【氷川丸】（神奈川県横浜市　旧国名：武蔵）

＜広大な太平洋を舞台にした唯一無二の航跡　横浜の誇りと豊かな精神が大切に受け継がれています＞ 1930年4月25日、現在“みなとみらい21”として親しまれ、帆船日本丸がそのマストを掲げている旧横浜船渠に一隻の巨大な船が竣工しました。日本郵船が社の総力を挙げて建造した豪華客船「氷川丸」です。全長163m、総トン数11,000tを誇るこの船は、横浜とシアトルを結ぶ航路に就航する目的で造られたもので、日本の国際地位の海運の象徴的な存在として歴史に登場しました。冬季には大時化に見舞われるシアトル航路の風浪を防ぐため、客船では異例の頑丈な建付けを備える一方、内装はアール・デコ様式の旗手として活躍したマーク・シモン商会が手掛け、世界の一流ゲストをもてなすのにふさわしい格式を整えたのです。この豪華客船の登場は世界からも注目を集め、同年5月に初めてシアトルへ入港した際には、実に3万人以上の観衆が盛大に歓迎。“ハイカワマル”（入港を報じたアメリカのアナウンサーがHIKAWAMARUを誤って発音したもの）の愛称で熱烈な人気を集め、新興の港湾都市であったシアトルの発展にも寄与することとなったのです。 氷川丸に乗船名簿には、世界史にその名を刻んだ偉人も数多く連なります。1932年に家族と日本観光に訪れたチャールズ・チャップリン（1889～1977）は、シアトルまでの帰路に氷川丸を用いました。その知名度から日米の汽船会社が盛んにチャップリンを誘致するなか、彼が氷川丸を選んだ決め手はその食事だったとも。日本での滞在中、チャップリンが天ぷらを気に入っていたという情報を得た日本郵船は、調理担当の船員をわざわざチャップリンの最も愛好する東京の天ぷら店へ修行に赴かせ、その技法を取得させたことで見事に誘客に成功したのです。一方、1938年には“日本柔道の父”嘉納治五郎（1860～1938）がエジプトでの国際オリンピック委員会の帰路に乗船。ところが、嘉納は船内で肺炎を発症し、横浜港に到着する2日前に帰らぬ人となりました。 このように、悲喜こもごもの人間ドラマの舞台となった氷川丸ですが、1941年に太平洋戦争が勃発すると、“病院船”として軍に徴用されます。客室は治療室や手術室に改造され、真っ白に塗布された船体に大きく赤十字を掲げたその姿は、戦争の災禍を否応なく体感させるものでした。氷川丸は主に南洋諸島の戦地と日本を行き交い、その度に多くの傷病兵を収容します。病院船は国際法で攻撃の対象にならないことが規定されていましたが、日本郵船船籍の船は戦争中にその大半が沈没しており、氷川丸が無事に終戦を迎えられたのは奇跡に等しいことだったのです。 終戦を舞鶴港で迎えた氷川丸は、南洋諸島や満州からの“引揚船”として、休む間もなく航行します。その任を終えると客船として復帰し、1953年にはおよそ11年ぶりにシアトルへ。つい8年前までは敵国だったアメリカでしたが、シアトルの住民は“ハイカワマル”のことを決して忘れず、その入港を大いに歓迎しました。そして1960年、氷川丸にとって最後の航海もシアトルへの航路となりました。9月17日の午後、シアトルと永訣する氷川丸に対して、住民は色とりどりの風船を挙げてその航跡を鮮やかに彩り、港内の複数の船が別れを惜しむように数マイル先まで氷川丸へ寄り添ったといいます。 役を終えた氷川丸の今後について、解体、保存など議論が紛糾しましたが、横浜市や市民からの強い希望により、山下公園の沖合50mに係留、保存されることに。船内ではかつてチャップリンが滞在した一等特別室や、メインホールとなった一等社交室が現存し、その壮麗な装いを目の当たりにできるほか、氷川丸の波乱の歴史を丹念に解説する資料室も充実。近年、国の重要文化財にも指定されたその真価を体感できるのです。 夕方、屋外デッキに出て右舷側へ回れば、眼に入るのはみなとみらいや横浜三塔、ホテルニューグランドなど、その時々の歴史において横浜を彩ってきた名建築の数々。整然としていながら、優美で、創意に富んだ街並みを眺めていると、横浜が日本近代の誇る計画都市の最高傑作であり、その背景には外来の文化をいち早く取り入れた開明的な精神、震災や戦災を乗り越え育まれてきた市民の都市に対する愛着が確実に根づいていることが窺えます。そして氷川丸に象徴されるように、海外との交流の先頭に立ったことで醸された自負と責任こそ、この町が唯一無二の“日本の玄関”を務めてきた誇りであると実感するのです。 《今年もたくさんのいいね！　フォロー　コメントをいただき本当にありがとうございました》 ひとり旅おすすめ度：★★★（人はそれなりにいるが、広い場所なので気にならない） 探訪日：11月第2週日曜15時ごろ アクセス：元町・中華街駅から徒歩で3分ほど #氷川丸 #元町中華街 #山下公園