大森界隈を歩く:地獄谷/大森貝塚遺跡庭園/尾崎士郎記念館/山王草堂記念館
- 2018/06/30
- 16:35
今回は大森界隈を散策してみます。
(地獄谷)
大森駅西口を出るとすぐのところに昭和の雰囲気ただよう大森の「山王小路院商店街」があります。通称「地獄谷」と呼ばれており、立ち飲みバーや居酒屋がひしめき合うように立ち並んでいます。
写真は昼間に撮ったので雰囲気が感じられませんが、夜になるとディープスポットになるそうです。
大森駅は池上通りを挟んで、東の台地から西に向かって急傾斜で下る土地ですが、まさにその急傾斜の谷底のような位置にあり、「地獄谷」という呼び名がふさわしいところです。
ここは夜に行ってみないといけませんね。恐ろしそうな名前ですが、きっと楽しいところだろうと思います。
☆☆☆
(大森貝塚)
大森駅を出て池上通りを右に進むと大森貝塚があります。
発掘記念碑が大田区・品川区双方に建てられていますが、実際は品川区に「大森貝塚」があり、「大森貝塚遺跡庭園」も品川区にあります。
大森貝塚がアメリカ人のモースによって発見されたのは明治10年(1877年)で、モースが大森駅から電車に乗ってすぐの線路脇で貝塚を発見しました。
モースが大森駅で降りて発掘したことから「大森貝塚」と命名されたようです。
貝塚は大昔のゴミ捨て場で、貝だけでなく古代人の土器・石器なども捨てられています。
ゴミ捨て場と聞くと「何だ、ゴミか」と考えがちですが、ゴミを侮るなかれ・・・ゴミを調べることによって、古代人の生活状況、食生活が分かる「タイムカプセル」のようなもので大変貴重なのです。
ところで、この「大森貝塚遺跡庭園」では定期的に霧のようにするミスト噴水を行っているようで、私が行った時にちょうどミスト噴水を見ることができました。ちょっと古代に行った雰囲気ですね(笑
(尾崎士郎記念館)
池上通りと環七をつなぐ道を「ジャーマン通り」と言います。以前、この付近にドイツ人学校があったことから「ジャーマン通り」と呼ばれています。
このジャーマン通りを環七方面へ向かい、途中で右に曲がって住宅街を歩いていくと、尾崎士郎の旧宅を復元した「尾崎士郎記念館」があります。
家の中には玄関までしか入れませんが、敷地内の見学は自由で、庭から家の様子やいろいろな展示物を見ることができます。
尾崎士郎は「人生劇場」などを書いた小説家ですが、人付き合いがよく面倒見がいい事から、多くの文士(作家、芸術家)が集まるようになりました。盛況時には100人以上の文士がこの界隈に住み、馬込文士村と呼ばれるようになりました。
また、相撲好きで横綱審議委員もつとめたことがあります。
(蘇峰公園)(山王草堂(さんのうそうどう))
近代日本のジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家と多くの肩書を持つ徳富蘇峰もこの界隈に住んでいました。
その住居跡が公園になっており、尾崎士郎記念館から隣接したところにあります。
庭園は、木々の植え込み、小川と池がバランスよく配置され、とても落ち着いた雰囲気です。
また、この庭園の中には徳富蘇峰の旧居の一部を保存した「山王草堂(さんのうそうどう)記念館」があります。
蘇峰の蔵書や青用品などを展示した見ごたえのある記念館となっています。
なお、小説「不如帰(ほとときす)」を書いた徳冨蘆花は蘇峰の弟です。兄弟ですが、苗字の字が微妙に違っていて。蘇峰は「徳富蘇峰」、蘆花は「徳冨蘆花」と「点」の有無で異なります。
このように異なった字にしたのは、兄弟であっても思想上の相違で仲が良くなく、徳冨蘆花が「徳冨」の名前に拘ったからだと言われています。
(その他の文士達)
大森駅にあった馬込文士村のマップです。とても全てを見ることはできませんでしたが、少しだけご紹介します。
「ふるさとは遠きにありて・・・」の詩で有名な室生犀星の旧居跡です。旧居跡には、ピンク色のマンションになっていて、その名も「犀星マンション」となっていました。
「樅ノ木は残った」などの小説で有名な山本周五郎、日本画家の小林古径です。
なお、これらのプレートは竹下内閣の時に地方振興のために発案された1億円の「ふるさと創生事業」の一部を使って造られたものです。税金もこのようなことに有効利用されれば嬉しいですね。
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(地獄谷)
大森駅西口を出るとすぐのところに昭和の雰囲気ただよう大森の「山王小路院商店街」があります。通称「地獄谷」と呼ばれており、立ち飲みバーや居酒屋がひしめき合うように立ち並んでいます。
写真は昼間に撮ったので雰囲気が感じられませんが、夜になるとディープスポットになるそうです。
大森駅は池上通りを挟んで、東の台地から西に向かって急傾斜で下る土地ですが、まさにその急傾斜の谷底のような位置にあり、「地獄谷」という呼び名がふさわしいところです。
ここは夜に行ってみないといけませんね。恐ろしそうな名前ですが、きっと楽しいところだろうと思います。
☆☆☆
(大森貝塚)
大森駅を出て池上通りを右に進むと大森貝塚があります。
発掘記念碑が大田区・品川区双方に建てられていますが、実際は品川区に「大森貝塚」があり、「大森貝塚遺跡庭園」も品川区にあります。
大森貝塚がアメリカ人のモースによって発見されたのは明治10年(1877年)で、モースが大森駅から電車に乗ってすぐの線路脇で貝塚を発見しました。
モースが大森駅で降りて発掘したことから「大森貝塚」と命名されたようです。
貝塚は大昔のゴミ捨て場で、貝だけでなく古代人の土器・石器なども捨てられています。
ゴミ捨て場と聞くと「何だ、ゴミか」と考えがちですが、ゴミを侮るなかれ・・・ゴミを調べることによって、古代人の生活状況、食生活が分かる「タイムカプセル」のようなもので大変貴重なのです。
ところで、この「大森貝塚遺跡庭園」では定期的に霧のようにするミスト噴水を行っているようで、私が行った時にちょうどミスト噴水を見ることができました。ちょっと古代に行った雰囲気ですね(笑
(尾崎士郎記念館)
池上通りと環七をつなぐ道を「ジャーマン通り」と言います。以前、この付近にドイツ人学校があったことから「ジャーマン通り」と呼ばれています。
このジャーマン通りを環七方面へ向かい、途中で右に曲がって住宅街を歩いていくと、尾崎士郎の旧宅を復元した「尾崎士郎記念館」があります。
家の中には玄関までしか入れませんが、敷地内の見学は自由で、庭から家の様子やいろいろな展示物を見ることができます。
尾崎士郎は「人生劇場」などを書いた小説家ですが、人付き合いがよく面倒見がいい事から、多くの文士(作家、芸術家)が集まるようになりました。盛況時には100人以上の文士がこの界隈に住み、馬込文士村と呼ばれるようになりました。
また、相撲好きで横綱審議委員もつとめたことがあります。
(蘇峰公園)(山王草堂(さんのうそうどう))
近代日本のジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家と多くの肩書を持つ徳富蘇峰もこの界隈に住んでいました。
その住居跡が公園になっており、尾崎士郎記念館から隣接したところにあります。
庭園は、木々の植え込み、小川と池がバランスよく配置され、とても落ち着いた雰囲気です。
また、この庭園の中には徳富蘇峰の旧居の一部を保存した「山王草堂(さんのうそうどう)記念館」があります。
蘇峰の蔵書や青用品などを展示した見ごたえのある記念館となっています。
なお、小説「不如帰(ほとときす)」を書いた徳冨蘆花は蘇峰の弟です。兄弟ですが、苗字の字が微妙に違っていて。蘇峰は「徳富蘇峰」、蘆花は「徳冨蘆花」と「点」の有無で異なります。
このように異なった字にしたのは、兄弟であっても思想上の相違で仲が良くなく、徳冨蘆花が「徳冨」の名前に拘ったからだと言われています。
(その他の文士達)
大森駅にあった馬込文士村のマップです。とても全てを見ることはできませんでしたが、少しだけご紹介します。
「ふるさとは遠きにありて・・・」の詩で有名な室生犀星の旧居跡です。旧居跡には、ピンク色のマンションになっていて、その名も「犀星マンション」となっていました。
「樅ノ木は残った」などの小説で有名な山本周五郎、日本画家の小林古径です。
なお、これらのプレートは竹下内閣の時に地方振興のために発案された1億円の「ふるさと創生事業」の一部を使って造られたものです。税金もこのようなことに有効利用されれば嬉しいですね。
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