【ホテルニューグランド（②食を彩るホスピタリティ）】（神奈川県横浜市　旧国名：武蔵）

＜“西洋料理の伝道師”が横浜に残した不滅の業績　日本の食卓を彩る料理とホスピタリティを継承しています＞ スイス共和国、ベルンの地でサリー・ワイルが生まれたのは1897年。若年の頃から料理人を目指したワイルは、当時大流行していた“オーギュスト・エスコフィエ”の技法を体得すべく研鑽を積みました。ワイルはベルンからオランダへ、さらにフランスへと各所の料理長を歴任しながら渡り歩いて自身の技術を向上させるとともに、国際社会での豊富な知見を培っていきます。ワイルがパリのホテルで料理長をしていた頃、旧知のスイス人アルフォンゾ・デュナンからとある誘いを受けます。それは極東の地、日本において開業予定のホテルがあり、その初代料理長を募集しているというものでした。デュナンはすでにそのホテルの初代支配人への就任を受諾しており、自身の運営するホテルで欠かせないパーツとして、ワイルの技術と開明性を求めたのです。ワイルはこの誘いを受け、1927年のホテル開業に合わせ日本へ旅立ちます。これが後に日本における西洋料理の伝道師と謳われた、サリー・ワイルの業績の始まりでした。 ワイルが就職したのは、横浜山下町に開業した“ホテルニューグランド”。関東大震災からの復興を遂げる横浜にあって、その玄関口を担うべく官民一体で建造されたホテルで、ようやく国際社会で西洋諸国に比肩しようという日本の、名実ともに最高峰のサービスを目指していました。ワイルは総料理長として厨房を取りしきるだけでなく、日本人のスタッフへ、料理を通じた“ホスピタリティ”の真髄を、徹底的に、しかし柔軟に根づかせます。ワイルは自ら“コック長はメニュー以外のいかなる料理にもご用命に応じます”とメニューに記し、ゲストの要望へ応えることを実践。ある日、体調の優れないゲストから“のど越しのよい料理を”というリクエストを受け、即興で作ったオーブン焼きの料理こそが、世界初の“ドリア”だったことはその一例です。さらにワイルは、自らの下で働くスタッフに対して料理以外の知見を広める大切さを説き、厨房業務を休ませてまで語学学校への通学を支援するなど、慣例に囚われない指導を行いました。これらの事実は、明治以降の日本が西洋の“型”を取り入れるばかりだったことで見落とした、ゲストの身に寄り添うホスピタリティを浸透させるための壮大な意識改革の一環だったのです。 ワイルやスタッフたちのサービスは、世界の一流ゲストからも称賛を浴び、ニューグランドはその盛名を大いに轟かせます。ところが太平洋戦争が勃発すると、ワイルは国策によりニューグランドの厨房を追われ、軽井沢へ強制的に移住させられました。敗戦後、ニューグランドはGHQに接収され、ワイルもまた失意のうちにスイスへ帰国します。しかも、スイスでワイルを待ち受けていたのは、彼が日本で活動する間に西洋で巻き起こっていた料理の流行の変動。ワイルの取得した技法はもはや過去の存在と見なされ、その活躍の場は失われていたのです。不慮の事変によりワイルと別れた日本人の弟子たちは、そんなワイルの窮境を知るや、有志を募ってワイルを日本へ招待。1956年9月に羽田空港へ到着したワイルは、およそ150人に及ぶ弟子や関係者からの盛大な歓迎を受け、1ヶ月に渡って日本各地で講演や指導を行いました。帰国後、ワイルは再び日本の料理界の発展に尽力すべく、スイスにあって日本人留学生と受け入れ先の厨房を仲介し、敗戦国日本の国際的地位の回復を陰ながら支えたのです。 ワイルは1976年にベルンで生涯を終えましたが、その功績は彼の弟子たちの活躍によって自ずと伝播しました。ワイルの弟子たちは日本の名だたるホテルの総料理長へ就き、ニューグランドではゲストの要望に応じて、“スパゲティナポリタン”“プリンアラモード”などのメニューが誕生。ワイルのホスピタリティは確実に受け継がれ、日本の西洋料理を飛躍的に向上させていたのです。今日のニューグランドでは、ワイルやその弟子が生み出した料理を、発祥当時の原型を留めながら味わうことができます。さらに2024年には、ホテルの裏手に“S.Weil by HOTEL NEW GRAND”が誕生。ワイルの名を冠したパティスリーで、彼の弟子が開発した“モカルーロ”をはじめとする洋菓子を購入できます。 ワイルの人生は、ある見方をすれば日本のために自身を犠牲にしたとも捉えられ、その数奇な運命は一概に表現できない魅力に満ちています。しかしながら、彼が情熱を注いだ料理とホスピタリティは、今や日本人にとってかけがえのない生活の一部へと変容し、毎日の幸福を確実に彩っているのです。 ひとり旅おすすめ度：★★★★（人はいるけど少なめ。静かに観光できる！） 探訪日：2月第4週日曜18時ごろ アクセス：元町・中華街駅から徒歩で1分ほど ※この投稿の写真の一部は友人から借用しました