野棘かなさんのレビュー一覧
投稿者:野棘かな
ベニシアのハーブ便り 京都・大原の古民家暮らし
2009/02/15 19:37
心の旅路でみつけたもの
20人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
イギリスの貴族社会から京都・大原の古民家暮らしを選んだベニシア
さんが贈る日本の田舎暮らしの楽しみ方とハーブを生かすオリジナル・レシピ110が素敵なイラストや写真とともに綴られたきれいな本です。
「美しくい続ける秘密は心の内面にあるんだよ」死ぬ前父からベニシアさんが聞いたという最後の言葉。
「本当の幸せは自分の心の中にある・・・」という帯に書かれた言葉。
私もそう思います。
本当は誰しもそれを知っているはずなのに、心の内の深淵に沈んでしまっているのか、忘れ去ったふりをしているのか、それとも時間に追い立てられて
思い浮かべる余裕もないのでしょうか?
ベニシアさんのようなナチュラルな生活が出来なくても、都内の雑踏の中、花屋の店先の一輪の花の世界の中に、ふんわりとした幸せを見つけられる人でありたい。
大原周辺の自然の中にたたずむ彼女の姿は穏やかですが、チェンジナブルな気候で雨が多く、だからこそ緑豊かでみずみずしいあの母国イギリスのカントリーサイドの美しさを忘れることができるのでしょうか?
やがて、また変化の時を迎えそうな気がします。
それはすでに心の内側でわかっているのかもしれない。
ベニシアさん、四季折々の自然の中での京都・大原の古民家生活、その素晴らしさを教えてくれる素敵な本をありがとう。
アホの壁
2010/02/26 17:47
面白かったけど一つ忘れ物をしています。
15人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本、筒井康隆氏の新潮新書『アホの壁』は、BK1のツイッターの書き込み「養老孟司『バカの壁』を読んで「期待した内容と違ったというので筒井康隆が筆を執った『アホの壁』」という紹介文を読んで即購入した。
人生を達観している著者だから書ける痛快な面白さがあり、どんどん読み進み、やはりいろいろと考えさせられた。
序章「なぜこんなアホな本を書いたか」や本文中で著者なりの言い訳を書いていたが、二匹目のドジョウでもこんな角度からの本なら愉快で意外に有益だと思う。
第1章、「人はなぜアホなことを言うのか」
強迫観念症的アホ発言、甘えのアホには、なるほどと思い、真のアホによるアホには、ええっと妙な感心をし、お笑い番組から学ぶアホには、近頃のお笑い番組などの多さに辟易している私はその通りだと視聴する一般人への弊害をも憂う。
帯には、人間は考えるアホである。前代未聞の人間論!と書き、本書後半では、当たり障りのある話はきっぱりとここでは批判はしないとか、割愛すると言ってしまえる、その威風堂々の姿勢にはなるほどと妙な納得をした。
実は、私にはバッカじゃないの!という耳には聞こえない声にしないハートの波動となった声なき声を感じることができるので苦しい。
そこんとこを、バカじゃないという心の声に対して、こっちも、あんたこそアホや、アホっと心の中で叫び返したら気が楽になるかもしれないと、一つの処世術として学んだ。
言われた分だけ同じだけのアホっを念じ返そうと思う。
そこか、といわれそうだがいいのだ。
でも、一つだけお聞きしたことがあります。
筒井先生お忘れですか?
博覧会の部分で抜けてますよ。
あの恥辱的な沖縄万博が!
大阪万博ドリームをもう一度と、一儲けしようとむらがったものたちの夢の後の末路をみていた私だから。
忘れないでください筒井先生と言いたい。
こんなことを真面目に書いていると、筒井康隆氏の写真でしかみたことはないけれど、してやったりとにやりと笑う顔が見える気がするけれど、こういう本もなかなか面白いですねと素直に伝えたい。
怪談実話コンテスト傑作選 1 黒四
2010/05/10 19:11
現代の恐怖の語り部作家誕生だ。
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
実話怪談という言葉にちょっと違和感を感じていたので、入賞作品がどのような内容構成なのか、どこまで本当で、どの辺まで書いちゃうのかしらと興味深々だった。
この本は、第一回「幽」怪談実話コンテスト入選8作品すべてと入賞者8人が新たに書き下した各1篇を含めそれぞれ2編ずつ、14作品を収録したMF文庫ダ・ヴィンチ怪談シリーズ「幽」編集部編の本だ。
BK1から届いて2日後、何気に、それほど期待もしないで読み始めたのだが、意外な面白さに驚いた。
実話怪談というジャンルでありながら、一等最初の「黒四」という骨太の小説やワンステップ上の語り部怪談とでもいうような枠を超えた作品に怪談の可能性を感じた。
三輪サチさん、谷一生さんなど、本当にあった怖い話、不思議、事実、記憶、調査内容などをきっちり混ぜ込み織り上げる現代の恐怖の語り部作家誕生だ。
孤宿の人 下
2009/12/12 14:22
ほうはそうして宝になった。
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
孤宿の人(上)で、ほうの9歳までの生い立ちと後半への伏線となる事件が語られ、この孤宿の人(下)でさらに話は進む。
不穏な事件や噂の中、流罪となった政府要人、加賀殿が丸海藩に入領し、やがて、大きくほうの現実も変わり、狭い丸海藩は、さらに、不幸な事件、噂、自然災害に混乱していく。
後半、一気に畳みかける展開には感動したし、力作だと思った。
といっても、時間軸としては、春から秋までに起こった話のようだ。加賀様入領が決定し、不穏な空気の中、入領された加賀様が亡くなるまでの話だ。
愚鈍に思えるがその分無垢な少女ほうは、加賀様が幽閉されている涸滝の屋敷に下働きとして入ることとなる。
加賀様を幽閉し、堅固な護衛で守る丸海藩の面々、しかし、そんな大人たちの思惑とは裏腹に、粗相をしたほうは、加賀様に助けられ、やがて、加賀様のおそばで、言葉や文字を習い、鬼、悪霊といわれる加賀様の真実を、ほうなりに知ることとなる。
ほうを可愛がってくれた琴絵さまの無念、そして事件を隠蔽しようとする大人の事情の企みで不当に扱われ、愚鈍なりに苦しみ、様々な辛苦に身を置きながらも、字を忘れるように、忘れてしまえるのか、そういう生まれだから仕方がないのか、ひたすら現実を受け入れるほう。
だが、この子の無心と無知は、本当にかけがえのない美しいものなのだろうか。
物語としては、無心で無垢な少女が現実を変えていくというような要素も含まれているのだと思うとちょっと物足りない。
それは、加賀様に、ほうという名前を、方へ、そして最後には、宝と名づけられたこの少女にまだ魅力を感じられないからだ。
登場人物は、ほめているが、読む側の私には、ほうの魅力がおぼろげにしかわからない。
だが、それをきちんと描こうとするとさらに長編になるだろうと思うと、この孤宿の人は、上巻、下巻ではなく、00編、00編という連作として、さらに成長のプロセスでの様々な物語にしてほしいと思った。
まだまだ人間になっていない、男か女かもわからない宝が、どのように進化していくのかという成長のプロセスを読んでみたいと思った。
孤宿の人 上
2009/12/12 11:57
感動の種があった。
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「夜明けの海に、うさぎが飛んでいる。」
それは瀬戸内海の波のイメージだと頷いた。
外海の高い波では表現できない文章だ。
でも、その言葉以外は、ずっと物語の終わりまで、まるで暗い日本海のイメージが浮かぶだけだった。
弧宿の人(上)は、説明的な部分が多く、もどかしい感じを持ちながらもきっと面白くなるはずと思わせる何かがあった。
引き込まれると、次の章では視点が変わる、そんな視点移動の多さで、筋が追いづらかったが、それでも、(上)は一気に読んだ。
「遠目で見ると、小さくて白くてきれいなうさぎだけれど、それは、空と海が荒れる前触れなのです」
その予兆をなぞるように、起こる事件。
何の意図か、流罪となった政府要人、加賀殿が入領することが決まり、丸海藩に不穏な空気が漂い始める。
身分も立場も様々な人々の人生に、ほうという愚鈍とも見える少女の今を生きる生を織り交ぜ、章により、それぞれの視点で語らせ、後半への布石のように綴られ、そして、一気に弧宿の人(下)になだれ込み、進む。
自分の名前は、「阿呆」のほうだと言う9歳のほうが、どのように成長していくのかと期待せずにはいられなかった。
岡本綺堂怪談選集
2009/07/21 13:13
ブリティッシュなジェントルマンが書く怪談
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
口当たりの良い日本酒を冷酒ですいすい飲む、やがてじわじわぞわぞわと五臓六腑に染み渡ると酔いの中ちょっと息つまる苦しさもあるがとても気持ちがいい。
そんな感じでしょうか。
しなやかで洗練された文章をすらすらと読み進む、流れる会話、その呼吸合わせ、語りの妙、頭の中にすいすいと入る。
ちょっとあそこの家の子はおかしいよとか、身の回りでおこる不可解な現象など、世間の噂話を、噂話でとどめず、そこから一歩踏み込んだ人間の真実、その不可解さを考え始める。
すると鼻先から岡本綺堂の世界にすーっと入っていってしまって抜けられない、浸ってしまうとやはり恐ろしいと細胞がうめきだす。
作家岡本綺堂氏の怖がることなくしなやかに書き進むバランスのとれた感覚は、およそ怖がりの日本人の気質とはかけ離れている。
恐怖を感じず(欧米人は恐怖に強いというか恐怖のポイントが日本人とはまった違うらしい)フラットに、平静に、平常心で、小説のみならず、怪談にもその筆力をふるう。
写真がなくても、音がなくても、最新の感覚的映像類がなくても、文字を読み進み、文字を取り込むだけ、文章だけで表現される怪、文字から掻き立てられる恐ろしさに、怖がりな私は、皮膚がぞわぞわし、首が凝って姿勢が悪くなった。
利根の渡、猿の眼、蛇精、清水の井、蟹、一本足の女、笹塚、影を踏まれた女、白髪女、妖婆、兜、鰻に呪われた男、くろん坊。岡本綺堂 怪談選集全13編。
時代が変わっても、いくらインターネットで瞬時に情報が得られても、このような怪、不可解な現象は形を変え、新型インフルエンザなどのように変異しながら人を操る。
受け取る人間のほうに大差がないからだ。
人の話に翻弄される、誰かに操られる、激しい思い込み、邪推、心を開く耳がない、嫉妬に狂う、浅はか、心を見る目がない。医学が発達しても、どうすることもできない、生まれながらの病、足りないもの、肉体の不具合を抱えて生きる。
弱い人間をみるといたぶりたくなる、弱い人間をみるといたわってあげたくなる。いたぶる、いたわるは似ている言葉だがまったく違うことでしょ。
相変わらず、自分を責め自分の内面に答えを求めるタイプと他者を恨み他者を憎み自分の外に問題を見つけるタイプに分かれるとは思う。
そんな人間の深部に潜む異形のものがある時にょっきり顔を出す。
必要以上に思い込み気に病むと、負を現実に変えてしまうのか、それともその人の運命だったのか。
人間の根幹にあるものは何なのか、正か負か、善か悪か、光か影か。
それとも取り込んだものが固体に合わせて変異するみたいに、根幹にしっかりあると思っていた根も幹も幻影だったのか、条件によりゆらぎ変異していくのか。
ちょっとした無意識のそそうや、いたずら心や、でき心が転がり始めると、とんでもない大きな雪玉みたいになって襲いかかるかもしれないし、足りないものを嘆いたり、嫉妬に狂ったり、邪推したり、思い込んで恨んだりする想念が広がると、世界中とは言わないまでも、小さな町ほどの空を黒い雲で覆い隠すことができるかもしれないと思わせるそんな得体の知れない怖さを感じた。
本当の恐怖は、死んでしまった人の人魂でも、幽霊でもなく、生きている人の嫉妬、負の想念(怨念)には違いないと思うのだが、やはりそこにも計り知れない不可解が存在すると強く感じた。
時代は変わってもというか、時代が変わった最近の事件を新聞で読んだり、テレビのニュースで見たりすると、バージョンアップした怪な人たちがそこにいる。
固まった怖い顔で、自分は悪くないとか、誰でもいいから殺したかったと平気で言う。
こんな怪な現状を岡本綺堂氏が生きていたら、どのように調査して、どのように表現するだろうか。
キーワードは「宇和島」で岡本綺堂氏に微小で微視的だが縁を感じている私に、その筆力よ、のり移ってくれと、密かに?心に念じた。
闇の奥
2009/06/11 19:57
コンラッドの魂の旅の記録だ。
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
極限状態に置かれた続けた人間の精神はどのようになるか。
海外に行くと文化や生活環境の違いは大変よねなんて悠長なレベルではない。
未開の土地に分け入る、未知の土地を船は進む。
山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」を思い出し真似をして
「分け入っても分け入ってもそこは闇」だったなんて言ってみたりする。
現代におけるゲーム「クルツを追いかけて」をクリアするかのように足跡をたどり執念深く追い続けるマーロウ。
しかし、出会えたクルツは、終わりのない絶望と恐怖と物欲という亡霊に見入られ、精神のバランスを失い自身魔物と化していた。
人間としての尊厳を失い、象牙という物質にフォーカスし、強欲な魔物クルツはすでに自分を地獄に落としこんでいたのだ。
※「この世界における己の魂の冒険に、すでに自から審判をくだしてしまっているこの非凡人の傍へ、もう僕は行く気がなかった」
訳者中野氏のコンラッド小伝より
1957年にポーランドで生まれ、由緒ある家柄で、父はシェイクスピアをはじめ英仏文学のポーランド訳書などを相当にだしていたそうで、生活もむしろ貴族的だった。
ところが、ポーランド分割など混乱の中、父親は北ロシアに流刑となり、両親に伴われ北ロシアに強制移住させられたのはコンラッドが5歳の時だった。
なれない生活で両親は相次いで亡くなり、1969年コンラッドは孤児になった。
幸い母方の叔父という人に引き取られたが、17歳の時、にわかに大学進学をやめて、自ら進んでフランス船の船員になった。
それから、イギリス船に乗ったことで、イギリスに上陸し、英語に接し英語を学び、以後、イギリス船員として地位もあがり、ついには船長にもなる。
1894年まで、37歳にまで16年にわたる海上生活がつづき、東洋の海峡植民地から、遠くはオーストラリアまで足跡はのび、またその間にアフリカの奥地コンゴー河の上流まで行っている。
1886年に帰化手続きをとって、イギリス国籍をとる。
イギリスでは「ポーランドから流れてきた」という表現がある。
チッという舌打ちをするような息の入った拗音付きのあまりいい感じではないニュアンスで言われていたと記憶する。
ポーランド生まれのイギリス人、それも英語で小説を書くまでになったコンラッドだが、そこまでの道程の大変さは想像に難くない。
この本を読み始めてすぐにコンラッドの真意がわかったような気がした。
これはコンラッド私小説であり、彼の心の記録だと感じだ。
この「闇の奥」を書くことで、浄化されたコンラッドは、そののちは本当の意味での安定した作家人生を送ることができたと。
海上生活の終わりごろから、創作欲の動きに驚かされるようになったというが
それは、自身の船員としての存在の耐えられない軽さに辟易し、DNAに刻まれた記憶通りに、書くことに目覚めていったのだと私は思う。
本当の自分に気がつき、これこそ自分の存在の軽さ(重さ)を確認する手段だと作家への道をまっすぐに迷うことなく進み始めたコンラッド。
若いうちはいろいろなものをみてさまざまな体験をすることが必要だと本の中でも話している通り、それを体現し、大人の男としての進化の道筋、大人の男になるための道程、男としての魂の成長を続けたコンラッド。
そして、船をおりるとそれまでの見聞や体験をもとに、本当の自分の望む道を歩き始める。作家への道、それも、彼の魂の旅なのだから、終わりのない旅だ。
意外に、思ったよりすんなりと読めたが、やはり様々な想像や妄想を掻き立てるコンラッドのフレーズに少し疲れたみたいだ。
このあたりでコンラッドとの戦いを一時休止としたいのでこの書評を書いた。
しかしながら、もう次に読みたいコンラッドの本は決まっている。
だって、私は大人の男コンラッドに憧れているから。
どんぐりと山猫
2009/05/04 20:00
一郎が山猫の世界でみたものは何か。
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
宮沢賢治の絵本や童話には、それはちょっとやめていただきたいというほどイメージがかけ離れた表紙や挿絵が多い。
でも、この本の絵はとてもいい感じ、表紙の山ねこの何か言いたそうなにゃあとした顔といい、挿絵のどんぐりたち個性ある顔、顔、顔。
賢治のストーリーとともにしっかり存在して、主張しながらも、嫌味ではなく、ほどよい感じ、むしろ、相乗効果により、幻想的なこの本をすばらしくしていると思った。
ある土曜日の夕方、一郎のうちに、字はへたくそで、間違いだらけのおかしなはがきが届く。
「・・・あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい・・・」
でかけてみると、どんぐりたちが集まり、どのどんぐりが一番えらいかをきめるともめていた。
そんなおかしなさいばんに、困っていた判事の山猫を助けるため、一郎はある判決をくだした。
それは、「いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつがいちばんえらいのだ」という判決だった。
すると、どんぐりたちは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
裁判の解決のお礼に、山猫からもらった金色のどんぐりを抱えて馬車で送られたが、きのこの馬車も山ねこも別当も一度にみえなくなり、あたりまえの茶色のどんぐりに変わってしまったますをもち、家の前に立っていた一郎。
それからあと、山ねこ拝というはがきはきませんでした。
にゃあとした顔、うるうる盛り上がる、ばらばら、ごうごう、ぴーぴー、どってこどってこどってこ、ぽとぽと、など擬音や表現の面白さもみのがせない。
解釈の仕方はいろいろあるけれど、なぜ山ねこは一郎を知っていたのか、知っていたからはがきをよこしたのだろう。そして、一郎をよんだ理由は?
一郎が1人で山へ恐れず入っていく様や、別当への言動、山ねこと対等に話をする態度などの一貫した大人びた姿勢には驚きを隠せない。
もしかすると、一郎の返答や選択如何で、山から帰れなくなったのかもしれないと思うと、大人びた一郎だったからこそ、手ごわい山ねこの世界をのぞいて、支配しようとする山ねこの企みをすり抜けて、無事に現実の世界に戻れたのだと思う。
賢治の生前に刊行された唯一の童話集「注文の多い料理店」の巻頭をかざる作品。
この本には差別を超越し、平等を求める賢治の思想があらわれているというが、このストーリーから読みとることは難しい。
だが、どんぐりたちの様子に、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」という詩を思い出した。
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
2009/04/21 00:00
謎の多い「熊野」をもう一度見つめなおす。
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
日本中の聖地を歩きまわって調査してきた著者
もちろん、日本だけでなく世界中の聖地を調査しているわけですが
そんな著者が、宗教人類学、比較神話学、古典学の成果をもとに
もう一度熊野を見つめなおして書いたというこの『神々の眠る「熊野」を歩く』
先入観なしにくまなく歩き回って、丹念に様々な引用を用いて、著者の言葉で書かれたこの本は、熊野で生まれ育った鈴木理策氏撮りおろしの写真とあいまって、想像を掻き立てられ、聖地幻想の世界に誘われるようです。
私もスピリチュアルな場所にはとても興味があります。
その場所が自分にあっているかどうかと想い、気持ちよくいられる場所にはとても惹かれます。
実は、熊野にはまだ行ったことがないのですが
興味のある話も多く、熊野の謎、鉱脈、石の力、中央構造線、伊勢と熊野、熊野と出雲、天川、女性原理などなど、個人的になるほどと納得する部分も多かったし、無論、知らなかった話に触れると、やはり行ってみたいと切に思います。
「おわりに」で、のまとめがあるのも元大学教授らしい親切さでしょうか。引用の書き出しも丁寧です。
これまで多くの人々によって描き出されてたきた熊野とは違ったものでなければならなかった著者の特別な場所、ぼくの「熊野」。
この『神々の眠る「熊野」を歩く』は、その「熊野」への思いが詰まっている本だといえるでしょう。
集英社新書ヴィジュアル版だけあって、紙の質感にもこだわっているような見た目もとてもきれいな本です。
さぶ 改版
2010/08/31 10:35
昔も今も。
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本棚を整理してみつけた山本周五郎「さぶ」。
内容を思い出せないまま読み始め、直ぐにおぼろげな記憶が浮かんだ。
裏表紙を確認するとおおよその筋が浮かび、ちょっと安心して読んだ。
人間には運、不運がやはりあると思う。
それは生まれ持った宿命と切り開けるかもしれない運命などがある。
この物語の流れは、栄二の成長する道程で描かれているため、さぶは脇役に過ぎないが、
「いい味だしてますね」的な重要なキーパーソンとなっている。
男前で器用な栄二と愚鈍で不器用なさぶのま逆ともとれる二人を通して繰り広げられる人間模様。
問題を抱えながらも一件順調そうにみえた栄二がとんでもない不運に見舞われ、やけっぱちになり自分で自分の運をつぶしたあげくどん底に落ちて、やがて何かを感じ始めるの中で、陰ながら支えるさぶ。
器量が悪い、何をやっても不器用でうまくいかない、生まれた家も貧乏、おまけに運にも見放されていると数え上げるときりがない人もいる。
だが、それを踏まえて、それでも実直に生きることが大切だと山本周五郎は言っているのか。
しかし、それは、本当に辛く苦しい長い道程だ。
不幸を乗り越え実直に頑張り、1人でもわかってくれる人がいて、人の口などいい加減だばかり、マイペースで裕福ではないがそれなりの生活をして、ある意味順調に思えてもそこからの道程がまた長い。
浅い決意や勘違いの悟りは、余計に混乱を招き、もっともらしいことを言う口は封じられこととなる。
そう簡単に、悟りの境地に入れるわけがないのだ。
しかしながら、栄二は若くして、艱難辛苦をなめて骨の髄まで沁みとおったあげく、何かをつかんだようだ。
愚鈍だが誠実なさぶも、実直に歩みながら、少しずつ良くなっている。
心を分かち合うような男の友情はまっすぐで気持ちがいい、人生は捨てたもんじゃない。
これからの人生もさらに様々なことが待ち受けているだろうし、波はあるだろうけれど、自分の人生に真っ向立ち向かっていく二人の姿がみえる。
男前で器用な男がどん底に落ち、辛苦をなめ、男としての成長をし続けている栄二と自分の立場、分をわきまえた愚鈍だが実直なさぶ。
さぶはいい奴だ。
十数年前に読んだ時、そんなさぶに感動したが、やはり私は、昔も今も栄二が好きだ。
人間の覚悟
2009/03/22 22:08
私も、覚悟を決めます。
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
五木寛之 様、諒解致しました。
私も、覚悟を決めます。
※そろそろ覚悟をきめなければならない。※
最初の言葉で、ああ、これは遺書なのかもしれないと思ってしまった。
確かに、数十年前から、五木寛之 氏は本や雑誌のエッセイなどを通して、常にメッセージを送り続けているような気がする。
いや、それよりずっと前からかもしれないが。
1年間の自殺者が3万人をこえるこの日本社会のこと、蟹工船がなぜ読まれるか、秋葉の通り魔事件など、近頃気になる話題にもふれ、人生は憂鬱であると、ご自身が鬱状態だった頃の話とともに、興味深い話をあげながら、様々な角度から切々と書き綴っている。
親鸞、中国の悒、万葉人のかなし、ロシアのトスカ、サウダージ、韓国の恨、下山の哲学、あきらめること、罪の意識、宗教、他力、闇、死、老いの話など。
でも、一つだけ、教えていただきたいことがある。
※人間は引き裂かれた存在である※
と言い切った部分だ。その意味と引用をおしえていただきたいと思った。プラトン?
本の中で、時代は躁から鬱に変わったと作家は言うけれど、私の感覚では、軽い鬱の暗い時代に生まれましたと言いたい。
死んで行くためになぜ生きるのかと考え続けていたら、いつの間にか、世の中は、いいとも!とか言っちゃって、明るくなければ人間じゃないみたいな日本人みな躁状態のバブル期に突入、そしてとうとう、やや鬱気味のヒステリックな現在に至ると言う感覚だ。
ちょっと重い話になっているが、書かれていることはすごく素直に良くわかる。
心が折れそうになった人、鬱状態の人、もしかすると自殺を考えている人にも、静かな助言となる本だと思った。
悟りの境地に入りつつある作家の人間の根幹に触れる言葉は頭を下げしっかり受け止めたい。
往復書簡ではないけれど、五木寛之 さんに返事を書きたいと思った。
でも、今はまだお礼しかいえない。
五木寛之 様、ありがとうございました。
シズコさん
2010/10/12 14:30
柔らかな眼差し
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
自分すら呆けはじめ、体も弱り、視力さえ衰えると、視界と同じで感情の振れ幅が狭くなり、物象は曖昧に見え、柔らかな眼差しで見えるようになる。
こんなこと、そのお歳になって書かなくてもいいのでは、枯れて楽になるはずの頃に、と、はじめは思いながら読んでいたが
柔らかい眼差しになった、その時だから、今だから書けるというタイミングなのだろうと理解した。
いくら、自分で自分を冷淡だと言っても、その時々に、わかりやすく書いたとしたら、生々しすぎて、奮って斬りおろした包丁で、逆に斬り返され、倍以上の力、倍以上の数の包丁がふりおろされ、あえなく絶命。
なんてことが、100万回とは言わなくても、何十回かあったかもしれない。そこまではいくらなんでもできないだろう。
今、佐野洋子さんがこれを書くなら、これはある意味遺書なのかもしれない。
けれど、私はそうは思わない。
って言うか、残念ながら、その域まで、佐野洋子さんの域まで達しなかったのだ。
なぜなら私の母は、61歳で亡くなったから、まだ呆けてはいなかったし、リュウマチという持病はあったがそこそこ元気だった。
だから、母と娘の立場が逆転もしなければ、弱みにつけこむことさえできず、一方的にジエンド、ピリオドがうたれた。
私は、老いていく生身の母を見続けることすら拒否され突き放された娘なのだ。
母との確執は据え置かれ、死んでもなお私を苦しめた。
羅針盤を失った船のように彷徨い、インナーチャイルド、アダルトチルドレン、自分を沈静、癒すことにかなりの時間を要した。
なのに、思い出の中の母は、まだ美しいままだし、年を追うごとにそぎ落とされいい人になる。
佐野洋子さんの生い立ちはうっすら知っていたが、今回の本で新たに知ったこともあり、改めて、混乱の人生だと思う。
はっきり、きっぱりした態度が逆の意味でやさしいし、何ものにもとらわれないように見える人生観は素敵だ。
母性本能が強くカンガルーのように1体だけを抱え込み回りが見えなくなるのはちょっといただけないが、切れやすい面、辛辣なところにも親近感が湧き、嫌いじゃない。
歯に衣着せぬ表現は愛情の裏返しとも言えるが、やさしくないのは本人の言葉通りという部分が読みとれるとやはりちょっと切なくもなる。
この本を読む人の反応は本当に千差万別だと思う。
人それぞれ違った見方ができる。
私のような見方もできれば、素直に自分の将来の姿だと思うかもしれないし、あきれる人もいれば、何言ってんの拒否とばかり中断する人もいるかもしれないし、泣いて癒される人もいるかもしれない。
でも、それらも含めすべて正しい読み方だと思う。
佐野洋子さんは
ただただ独り言のように書き綴り、こだわっていることは何度も何度もためらいもなく重複させて書き、ただ、綴る、それだけで、誰がどう思っても関係ないのだ。ただただ自分のために書いているのだから。
裏表紙の言葉「そして訪れたゆるしを見つめる物語」
結びの文章「静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。ありがとう。すぐ行くからね」
そういう域に達したのでしょうか?佐野洋子さん。
佐野さんらしい結び方だとは思いますが、呆けていたし、臨終にも立ち会ってないから、たとえ、そちら側で会えたとしてもお母さんの反応は想像通りではないかもしれない。
ゆるしを共有していることを祈ります。
最後に、それでも、佐野洋子さんのお母様は尊敬できる素敵な方だと私は思う。
視えるんです。 1 (幽BOOKS)
2010/05/21 23:59
かわこわい実話ホラーコミックエッセイ!
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
かわいくって、怖い?
そんなコピーのこの本は、メディアファクトリー怪談専門誌「幽」での掲載分をまとめた
霊感マンガ家伊藤三巳華さんの実体験に基づく実話ホラーコミックエッセイで、
ホラー初心者の人にも、マニアの方にも、幅広く楽しめる怪談マンガだと思う。
小さい頃に地元で有名な「オバケ団地」で育ち、半透明な乳母たちに恐怖と現実では理解
できない世界を教え込まれたという三巳華さん。
「幽霊って本当にいるの?」とよく聞かれます。
正直、「います」とは言いきれないけれど
私には視えて、時に聞こえて、時に話して・・・ごく日常的情景と同じく、周りに自然にありうる
こと、視える日々を綴った禍々しくも可笑しい実体験、16篇。
見つけてほしい、知ってほしいと出てきた彼らを描いて知ってもらう事で、浄化になる事を
私は願っておりますと結んでいる。
何と言ってもキャラクター、絵がかわいいから、時々差し込まれるシリアスな描写も
「あっ、きたー」
というノリで、実は怖がりな私も目をそらさずに読めました。
軽快で、ノリがよく、かわいいだけじゃなく、笑えて、ちょっと気持ち悪くて、怖いけど
へーそうなんだと妙に納得してしまうのは、著者のぶれない姿勢が読みとれるからだと思う。
「視えるって、嫌われると思って生きてきました。それは今もです」
著者はいうけれど、まさに時代が後からついてきたというか、追いかけられて追いつかれた
という感じですね、三巳華さん。これからはあなたの霊感マンガの時代です。
本を手に取ると、表紙の紙質がとてもいい感じでコミックとは思えないお金のかけ方です。
やはり、実話ホラーコミックエッセイというジャンルがポイントですね。
それから、私は表紙のお化けがとても気になるのです。
名前はあるのかなとか、柔らかそうだから抱き枕にほしいとか妄想しています。
実話ホラーコミックエッセイという初めて聞く幅広く欲張りなジャンル、
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聊斎志異 中国怪異譚 1
2009/09/25 22:03
そこはかとなく忍び寄る寂寥を振り払うかのように
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
序文となる聊斎自誌を読む人。心ある人なら彼の寂寥を知るだろう。
よくある序文だと思い込み、先に本書を読むうちに、すでに何話になったのだろうとふと心がとまり、淡々と綴られる話の多さにやっと驚き、あわてて振り出しに戻った。
よくここまで集めて書いたものだと、感慨深く本をめくり、最初に戻り、聊斎自誌を読んでみると、さもありなんと納得した。
半分くらい読み進めてから聊斎自誌を読んだせいか、良くぞここまでと彼の辛苦がわかる気がした。
そこはかとなく忍び寄る寂寥を振り払うかのように、なんといわれようとこれが使命とばかりに打ち込む蒲松齢氏の姿が月下にうつしだされて見えるようだ。
中国怪奇譚聊斎志異一の背表紙から。
人間界と怪異とが交錯する世界・・・。
蒲松齢は、民間の説話と故事から、狐、鬼、神仙、妖術、そして不思議な人間が躍動する世界を作り上げる。
因果応報のもと欲と色に生きる庶民の姿のなかに、人間の本然の姿を垣間見せる斬新な小説技法は、中国文学のロングセラーとなった。
なんと、端的で的を得た説明だろうか。
孫悟空もいない、三蔵法師もいない、三国志のような壮大な物語もないけれど、読むほどに引き込まれるのはなぜだろう。
些細な日常の疑問、人のおろかさ、不思議、不可解から愕然とする怪奇、狐蛇畜生、様々な死に方、蘇りかた、妙に滑稽で、笑える話までよくも集めたものだとその酔狂さに驚きながらも引き込まれる。
それは、読む人に媚を売らず、虚飾もさほどなく、熱意はあるがそれは胸の奥底に秘め、ただただ己のために書き記した話の数々だからに違いない。
どこかでこういう話を読んだことがある。
元となる志怪という志異文学であったかもしれないし、現代の怪談話だったかもしれない。
後輩の日本の作家がインスパイアされて、ちょっと拝借したくなる素材が満載だから仕方がないことだろう。
どこかでこういう文体を読んだことがある。
自分の書く文章に興奮せず、怖がらず、熱を氷に代えて心静かに怪異を書いた文体だ。
本書に関しては、増田渉氏、松枝茂夫氏、常石茂志という訳者の方々がいるのだから、蒲松齢氏の文体だとはいえないかもしれないけれど・・・。
蒲松齢氏の文体に宿る寂寥が、こういう文体に導いたと信じたい。
時は流れ、幾度かの革命後、中国も様変わりし、日本に武士がいないように、中国にも本書に出てくるような人々はもういない。
でも、現代の中国よりも、本書の時代の中国の方が面白そうだから、できることならちょっと覗いてみたいと思う好奇心が強い私がいる。
イノック・アーデン 改版
2009/08/31 01:29
海は物語の古典的必須要素です。
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
一つの愛の形の原型がここにある。
時代が変わり、取り巻く風景も人間模様も変わってしまったけれど
一人の女性を二人の男性が愛してしまうという関係性はいつの時代もあるだろう。
一人の男性を二人の女性が愛してしまうという置き換えも含めて、初めてこの本を読んだ中学生の私は、本当の恋をした大人の人たちはみんなイノックのように潔く相手の幸せを思い続けるものだと信じたこともあったが、現実の世界では、それが思春期の妄想であって、愛の形は様々で、愛の表現方法も人それぞれ違っているものだと気がつく。
このテニスンの叙情詩は、前ラファエル派の彫刻家だったウルナーからテニスンが聞いた実話だという。
二人の少年、一人はイノックで、一人はフィリップ、そして、少女アニイ
三人は幼馴染で、港に近い海岸の洞窟で遊び、おままごとでアニイが妻役をすると、二人は交代に夫役をする。
争いになるといつでもがっちりしたイノックが勝ち、フィリップは打ち負かされて泣く。
アニイは泣きながら
「お願いだからおよしなさい。どっちでもない両方の、可愛いお嫁さんになりますわ」
と言いつづける。
二人に愛されていたアニイだが、やがてイノックを愛し結婚をする。
二人の愛の前に、傷ついた獣のようにその身をかくし、悲しみの中、立ち去るフィリップ。
しかし、船乗りになり、海と戦い、船も買い、家も建てたイノックのたくましく順風満帆にみえた人生の計画も少しずつくるっていく。
帆柱に登り運悪く足を踏みはずし、片足を骨折し、びっこになったイノックは仕事もなくなり家族を養う力もなくなった失意の中で、支那を目指す船に乗ることを決心する。
アニイは初めてイノックにさからうが、家族のために一旗上げて帰ってくるんだと、イノックは長い船旅に出て行って便りもなくなる。
その後の貧しい生活の中、助けてくれるフィリップのやさしさに迷いながら、不安の中聖書占いをし、イノックはすでに死んでいると思い、求婚を受け入れ、それでも揺れ動くが子どもの誕生とともに新しい生活になじんでいくアニイ。
しかし、イノックは生きていた。乗っていた船は難破し数年の間漂流し、ようやく帰ってみると、アニイがフィリップと結婚をしていたことを知り、自分がイノックであることをかくして、長い間水夫として生活するが、死ぬ間際に自分がイノックであると叫び息をひきとるのだった。
叙情詩というよりも、物語という読み口で、海という物語の古典的必須要素が背景にある。
そこに海があるから男は憧れ、海へ行く、残された女は、男も海も理解しようとしつつ待つ。
男が船乗りなら港、港に、女がいるから、自分を待っているなんて思わないし、思い出しもしないから、同じ港に着いたとしても、名前も顔も忘れているかもしれない。
男が旅人なら、世界を旅して、互いが人生に疲れた頃に再び会えることもあるかもしれないが、それは単にいつか来た道を歩いてみたら高い確率でまた会ったという偶然のいたずらかもしれない。
男が雄雄しく敬虔なイノックみたいな人なら、妻や子どもを幸せにしたいと海を越えて稼ぎに行き難破し無人島の長い漂流の旅から帰って見ると、愛する妻や子どもはほかでもない自分の友達である男と幸せな生活を送っているかもしれない。
男がフィリップみたいな人なら、海に行ったまま戻らない友達の妻、ずっと好きだった幼馴染の女を口説き落とし、自分の妻にするかもしれない。
一つの愛の形の原型がここにある。
原型だから、いかようにも人となりで変化する。
もしかすると、イノックもどきの男が、妻子を奪い返そうと画策するかもしれないし、フィリップ似の男が実は暴力男だったりするかもしれない。
アニイのような女性は本当はイノックでも、フィリップでも、どっちでも良かったのかもしれない。
過去よりも、近い未来よりも、今を生きることが大切だからアニイがこうなるのも仕方がないことだと受け入れ、果ては、「恋して恋を失ったのは、まったく愛さないよりもましだ」というテニスンの愛の名言通り、愛し愛されたことがあるだけましじゃないかとも思う人もいるだろう。
人生はいろいろ、明日はどうなるか誰にもわからないけれど、運命は過酷に複雑に三人を翻弄する。
そしてイノックは、やはイノックは、「妻に知らすな、露ほども妻に告げまい」と、この言葉を、疲れた頭に刻み込んだのだった。
ヴィクトリア朝時代のイギリス詩人アルフレッド・テニスンは、美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読されている。
テニスンはイギリスを語る上で知っておきたい詩人であるし、なによりもこの本の表紙のテニスンの絵は一度見たら忘れられないほど素敵だ。
そのようなテニスンの牧歌的な叙情詩で綴られた物語、悲劇的なテーマの物語「イノック・アーデン」
かくも美しく余情と悲しみが溢れる物語を一度は手にとり、永遠のテーマである愛をあなたなりに考えてみませんか。
あなたがイノックならどうしますか?
あなたがフィリップならどうしますか?
あなたがアニイならどうしますか?
それらは、愛という謎を紐解くために避けることのできない問いではありますが、不毛の自問でもある。