CG : Mount Osutaka Japan August 12, 1985 18:56
<不時着時に再びミサイル攻撃が>
日航123便はミサイル攻撃で垂直尾翼を失っていた。高濱機長は緊急救難信号「スコーク77」を発信。
ダッチロールする機体を必死で操っていた。「海はダメだ、山へ向かう」何とか旋回する業を編み出した。
御巣鷹山の山腹へ上昇しながらの着陸を試みる覚悟を決め燃料を全て放出した。森林がクッションになる。
この高濱機長の神業的な難着陸は成功したかに見えた。だがその時、再びミサイル攻撃を受けたのだった。
1発は高濱機長を直撃し木っ端微塵に。2発目は燃料タンクを直撃したが、既に燃料は無く火災は発生せず。
機体が山腹に激突し炎上した様に見せる偽装工作だった。ヘリで来た部隊が火炎放射器で火災を起こした。
着陸直後、百名程の搭乗者が生存していたが、彼らは全てを見た目撃者であり火炎放射器で焼き殺された。
“経済戦争”が起こしたテロであった。この事件で日本政府は“無条件降伏”し日本経済は失速を始める。
<不可解なJAL123便墜落事故>
1985年8月12日、羽田空港を離陸したJAL123便が「御巣鷹山」に墜落する事故があった。
事故直後から救助活動や報道内容に不可解な点が多く、38年目の現在も真相は明らかにされていない。
救助隊が墜落現場に到着したのは墜落から14時間後で、乗客・乗員525名の内生存者は4名だった。
墜落の事故原因は、事故調査報告書によると与圧隔壁が破裂して垂直尾翼が脱落した為とされている。
しかし乗務員で助かった「落合由美」さんによると、与圧隔壁の破裂による気圧変化は無かったとの事。
発見されたボイスレコーダーが“改竄”せれて公表されるなど墜落原因については疑いが持たれて来た。
<緊急救難信号「スコーク77」を発信>
JAL123便は機体に大きな衝撃を感じた直後に、緊急救難信号「スコーク77」を発信している。
「スコーク77」とは“標的にされている”など軍関係との間で使われる類いの緊急救難信号である。
<乗客がカメラで接近するミサイルを撮影>
乗客で亡くなった小川さんが、持っていたカメラでJAL123便に右側から急接近する物体を撮影。
カメラは無傷でフィルムを現像した結果、その物体がオレンジ色の“ミサイル”である事が判明した。
<JAL123便に当たったミサイルは自衛隊のものでは無い>
JAL123便の尾翼に命中しただろうミサイルが“標的機”などの自衛隊ものだという見方がある。
当時、現場の空海域には新造護衛艦「まつゆき」や対艦ミサイルを開発中の航空機EC-1が居た。
しかし、護衛艦「まつゆき」には“標的機”や対艦ミサイル(SSM-1)を誘導する装備が無いのだ。
EC-1がSSM-1を誘導していたとしても、対艦ミサイルを航空機に向け発射する事は有り得ない。
<6~7時間後に現場に到着した大学生>
現地の大学生がオートバイで6~7時間後に到着している、既に100名程の救助隊が居たと証言した。
彼らは暗闇の中で“暗視ゴーグル”を付け、山林で活動し易い“短靴”を履き何やら作業していたという。
生存者の救助活動をしている様には見えず、何か沢山の破片を上空のヘリに吊るして引き上げていた。
彼らは東洋人で日本語を話すが、この後に現場に来た自衛隊員とは装備などかなり違っていたという。
<救助に向かった自衛隊員の射殺事件>
NHKニュース速報で「待機命令を無視して救助に向かった自衛隊員が射殺されました」と報道があった。
しかし、NHKではこの直ぐ後に「先程のニュースは誤報であるとの事です」と訂正し取り消している。
<現地人なら直ぐ分る墜落現場へ14時間も掛った救助隊>
“御巣鷹山”上野村「黒沢丈夫」村長は、自衛隊が墜落現場を直ぐに特定出来なかった点に疑問を呈した。
「黒沢丈夫」村長は元ゼロ戦パイロットで、墜落機を目撃していて、当初から“御巣鷹山”だと言っていた。
NHKの報道では墜落地点を長野県“北相木村”としていて、救助隊はそちらの方へ“誤誘導”された。
NHKの報道は何故か故意に“御巣鷹山”への救助隊の到着を遅らせた疑いがあると当時から言われた。
<墜落当初は少なくとも数十名が生存していた>
救助された「川上慶子」さんの証言によると、最初は父親や妹などかなりの人が生きていたとされる。
客室乗務員の「落合由美」さんも、墜落直後にはあちこちて呻き声などが聞こえていたと証言している。
先程の現場に早く着いた大学生も(墜落6~7時間後)100人位の人が生存していたと証言している。
4名の生存者が救助された際に、報道では7名救助とされたが、残りの3名は何処かに消えてしまった。
<黒焦げの異常な死体と燃えていない森林>
ばらばらになった死体や“黒焦げ”の死体で現場は戦場の様だったと、当時の新聞がその惨劇を伝える。
墜落現場で遺体検視に当たっていた医師は、黒焦げになった遺体の焼け方が異常だったと証言している。
通常ならば焼死体は歯など表面が焼けても、内部の肉などは残るものだと経験上から異常さを指摘する。
まるで“火炎放射機”で焼き尽くされたみたいに焼けた“黒焦げ遺体”の状況なのだとも語っている。
中でも、「髙濵機長」の遺体の損壊は酷く、僅かに歯が確認されただけで粉々に吹き飛んだのだという。
それから、黒焦げの遺体のそばの木々は燃えずに残っていて、“人だけが焼かれた”みたいだったとも。
<OSソフト「トロン」の開発技術者11名が搭乗していた>
当時、日本は「Windows」を上回る性能を持ち、無償のOSソフト「トロン」を開発して成功していた。
JAL123便には「トロン」の主要な開発者(松下電器社員)11名が搭乗していて全員亡くなった。
米国は日本に「Windows」の全面導入を強く迫っていたが、中曽根内閣は「トロン」の採用を決めていた。
日本の家電メーカー11社は、既に生産を開始するパソコンに「トロン」の採用を決め準備をしていた。
<当時の日本は経済力で米国を追い抜く勢いだった>
当時の日本は、自動車産業で米国を凌駕するなど、GNP1位の米国に追い付き追い抜く勢いであった。
この為、米国の自動車産業界(多くは米国の軍産複合体)は苦境に陥り、労働者が暴動を起こしていた。
米国は、国内産業を守る為に、円高に誘導する『プラザ合意』に同意する様に日本政府に迫っていた。
中曽根内閣は『プラザ合意』に同意すると日本経済が失速するので拒否する意向を示していたのだった。
<日航機事故の後、中曽根内閣は急にプラザ合意に同意した>
まるで軍事力を背景にして“脅迫でもされたかの様に”『日航ジャンボ機墜落事件』の後に急に方針を転換。
中曽根内閣は『プラザ合意』に同意したのである。その後、日本経済は「バブル崩壊」へと突入してゆく。
<国産トロンをやめ米国製Windowsの全面採用も決定>
「Windows」は米国の国家戦略であった。中曽根内閣は国産の「トロン」を止め「Windows」を全面導入した。
1994年には日本に「Windows」が上陸し、殆どの家電メーカーで「Windows」のパソコンを販売した。
「Windows」は日本での独占的採用で“大成功”したと言われている。これは間違いなく事実であろう。
もしも「トロン」が採用されていたなら、「ビル・ゲイツ」も億万長者になって居なかったかも知れない。
<日航機事件の後、日本経済は低迷を続けている>
『日航ジャンボ機墜落事件』という経済戦争で日本は米国に“無条件降伏”し『バブル崩壊』が起こった。
この事件の後、日本経済は不況の“負の連鎖”のどん底を味わいGDPでも中国に抜かれ第3位に落ちた。
もしも、国の計画通りに国産パソコンに「トロン」が採用されていたなら、日本経済は躍進しただろう。
日本は“IT先進国”になって半導体分野で世界をリードし『バブル崩壊』は起きなかったかも知れない。
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