ヤマトタケルと羽曳野
日本武尊は伊勢能褒野で客死するが、その魂は白鳥と化して、大和琴弾原に降り立ち、さらに飛んで河内古市に留まったのち、天高く翔け昇ったと『日本書紀』にいう。
大阪府羽曳野市古市に鎮座し日本武尊を祀る白鳥神社の縁起には、天へと昇る姿を「埴生野の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」と記す。これが「羽曳野」の地名の由来となっている。
昭和三十六年(1961)、古市の西に広がる「埴生野の丘」で大規模な宅地造成が始まる。「羽曳野ネオポリス」と名づけられ、入居が開始された同三十九年(1964)には住民からの公募で「羽曳が丘」の名が決定した。
羽曳が丘神社は、その羽曳が丘の鎮守社として昭和四十一年(1966)十月に創設された。
羽曳が丘神社 【はびきがおかじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府羽曳野市羽曳が丘西一丁目2−55 |
包括 | 単立 |
御祭神 | 石切剣箭大神【いしきりつるぎやのおおかみ】 饒速日命【にぎはやひのみこと】 |
創建 | 昭和四十一年(AD1966) |
ニギハヤヒ
羽曳が丘神社の祭神は石切剣箭大神と饒速日命の二柱。
石切剣箭大神というのは東大阪市東石切町に鎮座する石切剣箭神社に祀られている神のことなのだが、その神は饒速日尊とその御子可美真手命とされている。つまり石切剣箭大神とは饒速日命のことであり、羽曳が丘神社に祀られる二柱は同じ神と言って良い。
羽曳が丘の地に勧請する神として石切の神が選ばれた経緯は不明。
関係があるかどうかはわからないが、羽曳が丘神社の東北東およそ二キロメートルの高屋神社(羽曳野市古市)に饒速日命が祀られている。高屋神社は明治四十一年(1904)に白鳥神社に合祀されたが、昭和二十九年(1954)に独立復興している。式内に列する古社であり、物部に連なる高屋連がその祖神を祀ったものという。
石切剣箭大神を祀る社殿は近年新調されたらしく、木の色に真新しさが残る。
その向かって右には大地主大神の石祠。
そしてさらにその傍らに、奇妙なものが祀られている。木彫りのようだ。「羽曳が丘地主神」の札が掲げられている。
これは一体何だろう?
信仰の原点
気になってネット上で調べてみると、興味深い事実が判明した。当事者の許可を得たので、ここに紹介する。
昭和四十七年(1972)頃というから、羽曳が丘神社の鎮座から数年後のこと。
当時、神社の横には池があって、神社裏の道からその池へ下りていくことができた。その辺りで遊んでいた小学生の子供たち。落とし穴を作ろうと穴を掘っていたところ、この木彫りが出てきたのだという。
それが何だかわからないながらも、子供心に畏敬の念が芽生えたのか、彼らは木彫りの泥を丹念に落とし、神社にそっと置いておいた。
その木彫りが、いつしか地主神として祀られたというわけだ。今では立派な石の台に据えられ、鈴や賽銭箱まで設えられている。
なんて愉快な話だろう!
私はこの話に信仰というものの原点を見た気がした。
土中から掘り出した仏像を本尊に仕立てて仏堂を建てたとか、漁で網に仏像がかかったとか、洪水で御神体が流れ着いたとか、そんな縁起を伝える寺社がたくさんある。この話はまさにそれらと同じではないか。
この国の人たちは古来、あらゆるものに神が宿ると信じ、敬ってきた。そんな素朴な信仰心を、現代人は忘れ去ったわけではないのかもしれない。今も私たちの心の深い場所で静かに息づいている、そんな気がする。
国家事業で造立された巨大で豪奢な仏像も、腕利きの仏師による名彫刻も、高僧が手ずから彫ったと伝わる霊仏も、はたまた泥に塗れた正体不明の木彫りも、道端に転がる石ですらも、信仰の対象として何ら差はないのだ。
さる名仏師の手掛けた阿弥陀仏を拝んだ帰り、そんなことを考えていたら、車は自然と羽曳が丘の坂道へと向いていた。あの奇妙な「地主神」にもう一度会いたくなって。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
参考サイト:
mixi|羽曳が丘小学校コミュ|羽曳が丘神社の謎(?)の木彫り
☆Special thanks to ベローバーさん☆
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