点だ、と。むしろ六〇年代の延長線上で議論が一貫しているがゆえに、時代遅れになったんです。僕はそのアナクロニズムに仰天したというわけです」(P135)
宮台はあの「コム・デ・ギャルソン論争」で吉本のアナクロニズムに仰天したという。吉本の大衆の原像論そのものへのありがちな誤読にとらわれているようだが、宮台の『権力の予期理論』や東欧のファシズム論の根本で発揮されていた観念(2名以上の人間関係による権力の萌芽)による自縛を前提とした認識が対幻想論の基本と近似であることは興味深い。そもそも吉本は大衆の味方というより大衆の自在な変化に注目し、それが資本主義(時代)と個人の心性のマトリックスであることを指摘し続けているのだ。それが全領域にわたって展開されているのがハイ・イメージ論だろう。
・茂木健一郎
茂木は吉本理論を理解している訳ではなく、吉本のポリシーやスタンスに衝撃を受け、感動している。思想として当然そういうものもアリなのだ。
「アハ!体験」ともいわれるクオリアは対象認識がある意味で亢進している状態で、認識構造における<対象の時空間性>に対して<認識の時空間性>が影響を与え、対象そのものに意味や価値を感じてしまう事態をさしている。<指示表出>に対して<自己表出>が影響を与えてしまった場合ともいえる。根本には認識が結論(答え、応え)を出さず(出せず)に認識し続けようとする…亢進し続ける状態がある。それが<感情>だ。心的現象論の根本にあるのはこの<感情>で、特に<中性の感情>は<純粋疎外>の具現化したものとして心的現象の動因そのものである。(例によって、この吉本理論の根幹をなす<感情>についての言及はどこからも無いが…)
・中沢新一「フランス現代思想の記号論とか、若いときは僕もやったけれども、だめでしたね。あれでは本質は追究できない」(P220)中沢はいま、『吉本隆明の経済学』(仮題)という本を執筆中だ。(P230)
吉本は現代を<欠如は知っているが、過剰を知らない>と指摘し、その認識を共有する中沢は知が商品であることを証明したニューアカというムーブメントの代表であると同時にその限界を突破しようと宗教の現場へ向かい探究し続けた。ただ宗教だろうがアートだろうが資本主義だろうがその現場でしか探究できないというようなスタンスは吉本がもっとも拒絶するものだ。出家しなければ悟れないなどというワク組はあらかじめ宗教者の立場を保身するためのものでしかないからだ。中沢はその一点での齟齬をほぐしながら、吉本が『アフリカ的段階』などで示した宗教と権力と個人の心性が渾然一体となった状況からの展開こそが自分が求めていたものであることを確認している。
・糸井重里「信者の中に僕、入れてもらえないと思いますよ。」(P246)
この糸井の言葉を痛烈な皮肉ととるか、みんなの中でいつも浮いている子どもだけが持つちょっとイジケタ思いととるか、面白いところだろう。
糸井重里にインタビューした最終章の最後の文が吉本の現在を象徴している。糸井の「ほぼ日」の読者をメインとしたらしい2008年の吉本講演会の来場者について…「中心は、団塊世代の男性たちではなかった」「二十代、三十代の若者たちだった」「筆者も、華やかなファッションに身を包んだ若い女性たちの姿が多かったことに驚いた…」…と書かれている。若い世代への吉本紹介はいまここからスタートしたばかりだともいえるかもしれない。糸井の<吉本「リナックス化」計画>の今後の展開が楽しみだ。
吉本が初めて角川で文庫化されるときにそれを「危険だ」と批判した坂本龍一や、雑誌『SIGHT』で吉本を連載している渋谷陽一。あるいは吉本の著作を中学生レベルの国語の問題として「わからない」と評し、吉本は何も残っていないとその後も指摘している浅田彰のような人間に尋ねてみるのも面白かったのではないか? また宮崎哲弥のように吉本と対談しながらも吉本の発言が全く理解できずに対談が出版されなかったケースもある。だが宮崎は書評では吉本への偏りがない良質な紹介文を書いている。このギャップも面白い。『だいたいで、いいじゃない。』で吉本と息の合ったところとスルドサを見せた大塚英志の一言もほしかった。個人的には、考えるほど続編を期待したくなる本だ。
戦後思想は日本を読みそこねてきた 近現代思想史再考
2010/03/19 13:39
豊富なソースと鋭い解析で近代日本のコンフリクトを俯瞰できる一冊かも、必読!
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●マジメな文芸からの問いかけ?
本書の問題提起は根源的で絶対的な次の2点だ。
日本の思想は、近代文明の弊害をどのように克服しようとしてきたのか。
戦後民主主義は、第二次世界大戦の一翼を担ったことの反省をなしえたのか。
一言でいえば文学や思想、哲学の分野で大きな未決の問題である「近代の超克」が問われている。日本の近代化、西欧化の評価をめぐる講座派と労農派の日本資本主義論争をはじめ江戸の文化から分子生物学、そして最近リアルに語られるようになった「東アジア共同体」まで概観しつつ同時に微にわたり分析し批評している。
戦後から現在に至るまでケリがついていないこれらの問題に関して、戦後最大の思想家と宣伝コピーされた吉本隆明の鋭利な批評とその死角にフォーカスするところから論は進められている。知識人という言葉が相応しい博学強覧な観点と背理をとれる視点から鋭い指摘が繰り出されている。吉本に対する批判で明示的にはもっとも鋭い指摘かもしれない。
ところで、確かに「戦後思想は日本を読みそこねてきた」が、現代の日本を読むのはますます困難ではないだろうか?という疑問がある。その困難にドンキホーテのように立ち向かう本書から(文芸ジャンルという限定つきではあるが)文学の有効性と批評性が確認できるかもしれないが…。
●近代とか現代とかは何か?
ニューアカは知だの思想だのが商品であることを示し、エヴァンゲリオンほかアニメで文学は終わったとまで言われ、コギャルのジャーゴンは小さな共同体を無数に作った…そのチョベリバでさえ古語に属するような現在の姿そのものが何を現わしているか?
著者の目的は「東アジアでも確実に育っている」「トランス・ナショナル」な動きをアシストすることだ。「「近代の超克」は「マルクス主義の経験」を経て、はじめて生れた」と認識し、「国民国家を基盤とする近代ナショナリズムを相対化し、のりこえる動き」である「トランス・ナショナル」に期待する、というのが著者のスタンスだ。
吉本ばななの作品がマクドナルド(世界標準?)に例えられたように既に近代の問題は普遍的(世界的)な問題でもある。そもそも日本的という理由以外ではじめて海外で高い評価を得た安部公房の文体もストーリーも無国籍であり、安部が元来からモダニストであったという事実はフォーカスされるべき問題だろう。ばななや村上春樹がアジアも含む海外で評価される理由も内容が<トランス・ナショナル>だからではないか?
「近代の超克」という問題そのものが把握しにくいのは、近代の二面性(現実)が単一言語の共同体(民族、国家)と多言語の共同体(連邦、合衆国)という相反するものでありながら経済合理性を共通項として成立(併立)してしまったところにある。さらには経済の対外的な拡張は(帝国主義・侵略主義ほか輸出なども)国内へ向かえばケインズ主義的な政策として発現する。国(境)の内外という差異でさえ絶対的な基準ではありえない。
「戦後思想は日本を読みそこねてきた」とすれば、その根本的な原因は方法の問題ではないか?と考えることができる。対象が読解困難なのではなく、読解方法あるいは認識方法そのものが問題なのだ、という問題だ。端的にいって米ソ対立の冷戦時代に数万発の核兵器がひしめき合うヨーロッパでいずれのイデオロギーにも影響されずにモノゴトを見極めるためには、その認識方法そのものが問題になった。サルトルの問題意識だ。サルトルが科学を自称するマルキシズムを批判(相対化)した<あらゆる科学は蓋然性だ>という指摘は重要だろう。蓋然性を認めること以外はすべて蓋然的だからだ。すべては相対化されてしまうのだ。
●イデオロギーが無効だとしたら?
「日本の近現代の反省にバイアスをかけてきたのは、戦後イデオロギーにほかならない」が、イデオロギーという大きな物語が無効な現在、バイアスの正体もイデオロギーではないのではないか? 松岡正剛の『日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか』のように大きな物語(からの抑圧)に対して無数のフラジャイルな物語りが析出する。欧米では同一の文学(あるいは新聞)を読む同一の言語を使用するのが民族であり近代国家の基礎でもあったがアメリカやソ連という多民族多言語国家の登場そのものが近代国家を揺るがす事件でもあった。現在では個別国家を解消しつつEUが生成しつつある。そもそもローマ帝国は元来そういう国家であったのであり、ローマ帝国の痕でもあるユーゴスラヴィアの内戦では根源的な矛盾が露見したといえる。ユーゴ連邦当時から「ユーゴ人」の戸籍を申請するものは2、3%しかいなかったという事実が示すものは重い。大部分がセルビア人やクロアチア人、ボスニア人を申請していた。平和時から理想を体現する「ユーゴ人」になろうとする者は少なかったのだ。多くの人が望んだのは具体的な<何か>を属性とするアイデンティティだった。それは場所であり血筋であり言語や名前でありそれらをベースにした文化だ。現実的にはこれらが時間的に蓄積された<伝統>に根差したものだろう。
●キメラな日本を解剖?
丸山真男の「共同体的心情あるいはそれへの郷愁」が「『近代の超克』の通奏低音をなす」という認識をレヴィ=ストロースをヒントにした構造主義の典型としながら、神話が系譜や時系列で展開しそこへ生成神話が重ねられていく日本の特徴と構造を「神話の編集方法とその思想がかかわる」と分析する。吉本隆明や松岡正剛のように方法論を確立した数少ない者だけが持つように著者の分析も際立っている。
「日本では「復古」ないし「伝統の発明」が何度も繰り返されてきた」という著者の指摘は鋭い。たとえば終身雇用やそれによって会社を家族的に思慮することは戦前の統制法が目論見定着させたことだからだ。統制法以前は平均就労年数は5年であり、日本では転職や数年間の無職(浪人)の状態は普通のことに過ぎなかった。フリーターやニートは珍しくなくそれが伝統だった可能性さえあるもしれない…。
すでに社会基盤と化したITやネットなどテクノロジーとアーキテクチャから生成する環境の中で、本書の理系ではないアプローチが、逆に新鮮だ。数多いプロットと説得力のあるオリジンなパラメーターが一見キメラに見える日本の思想を明らかにしてくれる。近代の超克をめぐるコンフリクトは、そう見えるだけだ…ということを明らかにしてくれる。本書にはとても新書一冊では済まない内容が収められている。エポックメイキングな事象はもちろん豊富なソースは日本の近現代を俯瞰させてくれる通史ともなっていて立場にかかわらず必読の書といえるだろう。
日本の難点
2010/01/02 01:10
丸山(眞男)や宮台が指摘する日本の難点とは?
12人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
宮台の根本にある問題意識は、コレだったのか…
…それは、実をいうと<関係妄想>のことなのだ。
数行で一つの知見が込められ次のセンテンスとの関連は行間が飛んでるように感じる。柄谷行人のような観念的な行間の飛び方ではなく内容のシフトがあり展開が速すぎるために分かりにくくなっている。宮台の私塾用のテキストがベースのようなので仕方無いかもしれないが、もっと読み安くしてほしかったとはいえる。講義ならば豊富な話題と知見、スピーディーな展開で毎回面白く聞いてられるハズだ。
内容的には宮台理論の全容が抽象から政策まで、哲学からポリティカルな面まで知ることができるので宮台の研究家?や論破したい人は読破してみるといい。個人的には「はじめに」の10頁分だけでそのポテンシャルが確認できたのが幸いだった。ある意味宮台理論の可能性とそしてはじめて限界(も)が把握できた気がしたからだ。
丸山眞男が提起した日本の根源的な問題が「はじめに」で示されているが、それは宮台個人の実存の問題(そして多くの日本人の問題)でもあり、吉本隆明だけが理論化してきた問題でもある。その点だけにフォーカスしてみた。
●「日本人が浸されている特別な事情」
ここでは、日本人が浸されている特別な事情についてだけ述べておきましょう。
丸山眞男が述べた「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がヒントです。(P9,10)
宮台は本書のはじめに「日本人が浸されている特別な事情」を明らかにしている。それは丸山眞男が指摘したという「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」である。この指摘は宮台の認識の基礎となる重要なもので、『吉本隆明のDNA』で宮台が自ら語っている「不可避体験」と対?をなす認識(概念)なのだ。
「作為の契機」とはカンタンにいえば<他人が(何か)した(する)コト>であり、他人を認識するときの前提でもある。誰でも、この他人の<したコト(するコト)>をとおして他人を認識している。逆にいえば、この<したコト(するコト)>以外をとおして他人を認識することは出来ない。(これは本来、関係のマテリアルであり、唯物論の論拠であるべきもので、マルクスでは生産諸関係等となる。広松哲学ならば他人の行為の物象化だ)
<不可避体験>とは、この他人による<作為>への認識が亢進した状態を呼ぶ。自分が他人に何かされる(された)、他人が自分に何かする(した)という認識だ。そこには<ワザとやった>というニュアンスで他人の意志がでっち上げられている。他人の意志を無理やりにでも見出すところが病的であり、関係の本質の一端でもある。それが周囲との論理的な整合性がなくなった状態が精神病=関係妄想なのだ。ただし人間(生物)の特徴としてこの<関係の病>は捨象出来ない。正常な閾値の範囲内ではそれは<受動性>として発現する<愛>の受容態でもあるからだ。フロイトはこの受容態の歪みを精神分析の根源としたが、そこから遠隔化した様態と、そこに不可逆で不可換な位相があることを考察しなかった。これがフロイトの限界なのだ。
宮台はフーコーがこれらの問題を先取りしていたことを示唆しているが、そのフーコーの限界も同じところにある。フーコーと吉本隆明の対談で、すでに自らの『言葉と物』などの方法論の限界を表明していたフーコーは吉本に対して次のように語っている。
国家の成立に関しては、
…
どうにもわからない大きな愛というか
意志みたいなものがあったとしか
いいようがないのです。(『世界認識の方法』P48)
このフーコーの言葉は半分当たっていて半分外れている。「どうにもわからない」というのはそのとおりなのだ。ラカンはこのどうにもわからないものを象徴界と呼んだ。だが、それは「大きな愛」でもないし「意志みたいなもの」でもない。
「国家」という共同幻想を成立せしめているのは、<愛>から遠隔化する構造そのものであって、<愛>や<意志>の変形ではないし、必ずしもそこから生成するものでもないからだ。ただそこには何でも代入できるために愛も変態もファシズムも可能になるだけだ。そしてそれ基づく関係性はDVから資本主義までさまざまだ、ということに過ぎない。(この認識に立った言説が『ハイ・イメージ論』)
●<する><される>という関係
ところで「作為の契機」や「不可避体験」で表出する(他人を認知するための具体的な条件である)<する><される>は主体と客体の関係の基礎であり、関係そのものだ。
それは「主体と対象の<あいだ>」であり「<関係>それ自体」のことである。あの吉本理論で有名な<関係の絶対性>のことであり、宮台は吉本(理論)の特に『心的現象論序説』から影響されたことを認めている。
統合失調症やうつ病をはじめとする心的現象の根源にある<不可避体験>という関係妄想は周囲の環界との整合性がある限りは常態(正常・健常?)の認識に過ぎない。<病的>や<異常>という定義の根拠は他者や環界との論理的整合の是非とその程度(水準)にしかないからだ。この論理的整合性が非整合に傾いていく過程は『異形の心的現象』『統合失調症―精神分裂病を解く』(森山公夫・ちくま新書)などに詳しい。
ニューアカのポスモダ論議でさんざんドゥルーズ=ガタリ周辺を引用しスキゾ(分裂症)だなんだといわれながら、こういった主張や指摘はなかった。
欧米家族の範囲内しかも欧米理論の枠組でしかない『ミル・プラトー』よりも吉沢明歩の『ポリネシアン・セックス』の方が<いきっぱなし(ミル・プラトーとはこの状態を表現した言葉)>という快楽と抑制がまともな象徴界を形成し、まともな人格を育んでいくリアルワールドを知ることができるのは当然だろう。そこには文字通りの<する>と<される>の関係だけだはなく、<待機>という静かなしかし強力な去勢があるからだ。ポテンシャルを育むということは去勢の中でも高度なものではないか? パフォーマティブな<割礼>ではなく、羊水のなかでの微睡みのような<育み>がそこにある。
宮台が期待する利他的な存在というのは、確かにチェ・ゲバラのような人間だが、それはミル・プラトーとメタフォーされる<いきっぱなし>な状態を提供してくれたり保証してくれる存在でもあるだろう。ポリネシアンのルーツを持つ日本人には比較的に馴染みのあるものでもあるかもしれない。
吉本隆明1968
2009/06/12 10:04
ビッグブラザー(『1984年』)とリトルピープル(『1Q84』)を通底する認識が身につくかも…
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たち
糸井重里氏の「吉本隆明リナックス化計画」や渋谷陽一氏の「SIGHT」の連載、小飼弾氏の「私の Love to hate の対象」として吉本隆明を評価する新しい?スタンスなど現在進行形の吉本ingによる新たな吉本読者も少なくないはずで、その広がりと展開にプラスになるものが、もっと出てきていいのではないか…と個人的な期待と願望は大きい。小飼弾リスペクトの吉本リナックスというのは出来過ぎた話でもないし、むしろ吉本らしい展開のハズだ。もちろん思想的理論的にヤワな論者を突き放した『ハイ・イメージ論』『アフリカ的段階について』やレア?な『ひきこもれ』といった旧来の読者のオーダーをある意味で超えた位相の提示は、今こそもっと注目されるべきものだと思うが、本書はあっけなくそういった吉本理論の根幹にさえも言及している。一見世代論的あるいは私的随想にさえみえる本書は、その前提に吉本理論への根源的な理解があってこそ可能な一冊であることがわかる。
本書の帯「永遠の吉本主義者」というコピーで思い出すのは橋爪大三郎氏の『永遠の吉本隆明』だ。2人とも「永遠」とまでいってしまっているが…ファン丸出しで、カッコ悪くないか? まるで信者じゃないか!などというクールなフリのスタンスはここでは通用しない。鹿島茂氏は「吉本主義者」とまで自称してしまっている。でも、そこまで入れこめる?両名は幸せな人たちではないか。きっと〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たちなのだろう。しかし本書の凄さ恐ろしさはそんなレベルではない。前述したように吉本理論への徹底的な理解の上に著者が共感する倫理が提示され、それへの帰依が表明されているからだ。たぶん思想家としてパーフェクトであるということはこういうことなのだ。そして本来的な意味でのエッセイストというものもこうあるべきではないのだろうか。
●〈ひきこもり〉な人たちまで
著者は「吉本隆明の偉さというのは」「1960年から1970年までの十年間に青春を送った世代でないと実感できない」という。著作であれば『吉本隆明全著作集』以前の論文集と詩集が「吉本世代の心の支え」らしい。
多感な青春の十年間に触れたものが〈実感〉を形成し、その後もリアルな原体験として残るのは誰もが経験する。しかもこの吉本-読者の場合は、書き手の吉本自身が大きな挫折=敗北を体験(確認)をした(ただし2度目)のが、おそらくこの十年間なのだ。著者はその体験の中で〈裏切らない吉本隆明〉の「倫理的な信頼感」こそに皆が惹かれたことを書いている。吉本への「共感」だ。
一方著者より若い世代が吉本に惹かれた理由は〈敗北(の受け止め方)〉の見事さであり、〈撤退の潔さ〉であり、〈運動とは身体を動かすこと〉というシンプルな認識であり、なにより言説のスルドサというスタイルだ。この認識の違いは、やがて月日が経つにつれて拡大し質的にも決定的な差異となっていく。現在もっとも若い吉本読者やファン?が感じているのは〈ひきこもり〉や〈孤独〉を積極的に肯定してくれる吉本への共感であり、それを理論化できる言説への信頼と期待なのだ。
問題は、敗北して、どこへ向かって撤退するのか、そこにはどんな生きていく理由があるのか?ということであり、あるいはどこにも向かわず何にもならずということについてでもある。〈内向の世代〉と呼ばれた文学のトレンドから村上春樹の登場まで、撤退先とその安寧を求めたさ迷いは、おそらくは途切れることはなくオタク的な段階までレイドバックしたのであり、そのトレンドのある典型的な形態として〈ひきこもり〉や〈島宇宙〉といった認識がある。そして吉本には脱社会的存在を承認する全面肯定の思想さえ見出すことができる。
●〈純粋ごっこ〉な人たちをcomplete!
著者世代=団塊の世代と新人類やアラフォー以下の世代のギャップは大きく耐えがたいほど異質であることは歴然としている。だが、いかに質的な差異、世代をめぐる状況の違いがあっても、吉本を媒介にしたときにその連続性が意外に分かりやすいことに気がつく。二つ(以上)の世代とそのグラデーションの変化を追うとその差異と同定すべき点が明白になってくる。それは世代を超えた理解を根本的に提供してくれる。それは『ドイツ・イデオロギー』で示されるような普遍的な社会の認識方法がそのまま本書の視点になっているからだ。本書には吉本隆明による『カール・マルクス』の併読がお勧めだ。
原生的疎外に対する純粋疎外を大衆に対する知識人というアナロジーで説明した柄谷行人氏の批評は有名だが、それは本質ではない。吉本隆明への再帰と別離を独り楽しむエッセイストによる独白である本書は、そのために文学としての自己表出的な価値と思想的な水準という指示表出的な、つまりは公的(交換的)な価値をもった稀有な一冊となっている。必読なのはいうまでもないだろう。そして超えるべき本なのに違いない。
「吉本の偉さ」は自分たちの世代にしかわからない…というのが著者の主張(タテマエとしての?)だが、それは同時にレトリックに過ぎないだろう。
吉本は青春時代の友情を<純粋ごっこ>だという太宰治の言葉を援用する。その意味がわかったときに本書は読了となるのかもしれない。大衆が大衆から離脱する、その悲しみに耐えなければいけない…吉本隆明は結局別れについて語ってきたといえる。
戦争が生み出した極限の状況を描いた『火垂るの墓』の宣伝コピーで糸井は「4歳と14歳で生きようと思った。」と生きていこうとするけな気を美しく示して究極だが、吉本はさらに「一人で、生きよ」と主張し続けてきたのだ。そこには〈希望は戦争〉のような甘さはない。吉本は常にクールにマテリアルとテクノロジーが社会を決定し進展させて来たことを前提としているからだ。
情念によって作りだされた反動や意味づけは、
倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
社会像の転換にはなにも寄与しない。
(『ハイ・イメージ論』収録「映像の終わりについて」から)
本書を読了できれば『1984年』の「ビッグブラザー」と『1Q84』の「リトルピープル」を通底するただ一つの認識方法であるだろう吉本理論(幻想論)への端緒にたどりついたことになるかもしれない。
消費社会から格差社会へ 中流団塊と下流ジュニアの未来
2009/04/23 13:42
<ソース、キボンヌ?>というより<思考能力は?>の方が大事!
7人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●バブルの当事者であり立役者の証言
「誰が言った? どこにあった?」と口を尖らせてソースを問う子供みたいに、ネットでは自らの思考能力の無さに応じてソースへのオーダーが強度を増すのかもしれない。問題はソースのデータベースの小ささであり、さらには思考能力の無さがソースへの問いで帳消しになるかのような矮小なネットの倫理かもしれないのに、だ!?
『下流社会』以来ネットの書評では反発されることが多い著者だが、現実のレスポンスではそういった否定的な反応は思ったよりずっと少なかったらしい。
「サーチエンジンで引っ掛かることだけが情報ではない」(『「ひきこもり国家」日本』高城剛)という真っ当で今こそ必要な問題意識のある人には絶対にオススメの一冊が本書。
ここしばらく80年代ものが話題だったりしたが、2次資料のパッチだったり、手堅くまとめてあっても内容的にはコピペだったりする書籍も少なくない。80年代をリアルに知るには、80年代を生きた人間の証言というものがベストなのは異論が無いだろう。
オタクからメジャーあるいは商業路線にのったのが泉麻人であり秋元康だが、他方でオタクをオタクらしいジャンルのまま商業ベースにのせていった現場にいたのが大塚英志だ。
そして一般消費にいちばん影響をあたえた西武・パルコ系統のカルチャーを演出したのが三浦や上野だったのだ。
●バブル経済をバックアップした京都学派!
京都学派が主導しバックアップする事業体があり、上野千鶴子はそこでマーケティングの仕事を請け負いやがて社会学者となったいきさつや、セゾンの堤清二とパルコの増田通二という両雄が高度消費社会の最先端をリードし、浅田彰が読者であったことを表明するパルコ発行のサブカル本?「ビックリハウス」などの、当時の情況と舞台裏が当事者によって語られている必読の資料だ。失われた10年以前のバブル経済前後の仕掛人たちの証言がここにある。研究や調査での資料読みとは違うリアルな記録といえるだろう。
同時期にロックを聴くという最大公約数以外の何も持たずにミニコミ「ロッキンオン」をスタートした渋谷陽一のようなまったく在野の、思想も方法も自由でロックなヤツもいた。
アメリカのカウンターカルチャーを紹介する唯一のメディアだった「宝島」は、やがてその路線の完全な商業化版として「ポパイ」「ホット・ドッグ・プレス」を生んだといえる。いわゆるカタログ雑誌の登場であり、マニュアル本の始まりだった。ここで注意したいのはカタログ本からマニュアル本へのシフトが短期間で起っていることだ。
カタログは消費者が選択するものであり、消費者には選択能力が要求される。
マニュアルはある所作をめぐる物語であり、消費者には物語への没入が要求される。
コスプレが異なる外面や形態による物語への没入であるのと同じで、主体に要求されるのは物語への参入や没入であって自由を前提とした主体的な選択ではない。そこには選択の余裕などひとつも無いのだ。
そして日本人は自由な選択が苦手らしい。得意なのはコスプレに多重人格・・・TPOによって所作を換え、最適化されたパフォーマンスで場をリードし、さらにそれらを形式化して効率よく伝達継承していくことだろう。高度な抽象化と伝播、再構成のテクニックが日本の文化でありあらゆる方面でのポテンシャルなのだ。
簡単にいえば日本人は<自由(に選ぶこと)が不得意>で、与えられたものに<成りきるようなこと>が得意だということだ。
しかし、自由への希求を歴史としてきた欧米をメインとした海外とのコミュニケーション(あらゆる交流、交渉、取り引きなど)が日常的になってきた現在、ホントに日本人必要なのは自由に考え自在に選択することだろう。
生き延びるためのラカン
2009/04/09 16:25
『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうな…
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ラカンに転移してしまった著者が「日本一わかりやすいラカン入門」を目指して6年の月日をかけ、中学生にも読めるように書いたのが本書。
サブカル論議や精神分析、心理学フェチなら当然知っているレベルの用語だけで見事にラカンが解説されている。難解な専門用語が排除されているわけで、そこに<父の排除>を察する読者からは反発もあるけど、それこそこの本が成功してる証だとすればOK。
吉本に転移している自分からすると、本書はフロイトへの深い理解のためかより一層吉本理論との近似が気になる。吉本や著者への自分の転移は当然として、他者からはどう読めるのだろうか?という新たな知への欲望がさらに喚起され、もちろん必読の一冊として触れ回りたくなる欲望はこの書評を書く衝動を喚起し。。。。
タレントでも著者でも、その人を気に入ったらその人の作品を複数手に入れるのは当たり前。好きな役者の出演するTVや映画はいくつも見るし、著者なら何冊も読むでしょ。好きなミュージシャンのCDやアナログレコードだってたくさん持ってたりするもの。
そんな訳で、斎藤環や吉本隆明の本はたくさん持っている。そのなかでも専門用語を並べた専門書より解りやすく深くて、読んでいて面白い、この『生き延びるためのラカン』はランキングが高い。
漢字は<表象・表音・表意>の三位一体になっていて複雑。記号論で対象になる言語の文字としての<表象・意味>や言葉としての<表音・意味>とは複雑さのレベルが違う。
漢字という書文字はそれだけで絵と記号の両方の機能をもっている。そのために「シニフィアン」「シニフィエ」みたいな意味ありげな用語をいくつ並べても漢字が人間にどう享受されるかは説明できない。同じようなことをラカンの限界として指摘したのが斎藤環の『文脈病』で本書でも同書を参照するよう勧められている。
入門書にしてはラカンの重要概念の由来まで説明されているのもGOOD。<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにしているなど、マルクスやヘーゲルからラカンがどのような影響を受けているかという説明は参考になるでしょ。それだけでも西洋思想という文脈の中でのラカンの確かな位置づけが可能。ヘーゲルやマルクスを除外しては現代思想の文脈が成り立たない事実を再認識しないと、日本の論者のこれ以上のフラット化、動物化が避けられないもんね。
『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうなほど、いろいろなヒントやネタが散りばめられた一冊だった。
なぜ世界は不況に陥ったのか 集中講義・金融危機と経済学
2009/03/05 17:35
100年に1度の危機とその解決の困難がよく解る!
10人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●シンプルに示される鋭く深い知見!
個別科学では得られないような視点からスルドク考察する池田氏。さまざまな問題をディテールまで具体的に追究する池尾氏。両者のやり取りをとおして現在間違いなく全世界が当事者である100年に一度といわれる問題が分析、考察され、解き明かされていく。
直近のテーマはもちろん現在の世界的な経済危機なのだが、二人による探究の鋭利さゆえか、それとも危機が全般にわたっているせいか、結果として経済をめぐる問題のほとんどに関して言及され知見が示されている。レアな問題としても経済(学)あるいは社会科学の基本としてもフォローされる領域はひろく深いといえる。
現在の経済危機の原因とそれを増長させた要因が明らかにされている。意外にシンプルな説明なのだが、それは事態がシンプルだからだ。統計や数値やナントカ式を列挙して悦に入っているプロ?というのは、そのことによって自らのアイデンティティとしてることが少なくないが、もちろんそれは真理の究明や事象の解析には何ら役に立っていない。本書はその真逆にある。
国内経済の認識では『世界経済危機 日本の罪と罰』(野口悠紀雄)とほぼオーバーラップしそれを補完する内容で、解決策として産業構造の改革と内需の拡大が提示されている。VC起業が力説されているのは著者(池田)らしいが、冷静にアメリカの経験を検証してみればそれが正しいのは明らかだ。
●日本の危機は世界よりヒドイ!
日本のバブルが銀行による融資と不動産によるプライムの膨張(のルーチン)というシンプルなものだったのに対して、今回のアメリカの危機が全く違うものであることが説明されている。つまり日本(のバブルの経験)は危機打開の参考にならないし、日本は今回のタイプの危機に対してまったく免疫をもっていないことが明らかにされている。
それは、サブプライム(破綻)のファクターは債務を証券化したことだからだ。資産(評価)を膨らませたのではなく、債務(負の資産)を(担保の)資産価値は上がり続けるというありえない幻想のもとに証券化してしまった。負債が元本になっている金融商品なのだ。そのうえ保険会社は準備金(保険料)を収入(利益)として計上し時価を膨らませたという詐欺的な側面がとてつもなく大きいことが示されている。
しかし冷静に考えるとこの保険会社のオメデタイ思考は日本でもそのままあてはまってしまう。顧客が積み立てている保険料をまるで収入(売り上げ)のように扱い、しかも圧倒的に多くの不払いをやってのけていたからだ。今後も保険よりもかんぽ、預金よりも投資という選択肢が安心して確保される政策が必要だろう。『お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践』(勝間 和代)は正しいし、日米のGDPの差より東京証券市場とニューヨーク証券市場の差の方が異様に大きいのが異常なのだ。(もちろん東京証券市場の取引量の異常な低さこそ日本経済の異常さを正しく反映してるというのが本書や『世界経済危機 日本の罪と罰』から得られる視点でもあるが…)
●「コーディネーションの失敗」とは?
今回の危機を解くキーポイントととして「コーディネーションの失敗」というものが指摘されている。合理的な行動が不合理な結果を生むことだ。たとえば、銀行の取り付け騒ぎでいうと預金の安全に不安を感じた顧客が預金を降ろすのは個人にとって合理的な行動だ。しかし、ある一定以上の人数の顧客がそうするとその結果として銀行は破綻してしまう。残存預金高では残った預金者の預金合計に足りなくなるからだ。残りの人は預金を降ろせなくなってしまう。また銀行も規定の自己資本率を割り込み法規上業務が出来なくなる。
コーディネーションが失敗してしまう理由は論理(学)的にはクラスの混同なのだが、現実に破綻や恐慌が起こりトラブルのであって、論理がどうのこうのだといっても意味はあっても価値がない。究極的にはコーディネーションの失敗をはじめとするトラブルは個人のエゴにつきあたる。結局は心(理)の問題としてクローズアップされるほかはないのだろう。道徳や倫理はなにやら立派そうだがTPOで異なるものなので一定以上の意味はないし価値もない。問題は心理なのだ。
個人のオーダー、公的なオーダー、あるいは家族や恋人とのオーダー。これらはそれぞれ異なる心理的な局面を示す。たとえば戦争で敵を殺すのは英雄かもしれないが個人的にやったらただの人殺しだ。この価値観や判断基準の違いの由来がわからないと永遠に「コーディネーションの失敗」は解決しない。とうとう経済(学)はそういうところまで突っ込んだワケだが、解決となるとトホホなのが日本の実情らしい。
いずれにせよ現在そしてこれからの相当長い期間にわたって日本の経済がダウンするのは水準の是正にすぎないという指摘がことの重大さを示している。高齢者社会などの観点からの考察はないが、中長期的にいいことがないのは確かということがよく解る…。
世界経済危機日本の罪と罰
2009/02/10 19:35
あり余るお金を使わない日本こそ、世界危機の原因だ!
9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
膨大な資料を駆使して状況を読み取り、その原因を探り、瞬く間にレポートと分析を仕上げる…。
データはどんどん入手するだけで整理しない。あふれるデータを整理している暇などないし、そんな事をしてる間に状況も変わってしまう。気になったことをどんどん検索にかけて抽出を繰り返す。縮減されていくデータのクラスターに事象の因果や輪郭が浮かび上がってくる…。何度もチェックするデータはスタックしていつも目の前にせり出ている…。
データの全文検索とスタック情報のフロート化、そしてアプリとデータベースは持たずに身軽に動き回る。このパワーサーチとデータのフロート化、これが93年に『「超」整理法』として紹介された著者の仕事の仕方だ。最近はクラウドコンピューティング化してさらに仕事のスタイルは身軽らしい。データに裏打ちされた揺るぎない認識とリアルタイムの現状へのアプローチで次々と量産とは思えない分析レポートが繰り出される。
まず大蔵省をはじめとした資料庫から生まれたのが『1940年体制―さらば戦時経済』だった。この『1940年体制』で現在の日本が戦前の統制3法(ファシズム法)に支配されていることを解き明かしたり、『日本経済改造論―いかにして未来を切り開くか 』でサラリーマン世帯の妻への年金など法的な根拠のない手厚い手当を解消すべきだと主張してもきた。常に全体の構造を見渡し、法的な根拠を問い、豊富な資料から解き明かしていく言説は説得力がある。こういった前提の上に出たのが本書。
今回は100年に一度という現在進行形の世界経済のブザマな状態がターゲットだ。
結論をセンセーショナルにいえば以下のとおり。
この危機はマネーゲームが原因ではない!
この危機はアメリカ発だけではない!
この危機は日本の危機である。
なぜなら日本発だからだ!
それは本当の構造改革が行われていないからだ…
構造改革で<統制3法>に象徴されるような法制上の根拠は消えたが、元来<1940年体制>が護持してきた官僚やそれに忠実な企業の既得権益保護と自己保身の姿勢は変わっていない。あるいはこういう経済状況だからこそむしろ既得権益に固執しているとも考えられる。
大企業16社で社内留保金が33兆円もダブついている。半端な民営化の郵政では郵貯資金340兆円が公表されずに国債や公共ナントカに財政投融資されつづけている。根本的な日本の経済問題は、これらの膨大な資金が公正に正常に投資される環境がないということなのだ。選択消費が半分以上を占める先進国では投資は他の産業に代わる大きな事業として成長しつつあった。3次産業以上の高次の産業では歴史的な発展上も情報と金融は主たる産業だ。これからの日本では技術立国という発想は幻想になる可能性が大きく、BRICSをはじめとして成長途上の国家が回復すればすぐに低賃金ゆえのコスト競争力に日本は圧倒されてしまう。ポイントは情報と金融なのだ。
今回の危機の背景にアメリカの住宅バブルと金融バブルを支えたのが日本から還流する資金であることが示されている。日本が対アメリカ貿易で得た資金はアメリカ国債とアメリカへの投資に支払われていったからだ。アメリカは日本からジャブジャブやってくるお金で好きなことをした、ということだろう。しかし、それでも市場に厳しいチェック機能があれば住宅の普及もウオール街のマネーの運用も適切なものとして展開できたはずだ。金融のホントの怖さは、これらのイレギュラーさえレバレッジで拡大されてしまうことだろう。
今回の危機は、
ファイナンス理論が使われたために起こったことではなく、
使われなかったために起こったことだからだ… (P245)
著者の専門がファイナンスや公共経済であるためか、雇用や賃金からの視点がない。2002年からの日本の景気回復の要因は対米輸出の増大と極端な円安の2つとされている。確かにそうだがそこには同時に<賃上げナシ>と<派遣の自由化>があり、<景気回復分>に占める人件費などの割合が重要だと考えられる。90年代初頭にバブル崩壊を経験した日本がとった処置は<雇用の自由>を安全弁として使うことだった。雇用調整で企業を守ろうとするその卑小な自己保身がとんでもない結果を生みつつあるのが現在だ。
GDPの3、4年間分のお金がダブついている国などどこにもないだろう。国はそれを保険にしてしまって何もしない。企業も莫大な留保金を保持するだけで何もしない。こういった官僚や企業の自己保身の構造が、派遣解雇だけで済むことではない事態を本書はえぐりだしている。日本の企業へ投資した外資は<ハゲタカ>とかいわれたが、企業に含み資産や社内留保金の用途を問いただしたのは外資や村上ファンドだけだった。本書はそういった外資の圧力にも期待を表明している。自己改革ができなければ外資を頼らざるを得ないのだから。
不謹慎な経済学
2009/01/16 16:03
テロ、官僚、利子といった3悪?への理解がスゴイ!
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●リフレ2%の真実とは
リフレ派が主張する2%のインフレターゲットの根拠はホントのところ何なのかと思っていたら、それは日銀が金融政策の根拠にするCPI(消費者物価指数)にもともと誤差?があるということだった。
単なる経済規模(量質ともに)の現状維持ならば自然的なロスを勘案して成長率ではGDPで2~4%の拡大再生産が必要か?などと考えていたのだが。金融政策を根幹として算出される数値としては2%程度のインフレ率が適正となるようだ。
CPIには上方バイアスがあり「実態よりもインフレ気味に出る」という指摘はあまりにも貴重。この認識がなければ、日本の現況に関してラジカルな分析はできないようだ。
中央銀行(日銀)による利上げ(利下げ)が0.25%単位という世界で、CPIの2%に近い数値の違いに著者は激怒している。本書は、こんなに明白なそれでいて市井の人間にはほとんど関心がないようなところを鋭くえぐりだしている内容が満載だ。
●テロの理由とか
著者は「組織(宗教的あるいは政治的な組織)や国家へのコミットメント」がテロの理由の鍵になる…とクリューガーの指摘を紹介。「テロ志望者は」「彼ら自身の利己的な動機(お金や出世など)には関心を払わない」とし、利己的なものより「テロ組織やテロ国家の使命に忠誠心を持つがゆえにテロに走る」のだという。著者が期待し、また自身もそうであろうとする「お金がすべて的経済学とは違った経済学」による分析だ。
このような<非利己的であること>や<忠誠心を示すこと>とは本質的に何を示しているのか? これらは共同体への帰属意識の発現であり、前者は共同性へのスタンスを後者はそのことによる自己認知へのオーダーを示している。前者が規範となり、規範を守ることによる後者の発現というのは、そのまま共同体と構成員たる個人の関係(フィードバック)を示しているワケだ。テロに関していえるのは、常識や一般社会という緩い共同性ではなく、共同体への帰属意識(根源的には自己認知への願望が対象化したもの)が生存への欲求を超えている、ということにつきるだろう。
911をはじめとするテロに対して、著者は「相手の立場になることで対処しよう」という。相手の立場になる…それはコミュニケーションの目的であり本質であるはずだが、それがテロつまり最も敵対する相手への対処方法でもあることが示されている。テロに対して報復を叫ぶわかりやすいヒステリーに対して「相手の立場になる」という当り前のことを述べるのが<不謹慎>とされるならばこそ本書は読まれるべき必読の書だ。
●官僚、談合、
経済学の認識では「天下りは市場と折り合いをつけている合理的なシステムである」と紹介し「官僚の天下り、本当は正しい!」とタイトルされている。
実をいうと談合でも似たようなことがいえると思う。
以前、某唯一前衛党を自認する正統?左翼政党が機関紙で「談合は正しい」と書いていたことがあった。単なる競争入札だといちばんコストが安いところが落札するが、コスト圧縮を略れるのはスケールメリットや技術力のある大手だけであり、ひとり勝ちが続いてしまう。談合による弊害は申し合わせて落札コストを吊り上げることだが、それ以外では弱小企業にも必ず仕事が回ってくるという互助的あるいは協同組合的な意義があった。完全自由競争では強者のひとり勝ちになるために、将来にわたって勝てそうにない弱者にとっては救済策というセフティネットが必要だが、いい意味での談合にはその必要がない。事業の規模などに応じて「今度は小さいところでやりましょう」などと仕事が回されるからだ。これは公共事業でなくとも民間企業のいくつかの入札に関わったりすると見聞できる事実でもあった。経済的に余裕があった時期には出入りの企業それぞれに満遍なく仕事が回されていたのだ。
誰でも自己の能力とその成果を正当に評価されるのは生きていくことの大前提であり希望だろう。官僚においてのそれは何なのか?が問題なのであって天下ることや再就職の後の報酬額が問題なのではない。かつて宮台真司が官僚への認知とモチベーションを保証するものが必要だと主張していたが本書でも同じことが経済学的に指摘されている。
●無様な現状のラジカルでシンプルな原因は
「日本の長期停滞は総需要不足が原因だ」という指摘がラジカルだ。こんなに当り前の主張には誰も反対できないばかりか、経済の原理はこの一言に尽きる。需要の無いところに供給はないし生産も無い、つまり仕事も無く給料も無い…極論すればそうなる。
しかし著者がオリジナルであり優れているのはそういう真理をシンプルに説明できるからだけではない。この「金利」や<利回りによる利益>追求も需要として認め、それらを加えて「総需要」としているところがスゴイのだ。日本の学者としては。
残念ながらアングロサクソン云々とされる国家やG8加盟国つまり先進国ならば当然であるこれらの認識が日本では決定的にバイアスを加えられたものとなっている。投資家の利益の一端である配当利回りを認めず、グローバリズムを鬼畜米英並に認識している限りでは宮台のように<日本は民度が低い>と言わざるを得ない。わかりやすく言えば小泉-竹中による構造改革が格差を生んだと考えるようなスタンスには、とうてい利廻りや投資が需要だという認識は持てないだろう。
イギリスは産業の進展の結果、ロンドンが金融センターとなった。そして<利子>を源泉とする金融立国ならではの国家ブランディング(国家の信頼の周知)を戦略としている。<市場>という<関係>において<支払い保証>は<信用>や<信頼>そのものだからだ。もはや物質ではない経済関係が実態としてそこにはある。個人でいえば<愛>や<心>に基づく(基づける)関係であり、成熟した社会や国家の姿だといえるかもしれない。
イスラム教はロゴス(成文として)によって利子を禁じたが、日本人はKYによって利子(投資)を禁じているようなものだ。イスラムは利子の代替として貸し付け使用料を獲るが、日本は清貧というカスミでも食わせるのかもしれない。さすがスピリチャルばやりの国だということか。統制3法による戦前からの支配体制は構造改革で崩壊しつつあるが、明治・大正時代の浪いと恋愛の自由闊達な精神はいつ復活する(しない)のだろうか?