令和6(2024)年5月、人生2度目の甲辰(きのえたつ)の節目を迎え、
125ccスクーターに跨り、テント生活をしながら、京都と奈良へお墓参りツーリング。
還暦の翌日に出発して、旧灌仏に、無事帰って来る事が出来ました。
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京都では、
いにしえからの葬送地、鳥辺野(とりべの)と化野(あだしの)の葬送ルートを歩いてきました。
父方先祖の古い墓石がある現在のお墓が市営清水山墓地にあり、エリアが鳥辺野そのものだからです。
大正十五年三月二十五日の曾祖母の葬送で『遺骸を輿に乗せ、花籠車・放鳥車を共に「故小嶋〇〇の棺」
と大書きした弔旗を先頭に立てて葬列をつくり、清水山の小嶋家の墓地に葬った』(正に野辺送り)の記録があり、
昭和十五年十月、明治三十七年生まれのまだ若き祖母の葬送も土葬だったと、伯父が話していました。
先祖も通ったかもしれない、かつてこの世とあの世の境だった六道の辻と葬送の地に赴き、
そして現在の墓地に先祖を訪ね、万感の思いを込めて、お墓参りをしてきました。
鳥辺野への出発点は、鴨川・旧五条大橋西詰(現在の松原橋)。
つまり、音羽山清水寺への参道起点。この後、スクーターを駐輪場に入れて、歩きはじめる。
昭和30年まで祇園祭の山鉾巡行は松原通りを通っていた! 麩屋町松原も通っていた!
私の生家はその麩屋町松原下ル、私は昭和39年生まれ。
60年前の【私の原風景のひとつ】と同じ場所からのスタート。
鴨川と東山の山並みは今も同じで、とてもうれしい。
ただし、平安時代と現在の京都市内、かなり違っているとのこと。60年前でさえそうだし。
平安京は現在の寺町通りにあたる東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)が東端。
平安京オーバーレイマップ(こちら)を見ると、現在の河原町通りは秀吉の築いた御土居の外がほとんど。
つまり鴨川の河原だった(だから河原町通り)様です。現在の『土手町通り』が御土居の跡だそう。
川幅は今より3倍以上あった様だし、現在の五条から南は氾濫で流域が西へと拡大していった様です。
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京都市平安京創生館(京都アスニー:HPはこちら)で、平安時代の京都の地形と、
平安京復元模型の巨大ジオラマ(縮尺1/1000)が見学出来ます(無料)。
当時の予想復元地図もインターネット閲覧することが出来ます。
◎古代の京都~ヤマシロオーバーレイマップはこちらで、
◎平安時代と現代を重ね合わせた平安京オーバーレイマップはこちら。
◎近代京都(明治25年~昭和28年)オーバーレイマップはこちら。 物凄く楽しい!
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さて、松原通りを東へ進み、東山区松原通大和大路東入ル二丁目轆轤町81、西福寺。
合掌。
この辺りからが、平安時代、鳥辺野の入り口とされたエリア。
大昔は轆轤(ろくろ)町ではなく髑髏(どくろ)町だったとか。
檀林皇后や小野小町の死への尊厳、九相図(Wikipediaによる閲覧注意)。
深く考えさせられますし、釈尊の前世の捨身飼虎が真っ先に頭に浮かびました。
界隈にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)。HPはこちら。
合掌。
閻魔大王の木座像と、この世と冥界を井戸を使って往来し、閻魔大王の裁判の補佐をしていた伝説のある、
小野篁卿(Wikipediaによる説明はこちら)の木立像が安置されたお寺。
◎六道珍皇寺にある井戸:死の六道の井戸⇒冥界への入り口。
◎京都嵯峨にあった福正寺にあった井戸:生の六道の井戸⇒冥界からの出口。
福正寺は1880年嵯峨薬師寺と合併して廃寺。嵯峨薬師寺は清凉寺境内内塔頭。
ここにもある、六道の辻の石碑。
『「六道」とは、仏教でいう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいう。』のだそうです。
この六道の辻から先は、隠亡(おんぼう)によって、風葬の地へ運んで行かれたとのこと。
私の知る由もない、遥かいにしえの先祖もそうして自然に還って行ったのかもしれないと思うと、
お盆前の《精霊迎え六道まいり》、お参りしたいです。
ただ、中世迄は六道の辻から先の鳥辺山麓迄どころか、鴨川の河原からして葬送地(水葬)。
◎古代・中世の京都の墓 / 五十川伸矢 ー 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ 論文pdfはこちら
◎親鸞と川 ー日本人の河川観ー / 池末啓一 論文pdfはこちら
論文中の『嶋田と鴨の河原の髑髏5千五百余頭』って、尋常ではない数。
当時の疫病・感染症死者?それとも常時?
嶋田とは古代河川の嶋田川らしく、現在の右京区の南・南区の北西辺りにあったらしい(現在消滅)。
当時の水葬地の様なので、流量を考えると葛野川(現在の桂川)を想像するけど、現在の御室川の古代流路かも。
現在の御室川でさえ、明治の治水工事直前の京都地誌で、
『いつもは水が無いのに、強雨が降ると堤を壊す深さ七~八尺の瀑漲河川化して、氾濫が凄かった』らしく、
ひとたび強雨が降れば大きな掃流力(運搬力)を発揮(水葬に適)していたので、古代の嶋田川かも。
ちなみに貞観十三年(871年)当時、鴨川と葛野川の合流する辺りの河原を、
『佐比(さい)の河原』と呼んでいたようです。平安京の外、葛野郡と紀伊郡の葬地だったらしい。
『賽(さい)の河原』のサイは、ここからきているらしい。
平安京も右京は葛野川(現在は桂川と呼ぶ)が暴れ川として氾濫扇状地を東方に広げていて、
都としての機能は早々に放棄していたらしい(平安京創生館の学芸員さんによる)。
さて、歩き続けて、現在は清水坂。
目的が目的なだけに、早朝に訪れてよかった。
静寂がまだ続いている。
少なくとも中世までは水葬、風葬≒林葬(野葬)。
いずれも訪れた死が、還るというか、生態学的循環というか、動的平衡というか、
自然の大きなバランスの中に吸収されていく様な、尊厳があると思う。
葬送が「利他行」に通じていると思う。現代では死体遺棄で犯罪なのだが。
清水寺へ。
父は子供の頃、この広場で野球をしていたそうだ。何と長閑な時代だったのだろう。
画像右下の垣根の内側に、旧子安塔跡の石碑がある。(現・子安塔は奥の院の更に奥にある)
ここで右へ曲がり、更に進み、清水寺境内自転車駐輪場の脇道へ。
道が開けると、鳥辺野葬送地の代名詞、大谷本廟(龍谷山本願寺による沿革はこちら)。
合掌。
この辺りを鳥辺山と呼ぶそうです。隣接して延年寺旧跡墓地(鳥辺山墓地)があります。
◎近代京都(明治25年~昭和28年)オーバーレイマップ(こちら)では、
明治25年や大正元年で墓地の地図記号⊥(こちら)が。付近には荒地や笹地、広・針葉樹林も。
国土地理院(トップページはこちら)の年代別の空中写真(はこちら)では、
昭和20~25年以降に墓地面積を拡張したようです。
そもそも鳥辺野のエリアは、歴史的にはかなりの広範囲。
さて、清水坂ルートではないけれど、ここも鳥辺野。音羽川の南側、市営清水山墓地入り口。
父方の先祖のお墓参りへ。谷を越え、道路をくぐり、階段を上り、山中を歩く。
清水山墓地からは京都タワーが望めます。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖の皆さま、きたよー!」
蝋燭ではなく、灯台をイメージしたらしい。京町家の瓦屋根の屋並を波に見立てて。
市営清水山墓地の出口(裏入り口)。墓地から出て林道を歩くと、裏から清水寺へ行ける。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖の皆さま、またくるねー!」
「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。
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途中、京都市平安京創生館(京都アスニー:HPはこちら)にて学習。
素晴らしい女性学芸員の方に、平安京の丁寧な解説と当時の衣装の着付けまでしていただきました。
ありがとうございました。私は何回でも勉強に行きたい生涯学習施設です。とても楽しい!
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化野葬送地へ。
平安時代、檀林皇后が風葬の地とした帷子辻(かたびらがつじ)があったとされる、
付近といわれる現在の帷子ノ辻(かたびらのつじ)にある、太秦西蜂岡町西地蔵尊。
合掌。
お参りさせていただきました。檀林皇后、素晴らしい方だと私は思います。
帷子辻があったとされる地点から、古くからの道らしき道をひた歩き、大覚寺門前交差点へ。
ここは福生寺(ふくしょうじ)跡。平安時代、化野葬送地の六道の辻。
現在はかなりの交通の往来があります。
モニュメントがありました。
六道の辻の石碑と、小野篁卿が冥界からこの世に戻る時に使ったとされる井戸(生の六道)。
福生寺は今は無いけれど、この井戸だけは残したのかな?、それともモニュメント?
化野葬送地は、この付近がこの世とあの世の境、つまり六道の辻だったのですね。
モニュメントには、三途の川らしきものと、橋(鬼谷橋の銘があった)も。
六道の辻から先、葬送地への道は愛宕街道となり、あだしの念仏寺へ続く。
階段があだしの念仏寺へ。
道路は愛宕街道。集落は国の重伝建地区に指定されている嵯峨鳥居本集落。
あだしの念仏寺(HPはこちら)
【あだしの念仏寺HPの沿革より抜粋】
「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、
又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、
極楽浄土に往来する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、
永遠の別離を悲しんだ所である。
境内に奉る多くの石仏・石塔は往古あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。
何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた。
明治中期に地元の人々の協力を得て集め、
極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。
賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。
合掌。
「西院の河原」内は観光客も入れます。だけど内での撮影は禁止です、迷惑外国人観光客の方。
裏手には竹林があり、見事に美しい。
私は無常を感じます。
さて、あだしの念仏寺からの帰路、嵯峨薬師寺(清凉寺(嵯峨釈迦堂)境内塔頭)へ。
合掌。
福正寺は清凉寺境内にある嵯峨薬師寺と1880年に合併して廃寺、今はここが小野篁卿の遺構。
小野篁卿、生の六道の石碑。
死の六道、生の六道。今は言葉が出てこない。
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さて、父のお墓参り。亀岡への国道9号線の老ノ坂峠へ。
父は祖父・祖母・ご先祖と違う墓地なので、スクーターはたいへん便利🛵。
「父さん、きたよー!」
父は私が結婚する前に亡くなった(63歳出直し)ので、妻と3人の子供を知る由も無い。
もう少し生きていてくれたらなぁ。というか、もうどこかで出直してる?
どこかで見守ってくれていると信じてるよ。遠方で頻繁にお墓参りに来られないけど。
「父さん、またくるねー!」
「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。
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母と母方ご先祖のお墓参りへ。京都から奈良県磯城郡田原本町に。
母の分骨と、私が大好きだった祖母、そしてご先祖、
そしてマッチ箱の様な狭い借家で一緒に暮らした3匹のマルチーズ犬のお墓のある教安寺。
最初、「母さん、きたよー!」
お墓参りが母の日だったので、カーネーションの墓花をお供えしたよー。
私には、母は間違いなく、どこかで見守ってくれているように思えるのです。
何かにつけ、感じる時がある。
分骨の片方は自宅で、妻が毎日、水をお供えしてくれています。感謝ですね。
「母さん、またくるねー!」
「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。
次は、大好きだった祖母とご先祖のお墓参り(お墓の画像は撮影していない)。
「おばあちゃん、ご先祖さま、きたよー!」
田原本の祖母がいなかったら、私、既に冥界に行っていたかもしれない。
「60年間ほんとうにありがとうございました。家族共々これからもよろしくおねがいします」。
そして3匹のマルチーズ犬、アイコ・パク・ポンのお墓参り。
「アイコ、パク、ポン、来たよー!」
慈愛に満ちた優しい愛情を与えてくれました。母さんのそばで飛び跳ねてる?
「ありがとう。また会いにくるよー!」
「俺、60歳になったよ。家族共々これからもよろしくおねがいします。」
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埼玉への帰路、父の兄弟の長男夫婦のお墓参りへ。
私の伯父と伯母。私の親の離婚で、小学4年生の私を引き取ってくれたかもしれなかったご夫婦。
お二人とも苦労人。だけど現在の子、孫達のあたたかい家庭の土台を築いた努力人。
「おじいちゃん、おばあちゃん、きたよー!」
「私、還暦を迎えることが出来ました。いつもあたたかく迎え入れてくれて、ほんとうにありがとう。
これからも家族共々、よろしくおねがいします。またくるからねー」。
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父の兄弟の弟である、叔父のお墓参りにも行きました。
京都・奈良への墓参にさきがけてお参りをしました。
叔父も苦労人。でも、明るい性格でポジティブ。とても思いやりのあるあたたかい人でした。
離婚で父親がいなかった私は、20歳前後から30歳前後までしょっちゅう叔父の家へ
泊りに行っていました。あたたかった、叔父の家庭。その頃の私は捨てられた犬みたいでしたから。
叔父の家庭が無条件に受け入れて包容してくれたお蔭で、私、立ち直れました。時間はかかったけど。
私には、私を救ってくれた人達が、本当にたくさんいます。ありがとう。感謝してもしきれない。
叔父にももう少し生きていてほしかった。父と同じで、私の結婚前に出直し(亡くなる)しました。
妻と3人の子供を連れて、叔父に会いに行きたかった。
「おじさん、きたよー!」
「私、還暦になりました。いつもあたたかく迎え入れてくれて、ほんとうにありがとう。
これからも家族共々、よろしくおねがいします。またくるからねー」。
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還暦を健康で迎えることが出来、今回の旅でこころに残るとても良いお墓参りができました。
ご先祖の皆さま、ほんとうにありがとうございます。家族共々これからもよろしくお願いします。
さて、私も旅の冥界から戻らなくては。