2024年 01月 26日
何とも言えない切なさに包まれる村 |
この記事は1月14日(日)の出来事を書いたものです。
この日は気ままな単独走行。
さて、どこへ行こうか?
足の向くまま気の向くまま・・・
須濱神社から国道29号線を安富町方面へ。
コンビニで補給した後、JAを目印に安志南から県道をに入ります。
国道29号線の交通量はどこへやら・・・
上り基調が延々と続きます。
中国自動車道をくぐり抜け、
安富ダムを通過して更に県道を北上。
そしてたどり着いた安富町、関は姫路市の北端に位置する過疎の村。
「奥播磨かかしの里」
村のあちこちにユーモラスでありながら
どこかリアルな130体ものかかしが設置されています。
縁側で井戸端会議のおばさんたち。
孫を乗せたリヤカーを牽くおじいさん。
小屋の扉を開ける男性。
使用中のトイレをノックする老人。
子供と魚釣りをする人。
薪を満載した大八車を牽く夫婦。
バス停でバスを待つ二人。
農作業をする人々。
日本の原風景の中、
物言わぬかかし達を見ながらゆるゆると進むと
切ないほどにノスタルジックな感情がこみ上げてきます。
ここに、かかしが設置されるようになったのは
この村を出た宝塚に住む男性が村の賑わいを取り戻そうと
母親が住む実家を工房にしてかかしを作り
村人たちの許可を得て置いていったのが始まりです。
今では、ちょっとした観光名所になりました。
実は、ここは、昭和30年代までは炭焼きが盛んで150人程が暮らし
山や川を駆け回る子供たちの元気な声が響いていました。
しかし、高度成長と共に炭焼きは廃れ
若者は次々と村を出て行ったのです。
今の村の人口は十数人。
130体のかかしと併せてやっと、
最も村が賑わっていたころの人口になります。
かかしを作るために宝塚から通い続けた男性記憶の中にある
もっとも幸せだったころの村の風景の再現こそ、
彼の活動の源だったのではないでしょうか。
私は村の一番北側にある、コテージ群を通り過ぎ
案内看板の前で立ち止まっていました。
すると、おそらくは、ここを管理している作業着姿の男性がやってきました。
「こんにちは!」
挨拶をするの男性もにこやかに「こんにちは!」
「この看板、ペンキが剝がれてるねぇ~
傷むときは一気だわ」
「寒暖の差が激しいから
余計に傷むんですかね?」
そんな雑談から、いつしか会話は移住者の話になりました。
「都会の人が田舎暮らしを求めて田舎に移住するって話も聞きますけどね?
ここは、どうなんでしょう?」
「ここの人はね、家を売らないんだよ。
墓参りの時に居る場所が無いからって。
だから、人は増えないね」
往時の村の景色をかかしで甦らせるために宝塚から通い続けた男性の故郷への思い・・・
そして、
墓参りの時に居場所が無いからと家を売らない人々の故郷への思い・・・
おそらく、この村で生まれる子供は、もういないだろうな・・・
廃れていく故郷への思いは複雑で切ない。
過疎の村、関のかかし達がユーモラスでリアルであればあるほど
何とも言えない切なさに包まれるのです。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
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by a-elf
| 2024-01-26 23:22
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