鼻川神社 鳥居と社号標

鼻川神社 鳥居と社号標



恩恵、災禍


 水都大阪を悠然と流れる淀川は、古来、畿内のみならず日本の政治・経済・文化の発展において非常に重要な存在だった。大阪平野を縦横無尽に広がる淀川とその支流は、京都と西国を結び、さらにはアジア諸国へと繋がる交通と物流の大動脈としての役割を担ってきた。遣唐使船は淀川から大阪湾に出、瀬戸内海を抜けて大陸を目指したし、江戸時代には水運はさらに発展し、淀川沿いに建ち並ぶ諸藩の蔵屋敷には全国から物資が集まった。また、琵琶湖から運ばれる豊富な水は農業にとって欠かせないものであったし、さまざまな水産物に恵まれる良質な漁場ともなっていた。
 しかし、そんな淀川がもたらすものは恵みだけではなかった。有史以来、淀川はたびたび氾濫し、流域は水害に幾度も見舞われてきた。
 特に、明治十八年(1885)の六月から七月にかけて発生した洪水の被害は極めて甚大なものだった。大雨により各地の堤防が次次と決壊し、当時の大阪府全体のおよそ二割に当たる72,000戸以上が浸水、流失した家屋1,700戸、損壊15,000戸、200か所以上の堤防決壊、500か所以上の橋流失、死者・行方不明者80名、被災者30万人という未曽有の惨事だった。
 この大洪水ののち、淀川改修を叫ぶ声が急速に高まることになる。法律の整備等を経て、明治二十九年(1896)、上流から下流まで全域を見据えた大規模な治水工事が始まる。下流域においては、大量の水を抵抗なく海に流すための放水路を設ける計画が進められた。当時の淀川は今よりも川幅が狭くうねうねと蛇行しており、毛馬けま(大阪市都島区毛馬町)付近で南下する淀川本流(大川)と西へと流れる中津川の二つに分かれて大阪湾に注いでいた。この中津川の流路を利用して、幅500m超の巨大な放水路「新淀川」を開削し、海までほぼまっすぐに伸ばすという壮大な計画だった。この工事は明治四十三年(1910)に完成。淀川の治水能力は大きく向上したが、当然ながら、多くの住民が住み慣れた土地を立ち退くこととなった。
 そしてそれは、人だけでなく、神にとってもまた同じだった。


転変、熱意


 新淀川(今は単に淀川と称び、かつての淀川本流である大川をしばしば旧淀川と称ぶ)北岸の堤防沿い、淀川大橋のほど近くに鼻川神社はある。
 明治の新淀川開削工事にあたって鼻川神社は移転を余儀なくされた。
 
鼻川神社

鼻川神社



鼻川神社
【はなかわじんじゃ】
鎮座地大阪府大阪市西淀川区花川二丁目万倍1-12
包括神社本庁
御祭神神功皇后【じんぐうこうごう】
素盞嗚尊【すさのおのみこと】
創建不詳
社格等旧無格社
別称/旧称八阪神社 柏之社


 現在の西淀川区花川の地はかつて海老江新家えびえしんけとも称し、海老江村(現在の福島区海老江)の西北端に位置する属邑ぞくゆう(枝村)だった。鼻川神社はその鎮守社で、明治九年(1876)以前は八阪神社の名で祀られていた。祭神は本村海老江の八坂神社から勧請された素盞嗚尊と、神功皇后の二柱。
 新淀川が海老江村を横切ることになり、海老江新家は本村と川を隔てて分断される。この時に鼻川神社の社地は新しい川の河川敷に当たってしまい、五十間(約90m)ほど離れた場所(現在の鎮座地からおよそ150m北東)に仮社殿を建てて遷座する。明治三十年(1897)のことだ。あくまでも仮遷座で、正式な替地は追って指令があるということだったようだ。なお、移転料として三百円を下付されたと記録にある。当時の公務員初任給が五十円だったというから、現代の貨幣価値に単純換算すると120万円といったところだろうか。
 明治三十九年(1906)の勅令により神社合祀政策が進められることになると、いまだ仮社地にあった鼻川神社はその対象となった。独立を維持するには六千円以上の資金が必要とのことで、住民は協議の末、隣村稗島ひえじま(現西淀川区姫島)と交渉、郷社姫嶋神社の境内末社として存続する道を選び、明治四十三年(1910)に出願、許可を得た。
 ところが、この移転はなかなか実行されなかった。姫嶋神社との間で排水等の諸問題が合意されないままだったためだというが、もとより移転は本意でない鼻川神社氏子側に先延ばしの意図があったのだろう。
 移転がなされないまま数年を経た大正六年(1917)、二十年前の新淀川開削の際に内示のあった替地がようやく下げ渡される。ただし書類上は既に合併しているため、姫嶋神社名義での下付である。独立の意志を捨てていなかった氏子一同は姫嶋神社側と折衝を重ね、積み立てていた一万三千円あまりの基金から二千円を姫嶋神社に寄付することで下げ渡された土地を譲り受ける内諾を得た上で、大正十年(1921)、当局に独立を請願するも却下となる。
 それでも諦めることなく大正十二年(1923)に再度独立を出願、翌十三年(1924)八月、ついに悲願の独立が認められ、新たな土地に晴れて遷座することが決まった。社地の整備が地道に進められ、昭和九年(1934)に新社殿を建立。それが現在の鼻川神社である。

鼻川神社 拝殿

鼻川神社 拝殿




伝承、伝統


 鼻川神社の元の鎮座地は字名を萬倍まんばいといった。これは承久三年(1221)に豊作祈願が成就して一粒万倍の御利益を得たことに由来するという。この時に社殿を改築したことが由緒に記されている。それが年代の明確な事跡で最も古いものだが、口碑によれば、鼻川神社創祀のきっかけはその遥か以前、神功皇后の御代に遡る。
 三韓征伐の折、神功皇后がこの里に立ち寄り御野立所とした。里人が餅を柏の葉で包んで献上すると、皇后は里の名を問う。名はないと申し上げると、里は中津川に突き出したはなに位置するので「鼻川」、川の渡し場は柏餅にちなんで「柏の渡し」の名を賜った。それを記念して皇后を祀るようになったという。
 淀川改修以前、東から流れてきた中津川は十三じゅうそうを過ぎた辺りで北に進路を変え、塚本を回り込むようにして東に海老江新家、西に野里を見ながら南下していた。江戸時代の地図を見ると、海老江新家のすぐ北に、南へ向かう中津川から分かれて南東へと延びる細い流れが描かれていて、海老江新家の北端は二つの川に挟まれるかたちで鋭角に尖った地形になっている。おそらくはその辺りを指して鼻川と称したと推察される。
 この支流が海老江村の北に位置する塚本村との境界となっており、鼻川突端の支流を隔てた対岸、塚本村字岡屋というところに中津川の渡し場があって西側の野里村と舟で結んでいた。これが野里の渡し、一名かしわ(柏)の渡しで、大坂と尼崎を結ぶ近道であったため多くの人が往来した。JR塚本駅西口から伸びる柏里本通商店街(サンリバー柏里)の西端辺りがかつての岡屋であり、往時には茶店が建って賑わいを見せた。そのほど近く、柏里西公園の一角には現在、鼻川神社の御旅所がある。

鼻川神社御旅所

鼻川神社御旅所



鼻川神社御旅所 内部

鼻川神社御旅所 内部



 鼻川神社には無言の神事なる少し変わった神事が伝わっている。十月十八日におこなわれるその祭式は、生臭(海のもの)・精進(山のもの)の二種の膳を神前に供え、祓詞・祝詞を口に出さずに黙読、すべては無言のうちに執行されるというもの。

鼻川神社 鬼瓦

鼻川神社 鬼瓦



 本殿の向かって左に稲荷神社があり、孝元たかもと大明神の名で宇賀御魂神うかのみたまのかみを祀る。

鼻川神社 末社稲荷神社

鼻川神社 末社稲荷神社



 拝殿の前に「西成大橋」と刻まれた石碑がある。これは現行の淀川大橋が架けられる前に新淀川に架けられていた西成大橋北詰の親柱で、側面には「明治四十一年十二月竣工」「延長四百四間参分 高欄内法三間」、背面には「大阪府」と彫られている。
 南詰の親柱は対岸の海老江八坂神社境内に保存されている。前述したように海老江八坂神社は鼻川神社祭神の勧請元であるが、川で分断されてしまった今も両社は南北の親柱で結ばれている。

鼻川神社 西成大橋親柱

鼻川神社 西成大橋親柱



鼻川神社 御朱印

鼻川神社 御朱印




参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之三』 大阪府全志発行所 1922
◇西成郡役所(編)『西成郡史』 名著出版(復刻) 1972
◇鷺洲町史編纂委員会(編)『鷺洲町史』 耕文社(復刻) 1993
◇清水靖夫(編)『明治前期・昭和前期 大阪都市地図』 柏書房 1995
◇大阪都市協会(編)『西淀川区史』 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996
◇黒田一充(編)『神社を中心とする村落生活調査報告 1』 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター 2007


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