カイト・カフェ

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「学校は誰のものか」~縮小した学校行事をどうしよう①

 令和6年は新型コロナ禍復興元年だった。 
 縮小した、あるいは中断した行事をどう扱うか、
 
 夏祭りをどうするのか、町民運動会は復活できるのか――。

 そしてそれが最も問題になり続けたのが学校だった、
という話。(写真:フォトAC)

【だからこうなる】

 妻が同僚の女性教師から、配偶者のこととして聞いて来た話です。その夫教師は小学校の教務主任をしていて、この9か月あまりの苦労話として、こんなことを言っていたというのです。

「とにかく今年はコロナ復興元年というか復旧元年というか、3年半で失ったもの、縮小したものを旧に復そうという年だったはず。ところが特に今年赴任してきた先生たちが、『せっかく縮小したものを元に戻す必要はない』とか『前の学校ではこんなばかげたことはやっていない』とか『もうそんな時代ではない』など、運動会も音楽会も地域交流もいちいち元通りにすることに反対して取り止める勢いで、それを何とか折り合いをつけて実施してもらうことが、ほんとうに大変だった」

「そりゃあ先生たちが大変なことは分かる。オレだって大変だ。『せっかく縮小したもの』だとか『二度とチャンスはない』ということも分かる。『前任校はやっていなかった』というが去年・一昨年、さらにその前も、ウチだってやっていなかった。
 しかしとにかく子どもと親と地域に約束してしまったんだ。「今年はコロナだから」とか、「まだ安心はできない」とか、「コロナが開けたら必ず昔のように盛大にやります」とか――。その約束した当時の校長も教頭も転任してオレしか残っていないが、校長の約束は学校の約束だろ? 約束は守らなくちゃいけないだろう? とにかくいったんは元に戻して、それから諸般の事情を考慮して、縮小だとか廃止だとか、そういう方向に持って行けばいい」

「と、そんな言い方をすると、『教務主任の顔を立てるためにボクたちが苦労しなくてはならないんですか』とケンカ腰だ。『いやオレの顔じゃない。学校の顔だ』というと『ホラ、やっぱり顔じゃないですか』ということになる。
『(しまった、言い方を間違えた)「顔」の問題じゃなくて、子どもに対して行った約束は、死んでも果たさなければ、子どもに「約束もときには守らなくてもいい」といった間違ったメッセージを与えることになる、それってまずいだろう』
と言い方を変えると、
『“約束も場合によっては守らなくてもいい”ってこと、ありません?』
となり、またアレ? だ。もう本当にやってられない気持ちだった」

【喧嘩腰ならこうする】

 御気の毒様。
 論争というのは常に攻撃側が強いということは斎藤蓮舫さんの例を見ればわかる通りです。ああ言えばこう言う世界ですから、守勢に回らないようとそればかりを考えて話していれば何とかなる時も多いのに、基本的に教師というのは誠実で、特に管理職は年齢を重ねている分、むやみの喧嘩をしてはいけないという気持ちがあるので、ついつい守りに入り、負けてしまう。負けないまでも袋小路に入ってしまう、ということが往々にしてあるのです。

「せっかく縮小したものを元に戻す必要はない」と言われたら「なぜ戻す必要はないのですか」
と問い、
「だったらなぜ戻す必要があるのですか」と問い返されたら、「質問返しは禁じ手でしょ。まず私の質問に答えなさい」と追い詰める。
「だって大変じゃないですか」と言われたら「必要な教育活動を大変だからやめるというのですね」とさらに重ねる。
「もうそんな時代ではない」と言われた「どんな時代?」「特別活動の目的は達成されて立派な子どもが育っているからやる必要がない?」と畳みかけ、
「前任校はやっていない」と言われたら「それは前任校が間違っているのです」。
「他校でできることがなぜウチではできないのですか?」と聞かれたら、「ウチでできないこと、例えば子供や保護者との約束を反故にするということが、なぜ他校でできるのか、他校に問い合わせてみてください。結果が分かったら私にも教えてください」
と返す。
「そんなことを、なぜ私がしなくてはいけないんですか?」と言われるに決まっているから、「それは疑問に思っているのがあなただからです。不思議に思うことは他人任せにせず、自分で調べなさいと、子どもにも言っているでしょ?」
 そして、
「でも先生、教師たちは疲れ切っていますよ」と言われたら、そこで初めて、「じゃあ考えましょう」と言うのはアリです。
「学校行事以外で、縮小できるものがあるかどうか、一緒に、本気で探しましょう」

 しかしこうした喧嘩腰のやり取りって角が立ちますし、人間関係に修復不能なヒビが入ったりすることもあるでしょ? そこで叩きのめしても、江戸の仇を長崎で打たれてもかないません。そもそもこちらの方が立場は強いのです。立場の強いものが居丈高になれば、もうそれだけで決裂です。

【学校は誰のものか】

 私はその教務主任の立場がよく分かります。
 学校の教務主任が管理職であるかどうかというのは疑問のあるところですが、学校を管理する仕事に少しでも携わっていると、「社会にとっての学校」というものがよく分かってくるのです。一般の先生との大きな違いは、「学校」を背負って子どもや保護者、行政や地域の人たちと渡り合うことがあるという点で、まったく同一のお客様でも、一教員として会うのと、学校代表として会うのとではまったく異なっているのです。

 現在の勤務校を「自分のもの」だと思っている先生、どれくらいます? 自分の家と同じように、散らかっているところがあったら黙って片付けたり、ちょっと壊れたところがあったら自分で修理したり・・・もちろん教室を自分のものとしてあれこれ細工をする先生のいることは承知しています。しかし学校全体を「自分のもの」のように感じてあれこれ手を入れている先生は、それほど多くないでしょう。
 校長先生の中には「自分のものだ」と思っておられる先生がいますよ。教頭先生(副校長先生)も昔は校長の“女房役”と言ったりしましたが、いまでも甲斐甲斐しく“女房”のように、あちこち気にかけ、修繕したり手配したりしています。みんな「学校」を「自分のもの」だと感じているからです。教務主任も一部そうです。
 ところが管理職の先生方をはるかに越えて、「学校」を「自分のもの」だと思い込んでいる人が山ほどいるのです。地域の人々です。そして地域の人々に推される議員、PTA会長たち。
 無理もありません。明治の初期まで遡ると、地域の人々はなけなしの金を払い、道普請をし、石垣を積み上げて「学校」を創り上げたのです。そうした伝統は今も続いています。
 その人たちからすれば、校長も副校長・教頭も含め、教師なんて皆よそ者です。よそ者に好き勝手されてはたまらないと、皆、思っているのです。
(この稿、続く)

 

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